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夜行獣 The Nocturnal Eyes  作者: 齊藤 鏤骨
35/37

第三十四話 巫女の歌

(壱)


 夜明け前。

 ゲイルが夜間飛行を終えてサーマスと落ち合ったのは、いまや無人となったギシンのメタン採掘所だった。ムルカベールの戦士たちは一晩かけて彼女を送り届けると、そのままタルクノエムとザラスへの伝令に赴いた。


 「他の者は?」

 旅の一行はおろか作業員の姿も見えなかった。

 「周辺の替え馬を寄せ集めて技師や坑夫とともに退避させました。我々は四頭立ての軽量車で帰還します。あなたの話によると氷河の決壊まで残された時間は六日と五夜。もはや時間はありません。我らもダール・ヴィエーラから脱出せねば」


 「・・・・・・」

 ゲイルは少し思案した後に尋ねた。

 「ザラスへはたどり着くのか?」

 「とても無理です。折を見て地表にでなければなりません。ダール・ヴィエーラの避難民と合流するのはそこからです」

 「では、タルクノエムまでは?」

 「同乗者は皆帰還させましたから、確かに往路に比べて車室はずいぶんと軽い。だが宿場駅の人馬もすでに引き上げています。継立(つぎたて)無しに馬どもをつぶす気で昼夜走り続けることになります。しかも、当のタルクノエムは明日にも無人となりましょう。サ・リ殿も今頃ザラスへ戻られているはず。そこまでして一体どんなご用件が?」

 怪訝な表情を隠そうともせずサーマスは尋ねた。

「タルクノエムにはサイラスへの間道があるのだろう」

 「確かに地下へと通ずる道はありますが、サイラスにしてもこの局面を察知しておりましょう」

 「構わぬ。我々が恐れていたものの正体が何だったのかこの目で確かめたい」

 サーマスは頑なにその言を曲げないゲイルの瞳に強い意志と幾ばくかの諦念を見た。


 旅の途上。

 人々の意識に直接働きかけるルー・シャディラの天翔る騎行により、ダール・ヴィエーラ全土には宇宙的規模での覚醒が起きつつあった。

 ゲイルとてそのシンクロニシティと無縁ではなかったが、何よりも絶望が勝っていた。また、手練れた凶手であるサーマスにとっても、谷からの脱出を促す甘い導きの歌に耳を閉ざすことはさほど難しくはなかった。

 したがって、彼らが行程を変えることはなかった。 


(弐)


 いざや目覚めの歌を謳わん。

 そは、古き世界との惜別の賦。

 そは、新しい時代への惜しみない讃歌。

 夜と闇の狭間で迷える子らよ、

 旅立ちの時は来たれり。

 今こそ、光と風の大地に我らの年代記(クロニクル)を記さん。 


 時折その眠たげな瞳をしばたたかせて、老いたるラ・ウもまたルー・シャディラの歌声に聴き入った。その航路の先々を渺々(びようびよう)たる月影で照らしつつ。


 始まりは、冬都ザラス。

 冬の巨人にも喩えられる堅固な都は、かつてない豪雪の桎梏に囚われていた。住民の誰もが口には出せない不安を抱いていた。


 次の春は果たして訪れるのか?


 だが、夜明けにも似た甘く清らかな調べが、人々の心に清浄無垢なる光を投げ与えた。祈りと希求と救いが柔らかな翼となって、長い冬と夜に憔悴し、傷つき病んだ個々の魂を羽ぐくもり、愛おしんだ。

 巫女の歌に誘われて、人々は光射す新しい世界に焦がれた。まだ見ぬ大地の見果てぬ地平を、どこまでも澄んだ青空に吹き渡る風を、その心躍るほどの驚異の光景を夢見た。


 それは希望という名の奇跡だった。


 イルラギースは自らの情人が彼の予想を遥かに超えた超自然の存在であることを改めて思い知った。

 一方、産みの苦しみのなかで死にゆくドゥルサーラは、その歌を聴くと、なすすべもなく立ち尽くす夫をまっすぐと見つめ、次に傍らのちいさなファローンに満足げに微笑みかけた。そして、愛する我が子の継ぐ王国の繁栄を確信すると、そのまますっとこと切れた。



 次なる飛来地はあるじ不在の眠りの虚。

 時忘れの小魔界はいつもながらの宴の最中だったが、天上から得もいわれぬ声が響くと、小楽隊の面々も思案気な顔をした白梟もぴたりと沈黙して、押しなべて耳をそばだてた。

 かつて皇妃と呼ばれた女は苔のベッドに横たわりながら、孫娘による覚醒の歌を聴いた。来たるべき電磁バーストは彼女の機械の身体と記憶装置を破壊しつくだろう。


 ようやく長い夜が終わる刻が来たのだ。


 彼女はその結果に満足した。 

 


 そして、北方の山岳地帯。

 死せるガムザノンを逃れてアピの都に身を寄せた東タル―族の民の胸のうちにも深く、深くこの覚醒の歌は染み渡った。

 再び新しい旅が始まるのだ。

 とまれ、シノロンもまたうっとりと聞き惚れる聴衆のひとり。

 やがて聡明叡智を備えながらも冷徹非情なる辺境の指導者となることを約束されたかの少年は、ただ麗しの暁の女神を、ゲイルを強く想った。



 さらには、最果ての極地方へ。

 覚醒の調べを微かに聞きながら、男はハーレイの傍らで膝を抱えてうずくまっていた。

 インキュベーターに納められていた時と同じ体勢で。

 この極夜に近い極寒の地にあって、生身の身体はあと半日持つだろうか。

 もうすぐ低温と餓えが彼の魂を解放してくれるだろう。

 それでも彼は待っていた。


 やがて、遠い、遠い過去から飛行船の一団が到来した。


(参)


 その夜、タルクノエムの民は押しなべて同じ夢を見た。

 外界に茫漠と広がる新天地の夢を。

 一幅の絵たり得る光と風の都エアリアスの情景を。

 ほうっとため息をつくほど甘美なる未来を。


 翌朝、統制府のまえの広場(アゴラ)に人々は群れをなした。

 まるで革命前夜のような精神の昂揚を目の当たりにしながら、セツは人混みをかき分けて中心に進んでいった。イレージェはセツに守られながら続いた。


 やがて、執政官の不在を訝しむ群衆はリザイツェオーン家のふたりの子息たちに気がつき始めた。アゴラ中央の演壇へと向かうほっそりとした体躯に黒い法衣を纏ったイレージェと恰幅の良い軍服姿のセツとに。

イレージェは自身が生まれながらのカリスマ性を備えた兄イルラギースでも父ギランでもないことを十分に承知していた。彼らなら憂愁宮のバルコニーの高みから劇的にその姿を現し、芝居じみた口上を述べることで人々を熱狂させただろう。

 本来のイレージェはガルムの法院の首席として何事にも臆することのない良く舌の廻る都会的な秀才だったが、このときばかりは流れるように鮮やかな弁舌よりも素朴さと誠実さを前面に押し出した。


 「わたしは我が兄であり、この都市の偉大なる統治者であるイルラギースに代わってここに宣告する」

 石段を登り群衆に傾聴を促すイレージェの弁は訥々とした出だしであったが、落ち着いた抑揚で耳に心地よかった。

 「我々は闇の種族ヌークとして生まれながらも、長らくこのタルクノエムという造られた昼の世界で生きてきた。この逃(のが)れ場は選ばれた人間だけが許された閉ざされた楽園だった。ただ、この地への移住は、あくまで大災厄後のこの星の荒廃を忌避するための緊急避難的なものであったはず。本当の光を希求しながら、この箱庭で何世代も渡って都市生活を営んできたのだ」

 「しかし、あまりにも時は経ちすぎた。爛熟が色をなし、我々は本来の昼の世界を取り戻すという本来の目的を忘れてしまった。この理想都市に巣くうのはもはや堕落と退廃だけとなり、やがて刹那的な享楽へ溺れるもの、異端の終末思想に染まるもの、富者と貧者、我々は対立し分断された」

 「諸君らはうすうす気づいているはずだ。タルクノエムはもはや楽園ではない、と」

 「この星は生まれ変わろうとしている。我らも変化に対応しなければならない。先夜、ある奇跡によって、長らく不可能だった惑星改造のプログラムが作動した。もうすぐ人工的に起こされた電磁バーストにより地殻のダイナモが活性化し、太陽風を防ぐ磁気シールドが発生する。この星は新しく生まれ変わる。我々はもはやタルクノエムに閉じこもる必要はないのだ」

 ざわめきが波打ち、渦巻く。

 誰もが昨夜の夢を今一度反芻した。

 「今からわたしは諸君らに最も大切なことを告げる。この奇跡には大いなる代償がある。強力な電磁バーストによって我々の文明は完膚なきまでに破壊される。数日のうちに我々は無窮の荒野に投げ出されるだろう」

 群衆は一瞬息を呑み、どよめいた。

 やがて、怒号さんざめくなかで、イレージェは一際声を響かせた。


 「さあ胸に手を当てて、心の奥底に存在する密やかなる自分自身に問い掛けるのです。我々は本当は何を求めているのか、と」

 優れた扇動者である兄イルラギースの傍らで群集心理を知り尽くした男は、宗教的指導者でも英雄でもなくひとりの市民として、ゆっくりと聴衆を見回した。


 「我々は光を、本物の光を希求しているのではないか?」


 「時は満ちた。今こそ我らは大同団結して約束の地へ向かうのだ。我らと我らの掲げる自由の理念はこの地上を制し、タルクノエムを永遠たらしめるだろう。我らこそ新しい時代の覇者なのだ」


やがて、そこかしこから喚声があがった。

 ―――タルクノエム万歳

 ―――タルクノエム万歳

 ―――タルクノエムよ、永遠なれ


 市中には故国を称える誇らしげな唱和がうねり、イレージェはその静かなる熱狂に身を任せた。


 とんだ茶番だ―――。

 こっそりと叔父たちの後をつけてきた少年サディウスは熱狂の巷にひとり背を向けた。


(三)


 意識を消失する寸前だったレィヴンの視界は、ぼんやりとした飛行船の灯火を捉えた。


 「ちっ、ようやく間に合ったか」


 「遅いぞ」

 船内に収容されたレィヴンは飛行船の一団を統べる首領にそう声を掛けた。

 「かすかにわたしを呼ぶあなたの声が聞こえたからついでに寄ったまでです。あなたらしいと思ってね。ただ死ぬためにカプセルから出てくるとは酔狂なことだ」

 その声の主はサイラスの実質的な支配者ビショップだった。

 「一体どこへ向かう?」

 「当たり前のことですが、この飛行船では我らが母星へは帰還できない。ただ、少しでも高く高度を上げ、そこで空調・与圧システムを止めます」


 「全員凍死するのか?」

 「それより先に酸欠による窒息死を迎えるでしょうね」

 事も無げに司祭は答えた。

 「どのくらいかかる?」

 「ほんの一瞬です」

 「それがお前が選んだ答えなのか?」

 「もうここには新しい世界で生き延びることができるものはおりません。適合者は長い歳月をかけてすべてタルクノエムに送り込みました」


 「さあ、人々はあなたの声を待っています。ルー・シャディラがこの星の生きとし生けるものを導くようにあなたはこの地上から消えゆくものを導く。あなたは最期にその力を善きことに使うべきです」


(四)


 時間の砂がさらさらと流れていく。

 言葉にしえない想いが溢れて、この掌から零れ落ちていく。

 ただ、愛する者と共にありたいと願っただけなのに、今となっては、すべてが掻き消えていく。


 「からっぽだ」

 ゲイルはつぶやいた。

 「この世界も、わたしの心も」


 冥府サイラス。

 古代の廃鉱を利用したタルクノエムの地下に広がる根の国であり、いにしえの人類コーダの本拠地。

 かつての敵地は、必要最小限設置されたナトリウム灯によってかろうじて視界を保てる程度のセピアの闇が覆う無人の廃墟だった。縦横に迷路のように入り組んだ坑道を少女は見えない影に導かれるように進んでいく。深く、より深く、この世界の深奥へと。

 

 廃墟となったのは一朝一夕の出来事ではない。コーダたちが去る前から、もうずっと昔から荒廃していたのだろう。


 それにしてもコーダたちはどこへ向かったのだろうか。


 剥き出しの切梁に支えられた坑道。

 ふいに現れる地の果てまで落つる陥穽のごとき竪坑。

 冷たく重く澱んだ空気。

 廃液が滴る、もはや用を為さないドレン管。

 このダンジョンのごとき廃坑跡で彼らは、この星における最後の人類は、旧世界の文明の記憶とともに何世代にも渡ってひっそりと暮らしてきたのだ。


 強大なる敵は滅びゆく哀れな種族だった。


 わたしは今まで一体何と闘っていたんだろう。


 (おい、目を覚ませ)

 心の片隅で誰かがつぶやく。

 それは仮想空間から連れ出した少年の日のイムナン・サ・リ。


 そうだな、お前とともにここで心を閉じてしまおう。


 (どうした、お前らしくない)


 わたしらしいわたしなぞ、大人になったお前は愛さなかった。お前には解る筈だ。お前が本当に愛していたのは誰か。


 やがてぽっかりと開けた吹き抜けの空間が現れた。

 大規模な選鉱場跡地を囲むように何層にも積み重ねられた街区。

 巨大な円形アトリウムを巡る回廊には神殿の円柱をおもわせる太い支保が無数に立ち並んでいた。

 おそらくこの場所が地下迷宮の基幹部だった。


 「ウズリンの姫君、これで満足ですか? どこまで行っても同じだ。そろそろ戻らないと戻れなくなります」

 今度は、少し離れてついてきたサーマスが声を掛けてきた。

 「わたしのことは放っておいてくれ」

 その時、物陰から微かな気配が感じられた。

 「待て」

 小柄な影が逃げ出すより速く、少女はその小さな生き物を捕まえた。

 それは二つ、いや三つばかりの真っ白な丸い顔をしたコーダの少女だった。感情が鈍磨してしまっているのかもはや泣くこともなく、薄い色の瞳がまっすぐゲイルを見上げた。


 「どうして、ここに」

 ゲイルは少女を凝視しつづけた。

 「おおかた、脱出の混乱ではぐれたのでしょう。姫君よ、そんな怖い顔をしないでください。子供相手に殺気が勝っている」

 サーマスは思いがけない世話好きな一面を見せて、幼い少女を抱き上げた。名前を尋ねると、少女は素直にタヒと答えた。

 「さあ、潮時です。戻りましょう」

 ゲイルは憑き物が落ちたようにサーマスの言葉に従った。


 地下迷宮の長い螺旋階段を昇って岩間に隠された抜け穴から地表へと到達したとき、断崖の側端で思いもかけない人物が彼らを待ち受けていた。

 それは、世界にとってはここ数日のシンクロニシティの根源、新たなる奇跡の予言歌を謳う巫女、ゲイルにとっては兄嫁にして恋敵、すなわちルー・シャディラ。傍らにはゲイルの友であり闇の僕である班雪(はだらゆき)の公を従えて。


(五)


 ほんの少しだけ、母なるテオティワカンへと近づく船内で意識が途切れるまさにその時、コーダの民は等しく同じ啓示(エピファニー)を視た。


 なんといううららかな午睡の安らぎ。

 ようやく訪れた至福千年(ミレニアム)。


 天上には幾何学的な薔薇窓が広がり、彼らがその信仰において永らく喪失していた聖母子像が現れた。


 Ave Maria! Jungfrau mild,

 Erhöre einer Jungfrau Flehen,

 Aus diesem Felsen starr und wild

 Soll mein Gebet zu dir hinwehen.


 Wir schlafen sicher bis zum Morgen,

 Ob Menschen noch so grausam sind.

 O Jungfrau, sieh der Jungfrau Sorgen,

 O Mutter, hör ein bittend Kind!

 Ave Maria!

                    Ellens Dritter Gesang (Ave Maria)



 懐かしい音楽が先人から引き継いだ無意識の底から呼び覚まされると、長きに渡り人々の記憶から剥落していた名前が鮮やかに浮かんだ。


 「マリア様―――」


 あらゆる電気系統が消失した船内で、聖母の慈愛に満ちた両の腕(かいな)が優しく彼らのさまよえる魂を抱き寄せた。誰もが幼子のように満たされた。


 地球(テラ)を離れてからの、長い、長い旅路の果て。

 彷徨える衰微の民はその最期に薔薇の奇跡を見た。


 ミリアム、何故だかお前をずっと近くに感じてきた。

 俺ももうすぐお前の元へ還るよ。

 レィヴンはその人生の最期でこれまでにない安らかさを得た。


 (六)


 仄暗い闇に浮かぶのは、蒼ざめた月影に包まれたほっそりとした少女のような体躯。フードから零れた荒ぶ風になびく幾筋かの黒髪は過酷な上空の寒気で半は凍りついていた。

 完璧な人類であるはずのケスの民は、果たしてヌーク並みの外界への適応力を持ち得ているのだろうか。

 ルー・シャディラの生気のない顔色を目の当たりにして、ゲイルはふとそんな疑問を胸に抱いた。混血とはいえイムナン・サ・リはむしろ肉体の脆弱さが目を引くばかりだった。

 この世ならざる超然たる存在。にもかかわらず、目の前のうつくしい女はすっかり老いていた。

 ダール・ヴィエーラの隅々まで、変革と目覚めの歌を響かせることこそが彼女の使命であり存在のすべて。天命を成し遂げた今、その尋常ならざる魔力は尽きたのだろうか。その面にはもはや何ものをも見下すような高慢でさかしらな笑みはなかった。


 「レッドスワンよ、まずは天空の鍵を開けたあなたと若きイムナン・サ・リの偉業を誉めてあげるわ」

 蒼白さのなかに最低限の威容を保って巫女は告げた。

 「それは身に余る光栄だな。だが、それがおまえの用件ではなかろう」

不審げな様子を隠そうともせず少女は言葉を返した。

 「あなたに折り入って頼みがあるの。時の歯車が狂ってしまった。現実の世界のサ・リが死にかけている。あれは自らの残り少ない寿命をファディシャに与えるべく愚かな取引をした。時を修正するには……」

 ゲイルの心の内を試すかのように巫女は一瞬言いよどんだ。

 「わたしがファディシャを斃せばよい、ということか」

 そう、それがファディシャの望みだった。自分より強いものに倒されること。共に天空を開ける鍵として産み出された同胞(はらから)。その使命を果たしたのは年若い妹の方。ファディシャはその余り者のごとき運命を甘受しないだろうことは自明だった。

 「よかろう。ただ、わたしが勝つとは限らんぞ」

 ゲイルは班雪の公の頬をなぜた。スノーフレークの班を持つ翼ある野生馬は控えめに嘶いた。


 「サーマス、お前の主は無事に蛮族との和平を取りつけた。彼の後継たるリザイツェオーン家の弟たちに急いで報告するがいい。タルクノエムの民は大地へと降り立った。後備えの竜騎兵が出立してからそれほど時間は経っていない。ところで、その子どもは?」

 「この娘の名はタヒ。コーダの生き残りです」

 生き残りの少女に自らの境遇と重なったのか、巫女はほんの一瞬だけたじろぐように感情のゆらぎを見せると、厚い毛皮のマントを留めるブローチのピンで自らの指を刺した。

 指先から零れる一滴の血がタヒの額に滴った。花弁のような紅い染みは一瞬で消えた。

 「タヒよ、おびえることはない。ケスの一族が生まれながらにして獲得している抗体を与えただけ。これでお前は新しい世界で生きていける程度の免疫力を得ることができるはずよ」


(七)


 第七夜。

 ゲイルはルー・シャディラを抱えるように魔性の天馬、班雪の公に騎乗すると、かつてイムナン・サ・リとともに空を駆けた夜のことを思い出した。

 あらゆる虚飾が洗い流された巫女の素顔はあまりにもサ・リに似ていた。ケスの生き残りのふたりの真の関係性は如何なるものなのか。


 「レッドスワン、真実がいつも正しいとは限らないのよ」

 「どういう意味だ」

 「余計な詮索はしないで。わたしが何ものであるかなどどうでもいいこと。あなたはあなたらしく部族の英雄として素朴な正義に生きるがいいわ」

 「勝手に心を読んだのか」

 「少し疲れて制御が聞かないだけよ。雑念が耳障りなの。少し眠らせて」

 そのまま寝入ったのか、小さくて柔らかな身体は少し重みを増した。強大な力を秘めているにもかかわらず、その姿態はあくまで優艶でどこかはかなさを帯びていた。自分とは違う種類の女だった。酷寒の大気に身を切られながら、ゲイルはその細く強靭な腕で恋敵の身体をしっかりと抱きとめた。


 (本当に君の兄さんと戦うのか?)

 若きイムナン・サ・リの声が脳裏に響く。

 (ああ、そうだ)

 (助けるまでもなく、僕は君と一緒なのに)

 (お前は解放する。お前は本当のお前のなかに戻るのだ)


 雪片を頬に受けつつ、ゲイルは朧なる月影のシャワーを浴びて優美に飛翔するクリーム色の翼に身を任せた。


 やがて、眼下に燃える篝火がザラスの荒涼宮に到達したことを告げた。

 愛妻を失ったばかりのファディシャは、待ち人来たらずの風情で立ち尽くし、担ぎ刀でひとり天を仰いでいた。篝火を受けて焔立つのは少女と同じ緋色の髪。

 ファディシャは生まれて初めて自由を手にした。

 これまで、ただ死だけが己の呪いを解くものと信じていた。

 だが、彼は今この時を生きながら、彼を悩ませてきた乾きから解き放たれていた。

 血の呪いは絶たれたのだ。おそらくは魔術師の為した最後の魔法で。


 急に吹雪いてきた。

 ふたりの女たちを乗せた天馬が辻風を巻き起こしながら舞い降りると、風に散る少女の緋の髪が炎を受けてかすかにきらめいた。


 燃える緋の髪を持つ兄妹が対峙した。言葉なく。


 兄王ファディシャは傍らの衛士ドルドの腰から長剣を抜き取ると、やおら放り投げた。抜き身の長剣は妹姫ゲイルの目前の雪だまりに突き刺さった。

 疾風が叢雲を薙ぎ払うと、ぼんやりとしたラ・ウの瞳が顔を出した。


 世界は月雪の幻想めいた蛍色に包まれ、無音のうちに血で血を洗う凄惨なる決闘が開始された。


 ファディシャは抜き身の剣を閃かせると、影のごとく少女へと駆けてきた。まっすぐと。

 少女も利き手で剣を抜くと、獣の速さで跳躍し半身に構えると右腕にまとわりつかせた厚い毛皮のマントで最初の一撃を勢いよく薙いだ。

 一刀も合わせずに王者の剣は宙に飛び、少女の剣はまっすぐに兄の心臓に突き刺さった。


 一瞬のなかの永遠。永遠なる刹那。


 瞬く間にすべてが終わった。

 ダール・ヴィエーラの覇者は長い間希求しつづけていた「死」という名の救済を手に入れ、その妹は彼の王位と彼を苛(さいな)ませていた永遠に続くかのような渇きを引き継いだ。兄殺しの罪とともに。

 (強くなったな、それでこそ我が妹よ)

 (あなたはあなたじゃなかった。死期が迫っていたのでしょう)

 (精神(こころ)に死というものがあるなら、な)

 (ならばわたしも死んでいる)

 (何の冗談だ。ゲイル、お前は生きている、誰よりも生きている)

 (わたしはもう失ってしまったの、天空の鍵を開けるという天命を達成したと同時に。何かは解らないけどとても大切なものを)


 (さよなら、ファディシャ、それでもわたしは生きていくほかはない、与えられた生を)


 月明かりの下、白き雪を紅い血が染め上げたとき、瀕死のイムナン・サ・リは長い夢から目覚めた。

 あの少女は成し遂げたのか? 奇跡は達成されたのか?

 ただひとつ確かなこと。魔女との契約は破られた。魔法は解けたのだ。


 老巫女に寄り添われながら、ゆっくりとバルコニーに姿を現した魔術師はまっすぐと若き王の亡骸に向かい跪(ひざまづ)き横たわる完璧な肉体を抱き上げた。

 その安らかな面を恋人のように見つめると、魔術師は物言わぬあるじの唇にその紅い唇を合わせた。


 「サ・リよ」

 少女が呼びかけると、魔術師は面をあげ、虚無の瞳で少女を見返した。長身の衛士ガリィとドルドが亡きあるじの左右に仕えていたように少女の背後に従っていた。


 「天空の鍵はもうすぐ開かれる」

 天の御使いのごとき冷たく厳かな声で少女は告げた。

 「我は新たなるタルクノエムの王となる。お前の新たなるあるじだ」

 「そして、お前は私の忠実なる僕となる。わたしは誰のものでもない。王妹だった頃のお前との婚約は無期限に延期する」


 血塗られた長剣が男の両頬に触れると、男の端正な顔に血化粧が施された。遠い昔亡きあるじの初陣の夜、魔術師が沼気(メタン)を利用してちいさな奇跡を起こしたのだが、魔術師は戦況を占う水鳥の血であるじから戦化粧を施された。その記憶を上書きするかのように今宵はファディシャ自身の血で。


 「立て、お前の記憶の一部を返してやろう」

 少女は男を乱暴に抱き寄せると、冷たく酷い口付けを交わした。


 (君はおろかだ)

 去り際、少年の記憶の断片がゲイルに呟いた。

 (君はもう十分に使命を果たした。君は君として生きればいい。君の兄さんもそう望んでるはずだ。何故背負いきれないほどの重荷を引き継ぐ?)


 少女はティアマットから渡された林檎の実を思い起こした。

 「これは第十のセフィラ、王国マルクト。王座につく乙女で表される。お前の求める鍵であり、お前自身でもある。第十のクリファ、物質主義キムラヌートに対応する。物質世界における自由意志ともいえよう」

 「さあ、出立の時は来た。お前たちはダール・ヴィエーラという揺籃を抜け出て、外界の世界へと旅立ち、自らの王国を打ち立てるのだ」


 魔術師は自らの記憶を口移しに受け取ると同時に、少女がビットの海で達成した大いなる偉業とその代償を、新たな苛烈なる使命を知った。

 

 「タルクノエムの新王陛下、新たなる我があるじに天狼ラ・ウのご加護のあらんことを」

 再び瞳に光を取り戻して妖艶に笑うと、おのれと愛するものの運命を受け入れた魔術師は再び跪いた。

 

 「急ぎましょう、もう一刻の猶予もないわ。ダール・ヴィエーラから立ち去らねば」

 愛憎に縛られたふたりにルー・シャディラは静かに、そして強い調子で促した。


 「サ・リよ、わしは残るぞ」

 病床から付き添ってきた老巫女が静かに告げた。

 「少々長く行き過ぎた。ここでゆっくりとファディシャとその妾妃と古き世界を弔おうかの」


 「残念だ」

 魔術師は短く答えた。

 「引き止めんのか」

 「ああ、この闇に閉ざされた世界は美しい。共に滅ぶ価値はある」

 「そうじゃろうよ、ではイムナン・サ・リよ、さらばじゃ」

 「善き旅を、ラ・ウのご加護を」

 魔術師は蘇生してから初めて柔らかな笑みを見せた。  

  

(八)


 その時が来た。

 最果ての離宮、そのオベリスクの内部で老母(ラオムー)は最期のプログラムを作動させ、人工磁場形成装置から強力な磁力が最大限に出力された。


 かつて皇妃と呼ばれた眠りの虚に残された自動人形(オートマトン)は、少し前から眠りについていたが、電子の嵐のなかで完全に機能を停止した。

 彼女の任務、この星で新人類を生み出すという「羽人計画」は完全に終了した。当初の計画とはまったく違った結果となったが、新たに生まれた人類はしばしこの宇宙に歴史を刻むこととなった。アズール、もとい蒼天はその帰結に満足した。彼女は老母(ラオムー)とともにその長い生を終え、その魂は記憶の中だけにある故郷、鉄(くろがね)の要塞九天へと旅立った。

 人工都市タルクノエムもまたその使命を終えた。


 電磁バーストのインパクトは地中に眠る岩漿や鉱床、地核にまで達し、この星の死んでいた磁場システムに新たな息吹を与え、さらには遠くラグーンズと呼ばれる人類の移住地帯までもこの星の異変を伝えた。その観測結果によりラグーンズから惑星ニュクスへ無人の調査船が向かうことになるがそれはまた別の譚(はなし)となる。


 電磁バーストとともに轟が大地を揺り動かした。

 このカタストロフに連動して発動するコーダの置き土産である気化爆弾によって氷河が爆砕された。 

 すさまじい高熱と爆風と衝撃派によって氷河の三分の一が蒸発し、残りが溶解した。

 

 大半のものたちはすでに地上での移動の途上であったが、自らの意思で谷に残ったものたちのなかには大地に飲み込まれたものもあったという。もっともその痕跡はその後の決壊した氷河の泥交じりの氷の激流に流されてしまったが。


 空に逃げた水は雨となって地上に降り注ぎ、解けた氷河は谷を流れる悠久の大河となり、やがて海が生まれる。空と大地の間を循環する水は空中を漂うダストを洗い流し、ニュクスの民はそう遠くない未来に本当の空を取り戻すだろう。



 ダール・ヴィエーラの諸部族もタルクノエムの民とともに竜騎兵に先導されて聖地エアリアスを目指した。


 ムルカベールの戦士を始め、闇の輩、魔族たちはその大移動を見届けるとひっそりと闇に消えた。

 魔法の時代は終わったのだ。


 物語はもう少しだけ続く。

 それは暗き運命(さだめ)の恋人たちとその子どもらの物語。 

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