第三十一話 楽園の向こう側(三)
(壱)
光が渦巻くと、夢の世界は遷移し、物語は再び変容した。
煤煙で覆われたモノトーンの世界。
海岸沿いに広がる巨大な廃工場群。オベリスクのように突き出した何本もの煙突。コンビナートの傍らのゴミ山からはいまだ煙が立ち上り、その麓からは廃油がしみ出していた。
都市の中心部の摩天楼は激しい爆風を受けて、その原因が天変地異か人為的攻撃かは解りかねたが、同心円状に崩れ落ちていた。上空を旋回していたハイウェイもまたところどころ崩落していた。そこに存在するのは無人の廃墟と化したメトロポリスだった。
壊滅後もしばらくは生存者がいたのだろうか。瓦礫の山のあいだには人影の
ないバラックが残されていた。
生き残りがいようといまいと、その土地の終焉は近かった。入り江の向こうから顔をのぞかせた、硫酸とへどろの混合した黒い粘着性の海が都市をじわじわと呑み込もうとしていたから。
隠微なる象徴と瞭然たる巧詐に満ちた架空都市―――、モデルはいつの時代の地球だろうか。
いまだ輝きを放つのは、青の彩釉煉瓦のモザイクが美しい壮麗なる都市門のみ。
少年と少女は全体を見晴らすようにふわふわと墜ちてゆくと、歴史上イシュタル門として知られた都市門の前に舞い降りた。
どこからか、魔法めいた光の渦が流れ込み、青の門から溢れ出した。
やがて、回廊の向こうの光の彼方から、象のような太い四足を鈍重に動かす怠惰な竜の背に身を任せた女が現れた。
もはや、その奇怪な取り合わせに驚きはなかった。
イムナン・サ・リの手のうちにあった金の笛はいつしか一冊の書物に変わっていた。ずっしりとしたオーソドックスな欽定訳聖書だった。独りでにパラパラとページが捲られた。
この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。(ヨハネの黙示録 第十七章 四節)
「違う、この頁ではない……」
イムナン・サ・リの心は曇った。求める鍵は、少なくともその手掛かりはおそらくこの書物にあるだろう。だが、開かれた頁は彼の予測からはあまりにも遠すぎた。よりによって、黙示録ではあり得なかった。今ここで始まったのは、おそらく絶望を誘う心理戦だけ。
一方───。
謎解きに参加する気など端からなかったが、ゲイルの胸の内もまた暗く沈んでいった。滅びの象徴たる女は、やはりリザイツェオーン家で見た肖像画のあの奥方だった。少女には、若き日のイムナン・サ・リの許されざる恋が、その暗い結末が容易に想像できた。愛する男の記憶の底から甦った死者。
身に纏っているのは、今にも宴に繰り出そうかという肩をのぞかせた華やかなカクテルドレス。
だが、黒羅紗のつばの広い帽子は、孔雀の羽と黒薔薇と嬰児のものと思われる小さな髑髏で禍々しく飾られていた。
目前に現れた恋敵は生きているときと同じほど、いやおそらくは一層なまめかしくしどけなかった。少女の心は言いようのないやるせなさに包まれた。死者に勝てるはずがなかった。
「シトラ・アフラにようこそ。ここは影の国。そして、我が名はバビロン。大いなるバビロン」
それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。(同 五節)
「巫女にして娼婦。天の女王であり宵の明星」
女は、手に持った星の輝きを放つ金杯を大きくかかげた。
「ほら、これがあなたの求める解の一部よ。それともわたし自身があなたの答えかしら」
「いいや、違う」
少年は吐き捨てるように応じた。目の前に現れた堕ちたる古代オリエントの女神の姿形は、愛した女の面影そのものだった。少年の暗く惑う心を引きつけてやまない懐かしい琥珀色の瞳。どれほど夢に見たことだろう。その少女のようにほっそりとした肢体を抱き寄せて、許しを請いたかった。狂おしい愛憎の嵐のただ中に再び身を投じたかった。だが、彼には十年来の使命があった。
「空の封印を解く鍵はそれではない。テオティワカンの最後の女王の名はバビロンでもイシュタルでもアスタロトでもない。そして、エフェルメ、断じて君ではない」
「あら、残念。ずいぶんとヒントをあげたのに。それではどんどん遠くなるばかり……」
女が星の杯を空に投げると、それは瞬く間にひとつの錠前となった。
「どんなに否定しようと、それはあなたのもの。あなたが背負うべき罪」
次の瞬間、錠前は少年の空いた片方の手のなかにあった。その繊細な造りの組み合わせ錠に覚えがあった。
少年は心底驚愕すると同時に、この容赦ない戦いの本質を否が応にも理解した。
それは、かつての師であり恋人でもあった錠前師セレンの手によるものだった。無論、錠前と見えるのは見掛けだけで、それは難攻不落のプログラムだったが。
「解っていると思うけど、人類史上のすべての言語が解となり得るわ。つまり文字の組み合わせは無限に近いのよ。そして、この条件では総当たり戦はそもそも効率が悪いけれども、可能なアクセス回数は一度きりなの。つまり、失敗は決して許されないわ。お解りかしら、錠前破りさん」
真相にはもうずいぶんと前から近づいていた。皇帝の不自然に欠落した記憶、レッドテープに括られた閲覧不可の塗りつぶされた記録。この世界の主、レィヴンの永遠の想い人、かの誇り高き女王の本当の名前。
これまで、ずっと彼の夢をたどってきた。
そこかしこに鏤められた聖なる処女のイメージ───悲しみの聖母、黒い聖母、天の女王、そして、万華鏡のごとく円窓に嵌め込まれた奇しき薔薇の花。
答えは聖母マリア、もしくはそれに派生した女性名のはずだった。だが、余りにも多すぎた。思いつくだけでも、マリア、メアリ、メリー・ルー、メイ、マリー、ポリー、モリー、マーベラ、マノン、マリアン、マリエッテ、マルシア、マライア、マーレー、マーシャ、モーラ、モアレ、ミミ、ミネット……。
「待て、この錠には鍵もある筈だ」
「もちろん。でも、この世界でのあなたの役割は錠の解を求めること。鍵を手に入れるのは、この世界の最強最速の戦士たるレッド・スワンの領分よ」
「さあ、これから素敵なショーが始まるわ。時代はさらに遡る。すべての源流へ」
女が告げると、イムナン・サ・リの手にあった聖書は瞬く間に楔形文字が刻まれた粘土板に変わった。原典は、エヌマ・エリシュ、人類最古の叙事詩。
女は竜の背から降りると、ゆっくりと誘うように両腕を伸ばした。
あっと思うまもなく、超自然の力でイムナン・サ・リは女の許へ吸い寄せられた。死者の冷たい腕がイムナン・サ・リの身体に巻き付いた。
「怒れる蛇、ムシュフシュよ。お母様をお呼びして、お前の眷属、水の族を連れておいで」
目のまえには、黒いへどろの海から上がってきた、カンブリア紀の生物たちを率いた太母ティアマットの軍隊が現れた。
毒蛇 バシュム
大いなる竜 ウシュムガル
高貴なる蛇 ムシュマッヘ
怒れる蛇 ムシュフシュ
海へどろ ラハム
荒ぶる空の獣 ウガルー
暴嵐 ウム・ダブルチュ
獅子人間 ウリディンム
蠍人間 ギルタブリル
魚人間 クリール
そして、牡牛人間 クサリク
混合獣、あるいは半人半獣の混合人間───粘土板に記された怪物たちは、それぞれに相応しい奇怪な節足動物、海綿、原始的脊索動物を従えていた。所詮、夢のなかの出来事だった。自然法則などまったく無視して、カンブリアン・モンスターたちは空中を己のテリトリーのごとく遊泳し始めた。
視よ、
管の先端に鋏型の口先をつけたオパビニアが、
五つの目を光らせている。
ピカイアが、
ハルキゲニアが、
マルレラが、
それぞれの突起物をくねらせながら、
生命大爆発期の奇怪千万、
奇妙奇天烈なる動物群が飛来する様を。
空を行軍しながらも、
この時代の海の王者である
巨大なアノマロカリスどもが、
びっしりと歯が生えた口で、
哀れな三葉虫を捕食している様を。
さて、都市の郊外に奇跡のごとく無傷で残っていた観覧車。
その揺れるゴンドラのなかで、三位一体の森番たちは魔衆の襲来を、すべてがグロテスクに歪んだ光景を俯瞰していた。
「ねえ、どうみても劣勢だよ。仕方が無いから助けてあげる? ちょっとベクトルを操作して……・」
と、心配顔の一の童子。
「ずいぶんと悪趣味な世界だね。これは一体誰の夢の産物なのかい? それにしても彼は僕たちがあげたヒントを忘れてしまったのかな? 少し思い出させてあげようか」
と、皮肉な笑みを浮かべた二の童子。
「だめだよ。ほら、魔女たちが目を光らせている」
と、気弱げな風情の三の童子。
怪物たちの後から三人の魔女を従えた夜の女王、もとい始原の女神ティアマットが姿を現した。
全身を覆う黒いマント。旅の始まりと同じようにフードを目許深くまで被っていたため、その表情は解らなかった。そして、その腕には血の洗礼を受けてこの世に産み落とされたばかりの裸の嬰児が抱かれていた。
「白鳥の娘よ、出番だ。存分に戦え」
瞬時に、鳥刺しの装束は赤銅の胴鎧に、銀の鈴は青銅の大剣に変容した。
そして。
「うああああっ───」
身体ごと引きちぎられるような衝撃と同時に、少女のしなやかな棘腕筋を破って現れたのは、あまりにも見事な白鳥の双翼だった。
今、天空を覆うばかりにひらめくのは、大いなる光の御翼。
この滅びゆく世界を照らす灼然なる光背として輝く。
流血の白鳥の覚醒と飛翔。
変身、神変、メタモルフォーゼ。
それは、まごうかたなき羽化登仙のエピファニー。
「うふふ」
少年に纏わりつきながら、大バビロンはイシュタル門の回廊の向こうに次の時空の扉を開けた。
「さあ、この場はレッド・スワンに任せて、わたしたちは文書館へ行きましょう。」
「やめろ、これ以上僕に関わらないでくれ」
「残念ね。わたしはこの仮想世界の扉を開く仲介者。わたしがいなければ、あなたは存在することすら許されないのよ、錠前破り(クラツカー)さん」
見えざる手で座標が書き換えられると、二人の姿は瞬時に消失した。
(弐)
掻き消える二人を見届けると、ゲイルは目前に迫った敵勢を真っ直ぐと見据えた。
もはや、孤独と絶望だけがこの戦いの盟友だった。凍りついた心臓からどくどくと溢れる血潮が身体中を冷え冷えとした虚無で満たしていく。ゾクゾクするほどの戦慄と相反するように、意識はあくまで従容自若、ひたぶるなままに冴えていった。
(屠れ。惨殺せよ。その手にとどくすべてを)
(ただ殺戮のみが、魂をうち振るわせて歓喜を呼び覚ます。絶頂の極みでのみ到着しうる忘我の境)
カチリッ。
頭のなかで火花が散る音がした。
非情なる戦闘プログラムの発動。
もはやいかなる躊躇もなく、少女は戦場の狂気に身を任せた。
凜列なる翼の巻き起こす羽風は大いなる暴風雨。はらはらと白き羽根を散らしながら、空に浮遊する小兵どもを薙ぎ払っていく。
一の陣は、蛇と竜の眷属。
すなわち、巨大な蝮バシュム、獅子頭の竜ウシュムガル、七頭の大蛇ムシュマッヘ、蠍の尾を持つムシュフシュ。
鱗を持つおぞましき怪物の群れが刻々と迫り来る。剥き出した毒牙からこぼれるのは、硫黄あるいは火焔の吐息。咆吼を上げる度に雷鳴が轟いた。
だが、氷の炎が浮かんだ金目に射竦められると、地や宙を蛇行跛行する鱗蟲どもの動きは一様に鈍った。
その刹那、疾風迅雷の斬撃は、ねっとりとした大気を切り裂いた。
青銅の大剣は雑魚どもを叩き切りながら、金剛石の鱗をものともせずに、続々と大蛇どもの首を刎ね、一文字に竜たちの胴を抜いた。引き千切られた無数の残骸が、刀風に煽られて無惨にも飛び散る。
巻き上げられ、舞い散る血飛沫が、視界を赤一色に染め変えた。
やがて、降りしきる血煙の向こうに、殺戮の軍女神、我らが流血の白鳥が姿を現すだろう。
二の陣は、空と海の魔物。
怒濤が逆巻く海原は、妖艶なる海の魔女ラハムの遊びの庭。
見上げると、天空の獅子ウガルーが、その雲上の封土でその太い前足を蹴上げ、電光のたてがみを震わせて哮り立っていた。
空と海のあいだでは、姿無き魔物ウム・ダブルチュが禍々しき狂飆となって、激しく旋回しながら縦横無尽に荒れ狂う。
世界は、狂おしく咆吼した。
そして、時代もまた変転し、カンブリア期の小兵どもはそのクチクラ層を鋼の装甲に変えた。
空を覆うアノマロカリスとその眷属は、いまや空軍黎明期の飛行部隊となった。プロペラの呻りをあげる二葉の水上戦闘機の群れに、ずんぐりした機影の三葉飛行艇や巨大な硬式飛行船がぽつぽつと混成している。
さらには、波間を漂う三葉虫の類いは母艦とそれを護衛する魚雷艇に、上陸したウィワクシアどもは機甲師団となって海岸線を埋め尽くした。
狂乱怒濤の嵐の最中、星羅雲布の威容を誇る装甲部隊が砲火を放ちながら迫ってくる。凄まじい爆撃波と閃光、そして硝煙が視覚と聴覚、平衡覚を奪う。
ゲイルに許された装備では端から勝負にならないことは明らかだった。だが、ここに至って、少女はこの世界の法則を感覚的に理解した。───ひとつの気づき、そしてひとつの決断。
流血の白鳥は、紅き翼を大きく羽ばたかし、躊躇無く彼らの領域に身を投じた。
鋼鉄のアノマロカリスどもを風を切る刃で両断すると、少女は青銅の剣を空に向かって高く放り投げた。
乗るか反るか。
乾坤一擲の賭けだった。
その刹那、天空の獅子が潜む黒雲から、矢のごとく稲妻が降り注いだ。
奇蹟の御業の瞬間だった。
雷に打たれた青銅の剣が真っ二つに折れると同時に、その形態は二丁の自動小銃に入れ替わった。すかさず、両の手でそれぞれをつかみ取る。捨て身の賭けだったが、思った通りの武器を手に入れることができた。
そう、この戦場もまた夢の一部。
自然の摂理などあって無きがごときもの。
刻々と変容する世界にあっては己自身すら思うままに改変できるはず。
少女は二丁の銃を恐るべき正確さで操ると、文字通り殺戮の天使となって戦場のそこかしこに張られた弾幕をすり抜けながら、弾丸雨注の機銃掃射を開始した。
夢かうつつか。
陶酔と覚醒のなかで、幻想と現実のはざまで、実世界では決して体験し得ない鋼鉄の旋風のただなかにその生身の身体を投じると、少女は刻々と変化する戦況にあって、高速戦と心理戦が相俟った緻密かつ奔放なる空中機略戦の申し子となった。
大空に解き放たれた孤高なる魂───その大いなる翼は風のごとく自在に旋回し、滑空し、飛翔する。
超速超絶の離れ業で敵弾をかい潜りながら、そのすらりとした肢体を伸びやかに泳がせて、天に羽撃つ十字砲火の双銃は空中、海上、地上の装甲部隊を容赦なく薙ぎ払っていく。撃ち落とされた二葉機が、黒煙を上げながら放物線を描いてその水上母艦へ次々と墜落していった。まさしく、狙い違わずの絶技だった。
打ち砕くのだ、ひたすらに。突き進むのだ、彼方へ。
二丁の機関銃は、少女の望むままに無反動砲に置き換えられた。
だが、どれほど撃沈しても、敵陣は次から次へと産み出され、尽きることはなかった。
硝煙弾雨の黒風が果てなくつづく、煙幕の炎が燃えさかる終わりなき戦いの庭。
だが、どこかにこの悪夢の突破口があるはずだった。
ゲイルは、イムナン・サ・リとともに戦った日々を思い起こした。蟇蛙に操られた吹雪の巨獣たち。すべては蟇蛙のみせる幻影だった。供給源を立つのだ。敵機がどこから補給されているかは明らかだった。少女は血飛沫と煤に塗れた額を拭うと、遙か頭上を見上げた。
「さすが、レッド・スワン。とうとう出口をみつけたようだね」
一の童子は、素直に驚嘆していた。
「だが、彼らは強敵だ。彼女にはまだ気力が残っているかな」
二の童子は、慎重に言葉をつないだ。
「彼女はきっと出られるさ。なかなか筋が良いもの。問題はむしろ……」
三の童子は、また別の悪夢が展開しているだろうもうひとつの鎖された空間が存在する辺りをみやった。
「ちょっとあちら側をのぞいてこよう」
そう言い終わらないうちに、童子たちは消失した。
(参)
少年の転移先は薄暗い室内だった。
その文書館は、歴史上確かに存在したものとおもわれる古色蒼然たる佇まいを醸していた。壁面の絢爛たるアラベスク文様はすでに幾世紀かを閲してきたらしく、室内の柔らかな陰翳とほどよくなじんでいた。
書棚に収められているのは、パピルスや羊皮紙の古本。
白いクーフィーヤの写字生たちが厳かに書写に勤しんでいる。彼らは押しなべて幽鬼かなにかのように存在感が薄く、目を離すと消え入りそうだった。
「ここは、どこだ」
少年は目を凝らした。
「最初の千年紀の終わり近く、イスラム黄金時代よ。ヨーロッパが暗黒にあったこの時代のもっとも先進的な都市」
「バグダードか」
「そう、ここは知恵の館、図書館にして天文台。アラブの大翻訳時代には、ギリシア語、漢語、サンスクリット、ペルシア語、シリア語の書籍がアラビア語に翻訳された」
イムナン・サ・リは、彼を堕落させるべく送りこまれた死者の幻影に文学少女だった頃のエフェルメの面影をみた。かつて、彼らは同じ言葉で語らい合った同志だった。それはどれほどなまめかしい姿態よりも彼の魂を動揺させた。
「翻訳者たちのなかには、フナイン・イブン・イスハークを始め、カトリックから異端視された景教徒もいた。彼らの遺産はルネサンス期、もうひとつの大翻訳時代のユマニストたちに引き継がれた。だが、これらの史実と我らがレィヴンとのあいだに何の関係がある?」
「あら、これだけのヒントをあげたのに、気がつかないなんてお気の毒様。あなたには解を見いだすなんて無理よ」
「異界からの客人よ、ここは写字室です。お静かに」
いつのまにかひとりの司書が傍らに佇んでいた。クーフィーヤの向こうに隠された面差しは青ざめ、その存在は消失の危機にあるかのごとく揺らいでいた。
暗黙のうちに促された通り、一行は退室した。司書に導かれるまま回廊の列柱を抜けると、鏡面のごとき大理石が敷き詰められた中庭に至った。時代の狭間に確かに存在した知の神殿。なつめやしの木陰に一服の風が吹き渡るその時、少年は本来の目的を一瞬忘れた。
「このような試みは、我々が初めてではありません。歴史を紐解けば、ヘレニズム期のエジプトにおいても、アレクサンドリア図書館という一大翻訳センターが運営されていました。七十人訳聖書は彼の地で生まれたのです。我々に課せられた任務は、アレクサンドリアの遺物をこの地に移送することから始まりました」
「もしよろしければ、お手元の書物を拝見させていただけませんか」
小脇に抱えているのは、石板ではなくまた元の欽定訳聖書だった。イムナン・サ・リは請われるまま差し出した。
「これは手書きではありませんね。東方には拓本という技術があると聞いたことがあります。だが、これは紛れもなく西方の言語だ。ラテン文字で書かれているが、ゴート語かな」
「アングリアの王、ジェームス一世がグレゴリオ歴一六一一年、ヒジュラ歴一〇二〇年頃に自国語で刊行した聖書だ」
「七王国(ヘプタ-キー)の上王ですか」
「いや、これが出版された時代七王国は影も形もない。ジェームス一世は北欧ヴァイキングの子孫だ。活版印刷はその二世紀前にこの時代で言えば東フランク王国で発明された。印刷革命は各国語の聖書の出版を容易にし、人々はラテン語とカトリックの軛から解き放たれ、宗教革命の先駆となった」
「いずれにしても木ぎれにナイフでルーン文字を刻んでいた者たちの偉業なのですね」
司書は慎ましやかな溜息をひとつ吐いた。
「あら、いつまで油を売っているのかしら。あなたに与えられた時間はほんの僅かなのよ」
いつのまにか、三人のみめよき小姓たちが菓子や水差しをもって控えていた。女は退屈げに伸びをすると、小姓に差し出されたデーツをひとつ口にした。
「全地は同じ発音、同じ言葉であった」
司書は皮肉げに応じた。
「これは大バビロン、言葉の混乱の根源たるあなたがこの翻訳の殿堂の水先人とは感慨深いことです」
「では、本題に入りましょう。あなた方はマルヤムを追ってきたのですね」
Ψ(プシー/サイ)、Φ(ファイ)、Δ(デルタ)───さきほどのたわいの無い符牒が頭を過ぎった。
ci・pher・ed(暗号化)。そして、de・ci・pher(解読する)。何か、重大なことを見落としているような気がした。
「マルヤムとは、マリアのアラビア語訳です。カトリックと景教が袂を分かったのは、彼女に神の母という神性を認めるか否かで見解が分かれたからです。彼女は強欲で奔放なオリエントの女神に代わる敬虔で慈悲深い女神に祭り上げられた。けれども、その生涯をコーランに謳われることによって、彼女は真の名と人間性を取り戻したのです」
「真の名?」
イムナン・サ・リはゆっくりと聞いた。
「キリストが生きた当時のエルサレムではアラム語が話されていました。初期の使徒たちの多くは満足に読み書きのできないガラリアの漁夫でした。ですが、キリストの死後教団に加わったパウロは違った。彼はギリシア語を解する都市の住民であり、ローマの市民権を持っていました。ユダヤ名サウロからギリシア風に改名したパウロの精力的な布教によって教義が西方世界に伝わり、やがて福音を記す言語としてギリシア語が選ばれました。旧約を引用する際も、アラム語やヘブライ語の原典ではなくヘレニズムの置き土産であるギリシア語訳の七十人訳聖書が用いられたのです」
「マルヤムは、生前アラム語でミリアムと呼ばれていました。ミリアムとは(苦き水)、すなわち海水、巧まずしてティアマットと同じ原意を持つ母なる海の女神なのです。聖書には多くのミリアムが登場します。聖母の鏡像である娼婦、マグダラのマリアもまた然り。ですが、ギリシア語教典ではモーゼの姉である預言者ミリアムをのぞいてマリアと訳された。一方、コーランでは両者共にマルヤムです」
ミリアムמִרְיָם─マリアΜαριαμ─マルヤムسورة مريم。
幾つもの帝国が興亡治乱を繰り返すなかで、言葉もまた変遷する。暗号化と復号。
ああ、そうだ。答えはあまたの変型ではない。原型であり本質だ。
司書はその役目が終わったことを悟ると、静かに聖書を持ち主に返した。
「少しはお役に立てましたでしょうか?」
「ああ、とても助かった。感謝する」
「では、ひとつ教えてください。千年後のバクダードを、我らが殿堂のその後を」
イムナン・サ・リの目がゆっくりと曇った。
再び歴史の狭間へと消えゆこうとする司書は、それ以上の答えは求めなかった。
「我々もやはりアレクサンドリアと同じ道を辿るようですね」
半ばその姿を消しながら、司書は溜息をついた。
「星ノゴトク離レ、雨ノゴトク散ジテ……、東方の詩にあるとおり、我らが集積した知の宝庫も離散していくのですね。」
「ずいぶんあっさりとしたものだね」
と、かしこまって、菓子皿を献げた一の童子。
「仕様が無いよ。仲介者の意向だ。夜の女王はあまりにも彼女を忠実に再現しすぎた。バビロンもといパミーナ、いいやエフェルメは魂を得てしまったんだ。夢のあるじである少年が望む姿のままに」
と、気怠げに水差しを持つ二の童子。
「もっともあの少年も自分がプログラムであることを忘れているようだね」
と、所在なく黄金の椰子の葉を手にした三の童子。
椰子の木陰。
残されたふたりはいつしか聖なる書の頁を捲ると、共にパウロの書簡にある(愛の賛歌)に視線を滑らせた。かつて、共に過ごした時のように。
その誠実さに満ちた柔らかな詩趣は、ふたりを取り巻く世界をやさしく押し包んだ。彼らはいつしか別の愛の物語のなかへと導かれていった。
(四)
「仔馬はもういい。仔馬のかわりにお前をもらうことに決めた」
その時になって、少年はその高慢な少女が銅貨に鋳造された横顔の持ち主であることにやっと気がついた。もはや疑うべくも無い。彼女はこの滅び行く星の統治者のおそらく最後の末裔だった。
立身の足がかりは向こうからやって来たのだ。少年はおのれの強運になかば戦き、なかば勝ち誇りながら、おずおずとひざまずいた。拍子抜けするほどあっさりと神の祝福は与えられた。若い女王は、仔馬の背を愛撫するように少年の黒い巻き毛をなぜた。
名を尋ねられたので、少年はその通り名を名乗った。
「(大鴉)か。なるほどおまえらしい。だが、宮廷には相応しくなかろう」
少女はゆっくりと少年の瞳を覗き込んだ。
「決めた。お前の名は六翼の熾える天使、セラフィムだ。セラフィー、同じく翼ある者の名ゆえ、異論はないな」
(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ)
(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者)
歌うように少女は唱えた。
少年はふと、少女が彼と同じように馬の毛色を識別すること、そして少年が色覚を持つことについて当然であるかのように振る舞うことをいぶかしく思った。だが、かすかな疑念は出会いの新鮮さと少女が生来持つ透明感やみずみずしさに圧倒された。
「我が名はמִרְיָם(ミリアム)。紀元前後のカナンの地を気高く凛然と生き抜かれたマリア様のまことの名前」
少女の名は少年の魂に刻まれた。深く、永遠に。




