第三十話 楽園の向こう側(二)
(壱)
「まず、教えてくれないか。きみの能力を持ってすれば、天空の鍵を開けることなどたやすきこと。何故、このような迂遠冗漫なゲームを始めた?」
その夜、ウズリンの王妃の私的な居間に公然と足を踏み入れた男は、前置きもなく要件を切り出した。久々に情人に逢うというのに、その口ぶりは情熱の所在も解らぬほど素っ気なかった。
「そうね。その問い掛け自体が的外れ、しかも正確じゃないわ。まず、わたしはこの星の民を救うために天空の鍵を開ける義理などないのよ。わたしは万人を救いたい訳じゃないし、救うつもりもない。救いたいのはただひとりだけ。それに手をこまねいたといわれるのも心外よ。わたしはやるべきことをやっている。十年も前からね」
客人を迎えた女はいつにもまして上機嫌で、平生よりずっと饒舌だった。
男にとっては貴人のために特別に手を入れられた室内ですら凍えるほどの寒さだったが、女は辺土の生活に慣れたのか、防寒着といえるのは軽く羽織った毛皮のケープだけで、蛮族の王妃の衣装としては垢抜けたシンプルな白いドレスを身に纏っていた。
そして、無防備に笑いかけるその仕草は、いまだ少女のようで天衣無縫ですらあった。
「どういうことだ?」
わずかに眉をあげると、頬にかかるくすんだ金色の髪が揺れた。
「皇帝陛下の機械仕掛けの頭脳のなかに、かなり高性能な暗号解読プログラムを埋め込んでおいたの。ちょうど今頃作動すると見込んで。それだけじゃない。それにはちょっとした趣向があって、仕込んだのは、とある人物の人格を引き継いだ自律したプログラムなのよ」
「解るように説明してくれないか」
王妃のからかうような口調に対してこの男にしては寛大な態度を保っていたが、かといって、この謎解きめいた会話を愉しんでいる様子もみられなかった。
「では、種明かししましょう。サ・リがサイラスの都に滞在していた頃、お祖母様は彼の魂を仮想空間に解き放った。無論、彼の脆弱な精神では天空の鍵を開けることなど出来はしない。ただ、彼を戦士として使い物になるように訓練した。わたしはメインフレームに残された彼の記憶の断片と思索の残滓をかき集めて、一体の自動人形として再構築したの」
峡谷を渡る烈風の荒びに交じって、かすかに剣戟の響きが漏れ聞こえた。
王妃はその残響に呼ばれるかのように切り窓の厚い板戸を開けた。凜烈たる大気の精の襲来に男は眉を顰めたが、王妃は気にもとめず小さな篝火に照らされたバルコニーを遙かに見晴らした。男からはみえなかったが、その眼差しに一瞬だけ本来の暗い魔性の影が過ぎった。
金目や銀目を持つヌークであれば赤毛の王と黒衣の魔術師による雪上の戯れを透かし見ることが出来るだろうが、予知者にして強大な能力を持つ巫女の黒い瞳が何を捉えたかは解らない。
「ほら、あのふたりがじゃれ合っているわ。あなたは、妬けるのかしら?」
振り返ると、王妃は再び童女のような笑顔をみせた。
この逢瀬から遡ること三夜。
商都の最重要人物、イルラギースその人を乗せた銀のお召し馬車が、夜陰に紛れてひっそりとタルクノエムを抜け出した。その事実を知るものは片手で数えるほど。極秘裏の出立だった。付き従うのは、イムナン・サ・リと先代からの側近であるファーセルのみ。
南へ。
ザラスの荒涼宮へ。
北へと向かうゲイルたちの旅程が苛烈を極めた決死行であったように、すべてが雪に没したこの南下行もまた相当の難路だった。
うっすらと積もった純白の処女雪のしたには、性悪な旧雪の陥穽が綿々と続き、屈強な橇馬たちの足を執拗に阻んだ。
馭者役のファーセルは、峡谷の泥濘膝を没するかのような悪路に悩まされながらも、かつて亡きあるじギランが夢に描いた地上の新天地に思いを馳せた。
光と風の都エアリアス───。
いつか、あの打ち棄てられた幻の神聖都市が再建される日がくるのだろうか。
惜しむらくは、かの人の超然たる品格や崇高なる理念が、客室で休らんでいるだろうふたりの子息には受け継がれなかったことだ。
それにしても、イルラギースとイムナン・サ・リ、片や商都において史上最も強大な権力を握った執政官、片や悪名高きウズリンの妖術使い。いまや仇敵ともいえる間柄の、余りにも立場の異なる彼らが手を組むとは。一体何を為そうというのだろう。
初めから釈然としない旅だった。だが、彼はギランの物語をその終幕まで見届けなければならない。それが老骨に鞭打ってまでこの荒涼たる原野を走り続ける意味だった。
ファーセルは自分が何ものであるか熟知していた。よく言えば律儀者だが、見た目通りの愚直で偏屈な老人だった。
だが、ギランは違っていたのかもしれない。あの悠揚せまらざる外面とは異なるもうひとつの貌を持っていたのかもしれない。
ファーセルは空を仰いだ。
夢想家、星を見る者 (スターゲイザー)。
常々、亡きあるじをそのように呼んでいた。
御前は星を見る者 (スターゲイザー)であらせられるゆえに、おっしゃることが常人とは違いまする。
何かにつけそう決めつけるファーセルに、ギランは褒め言葉ではなかろうと苦笑いで返した。あの瞬ぐこともない蒼青色の瞳は、星辰の彼方にはたして何を見ていたのだろうか。
ファーセルの熟達した綱裁きで、橇馬車は最短の日程でウズリンの冬の都ザラスへ到着した。魔術師の帰還は直ちに王に告げられた。
冬都ザラス。
天空にそびえる懸崖に築かれた巨大な洞窟都市。
その中心を為すのが、王宮であり行政府でもある荒涼宮だった。
荒々しく穿たれた岩肌こそが装飾である玉座の間は、人払いされてがらんと静まりかえっていた。その心のうちと同じように空っぽな空間で、ウズリンの王ファディシャは、予期せぬ訪問客を伴って帰還した腹心の魔術師から、長い、長い旅の報告を受けた。
霜の狼による襲撃。北の部族の紛争の結末。北方の戦士ナビヌーンの死。死者の軍との戦い。夜の女神の聖堂。タルクノエムへの帰還と兄との再会。そして、ゲイルの旅立ち。
魔術師がいまだ戻らぬ妹ミシュカとともに北の部族の求めに応じて旅立ってから一月余、若き王の心身の不調は一段と進行していた。
玉座の前に跪いたイムナン・サ・リは、自らの姿を映すあるじの瞳に運命を悟った者の澄んだ諦念と若くして散りゆく命の最後の煌めきが移ろうのを見た。
「あの若造は討ち死にしたのか。志半ばだったろうに。残念だったな」
思いも掛けず、不遜なる若輩者の王から哀悼に似た言葉が寄せられた。
「いいえ、与えられた寿命のなかでナビヌーンは本懐を遂げたのです。さぞ本望だったことでしょう」
黒衣の魔術師は、いつのまにか若きあるじの許にひっそりと寄り添い、その肩に手を置いた。ファディシャはいつになく素直にその癒やし手の優しく残酷な手に頬を寄せた。
「お前の兄貴は何しに来たのだ。俺はどうすればいい」
幼子のようにファディシャが尋ねた。
「わたしから申し上げることはございません。ただ、あなたらしくあれば」
「では、早く済まそう。ドルサーラが産気づいてもう二晩目になる。お婆を始め女衆がついているが、初子ゆえ長引いてな」
(弐)
会見の時がやって来た。
ヌークという種族の両雄───文明と野蛮の両極に位置する、商都と谷の覇者同士の歴史的な対面だったが、この事実が正史に痕跡をとどめることはあるまい。歴史とは闇の帳の向こうで秘めやかに紡がれる密事なのだ。
その男を初めて目にした時、ファディシャはあまりの若々しさと隙のない出で立ちに驚いた。旅を終えたばかりだというのに、髪の先から爪の先までよく手入れされていて、疲労の影など微塵も感じられなかった。
イルラギースは、この男にしては謙虚な面持ちでゆったりと広間を歩んだ。付き従うのは古強者たるファーセル。
だが、どれほど慎まやかに振る舞おうと、辺りをはらう威風や都会的な物憂い優美さの裏に潜む商人どもの頭目に相応しい老獪さは覆い隠せなかった。彼は純然たる権力の体現者で、奸智に長けた手腕家であり、タルクノエムという成熟した文明そのものだった。
一方、炎の冠を戴いた覇王ファディシャの左右に侍るのは黒衣の魔術師、そして魔術師と同じ黒い瞳を持つ王妃ルー・シャディラ。
異母弟と秘密の情人。
イルラギースには曰く因縁のあり過ぎる、言わずと知れたケスの生き残りのふたり。よく似て異なる二対の射干玉の夜の瞳は、もはや異能者であることを隠そうともしない。その妖艶たるアウラはこの蛮族の宮殿こそが彼らの本来の居場所と告げていた。
そして、ふたつの闇を従えた炎の王ファディシャもまた凄惨たる美貌の持ち主であった。完璧なる肉体と虚ろなる精神の結実。若くうつくしい青年の相貌には衰微の予兆が聢と刻まれていた。
玉座のまえの火床で揺らめく火焔が、ふたりの男の属する世界を分け隔てていた。
驚くべきことに、イルラギースは玉座の正面でゆっくりとひれ伏し、額ずいた。その場に居合わせた誰もが思わぬ展開に虚を突かれた。呆気にとられたといって良かった。
「おい、何の冗談だ。やめろ」
玉座に座る若者は、不遜であっても愚かではなかったので、目の前の伊達男が見た目通りの飾り物ではなく、いかがわしい牙商や人商をも束ねる希代の策謀家であり、蛮族の王など軽んずることこそあれ、決して敬意など払わぬことを承知していた。
「冗談ではございませぬ。本日は親愛なる陛下に恭順の意を示しに参りましたゆえ」
平伏したまま男は答えた。
「お前の兄貴は頭がおかしいのか、それともこれがタルクノエムの流儀、権謀術策の一部なのか」
動揺を覆い隠すことができぬ王に対し、魔術師は皆目見当もつかぬという表情で優雅に首を横に振った。
「タルクノエムは今後谷の配下にくだりましょう。天空の鍵が開けば、機械文明は瓦解し、我らはすべてを喪う。丸腰の我らに勝ち目はない」
ようやく、男は頭をあげた。その面にはしたたかな表情が浮かんでいた。
「誤解されることの無きよう。これは双方の存亡を賭けた商談です。雪に埋もれたダール・ヴィエーラが早晩消えゆく運命にあるのはご存じのはず。我らへの庇護を確約するならば、こちらもあなた方が地上で生き抜く方策を授けましょう」
「ほう、ずいぶんはったりをきかせたものだ。その方策とは何か、具体的に言ってみろ」
面白くなってきた。ファディシャの瞳に火が宿った。
「簡単には明かせぬから切り札なのですよ。あなたが判断するべきは、我々の提示する条件を呑むか呑まないかだけ」
「悪いが、そのような取り引きはできぬ」
蛮族の王はこの一筋縄ではいかぬ商都の執政官の申し出をきっぱりと撥ねつけた。
「ほう、何故?」
イルラギースの面に太々しさが戻った。不敵で冷酷な本性が透けて見えた。腹違いの弟と似ていなくもない。
「第一に、貴様は信用ならない。第二に、わが一族に代々伝えられてきた家訓がある。タルクノエムの商人とは紙のうえでの商談はするな、とな。俺は実物を見なければ取り引きせん」
火床の粗朶が大きく爆ぜて火勢が弱まると同時に、イルラギースの蒼青色の双眸が銀に光った。
「ならば、もうあなたは既に目にしたはず」
銀の瞳が真っ直ぐに射貫いた。若き王の心のうちまでも。
「風と太陽の都、エアリアスを。その地はいずれ、生まれ来るあなたのご子息が治める帝国の壮大なる都となりましょう」
太陽が輝く別世界。少年王。蒼い空。アゴラ。明るく燃えたつ赤毛。熱く乾いた風。オベリスク。神聖都市。銀の鎖帷子。神殿。太陽の都。ピラミッド。日輪が象眼された大剣。
かつて巫女が見せた予言の鮮烈なる映像が、ファディシャの脳裏にまざまざと甦った。
「それにわたしはもう手金を打ち、あなたはそれを受け取っています。戦火を免れた暗い来歴をもつ鎖帷子と聖剣は、未来のエアリアスの王にこそふさわしい。聖剣に嵌めこまれたブラック・オパールは、永遠のエクリプス、あるいはブラック・サンと呼ばれ、代々我が家系に伝わりしもの。わたしからの一足早い御世継ぎへの誕生祝いはお気に召しましたかな」
謁見の間に縷々流れるは、第一級の権力者であり大商人である男の巧みでよどみない弁舌。蛮族の青年王に比べ役者が一枚上であることは明々白々だった。
「悪いが俺は物わかりの悪いタチなんだ。言っていることが、まるで解らんな。」
ファディシャは興を削がれたかのように頬杖をつくと、有らぬ方に視線を泳がせた。
真実とは、なんと虚しきものよ。
すべての糸がつながったことを噛みしめながら、ファディシャはそう独りごちた。
───タルクノエムの宰相とケスの生き残りの片割れ。
ダール・ヴィエーラの辺土に彼女を送り込んだのは、紛れもなくこの男だったのだ。すべては初めから、自らが生まれるまえから、仕組まれていた。そうだろう、母さん。何のことはない。この場にいる誰もが誰かの駒なのだ。
「ご謙遜を。そもそもあなたが、その命を削ってまで鬼神のごとく戦い続けたのは、ダール・ヴィエーラの統一のため。来るべき大脱出の陣頭に立つため」
「効いた風な口をきくな」
ファディシャは鋭く返した。
「いいか、俺はお前らとは違う。お前らは賢そうにみえて、その実誰かの道具に過ぎない。せいぜい、利用し合って、化かし合うがいいさ」
脱力し、玉座の背に反り返るように背中を滑らせると、若者は天井を仰いだ。
「俺は、どうやら欠陥品らしい。望まれたように天空を解き放つ鍵にはなれなかった。俺の肉体は早晩滅びる。だが、俺には未来が残されている。少なくとも未来とやらを信じることができる」
「何故だと思う? 俺には信ずるべきものがあるからだ。(愛)と呼んでやってもいいが、その言葉はお前たちが想像する乱痴気騒ぎとはまるで別物だ。それが神聖かといえば、それほど崇高なものでもない。ごく普通のありふれたものだ。喜びでもあり、呪いでもあり、宿命でもあり、枷でもある。だが、俺の人生は始めから(愛)に包まれていた」
ファディシャは、目の前の炎のなかに赤毛の女の幻を見出していた。
「裏切りを常とし、騙し合うばかりのお前たちに(愛)など解らないだろう。(愛)とはしごく単純なものだ。信じるに足るもの。心地よい温もりのようなもの。決して疑ったり、試したりはしないものだ」
衒いも無く、若者はそう言い切った。
「まあ、いいさ。貴様と巫女がつるんでいたとはまるで想定外だった。ずいぶんとつまらぬ芝居を打ったものだ。どうやら、俺には選択の余地はないらしい。潔く負けを認めよう」
ファディシャはこの会見のなかで初めて王妃を振り返った。
「巫女よ。折角の機会だ。客人を心からもてなしてやれ。なに、虚仮にされたとは思ってないから安心しろ。少なくとも俺はな。共に勝利の祝杯でもあげればいい」
ファディシャは片手を軽くあげて、先刻から一切の気配を消して今にも音も無く退出しようとする魔術師を引き留めた。
「サ・リよ。お前は俺に付き合え。産屋の女どもは俺をまるで役立たずの木偶扱いだからな。お前の留守のあいだ、俺の剣の相手は皆役不足、ずいぶんと暇を持てあましたぞ」
(参)
微かに吹雪いてきた。
男たちの戯れに興味を失ったかのように、女はばたりと木戸を閉めた。すると、ザラスの宮廷の薄暗い一室は解体期の宇宙空間へと変容した。
滅びゆく調和的宇宙。
虚無縹渺たるエントロピーの海原をあてどなく漂流する廃神殿。
人類の版図は消失し、永劫の時もまた尽き果てようとしていた。
いまや、秩序は死に絶えた。
ほら、すべてを呑み込むために、再び貪婪なる混沌がぽっかりとその無辺在な口を拡げている……。
それは、以前にも見た光景だった。
(時の極み)と女が呼ぶ世界。
イルラギースは己の悟性と感性が引き起こす止みがたき拒絶反応に耐えながらも、強い意志の力で眼下を過ぎゆく星の残骸を見下ろした。帯状に軌道を巡る打ち砕かれた岩や氷の塊。もはや宇宙の塵に過ぎなかった。そこには、栄華の面影も文明の煌めきも感じられなかった。
「この星屑が、我らの母星なのか」
消えゆく世界の薄ら寒さに凍えながら、イルラギースは、廃神殿の巫女、いや女司祭に尋ねた。
「ええ、そうよ。星の命はすでに尽きた。宇宙そのものがもう寿命なの」
「我らはどこへ還る? 結局は何を選んでも同じなのか?」
「進化という地平の先には衰退しかないわ。何ごとにも幕引きというものがある。それは何故死ぬと解っていて生まれるのか、と同じ問いよ。魂は自分の信ずるべき処へ還るだけ。そうね、星の欠片から生まれて、星の欠片に還るのかもしれない。でも、思い出して、イルラギース。ここに至るまでには膨大な時が流れた。悠久と呼んでいいほどの。神の時間からみればほんの一瞬でも、人の一生は充分に長いわ。人生はいつ終わるとも知れぬ苦役。死こそが唯一の救い。生々世々(しようじようぜぜ)、人類は生と死の連鎖を数え切れないくらい繰り返して、千古の時を駆け抜けた。種としての生命を十二分に生き抜いたわ。生殖と死こそが進化の鍵。それはヌークであるあなた自身がご存じでしょう。闇に紛れながら、大いなる竜との戦いに勝ち抜いたわたしたちの遠い祖先は多産で短命だった」
いまや夜そのもののような威容を保ちながら、女は流れる時のごとく悠揚に淀みなく答えた。
「ねえ、大いなる竜が滅んだのちも、その畏るべき捕食者の姿は記憶の奥底にすり込まれているわ。我々は本能的に爬虫類を恐怖し、竜、ドラゴン、ナーガと、超自然の存在として伝承してきた。サタンは古き蛇であり赤き竜。英雄は竜を倒す。そして、不思議よね。人類は、竜とともに、かつての生命の揺籃を、闇と森を今も恐れている……」
天空の鍵を開けるものたちの試練が、大蛇の夢から始まり、暗い森を辿る旅程であることを彼女が知っていたかは解らない。ただ、ルー・シャディラの含みのある笑みをいぶかしく思いながらも、イルラギースはそれ以上追求することを避けた。
「御託はいい。教えてくれ。この世界の成り立ちを。我々は何故存在するのかを」
「すべては、夢。我らが始祖レィヴンの夢。彼の見果てぬ夢のなれの果て」
本気ともはぐらかしともつかぬ口調だった。
「わたしの知りたいことはそのような書生じみた観念論では無い。大災厄以降、サイラスで起きたことだ」
「では、わたしもあなたから聞きたいことがあるわ」
女の手にはいつのまにか件の聖剣が握られていた。漆黒の闇に血飛沫を鏤めたかのようなブラック・オパールが妖しく煌めいた。
「あなたの家に代々伝わってきたこの(永遠のエクリプス)には、不吉な伝承があるのをご存じ? 歴代のリザイツェオーン家の当主は政敵を呪い殺すとき、自らの血を一滴この宝石に滴らせたとか」
厳粛さと無情さを帯びたその表情は、そう、まさに宗教的な諮問官のそれだった。
「ギランは、ケスの王位の象徴として作られた聖剣にわざわざこのいわくつきの宝石を嵌めこんだ。ケスの民の夥しい血を流して、再びリザイツェオーン家に戻ってきたこの聖剣をギランから託されたのはあなた。かなり早い時期からあなたの手許にあった筈。ギランを謀殺したときにあなたの血は流れたのかしら」
「わたしはそのような蠱物はしないし、親父を殺してもいない」
イルラギースは静かに答えた。一切の動揺は窺えなかった。
「では、誰が?」
「さあな」
当然のごとく冷ややかな反応が返ってきた。
「あなたは権力を手にすると決めたとき、ポーメリアンのキシアン・ナージの手を借りた。邪魔者はみな彼に抹殺させた。そのなかにはあなたの父親も含まれていたのでは?」
女は男の背中側に廻ると首に手を回して悪魔的な声でささやきかけた。
「それは事実と異なる」
男はその手をゆっくりとふりほどいた。
「では事実とやらを話してちょうだい」
「キシアン・ナージは、わたしの依頼した暗殺の対価として親父の命を所望した」
男は自らの生涯で最も暗い部分が仕舞いこまれた記憶の扉をしぶしぶと開けた。
「それで、あなたはどうしたの」
「好きにしろ、と」
その声はその言葉が発せられた時と同じように冷めていた。
「見殺しにしたのね」
「違う。キシアン・ナージごときに親父が殺られるとは思えなかった。それに親父の死因は単純な滑落事故だったと聞いている。キシアン・ナージなら怨敵を討ち果たすのにそのような生ぬるい殺し方はするまい。ファーセルも側にいた。さすがに、ファーセルの目はごまかせないだろう」
それが今も昔も変わらぬ男が導き出した結論だった。無論、都合の良い憶測と自己保身が混じっていることに自ら承知だった。
「では何故、キシアン・ナージはギランの命を望んだのかしら?」
「私怨だろう」
イルラギースは素っ気なく答えた。
「ギランとキシアン・ナージのあいだに何があったか知っているの?」
「親父は我が母ロジェとケスの王姉ファラミス、結局ふたりの女を不幸にした。それだけではなくファラミスの嘆きはケスの一族の滅亡の遠因となった。ふたりともおそらくはキシアン・ナージの姉妹。異能者たちはみな兄弟姉妹の関係にあった。母ロジェとサイラスの司祭、それにケスの双子たちはそれぞれ同腹だったが、母親は違えども、彼らの遺伝上の父親はサイラスの皇帝レィヴンなのだろう。従妹殿」
一切の感情のこもらぬ平坦な物言いだった。
「ずいぶん良く知っているのね。では、わたしから何を引き出したいの?」
「すべてだ。この星で本来行われようとしたことだ。なぜなら、君が真の首謀者だからだ」
イルラギースは不快で不都合な話題を切り上げると、一気に反転攻勢に出た。
「……」
目の光が失われ、あらゆる表情が消えると、光の加減なのか、女はまるで千年の時を経た老婆のようにみえた。
「この星で知られざる計画を遂行してきたのは、クンルーンの末裔である皇妃アズール。アズールは肉体を脱ぎ捨てながら、転生を繰り返してきた。その最後の継承者は君しかいなかろう」
女を捕らえる蒼青色の瞳が一層寒々しく輝いた。
「確かにお祖母様の記憶と使命は引き継いだわ。けれども、わたしはわたしよ。お祖母様には初めから人格などない」
老婆にも童女にも見える女の声には曰く言い難い神性が宿っていた。
「どういうことだ?」
「お祖母様は、自らとお祖父様のクローンである男女の双子を産み出すことで再生してきた。そもそも、お祖母様の超人的な肉体は器に過ぎない。新しい人類の魂を封じ込めるために用意された強靱な器。そして、その空っぽの心を埋めていたのは、メインフレームの鏡映である記憶媒体。いわばその存在自体がインターフェイス。お祖母様は、絶えずメインフレームに同期しながら、古い肉体を脱ぎ捨てて新しい肉体にその記憶を引き継いできた。けれども、大災厄ののち、お祖母様は肉体すら放棄してしまわれた」
「悪いが、全く解らん」
巫女の話は、中世的世界を生きる彼の知識の範疇を超えていた。
「……お祖母様は、メインフレームの意志をこの世界に発動するための生きた傀儡だった。その傀儡であるはずのお祖母様は、大災厄の際、空から落ちてくる火の球の欠片から身を挺してお祖父様を、レィヴンを守った。彼女の肉体は砕け散り、脳髄の欠片しか残らなかった。お祖父様は、その残された細胞を生体コンピュータとして、彼女の影武者である自動人形に組み込ませた。それが現在のお祖母様よ」
「あり得んな。機械が思考を持ち、それが人間を支配するとは」
「何故? 人間も機械も一緒よ。あなたが、機械はそれほど複雑では無いと信じているならそれは正しいわ。そして、人間こそがもっと単純なものよ。どちらの思考回路も全か無かの悉無律に支配されている……」
「話を戻せば、お祖母様の遺伝暗号や肉体の予備はサイラスの地下基地に保存してあった。けれどもお祖母様はそれを自らの再生のためには使わなかった。お祖父様もまた、残りの生涯のほとんどをインキュベータの眠りのなかで過ごした。お祖父様の予備の肉体のひとつは、知っての通り初代のタルクノエムの王となった。それがあなたの祖先、初代のイムナン・サ・リよ。今この時も最果ての地で夢みる皇帝の肉体は、残された最後の一体。そして、お祖母様は最後の力を振り絞って、自らとレィヴンの遺伝暗号を幾つものパターンで融合させ、ケスの民を産み出したの」
「遙かな昔、まだクンルーンの文明が健在だった頃、彼らは宇宙時代に適合した新しい人類の創出を試みた。道教の超人である(羽人)を創り出そうとしたの。神と人とのあいだにある存在。そうね、聖霊、天使といってもいいわ。その高みを極めた魂は無限の翼に乗り、緩やかに共鳴し合い、あらゆる時空を自由に旅することができる。不老不死の永劫の存在。ある意味肉体すら必要としない……」
「別の古い地球の伝説では、かつて覚醒者たる天使たちは無性で妻帯することは許されなかった。彼らは完全体だったから、生殖は必要なかった。けれど、地上に人類が溢れると男女の交わりをうらやんだ彼らは、美しい人間の女たちと交合した。生まれたのはおぞましい巨人ネフィリムたち。禁忌を破った咎により、天使たちは地の獄タルタロスへと墜とされた」
「サイラス人たちの故郷、惑星テオティワカンはクンルーンと密かに同盟を結んだわ。この地で(羽人)が誕生すると予言されていたから。待ち望まれた救世主、それがレィヴン。彼には、あらゆる超越者の遺伝情報が組み込まれていた。そのいくつかはすでに彼の血を引くものたちのなかで発現したわ」
「クンルーンの遺伝子操作によって、(羽人)の土台、いわば肉体部分がある程度作られていた。クンルーンの消失後も人工惑星九天で人と獣を融合させる忌むべき人体実験は続けられた。紆余曲折があったけれど、古代からの密約通りレィヴンとその一行は九天と手を結んだ。彼らは約束の地、ニュクスへたどり着いた。大災厄によって、実験は中断してしまったけれど、それでもケスの民は世に送り出された。レィヴンの持つ自由放逸なるサイキックの魂をアズールから引き継いだ強靱なキメラの肉体の檻に閉じ込めることで」
総ての感情が鈍麻したかのように、女は抑揚を押さえた口調で淀みなく話し続けた。
「けれども、覚醒したケスの民はネフィリムそのものだった。彼らはうちなる悪にあまりにも忠実だった。彼らは人の形を為した恐怖を王と崇め、その象徴たる黒き太陽を信奉した。恐怖は際限なく伝播し、狂気は互いに感応し合った。永遠に続く蝕。この計画は初めから間違いだったのよ。そして、皮肉なことに、(羽人計画)とはまったく無関係にこの地で新たなる人類ヌークが生まれた。異形のエイリアンをその体内に受け入れたハイブリッドの彼らは、優れた身体能力を持ち、かつての進化の痕跡である冗長な偽遺伝子を再利用しながら、あるいは異種間の遺伝子を水平転位させながら、恐るべきスピードで環境に順応していった。だから、お祖父様は、空を壊してヌークを闇に封じた」
問い掛けるような沈黙がしばし流れた。
「ケスの民を産み出す一方で、お祖母様は完全無欠ともいえるヌークを試験管のなかで誕生させた。偶然から生まれたヌークの母体となったコーダはその歴史の始まりから近親婚を繰り返してきた。いわば劣性遺伝病の見本市だったから。レィヴンがたったひとりの友人から託された凍結胚は、事実上唯一残された新しい血、最後の希望だった。レィヴンが友人を看取るとき、新しい時代に誕生させると約束した……。でも、レィヴンも最終的には承諾した。せざるを得なかった。千年の眠りから覚めた生命の素を小さな神々に感染させることを。コーダにはもはや未来はなかったから。それがウズリンの赤毛の兄妹の母親」
「ケスの民が滅んだとき、お祖母様は、メインフレームのプログラムに離反した。生き残りは、生物災害としてこの地上から消し去らねばならなかった。けれども、情など持たぬはずのお祖母様は、幼いイムナン・サ・リとわたしを抹殺することができなかった。お祖母様はもうメインフレームの中枢部にはアクセスできない。自分が消えてしまうから。お祖母様は、当初実験室で創り出した赤毛のヌークをメインフレームの宇宙に送り込んだ。天空の鍵を開けるために。でも失敗したわ。彼女は最強最速の戦士だった。けれども、ラボの環境しか知らない彼女は、仮想世界にいともたやすく呑み込まれてしまった。それ故彼女はダール・ヴィエーラに嫁ぐこととなった。かくして、天空の鍵を開ける生きたプログラムとして赤毛の兄妹が誕生し、この荒野で育てられた」
「千年紀に渡る実験は失敗に終わった。サイラスのコーダはもはや終わりを待つだけ。この星はヌークへ譲り渡すことになるでしょう。彼らが人類の後継にふさわしければ……。わたしとビショップは賭をしたの。ヌークが生き延びるに値するか。彼らが真に善良であるかを」
巫女はゆっくりと瞬いた。
「試練は終わったわ。ファディシャは何よりも光を望み、あなたは谷に手を差し伸べた。ヌークは第二のケスの民とはならなかった。善なる魂は確かに存在した。わたしの勝ちよ。空の封印が解けて最初のバーストが始まると同時に、氷河地方に既に設営されている気化爆弾の起爆装置が作動する。それがサイラスの最後の置き土産」
「待て、空の封印を解くのと同時に氷河を爆破するだと。余りにも稚拙な計画だ。早急過ぎる。どうやって、谷の住人たちを移動させる?」
サーマスの報告からある程度予測はしていたとはいえ、そこまで事態が進んでいるとは思わなかった。
「谷のことを心配するなんて、ずいぶん親切だこと。策が無いとでも思った?
それよりも、天空の鍵が開くかどうかを案じたらいかが。すべてが空頼みに終わる可能性だってあるわ。レッド・スワン、神速果敢なる我らのスピードスターが仮想空間で組まなければならないのは、選りに選って、サイラスに幽閉されていた頃のイムナン・サ・リの人格なのだから」
「ケスの民とは結局何だったのだ。何故彼らは悪に染まったのだ?」
過酷な幼年時代を生き抜き、戦火と虐殺をからくも逃げ延び、襤褸切れのような姿で彼の日常に突如現れた幼いふたりを思い起こしながら、イルラギースは尋ねた。
「さあ、解らないわ。ただひとつ言えるのは、ある種の人間は人の心を読むことに長けている。たとえば、幼い頃暴力に晒され続けた人間。常に人の顔色を窺ってきた彼らは、人間という存在の根源に内在する悪を知り尽くしている。もしかしたら、そのなかの一部は、人を操ることも巧みかもしれない。レィヴンもまたその遺伝子上の父も不幸な育ちだったと伝え聞いているわ。その生い立ちが超越者としての覚醒の引き金になったのかもね。また、エンドルフィン、ドーパミン、アドレナリン、セロトニン、アナンダミド……、脳内麻薬を自在に扱うことができれば、そして、これらの生理活性物質を体外に分泌することができれば、他者に癒やしを与え、幻覚を見せることが可能かもしれない」
「虐待の次は狂気か。もはや、常軌を逸している」
異世界の光景を眺めやりながら、男はそう吐き捨てた。今となっては嫌悪感を隠そうともせず。
「あるいは、人間には生来シンクロニティを誘発する知られざる無意識のチャンネルがあるのかもしれない。おそらくは、進化の過程で切り捨てられた。覚醒者たちの意識はそのチャンネルに合わせて、人の情動を掻き立て、うっとりと陶酔させるほどの音楽を奏でているだけなのかも。通常では認識されない閾値以下の波長を用いて。原始的な齧歯類や翼手類、あるいはもっと高度な知性を持つ象や海洋性哺乳類が、耳に届かぬはずの高周波や低周波で広域間を交信するように」
「最後に聞かせてくれ。わたしの両親は異能者だったのか? そうであれば、どのような能力を持っていた?」
「……。レィヴンを遠い先祖に持つあなたの父親は夢想家だった。それ以外は知らない。そして、レィヴンの娘のひとりであるあなたの母は、お祖母様の記憶によると霊媒、死者の声を聞くものよ」
「馬鹿な。死霊など存在しない」
イルラギースはゆっくりと頭を振った。狂気に脅えていた母の姿が思い起こされた。あり得なかった。あり得ない。
「あら、そうかしら。あなたも常々感じているのでは? 館に今も取り憑いている愛しい奥方の存在を」
やがて虚無の風が吹き抜けると、世界はゆっくりと薄らいでいき、ふたりの意識は、ザラスの宮殿の一室に戻った。
だが、それもほんの一時のことで、恋人たちの閉じられた世界で、巫女が見せる眩く幻想が如何様であったか、余人には推し量る以外に術はない。この星の歴史の総て、幾つもの文明の勃興と凋落、王国の栄華、戦乱と荒廃。それは、深い陰翳を帯びた絵画であり、哀切を湛えた頌歌。激しく胸を打ち、時に人を慟哭させる旋律。名も無きものたちの悲喜劇。紡がれる光と陰の物語。
過ぎ来し方、行く末、時空の海を越えて去来する幻想連鎖。
そして、再び世界は終わりゆく宇宙へ。
「教えてあげるわ。遠い将来、リザイツェオーン家の裔たちは再びこの聖剣、いいえ、聖剣に嵌めこまれた(永遠のエクリプス)を取り戻す。絶大なる栄華を誇ったウズリン=ケス王朝はタルクノエムの末裔である海沿いの先進的な都市国家群に滅ぼされる。けれども、覇権を手にすると同時にタルクノエムは堕落の道をたどるでしょう。そして魔法の時代は終わり長い長い中世が始まる。悲しいけど、それは歴史の必然。どんな帝国の栄華もいつかは尽きる。すべては砂塵に帰す。この(時の極み)を流れゆく星屑のように。ケスの民は、もはや未来の本流になることはない。我らの一族は、超越者として崇められると同時に畏れられる。そして、異端者として虐げられ、やがて狩られる。それでも時の運行の守護者としてこの世界に寄り添う。その歴史の終わりまで。それがあなたとわたしの息子の背負う宿命」
(四)
はらはらと散るのは、夢の断片。
ちらちらと瞬くのは、生命の火。
あるかなきかの朧朧たる月影。
漂零する風花の仄かなる反照。
天上に座すラ・ウの瞳はぼんやりと霞んで、もはや目下で移ろいゆく事象にどこまで注視しているのかも定かではなかった。
雪片の冷たい口づけを無数に受けながら、炬火の明かりのもと、男たちは剣戟遊戯に興じた。
朧なる月影に閃く剣光。
足許はすっぽりと雪に埋もれ、機動性はほぼ封じられていた。だが、お互い勝手知ったる相手である。ほどよく取られた間合い。拮抗する力と技。競り合い、弾き合い、交わる柔と剛。流麗なる攻撃と壮烈なる防御がせめぎ合う。
時折、産みの苦しみに叫ぶ女の声が夜を震わせた。
新しき時代の胎動を感得せよ。
そう世界に布告するかのように。
やがて、一塊の黒雲が空を覆うと、ちらついていた小雪が一気に吹雪始めた。
おそらくは最後の手合わせ。だが、決着はつきかねた。抜き差しならない戦いの均衡状態はいつの間にか膠着化し、やがて惰性へと流れていった。雪しまきの最中、炎も消えた。力尽きた男たちは吹き寄せられたかのように雪溜まりに倒れ込んだ。ただ、吐く息がひどく荒かった。
「あなたの負けです」
これはイムナン・サ・リの減らず口。
「何をいう。押されていたのは、お前だ」
「いいえ、あなたは受け流すだけで最後まで本気をみせなかった。わたしへの侮辱です」
「ここで死力を尽くしても意味はなかろう。俺はお前に充分合わせてやったぞ。それなのにお前はまったく優位を取れなかった。それに俺はいたたまれないのだ。子が生まれるというのに男はなんの役にも立たない。戯れ事に付き合ってくれてもよかろう」
「……お加減はいかがです」
「すこぶる不調だ。いつものことながら、この焦燥感は耐えがたい。俺のなかから俺ではないものが生まれようとしている。人を喰らい生き血を啜る魔物だ。殺戮せよと頭のなかで声がする。身体中で血を求めている。なに、俺の人生はもうすぐ終わる。もう、すぐだ」
ふと忘れていたはずの記憶が甦る。
目の前に差し出されたのは、どろりとした赤黒い液体で満たされた碗。
ごくり、と息を呑んだ。喉から手が出るほど欲しかった。だが、同時に激しい嫌悪感を覚えた。
彼を心配そうに見つめるうつくしい女。
「いらない」
「何故? お前のために狩りをしてきたのに。お前は身体が弱いから、滋養ある獣の血を飲まないと生きていけないのだよ」
初めから嘘だと解っていた。だが、母を責める気はなかった。彼が行方知れずになるまでは。
「ねえ、神隠しの犯人は母さんだろ。村人が消えたとき、母さんはいつも血の匂いをさせている。この月だけで、鞣し職人のカゼリ、子守女のオーマ、そしてセラが消えた。セラは僕の友だちだった」
遊び仲間の誰よりも強くて、勇敢だったセラ。病弱なファディシャをいつも庇ってくれた。君は最後まで戦ったかい? それとも恐怖にただ震えていたのか……。
ちいさなベッドでは妹がすやすやと眠っていた。
「お前は弱い。ヴァンパイアにならなければ生き抜けない。それがお前の運命だ。わたしの使命は終わった。わたしの使命は雌狼のように強く頑丈なわたしの娘が継ぐだろう。息子よ、本当の夜の世界へともに行こう」
父に愛情はなかった。だが、ゲイルは……。
「ゲイルは残していくの?」
「そうだ。それが我があるじとの約束だ」
「なら、僕は残るよ。誰かがゲイルを守らなきゃ。それに僕はヴァンパイアにはなれない」
消えた村人たちの顔が次々とよぎった。
「そうか。解った。お前たちが成人する頃、都から使者がやって来る。その使者にゲイルを引き渡すのがお前の使命だ」
「息子よ、忘れるな。都からの使者は決してお前たちの救い手ではない。用無しのお前など斬って捨てられるやもしれない」
願ってもない。
母から兄妹へと引き継がれた呪いと使命。彼は胸に去来する感傷を再び記憶の底方に封じ込めると、待ち望んでいたはずの都からの使者に声を掛けた。
「お前はこれでいいのか?」
「どういう意味です?」
魔術師は眉を曇らせながらゆっくりと問い返したが、主君の言わんとするところは解っていた。
「本心ではあの女に惹かれていたのではないか? 俺が言うのもなんだが、むざむざと兄に取られてよいのか?」
「惹かれるもなにも、彼女とわたしとの間に未来は無い。あるのは逃れようのない過去の呪縛だけです。あの女があなたやイルラギースにどのような未来を見せたのかはしらない。だが、わたしは輝ける未来もこの世界の行き着く果ても共に見ることはない。あるのは呪われた過去の記憶だけ。幼い頃の凍りつくほどの地獄絵だけ。そこで時は止まったまま……」
茫漠と広がる紅い荒野。
そこに佇むあの人は琥珀色の瞳の持ち主? いいや、違う。あれはもっとずっとずっと古い記憶。
「あなたこそ」
魔術師はほんの一瞬だけ言いよどんだ。
「もし、覚醒が止められないのなら、これ以上苦しまずにすむ妙薬をお渡ししても良いのですよ」
「結構だ」
乾いた声が即答した。
「ああ、わたしよりもむしろドゥルサーラ様こそが適任でしたね。あのお方の毒牙にかかれば、恍惚たる心持ちで人生の終わりを迎えられるでしょう」
「何故お前があいつの秘密を知っている?」
「以前、殺されかけたのです。わたしのせいで天空の鍵が開かぬ、と」
「ああ、そうか」
その瞳の闇を射貫く金色の輝きが、一瞬だけ虚ろに瞬いた。
「ひとつお聞きしてよろしいですか?」
「何だ?」
「エアリアスは廃墟に過ぎません。聡明なあなたならお解りのはず。あの巫女がみせたであろう未来に賭けたのは、お子が生まれると解っていたからですか? お子がいなくとも同じ道を選ばれましたか?」
「さあな」
答をはぐらかしながらもファディシャには自明だった。運命に忠実たらんとしたのは、未来を、エアリアスを求めたのは、我が子のためばかりではなかった。今一度母の面影が浮かんだ。続く生命と宿命の連鎖・・・・・・。
すべては、言葉無き夜の曖昧さのなかに沈み込もうとするまさにその時。
突として、闇を切り裂くかのような産声があがった。あたかも誕生という憂事を悲嘆するかのように哀切なる響きを帯びて。
ヌークの耳にも、異能者の耳にもそれは聢と届いた。
雪と闇に包まれた世界は、新たな王の誕生に凝視諦聴した。
このところ急速に老いて茫漠たる眠りにつくことが多かった天空のあるじラ・ウですら。
しかるに、無邪気に未来を言祝ぐには少々早すぎた。
翻って、我々は忘れてはならない。
堅きこと磐石のごときウズリン族の臣節の気風を濁らせる一片の不協和音を。いまや妬心の権化と化したネルヴァトもその代弁者にすぎない。その根源たるは悪名高き魔術師の存在そのもの。
一瞬の虚を突いて、刺客は闇のなかから躍り出た。
ネルヴァドにとって千載一遇の好機だった。
無常迅速なる兇刃は、主君を庇うように立ち上がりかけた魔術師の下腹に深々と突き刺さった。




