第二十九話 楽園の向こう側(一)
(壱)
少年は夢みていた。大蛇に襲われる夢だった。
またいつもと同じなのだ。
永遠につづくかのような責め苦をただひたすらに堪え忍ぶのだ。時間という名のエントロピーが彼を解放するまで。あるいは制御機構の怠惰な番犬がタイムアウトを宣告するまで。
だが、今回はいつもと違った。
「おい、起きろ」
頭から被っていた寝具ごと乱暴に揺すられて少年は目覚めた。
「ここは、どこだ。お前は誰なんだ」
囁くような柔らかな低い声。わずかに幼さが残る……。
年若いことは確かでも、男とも女ともつかない中性的な声。一応女の声だ、と少年は認識した。
だが、なによりも驚くべきことに、その声音には自動人形にはみられない微かなゆらぎが生じていた。このノイズは、どれほど高性能な生体信号転送装置であろうと変換し得ない生命の脈動の証左。
それは、プログラムではない生身の人間特有のものだった。人間のなかでもとびきり生命力に満ちあふれているタイプだろう。
いずれにしても、年頃の娘にしてはかわいげの欠片もない命令口調だった。この招かざる闖入者はかなり不愉快なタイプに違いあるまい。そう思っているうちに、有無をいわさず寝具がはぎ取られた。
夜半。
森のはずれの旅人宿。
いつのまにか、清らかなる月光が部屋に満ちていた。
目の前に現れたのは、一体何の冗談なのか、鳥の羽があちこちに縫いつけられた奇抜な出でだちの痩せた赤毛の少女だった。
しかも、巨大な鳥籠を背負い、鳥撃ち銃を担いでいる。
大蛇の夢から始まる文脈によって、少年は少女の装束に込められた寓意を読み取ると、自らが置かれた状況を推し量った。
「ずいぶん若いが、サ・リか、サ・リなのか。それに、お前、なんていう格好をしているんだ」
そう言われて、月明かりの下で自分の姿をみると全身に星を鏤めたかのような派手な装束で身をつつまれていた。やっぱりと、少年はこの不可解な現実に合点がいった。
だが、解らないのは少女の正体。まさか、待ち望んだ助け手がこんな傲慢不遜な小娘だったなんて。
「あんたは、誰なんだ。僕を知っているということは、未来の僕が連れてきたのか」
少年は手を伸ばして、覗き込んでいる少女の額に触れた。少年はこの仮想世界にあっても、人の心を読み取ることができた。ぴりりと電気が走るような感覚とともに、瞬時にすべてを理解した。少女がそのちいさな胸に抱え込んだ使命と愛と苦悩とを。やはり未来の自分が仕組んだことだった。少年の心は、ちくりと痛んだ。
「なるほど、ウズリンの姫君か。気の毒にね。君はあいつにうまく利用されているんだね」
「なんのことだ」
「いや、なんでもない。納得しがたいが、どうやら君が僕が待ち望んでいた人物のようだ。さあ、ゲームはもう始まっている。僕たちに振られた役割も検討がついた。行こう」
「ゲームとは何だ。役割とは何なんだ」
「ここは誰かの夢の世界なんだ。たぶんあの男のものだと思っていたが、どうやら違うらしい。あの男にはこんな詩情や洒落心は無いからね。解っていることは当面の敵は太陽の司祭、あるいは夜の女王。そして、僕は差し当たってタミーノ王子、君は鳥刺しパパゲーノといったところだ。今から僕たちは暗い夜の森へ向かって求道と探索の旅に出る。地球の誇る音楽家、モーツァルトの魔笛の世界さ。旅の果てに救出する姫君こそが、勝ち取るべき聖杯、僕たちの求める天空の封印を開く鍵だ」
確かにここは夢の世界なのだろう。
ゲイルは、この信じがたい事象をあるがままに受容することにした。
肉体から切り離された心だけの世界。
この研ぎ澄まされた感覚が捉える物理空間のなんたるなまなましさ。
だが、世界を構成するひとつひとつの部分はあざといほどに現実的過ぎると同時に、目を離せば消えてしまいそうな危うさがあった。
ゲイルは、目の前の少年をまじまじと見つめた。
出会った頃のイムナン・サ・リよりもさらに若かった。今の自分と同じ年頃だろうか。
それにしても、何というたちの悪そうな不良少年だろう。
その目は暗く鈍く、侮蔑的で挑発的な光が時折閃いていた。彼女のよく知っている男よりも、ずっとずっと悪辣で自堕落な、明らかに危険極まりない人物だった。
趣味の悪い装飾がされた衣装を殊更ひらひらさせて、少年が艶っぽく笑いかけた。
「王子だって? 笑わせるな。そんな下品な格好でよく言う。客を引いているようにしか見えないぞ」
「君こそ、そんな道化た格好をしていては何の説得力もないね。君はどうあがこうとこの世界では僕の従者、引き立て役だ。面倒な森番たちが来ないうちに、さっさと出かけるよ」
ふいに、扉が開いた。
目の前には、まるで宝石細工の人形のような三人のみめよき女たちが現れた。
「ほら、いわんこっちゃない。夜の魔女どものお出ましだ」
少年は毒を含んだ声で囁いた。
「お待ちなさい、王子。我らは夜の女王の使者。そして、あなたの使命は太陽の司祭に囚われたパミーナ姫を救い出すこと」
と、金の髪と緑玉の瞳を持つ一の魔女。
「パミーナ姫はこの肖像画より十倍うつくしい。王子、あなたは彼女と恋に落ちることでしょう」
と、銀の髪と紫水晶の瞳を持つ二の魔女。
「夜の森へ旅立つまえに、女王からの贈り物を受け取りなさい。きっと役に立つでしょう」
と、白銀の髪と青玉の瞳を持つ三の魔女。
「おい、あの絵の女、お前の兄の……」
ゲイルがそっと耳打ちした。二の魔女が掲げた肖像画には見覚えがあった。零れ落ちそうな琥珀色の瞳が見つめ返す。内的世界に広がる暗い森へと魅入られたものの魂を誘い込むように。それは、リザイツェオーン家の館に飾られていたものと全く同じだった。
「解っているさ。これは誰かの夢なんかじゃない。すっかり忘れていたよ。僕たちがこの空間に投げ込まれた段階で、必然的に凡ての記憶が走査されているってことを。僕たちの行く手に広がるこの暗い森は、紛うことなく僕たちの心の闇そのものだ」
少年が小声で返した。その声は心なしか蒼白で、もはや茶化すような素振りは消え失せていた。
「全く解らん。一から説明しろ」
苛立たしさを押し隠そうともせず、少女は尊大に命じた。
「この星に流れ着いた人類の祖先は謀反人の海賊どもだった。はるばるやって来た追っ手がふたつあった月のひとつをこの地上に撃ち落とした。大災厄のあと、地上に生き残ったものたちはこの星の旧き住人、奇しくも夜の女神あるいは女王と呼ばれる生命体と契約を交わした。それが、お前たちヌークの始祖だ」
抑揚のない声が直接脳裏へ語りかけるように囁いた。
「そんなことは承知している。以前お前自身から聞いた」
「地下に逃れたものたちから見ればヌークは化け物だった。地球外生物をその血潮に飼い、猛毒をエネルギーに変え、遺伝子の配列を組み替えながらその姿を変えていく。皇帝はヌークを封じ込めるために、この星を守る磁気システムを壊した」
「皮肉なことに、夜の世界に封じ込められたヌークは闇の生きものとして進化のスピードを加速させた。一方、世界を再び元に戻すためのプログラムが用意されていたが、いつのまにかその起動コードは失われた。機械仕掛けの皇帝の壊れた脳のなかで。これが空の封印を開く鍵の正体さ」
「僕たちはこのメインフレームの海のなかで、その鍵を探さなきゃならない。それがこの探索の旅の目的だ。この世界はあの男の頭の中身とつながっている。ここに取り残されてから、僕はずっとあの男の記憶を監視しつづけてきた。だいたい検討はついている」
「解っているのか。何だ、教えろ」
少女は少年の胸ぐらを荒々しくつかんだ。少年はその手を払いのけることもなく、虚脱の底深い沼に身を沈ませながら鈍く答えた。
「女の名前だ。あの男が故郷の星に置いてきた女の名前が、あの男の記憶から欠落している。それだけじゃない。メインフレームのどの公的な記録からも一国の女王の名前がすべて削除されてしまっている。だが、鍵を探す以前に、僕たちはどうやらこの森で自分自身の薄暗い闇と戦わなければならないようだ。ほら、夜の女王のお出ましだ」
その言葉が終わらぬうちに……。
高窓からさやさやと月光が降り注ぐと、銀粉のような光が渦巻き、やがて女の形を為した。
光の粒子で出来たそれは、幻灯機で映し出されたかのように半透明な像を結んでいた。
女の影像は、頭からすっぽりと黒いマントを被り、口許以外の表情はうかがえなかったが、隠しようのない悲嘆と憎悪が垣間見えた。
女王の発現にあわせて、三人の魔女たちが跪いた。
「妾は亡き太陽王の伴侶にて、夜を統べるもの。そなたの使命は、卑怯にも妾に反旗を翻した太陽の司祭ザラストロに掠われた我が娘パミーナを救出すること。妾の願いを聞き届けてくれますね」
非常に優しげではあったが、爪を隠した猫をおもわせる残酷さを秘めた声音だった。
「ああ、いいだろう」
暗い目をした少年はあっさりと承諾した。
「おい、これは罠だ」
思わずゲイルは耳打ちした。だが、振り返った少年は少女の唇に人差し指を当てて黙らせると、少女がよく知っている皮肉な笑みを浮かべた。
「だが、行かなきゃなにも始まらない。僕は永遠とも思える時間、この閉鎖空間でなぶられてきたんだ。もうたくさんだ。四の五の言わずに、叡智の神殿へ向かうんだ」
さて、出立を前に夜の女王からイニシエーションの旅の呪符としてお定まりの魔法具が授けられた。
少年には、さらさらと零れる月光のように清かな調べを奏でる金の笛を。
少女には、夜の帳のように沈々とあるかなきかの音色を立てる銀の鈴を。
楽の音とともに、少年と少女の暗れ惑う魂は歩む。
ノイズの葉擦れがざわめき、ゆらぎの風が吹き渡る仮想の森へ。
不条理かつ不可解な実存の論理的迷宮へ。
さらには、己自身の暗い森へ、すなわち深遠なる無意識の領分へ。
深い、深い夜の静寂へ。
(弐)
旅の始まり。
円錐状の梢頭がゴシックの尖塔のように連なる糸杉の並木道を歩むと、やがて霧深き原初の森が現れた。
少年と少女は、夜そのもののような暗い森へとおずおずと足を踏み入れた。
木の間から漏れ来る銀光が、彼らの唯一の道標だった。
歩むごとに、木精混じりの樹木の吐息がじっとりと身体全体に纏わりつく。生暖かく重たい空気のなかで、汗と夜露が身体の熱を刻々と奪ってゆくため、歩いた距離よりもずっと疲弊した。おまけに、身体中の器官に飛び込んでくる羽虫、跳ね出す枝、足をはらう気根が、無数の小罠となって彼らの行く手を阻んだ。
朽ち木を、下生えを、苔むす岩を、腐葉土を、小藪をひたすらに踏み分けて、少年と少女は言葉を交わすことなく進んだ。木の葉曇る小径に千切れたパンのように零れ落ちた月光の欠片をたどって。
現実の世界と同じように少年は笛の名手であった。
その妙なる笛の音は、森に住まう猛獣や闇に潜む怪物たちの粗雑で猛き心を陶然とさせ、すっかり骨抜きにしてしまったようだ。郷愁を誘うかのような甘い調べに慰撫懐柔された魔物たちは、とろとろとした微睡みのなかにあった。
精気を吸い取られたかのような猛獣どもとは対照的に、もっとちいさな小獣や昆虫たちは、葉裏や樹洞の隠れ場から姿を現して無邪気に浮かれ始めた。
少年の超絶技巧めいた即興演奏に、少女の軽やかな歩みに合わせて揺れる鈴の音もまた微かに共鳴した。
彼らの在り方そのままに、響き合いながらも融合し得ないメロディーとリズムのポリフォニー。
ところで、彼らの音楽に聴き惚れるのは、森の住人ばかりではなかった。樹上の大枝に座るのは、森番たる三人の童子。
「首尾は、どうだい」
これは、金の髪と緑玉の瞳を持つ一の童子。
「さあね。そもそも、この世界のザラストロ、もとい我らがレィヴンは目覚めるのかな。それにしても、彼に振られた役割が拝火教徒の宗祖なんて何たる皮肉」
これは、銀の髪と紫水晶の瞳を持つ二の童子。
「目覚める訳がないだろう。そもそもこの世界は彼の見る埒もない夢。全能者たる彼が目覚めれば、この世界はすべて消え去るのさ」
これは、白銀の髪と青玉の瞳を持つ三の童子。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」
現実世界と同じく宝石細工で造られた三位一体の自動人形たちは謳うように唱えた。
前触れなく世界がゆらいで、情景は遷移する。(はたまた、先刻の自動人形たちの出現がなんらかの引き金だったのか……)
ふっと風の匂いが変わると、円錐状の糸杉の樹影は樹冠を拡げた黄金の椰子の森へと変容した。大蛇を思わせる巨大な蔓と巨大な蔓のごとき大蛇がそこかしこから垂れ下がり、とぐろを巻き、あるいは宿主を絞め殺さんとばかりにその太く長い胴を木々の幹にきつく巻き付けていた。
楽の音が響くなか、ふたりの沈黙行は続いた。
この仮想の森では、時は澱み、ねじれ、回帰する。
思考もまた然り。
この疲弊の極致にあっては、はなから考えはまとまらない。脳のあらゆる階層からそれぞれの声が勝手にしゃべり出す。言葉無き外界とは対照的に、心の奥底の暗い森にはいまや無秩序な声があふれ返り、迷い込んだ旅人を狂気へと駆り立てる。
ゲイルはいっそのことこのままおかしくなってしまいたいと願った。だが、人間の心とは意外と頑丈で、狂乱へと至る魂の臨界点にはまだ遠いようだった。
仕方なく、傍らの少年の吹き澄ます笛の音にゲイルは耳を傾けた。その哀調を帯びた旋律に身体と心を預けると、少しだけ楽になった気がした。そして、少年が過ごしてきた孤独な十年を思った。もうひとりの彼が裏切りと策略の世界に生きているあいだ、彼は狂気に囚われることも許されずにただ待っていたのだ。やがて現れる彼女を救い手と信じて。
唐突に視界が開けると、行く手には葦の生い茂る湿地帯が広がっていた。
少年と少女は、月影をそのまま映したかのように水面にたゆたう銀の小舟に迎えられた。露玉のビーズが連なる蜘蛛の糸で結ばれた舫いを解くと、金の水棹を操りながら、葦原をかき分けて進んだ。
やがて、向かい合うスフィンクスが立ち並ぶ参道と銀色に輝く月を背にした巨大な営造物の影が現れた。葦分小舟を乗り捨てると、少年と少女は再び歩み始めた。月光が照らす道を。
(参)
前触れなく、笛の音が止んだ。
「おい、本当にここが叡智の神殿とやらなのか?」
少女の問いにすら答えずに、少年は立ち尽くした。
中央に鎮座するのは「叡智」の神殿であるはずだった。
だが、神殿の扉には人を小馬鹿にしたような顔つきの案山子が浮き彫りされていた。安っぽい金ぴかの銘板に刻まれた文字は薄れて判別つきかねたが、かろうじて「詭弁」と読めた。
右手の「理性」の神殿のあるべき場所には、驢馬のレリーフと「愚鈍」の文字。
左手の「自然」の神殿のあるべき場所には、鰊の燻製のレリーフと「誤謬」の文字。
言葉の意味すら計りかねたが、叡智なるものからかけ離れていることくらいは少女にも解った。
「これが誰かの夢だとしたら、誰の夢だと思う?」
少女が畳みかけるように尋ねたが、あきれ顔の少年はもはや放心状態だった。
莫迦莫迦しいにもほどがある。
その先にあるものは充分予測できた。己のちっぽけな存在証明を賭けたあまりにも稚拙な観念論。世の中への呪詛に満ちた生熟れなニヒリズム。愚にもつかぬ気宇壮大な思考実験。そして、思春期に特有の可傷性の暗い森。眠れぬ夜。詰まるところ堂々巡り。
それらは、時を止められた少年がこの十年間彷徨ってきた自己撞着の迷宮、自己参照のループそのままだった。
「おい、さっさと行くぞ。行かなきゃ何も始まらないんだろ」
パロディじみた暗愚の三神殿をまえにたじろく少年王子に対して、鳥刺しの少女は有無をいわさぬ口調で語りかけた。
(そうだ、君たちの道はただ進むだけ。戻ることは許されない)
と、密やかに囁くのは一の童子。
(ずいぶん、おもしろくなってきたね)
と、くすくすと笑いさざめくのは二の童子。
(かわいそうに……。きっと帰って来られやしないよ)
と、憂い顔でつぶやくのは三の童子。
(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)
祈りは、吹き渡る風となって椰子の葉を揺らした。
ふたたび揺らめき始めた世界で、少女が中央の扉を乱暴に蹴破ると、あっと思う間もなく舞台は遷移し、物語もまた変容した。
(四)
そこは巨大な実験室だった。
天上や壁には多数のダクトやドレン管が無秩序に継ぎ足されて、あちらこちらから垂れ下がっている。
部屋の中央には、大きな鉄の箱が置かれている。
そして、何よりも信じがたいことに、その箱をまえにしてガスマスクを装着した巨大な縞猫が考え込むように首をかしげていた。
「ああ、Ψ(プシー)、Ψ(プシー)、Ψ(プシー)」
口は大きく裂け、にやにや笑うようにマスクからはみ出している。猫は当然のように人語を話していたが、もう少女は驚かなかった。
「ああ、なんといたわしい。わたしのかわいい子猫ちゃん。どうか生きていておくれ」
「おい、こいつは何を言っているんだ?」
ゲイルは、少年の姿のイムナン・サ・リに尋ねた。
「Ψ(プシー)は量子力学で(波動)を表すギリシア文字だ。おそらく箱の中身のことだろう。シュレーディンガーの半生半死の猫。量子論の確率的解釈の底の浅さを等身大の世界に置き換えた莫迦げたパラドクスさ」
しぶしぶと少年王子は答えた。
「さすが超能力(Ψ(サイ))使いはお目が高い。この箱の中身はΨ(プシー)。我が息子の名です。まだいたいけな子猫なんですよ。もし、五割の確率で箱のなかのラジウムがアルファ崩壊すれば、検知器によって青酸ガスが噴霧されるのです。つまりは五割の確率で我が息子は生きていて、かつ死んでいる。わたしはそれを知る術がない。いや、わたし自身が生きている息子とともにあると同時に死んでいる息子とともにあるのです。そして箱を開けたときにどちらかの世界が消失する……」
そう言いながら、口裂け猫は首からしたの身体を優雅に消したり現したりしていた。
「……だいたい解った。だが、何故我が子を危険にさらす?」
本当はたいして解らなかったが、消える口裂け猫が愚かしい信念のもとに我が子を燔祭に供していることだけは解った。
「それは無論、機械仕掛けの神が説く因果律に挑むためです。この世界に因果は存在しないのです。あらゆる事物はでたらめに生成し、存在し、消滅していきます。世界はせせらいで、さざ波立って、ゆらぎ、たゆたう波動によってのみ成り立っているのですから。ただ、大いなる時の流れである梵が宇宙の根幹をつらぬくことによって、世界は統合され秩序だって見えるだけなのです。Ψ(プシー)、Ψ(プシー)、Ψ(プシー)。わたしは世界が波動によって常に揺らいでいると証明しなければならないのです」
「莫迦莫迦しい。箱のなかの猫が生きていても死んでいても現実はひとつだ」
鳥刺し少女は鳥撃ち銃を取り出し、鉄箱に照準を合わせた。
「神が決めないのなら、わたしが決めてやる」
銃声が響くのと同時に、大きく裂けた口からこの世のものとも思われぬ悲鳴があがった。
「おい、何をやっているんだ。ガスが充満するぞ。こっちへ来い」
少年は呆然とする間もなく、この非常事態の元凶である少女の手を取って床下にあるダクトに身体を滑らせた。
ふたりはどんどん滑り落ちた。
それは、渦巻く虚空をつらぬく、無限チューリングマシーンのスライダー。
そこかしこでパルスの新星がきらめく。
降下、降下、降下。そしてまた降下。
やがて、うさぎ穴の地下迷宮へ。地の底のワンダーランドへ。
そう、落ちた先は、うさぎの巨大な隠れ穴だった。穴蔵のなかには、数え切れないほどの仔うさぎがぎゅうぎゅう詰めにひしめき合っていた。
「0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, 233, 377, 610, 987, 1597, 2584, 4181, 6765, 10946, 17711, 28657, 46368, 75025, 121393, 196418, 317811, 514229, 832040, 1346269, 2178309, 3524578, 5702887, 9227465, 14930352, 24157817, 39088169……」
「ああ、なんてことだ!」
盛装を決め込んだ白うさぎが懐中時計を片手に溜息をついていた。
「おい、あれはなんだ」
少女は傍らの少年に尋ねた。背中に背負い込んだ鳥籠には、いつの間にかさきほどの口裂け猫が放り込まれていた。
「あのうさぎ野郎が何ものだかは認めたくはないが、あの数列はフィボナッチ数さ。一番いの仔うさぎが一月で親になって次の月にはもう一番いの仔うさぎを生み続けるとどうなるかという数字だ」
「おお、よくご存じで。Φ(ファイ)、Φ(ファイ)、Φ(ファイ)。この増加率はやがて黄金比へと収束し、巻き貝ごとく美しい対数螺旋を形作るのです」
「で、なにが問題なんだ?」
少女がぞんざいに尋ねた。
「よくぞ聞いてくださいました。わたしは理想郷について探求しているのです。外敵のおらぬうさぎの楽園。ですが、かのマルサスが『兎口論』で述べたとおり、うさぎに性欲があるかぎり、その数は等比級数的に増えていくのです。それが黄金比Φ(ファイ)なのです。この爆発を止めないかぎり、この楽園は暗黒郷と化し、飢餓や係争、すなわち貧困から逃れられないのです」
白うさぎはおどおどと答えた。
「わたしは性欲に関わる遺伝子をノックアウトしたうさぎを作り出すことに成功しました。すると社会性や主体性すら失われてしまい、まったく無気力になってしまうのです」
「莫迦莫迦しい」
少女は、背中の籠を下ろした。
「お前を連れてきてよかった。お前のその大口が役に立つときが来たぞ」
籠の扉を開けると同時に、口裂け猫が飛び出してきた。すでに鳥籠の先住者どもを平らげたのか口の周りには色とりどりの羽が張りついていた。
白うさぎは言葉で表すことの出来ない悲鳴を上げた。
一瞬で、うさぎ穴は阿鼻叫喚の巷と化した。
少年は溜息をつくと、少女の手を取ってうさぎ穴の迷宮の先へと繰り出した。
やがて、泥まみれになりながら真っ暗で狭苦しいダンジョンを抜けると、ようやく外界へとたどり着いた。
再び、月光のシャワーを浴びた黄金の椰子の森へ。
「おい、これから狂った帽子屋や塀のうえに座った卵を見かけても、一切関わるな。黙殺しろ」
言っている端から、ぶかぶかの帽子を被った狂人に出会った。
「Δ(デルタ)、Δ(デルタ)、Δ(デルタ)。時間の波をひっ捕まえて、反転世界へ裏返して、ラプラス様のハットのなかに畳み込めば、それでお仕舞い。結果がぽんっと出るのさ。何もかも神様はお見通しだ。この世に不確実なことなど何も無い。」
男は帽子を脱いでひっくり返すと、両腕から垂らしていた三角旗のガーランドをたぐり寄せてそのなかに詰め込んだ。底を叩くと、血まみれの白うさぎと縞猫が飛び出してきた。追うものと追われるもの。二匹の姿はあっという間にみえなくなった。
「あれは何だ?」
「Δ(デルタ)は、ラプラスの演算子のことだろう。ラプラス変換では、時間世界を時の流れのない複素数の世界へ、つまりは虚数と実数の一対へと置き換える。ラプラスの魔は神学的決定論の思考実験。どれもラプラスの名が冠してあるだけで何の関係も無い。こじつけだ」
少年は吐き捨てた。このぞわぞわと身の毛もよだつような不快感はなんだろう。本当に気分が悪くなってきた。
「おや、あなたは何もご存じではない? それはお気の毒様。このラプラスの帽子があれば、どんな波動も一瞬で解析してしまうのに。たとえどんなに世界が不確実性に揺らごうとも、どれほど膨大な時間が流れようとも、これさえあれば未来が見えるのですよ。(時間殺し)のわたしがいうのだから、間違いはない」
「・・・・・・狂っている。構うな。行くぞ」
少年は、少女の手を離して駆け出した。
与えられた符牒は、Ψ(プシー/サイ)、Φ(ファイ)、Δ(デルタ)───試しに、最初の音節をつなげて旧世界のリンガ・フランカのひとつである英語に当てはめてみれば、ci・pher・ed(暗号化)。アナグラムは、de・ci・pher(解読する)。
あまりにも莫迦らしかった。
壊れている。
この世界は壊れ始めている。
プログラムが、いやメインフレーム自体が、それとも、あの男の頭の中身か?
そして、もっと根源的な問い。
そもそも、何故僕はここにいる?
誰が僕をここに連れてきた?
何故、戻るべき身体を喪った?
これが誰かの夢だとしたら、誰の夢だと思う?
迷うほどに、疑うほどに、自らの存在意義すら見失った少年の実体は薄れていった。
消えてゆく。それでもいいさ。やっと許された……。
「待て、頭を冷やせ」
再び手が握られた。力強く温かな手によって。
「所詮、ここは現実ではないのだろう? 夢に似た世界ならば、進むべき道はわたしたちが決めればいい」
ああ、そうだ。対峙しなければならなんだ。
僕のまえに立ちはだかる誰かと。
夜の女王でも、赤の女王でも出てこい。
そう強く、強く念じた。やがて、天上からさらさらと光の粒子が零れ落ちて渦巻くと、目がくらむほどの光の柱が立ち昇った。




