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夜行獣 The Nocturnal Eyes  作者: 齊藤 鏤骨
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第二十八話 レッド・スワン

(壱)


 幻想的なホログラムが塗装された一両の雪馬車が凍れる死の街道をひたすらに駆けた。

 並外れた巨躯を揺らせて疾駆する馬は六頭。ギャロップの律動に合わせて遮眼革(ブリンカー)からは血の色をした眼光が零れ、鼻先からは排煙のごとく熱い蒸気が立ちこめた。

 月の明るい晩であれば、上空の凍てついた大気のなかを飛翔する一群が、すなわちムルカベールの戦士たちが地上に異形の影を落としていることに気づくだろう。


 補助エンジンの加速を受けながら、雪煙を蹴立て、車軸から火花を散らすその車行は、あたかも地獄の生きものに引かれた監獄馬車であるかのように禍々しい光景だった。仮に目にするものがいたとしても、その光景は苛烈なる厳寒の極夜がみせた一瞬の幻影に過ぎなかろう。彼らはこの地に決してあってはならぬ存在なのだから。

 馬車と同じくホログラムの甲冑で全身を覆ったサーマスは、その旅の終わりまで各人の人生に同伴する(時)という名の馭者の任に相応しかった。


 ゲルムダール、オトスとともにダール・ヴィエーラを縦断する三大幹線のなかで最も東側を走るニョーク街道。

 短い昼のあいだの宿場駅での継立のあいだのわずかな休憩をのぞいて、氷上の道無き道を七日間の行程で駆け抜ければ、当面の目的地である極地に位置するギジェの採掘基地へ到着する予定だった。


 ゲイルは厚い魚眼窓から歪んだ暗い世界を覗いた。身体全体を包み込むようにゆったりとした座席を筆頭に上等な調度が設えられた車室は思ったより居住性に優れていて快適だった。縦揺れがひどく何度も嘔吐を催したことを除けばだが、それでも犬橇上の雪風が刃となって身を切る峻烈な旅とは比べ物にならなかった。

 外界から遮断された空間のなかで車窓から流れゆく世界と対峙しながら、ゲイルは過ぎゆく時の捉えどころの無さを意識した。このように客観的に時間という概念と向き合うのは初めてだった。亜光速で星間世界を渡る宇宙船の旅では時間はたわんで縮められるのだそうだ。幼い頃、かの魔術師からその話を聞かされた時分はにわかに理解し難かったが、今は然もあらんと思う。


 そして、再び件の魔術師のことを想う。


 彼女を見送るときのあの空疎な瞳が胸に焼きついてはなれなかった。彼はこの旅の行く手にあるものをどこまで知っているのか。タルクノエムの地を踏めば、愛する男の故郷を見知れば、彼をもっと理解できると思っていた。だが、実際は全く逆だった。ずっと、ずっと遠くなった。

 最後に愛を交わしたとき、彼女は荒々しく一方的に彼を陥落させた。その制圧の極みのなかで確かに彼を得たと実感し、実感したと同時に喪失した。喪失したのは彼ではなく、自分自身の感情の一部だったかもしれなかった。だが、ゲイルはそれ以上突き詰めることをやめた。心の迷宮における自己の探索などまるで無意味だと、むしろ有害ですらあると、戦士としての本能が告げていたから。


 世話役のゾイエとは彼女の手を煩わせることはあまりなかったが、それでもよく言葉を交わした。善良な人間であることは明らかで、その落ち着きのある深い声はゲイルの張り詰めた感情を解きほぐしていく。あの無骨でとりつく島もないようなサーマスが彼女のまえでは大きな子どものように素直になってしまうことも納得できた。ゲイルの人生とは無縁の安らぎだった。

 唐突に、選ばなかった方の恋を思い出した。ナビヌーンにもまた似たような穏やかさがあった。彼の生命は永遠に失われてしまった。彼女にオーロラの輝きを取り戻すという使命を残して。彼女は満ち足りることのない道を自ら選んだのだ。苦しみは消えることはないかもしれないが、ひとつの愛を得たことも事実であった。自らの選択について後悔することは生涯なかろう。そう、思い定めた。

 どのような情熱に突き動かされて、ゾイエのような人間が陰謀の渦中に身を投じているのかを知りたかったが、それも突き詰めることはやめた。


 さすがにサーマスはとっつきにくかったが、カルダータ祭以来の知己であるファトランの一座のものとは打ち解けていた。音楽や奇術が旅の無聊を慰めてくれた。


 ゲイルは知らない。彼女らが出立してほどなく、もう一両の壮麗なる御料馬車がタルクノエムを離れたことを。彼らとは正反対の方向、ウズリン族の牙城、ザラスの都へと向かって。


(弐)


 「ゲイル様」

 気がつくと、ファトランの捉えどころの無い貌が間近にあった。

 掌をゲイルのまえに翳すと、空中からなにかを取り出す仕草をした。差し出された掌には乳白色のパラフィン紙に包まれた砂糖菓子が載っていた。受け取って包みをほどくと、紅色に染められた白鳥のかたちをした砂糖菓子が現れた。

 ゲイルは思わず微笑んだ。


 次にファトランは大仰に手を振り空をつかんでみせると、今度は古びた冊子が現れた。


 「これは、半世紀ほど前の戯曲本(リブレツト)です。タルクノエムの大劇場でかつて上演されたもうひとつのレッド・スワン。かつて私どものようにカルダーダ祭で客演した旅の一座によってウズリン族の奉納舞踊のプロットが持ち帰られ、異国的な歌謡劇として翻案されたものです」

 ファトランはゲイルの面から幾許かの好奇心が惹起されたことを読み取った。

 「失礼ながら、書物を紐解かれたことはおありで?」

 「ああ、タルクノエムで使われている文字というやつの読み書きなら昔サ・リに手ほどきを受けた。だが、習ったのは手形や証文の約束事くらいだ。悪い商人どもにだまされないように、な。なに、気を遣うな。わたしは蛮族の王の娘。そんなもの興味もなければ、読んだこともない」

 冊子を手で払うと、少女は砂糖菓子を口のなかに押し込んだ。当てつけがましく大袈裟に舐め回してから、音を立ててかみ砕いた。


 「それでは、この旅の慰めにわたくしめが読み上げて差し上げましょう」

 ファトランは穏やかに笑った。

  

   (第一幕) 天狼神ラ・ウの神殿

 

道化

 さて、早いもので今は偉大なるククスル・カルダーダ様の御代から三代後の世でございます。嘆くべきことに、カルダーダ様によって右目を打ち落とされた夜の主ラ・ウの霊力は日に日に弱っております。そしてまた苛烈にして無慈悲なる光の貴婦人、太陽の力は日ごとに満ちてきました。我らは夜の子。ああ、このままでは不吉に蒼く輝く火の球の威力は岩をも通し、地上のあらゆるものは焼き尽くされてしまうでしょう。ああ、なんたる悲劇。ラ・ウの力が弱まるにつれて、我が国の威信も凋落の一方、隣国の脅威に脅える日々。もはや、我が王子と隣国の姫との縁組みだけが起死回生の一手、国威高揚の転機だとは情けない。ああ、本当に情けない。だが、まあ婚礼とはめでたいことでもあります。

 さて、これから若君と隣国の姫との婚礼が執り行われ、我が一世一代の晴れ舞台となりますぞ。

 ああ、どうか世界に調和と均衡を。

 そして、どうかあっしにはこの胸に溢れんばかりの喝采と懐から溢れるほどのお捻りを。

神官

 これ、お前のように心底賤しい者がこの神殿の内奥に足を踏み入れるでない。さあ、さあ、疾くと失せるがよい。

(道化、すごすごと退場)

 ああ、それにしても、万事ちょうどよい具合には成らんものだ。あちらを立てれば、こちらが立たず。こちらを立てれば、あちらが立たず。ほんに按配というものは難しい。闇の力が強くなれば、この世は化け物の天下だ。世界は滅びる。だが、弱まればこの有様だ。我らは太陽にじりじりと焼き殺される。それにしても困ったものだ。国力もまた然り。力の均衡というのは本当に難しい。まったく、あちらを立てれば、こちらが立たず。こちらを立てれば、あちらが立たず。だが、まあ婚礼とはめでたいことだ。

 さて、これから若君と隣国の姫との婚礼が執り行われ、我が一世一代の晴れ舞台となろうぞ。

 ああ、どうか世界に調和と均衡を。

 そして、どうか拙僧にはこの胸に溢れんばかりの言祝ぎと宝倉(ほくら)から溢れんばかりのお布施を。


 (神官、溜息をつきながら退場し、入れ替わりに王子が入場)

王子

 ああ、つまらない、つまらない。今宵は人生最悪の夜だ。この僕が結婚だなんて最悪だ。おまけに見たこともないあの凶悪な隣国の姫となんて。きっと恐ろしげな姿の魔女で僕のことなんか取って喰っちまうかもしれない。ああ、世界なんて早々に滅びちまえばいい。

 ああ、どうか世界に不調和と不均衡を。

 おーい、太陽。もっと燃えろ。もっと、もっとがんがんに燃えるんだ。この呪われた婚礼に参加する者たちが皆逃げ出してしまうほどに。

 逃げ出す?

 そうだ、なにもおとなしく言いなりになる必要などないんだ。僕が逃げればいいんだ。こんな役目はごめんだ。僕は何をぐずぐずしているんだ。逃げよう、早く。

 そして、愛おしいあの娘の許へ行くんだ。

 ラ・ウに愛されしもの。あの奇跡のように麗しい白鳥の娘の許へ。

 (王子、走りながら退場。入れ替わりに大臣と隣国の姫が登場)

大臣 (モノローグ)

 それにしても、本当にうつくしい姫君だ。まるで常人にはない魔力を秘めているような。女人の好みにうるさい我が王子もさぞかしお喜びになることだろう。少々、気位が高いのが気になるがな。

大臣

 王子、王子。おや、おかしい。ここでお休みになっているはずだったのに。

 王子はどこに行かれたのか。

隣国の姫

 かまいませんわ。楽しみは後に取っておきましょう。ところで、折り入って相談がございますの。

大臣

 何でございましょう。何なりとお命じください。

隣国の姫

 この地には人間に化けることができる霊異あらたかな白鳥がいるそうね。ラ・ウの光を浴びると、その白鳥は祈りのようにうつくしく清らかな乙女に変化するとか。是非捕まえてちょうだい。わたしの婚礼衣装は今のままでも充分に豪華だけど、より完璧にするためにその櫛歯のように見事に揃った風切羽で飾りたいの。

大臣

 そ、その白鳥は単に伝説に過ぎません。それに仮に実在するとしても、何しろ今宵が婚礼の晩、間に合いはしますまい。

隣国の姫

 ならば、婚礼は延期よ。主役の王子もお見えにならないようだし。

大臣

 そうだった。王子、王子。どこにおられる?


 (王子を探しながら、大臣退場)

隣国の姫

 くくくっ、愚かなものどもよ。白鳥の羽が手に入れば、わたしの魔力は完璧になる。偉大なるラ・ウの力でこの地上を再び凍りつかせて、我が王国がこの世界を支配することでしょう。

 (高らかに笑いながら、隣国の姫退場。幕)


  


 ファトランの朗読は登場人物ごとに声音が変えられていて真に迫っていると同時に本当に可笑しかったので、ゲイルは一度も訪れたことのないタルクノエムの大劇場の客席にいるかのように錯覚した。

 「これで終わりなのか。早く続きを」

 ファトランの語りが終わっても、ゲイルは明らかに物足りなそうな様子だった。冬の炉端で語られるフォークロアのレパートリーは限られていた。誰もが常に新しい物語に飢えていた。

 「続きはまた明日としましょう。お楽しみに。それでは良い夢を」   


(参)


 馬車は走る。ゲルムダール街道を南へ。

 ウズリン族の牙城、ザラスの荒涼宮へと向かって。

 乗客は今をときめくタルクノエムの宰相イルラギースとその異母弟にて悪名高きウズリンの妖術使いイムナン・サ・リ。

 だが、何故?


 ゲイルを見送ってからイムナン・サ・リは暫く自室に軟禁状態にあり、旧知の使用人たちによって十分過ぎる滋養物と睡眠を押しつけられていた。

 養生の甲斐あって、復調しつつある彼が密かに脱出を計画し始めた頃、イルラギースにある人物を共に訪ねるよう誘われた。


 「おい、どこへ行くんだ?」

 「親父の古い知己を紹介してやる。これからのことを話し合うのに必要な人物だ。御託を並べずについてこい。くれぐれも礼を失するなよ。口腹を満たして顔の色つやは良くなったようだが、まずは、そのむさ苦しい無精髭を剃ってこい」


 そこは館にほど近い古い病院の一室だった。

 穴蔵のような窓のない部屋には地下都市サイラスと同じナトリウム灯が灯されていた。セピア色の闇の薄らぼんやりとした靄のなかにその死にかけた婦人は横臥していた。


 「カリス博士、ご無沙汰しておりました」

 イルラギースは(わだかま)る闇の中心部に声を掛けた。部屋のなかは質素だったが、清潔に保たれていた。だが、やせ衰えた肉体から漏れる死臭はもはや覆い隠せなかった。

 「これはイルラギース、珍しいこと。お連れは誰? いつぞや連れていらっしゃったあなたの愉快な弟君たちかしら」

 老婦人は色素の薄い目を(しばたた)かせた。

 「おや、失礼。でも、彼もまたあなたの弟君よね。長い長い人生の旅から無事戻られたのね。良かったこと。ギランもさぞかし喜ぶでしょう」

 「相変わらず勘の良い方だ。御見込みの通り、この男が我が不詳の弟イムナン・サ・リです。イムナン・サ・リ、こちらはカリス博士だ。亡き夫君とともに親父の旅の同伴者だった」

 「親父の旅仲間?」

 「ええ、そうよ。わたしたちは友だちだった。そして、ギランの人生もまたほとんどが旅だった。わたしと夫はギランと同じ夢を見させてもらったわ」

 「失礼ですが、あなたはコーダ、サイラス人ではないのですか」

 色の無い世界でも、老婦人の薄い肌の色は際立っていた。

 「ええ、そうよ。わたしと夫はサイラスからこの地へやって来た。この地上に再び楽園を産み出すことを夢みて。わたしたちは幻の都エアリアスを探した。星の船でやって来たわたしたちの祖先が一番最初に築いた都市、壮麗なる太陽と風の都を」

 老婦人は夢みるような口調で語った。

 「でも年を取るとだめね。やはりサイラスが恋しいわ。喜んで捨ててきた故郷なのに。人生の終わりにわたしを苦しめるものが病魔ではなく郷愁だなんて本当に皮肉だわ。それはともかくとして、神聖都市エアリアスは実在する。そして、天空の鍵を開けることができれば、人類がかつて経験したことのないまったくあたらしい文明の中心地となるでしょう」

 言いたいことを言ってしまったのか、老婦人はしばらく目を閉じて休息した。病状はあきらかに末期だったが、老婦人は自らの運命におとなしく従うつもりはなさそうだった。彼女は根気強く死に向き合い、生に執着していた。試練と闘うことを好むタイプと見受けられた。

 強い意志の力で再び重い瞼が開いた。


 「イムナン・サ・リ、もう少しこちらへ来て」

 振り絞るような声に請われるままに魔術師は進み出た。

 「教えてちょうだい。あなたもそちらの坊やと同じようにギランのことを許せないでいるの?」

 父に対してもはや感情らしい感情は湧かなかった。だが、その口許は堅く結ばれたまま、微動だにしなかった。

 「忘れないで。ギランはあたらしい世のためにいろいろと良いことをした。自らの人生を犠牲にして。その偉業はどこにも残されていないけれど、それは彼の謙虚さ故のこと」


 病室を後にしてもイルラギースは何も語らなかった。

 「おい、どういうつもりだ。あんな亡霊に会わせたお前の意図はなんだ」

 たまりかねて、イムナン・サ・リから声を掛けた。

 「ほう、お前にとっていい話だと思ったのだがな。聖都エアリアスは象徴だ。それ以外なにものでもない。愚かな連中を住み慣れた谷から未知なる地表に連れ出すにはなんらかのお題目が必要だろう。お伽噺のなかにしか存在しないと考えられていた伝説の都が都合よく現れたのだ。ありがたく思え」

 「どういうことだ?」

 「わたしにはエアリアスなど必要ない。エアリアスはただの巨大な廃墟だ。ほとんど無傷のまま残っているがな。タルクノエムは過去の遺物になど依存しない。だが、谷の奴らにとっては違う。かつての栄光が忍ばれる約束の地であり、大量脱出(エクソダス)の旗印だ。だから、お前らにくれてやる」

 「何故、お前が谷のことを考慮するんだ」

 「考え違いするな。すべてはタルクノエムの今後千年の繁栄のためだ。憎むべき愚かな蛮族があってこそ、我らの帝国も結束が保たれ国家の安泰は一層揺るぎないものとなろう。それに種明かしをすれば、エアリアスは少々地の利が悪い。内陸すぎる。我らはあたらしく生まれる海と大河の交わる土地を目指す。海運こそがタルクノエム再生の鍵だからな。まあ、そんなところだ」

 振り返りもせずにイルラギースは述べ立てた。相変わらず足早に歩く男だった。しばらくそのまま進むと、イムナン・サ・リの戸惑いを見透かすかのようにその足が止まった。

 「サ・リよ、もう十分に静養しただろう。急いで出立の準備をしろ」

 ぼんやりとした顔の魔術師にたたみかけるように続けた。

 「お前のあるじと話をつけねばなるまい。エアリアスを高く売りつけてやるのさ。ザラスの地へいくぞ」


 「タルクノエムを放りだしてか? 予定通り天空の鍵があけば、タルクノエムは瓦解する。お前の手駒も大半はあの娘と行動を共にしているというのに……」

 「相変わらず、察しが悪いな。わたしがなんのためにセツとイレージェを世間の手垢をつけずに温存しておいたか解らないのか。あいつらならわたしよりもよっぽど上手くやるさ。口から先にうまれたような奴らだからな。それに、タルクノエムの民は名より実を取る。足許から崩れ落ちると解っている都にいつまでもとどまるような輩はおらぬさ」


(四)


 馬車は夢現の狭間を駆け抜ける。

 北の果てを目指して。

 ゲイルはファトランが語るもうひとつのレッド・スワンに魅せられていた。ウズリン族のフォークロアとは筋書も趣向も異なるものだったが、ファトランによると遠いテラから伝わるいくつかの物語が取り混ぜられているとのことだった。

 第二幕が開けると、がたがたと揺れるがらんとした客車に夢と魔法の世界が広がった。


  

 (第二幕) 湖のほとり

 

王子

 それにしてもこの辺りはなんて草深いのだろう。足許が刺草だらけだ。全く忌まわしいこのとげとげめ、張りついて取れないや。ああ、やっとついだぞ。湖面にラ・ウの瞳が映っていて、なんてきれいなんだろう。もうすぐ白鳥が群れをなしてやって来る。彼女がやって来る。それまで、この芦原に隠れていよう。

 (王子芦原の向こうへ身を隠す。やがて白鳥の群れが到来。一羽の白鳥が月光をうけてヴェールを被った麗しき乙女に変化する。乙女は花を摘み始める)

白鳥の乙女

 ああ、父なるラ・ウよ。清らかなる光であまねく世界を照らす夜の君よ。あなたのお力が足りません。地上から正義が消えかけています。このままでは暴虐なる昼の貴婦人、太陽にすべてが焼き払われてしまいます。わたしたちにできることはただ祈ることだけ。

 ああ、どうか世界にもっと祈りを。

 (王子芦原の蔭からこっそり乙女に近づく)

王子

 世界なんてどうでもいいじゃありませんか。そんなことに思いを煩わせるよりも恋をしましょう。甘やかで胸を焼き尽くすような恋を。

白鳥の乙女

 まあ、驚いた。なんと無礼なお方でしょう。それに、わたしは恋などしません。

王子

 それは何故です。

白鳥の乙女

 魂を持たないからです。魂なんてやっかいなものを持ったらもうわたしは二度と大空を飛べなくなります。

王子

 そんなこと言わずにまた会ってください。あなたは空を飛ぶ必要なんてありません。ずっと僕のそばにいてください。

白鳥の乙女

 それでは月のない晩、この白鳥の群れからわたしを選んでごらんなさい。この千羽の白鳥のなかからわたしを見つけ出すことができたら、わたしはあなたのものとなりましょう。ただし、見つけ出せない場合はあなたのお命をちょうだいします。その勇気があなたにありますか。

王子 (モノローグ)

 どうしよう。なにか彼女を他の白鳥と見分ける方法があるだろうか。そうだ!この刺草の葉を一枚彼女の髪のなかに忍ばせておけば絡みついて取れないだろう。たとえ白鳥の姿になっても。そうすれば解るはずだ。

王子

 解りました。僕は絶対にあなたを見つけます。楽しみにしていてください。

 (王子、白鳥の乙女の髪に刺草の葉をこっそり忍ばせて湖を後にする)

王子 (モノローグ)

 ああ、次に会うときが楽しみだ。これで白鳥の乙女は僕のものだ。

 (黒いフードを被った娘が月明かりのもとを泣きながら通りかかる)

王子

 おや、お嬢さん、何を嘆いているのです。

村娘を装った隣国の姫

 今宵はわたしの婚礼の晩だったのです。けれども当の花婿がわたしを捨てて消えてしまったのです。わたしは捨てられたのです。世をはかなんで湖にこの身を献げにいくところです。

王子

 世の中には酷い男がいるもんだ。そんなことを悲しんでも仕方がない。ほら、泣くのをおやめなさい。

 (王子、娘のフードを押し下げる)

 ああ、これはまたなんたる艶やかな美女。魂が吸い込まれそうだ。あなたのことを捨てた男はどこのどいつなのです。

隣国の姫

 こんなことを言っても信じてはくださらないでしょうが、わたしはある国の王女なのです。国運を賭けて隣国の王子の許へ嫁ぐはずだったのです。

王子

 なんという失態だ。こんなことを言っても信じてはくれないだろうが、僕こそがあなたの結婚相手なのです。一時の気の迷いであなたのような麗しいお方を袖にするなんて。一体どうすればあなたの心を慰められるのです?

隣国の姫

 まあ、なんておやさしいお言葉でしょう。でも、この苦しみをぬぐい去ることはできません。そういえば、この湖には白鳥の化身の乙女がいると聞きます。その白鳥の風切り羽にはこの世の憂いを払い落とす霊力があるとか。

王子 (モノローグ)

 ああ、どうしたものか。この姫の魅力はなんと抗しがたいのだろうか。あの白鳥乙女の霊力に勝るとも劣らない。

 そうだ。あの乙女は僕が彼女を見つけ出せば、僕のものになると誓ったじゃないか。風切り羽なんてもはや必要なかろう。なにも結婚するなんて誓ったわけじゃない。一生僕に仕えて忠義を尽くせばいい。そうすれば八方丸く収まる。

王子 解りました。僕はあなたのためにその白鳥の羽を必ず手に入れてみせましょう。

 (王子、仰々しく隣国の姫の手を取る。幕)


  

(五)


 極夜。 

 この氷雪に閉ざされた無情なる常夜の封土よ。

 夜の女王の魔力、ここに極まれり。

 

 ムルカベールの戦士たちが群れをなして、凍えた大気のなかを滑翔する。

 ただひたすらに最果ての地へと。

 極寒の獄へと。


 黒く輝く金属めいた肌と超古代の翼竜によく似た翼をもつ異形の翼人たちは凍空(いてぞら)を制する唯一の覇者であった。

 ゲイルもまたひときわ巨大な翼の持ち主である一族の(おさ)の腕に抱かれながら、希薄な大気が渦巻く上空に呑みこまれていった。

 幸い、雲一つ無い満天の星空だった。下界では極風に煽られた雪煙が白く逆波立っていた。時折、地平のしたの航路を巡る太陽(ソル)の運行にあわせて、天穹の裾に青い光芒が仄めき、その前後には赤い天空光が空全体を満たすのを覧た。

 ギジェの採掘基地の手前で馬車の一行と別れたゲイルは、不思議な形状の甲冑で全身を覆っていた。古代にあってはこの出で立ちで大気のない宇宙空間を浮遊したのだという。

 重たげな鈍色(にびいろ)の闇を切り裂きながら、大気の狭間を縫うように飛行する三日月形の編隊は、それ自体が巨大な双翼のようだった。


 いざ、極北のさらなる果てへ。

 上天は神の領域。

 地上の汚濁とは無縁の、この酷いほどの清浄さ。


 もはや恐怖も昂揚もなく、ただひたひたと感覚と感情が鈍麻していくなかで、心の奥底で芽生えつつある微かなる狂気に抗うように、少女はファトランの軽妙な語りによるレッド・スワンの終幕を思い起こした。



 (第三幕) 血染めの白鳥 (レツド・スワン)

  

 (王子、再び湖のほとりに登場)

王子

 さて、白鳥の娘をさっさと探さねば。ええい、忌々しい白鳥たちめ。千羽もいるなんて。

 (湖水に足を踏み入れ、一羽一羽確かめながら)

 まったく、足許がびしょびしょだ。つめたくてかなわない。これでは夜が明けてしまうよ。あ、待て、あそこに首筋に一点赤い血が滲んだ白鳥がいる。きっと、僕がしのばせた刺草で傷つけたんだ。みつけだぞ。つかまえた!

 (王子、目指す白鳥に飛びかかる。廻りの白鳥たちが驚いて飛び去る。捕らえられた白鳥は王子の腕のなかで人間の姿になりかかる)


王子

 待って。人間の姿に変わる前に君からいただくものがあるのさ。(懐からナイフと取り出す)暴れないで。なにも取って喰うわけじゃないんだから。やった、聖なる風切り羽を手に入れたぞ。これで僕はすべてを手に入れた。

白鳥の娘

 (完全な人の姿となって)なんという取り返しのつかないことを。恋とはかくもはかなく、人の子とはなんと酷いものなのでしょう。そして、魂は重く、わたしはもはや飛べない。

 (暗がりから弓取りの衛士を引き連れた隣国の姫が現れる。大臣、神官、道化も後につづく)

隣国の姫

 小賢しき精霊よ、お黙り。お前はもう堕落した。さあ、王子、その風切り羽をはやくこちらへお渡し。これでラ・ウの霊力は我が物になる。我が魔力により闇の力は増幅され、世界は永遠の夜になろうぞ。

大臣

 なんと、小娘にしては妖艶すぎる姫だと思ったが、正真正銘の魔女であったか。それにしても、ほんの一両日で王子の心を意のままに操るとは、我が国の命運が思いやられる。

神官

 夜の力がいや増すならば、悪の力が世に蔓延ることになろう。だが、このままでは苛烈なる太陽に地上は焼き焦がされてしまう。どっちに転んでもこの世界の破滅は免れんぞ。

 ああ、どうか世界に調和と均衡を。

道化

 そして、どうかあっしにはこの胸に溢れんばかりの喝采と懐から溢れるほどのお捻りを。

 (道化、大臣と神官に睨まれ、うなだれる)

白鳥の娘

 ああ、薄情なる君よ。その卑怯な行いを恥じる気持ちがあれば、どうかわたしにその風切り羽を返してくださいな。

王子

 (白鳥の娘の言葉にはっと目が覚めて)

 僕は取り返しのつかないことをしてしまった。どうすればいいんだろう。

隣国の姫

 王子、このままでは憎き太陽に呑みこまれるばかり。このわたしを信じるのです。

白鳥の娘

 だめです。暗黒の時代が到来するだけ。お願いだから、わたしの羽を返して。

王子

 僕が悪かった。君に返すよ。(白鳥の娘に風切り羽を手渡す)これで君はもとの白鳥に戻れるのかい。

隣国の姫

 無駄だ。その娘はすでに堕落し、ラ・ウの寵を失った。羽はもはやなんの役にも立たない。代わりに得た魂は裏切りによりすでに汚された。精霊にも戻れず、人間にもなれず、呪われた存在として地を彷徨うばかりだ。

 悪あがきはおよし。(醜い正体を現しながら)はやくわたしにその羽を渡すのだ。

白鳥の娘

 (風切り羽を握りしめながら)

 ああ、わたしが魂を得たとするなら、この羽のように軽いはず。

 この汚れた地上にはもはやなんの未練もありません。お父様、どうか今一度わたしに祈りの力をお与えください。世界の均衡を取り戻すだけの勇気を。

神官

 なんと東の空が明るく滲んでおるぞ。もう明け方か。

大臣

 いよいよ世界の終わりじゃ。どっちに転んでもろくなことは無い。

道化

 この世といよいよお別れか、と思ったら、なんとこれは驚いた。娘の背中に白鳥の羽が生えたじゃないか。奇跡だ。奇跡が起こったぞ。

白鳥の娘

 お父様、ありがとうございます。この羽に込められた月の霊力の欠片をもって、苛烈なる昼の貴婦人の怒りを静めましょう。地上にはわたしをとどめるものは何もありません。喜んでこの身を献げます。

 お父様、これがわたしの祈りです。

(翼を拡げ、蒼く染まる地平に飛び立とうとする。)

隣国の姫

 ええい、往生際の悪い娘だこと。忌々しい。者共、さっさと射殺すのだ。

 (王子、飛び交う矢の雨のなかに躍り出る。白鳥は矢傷を負いながらも飛び立つ)

王子

 だめだ。この娘を射るのはやめてくれ。

 (全身に矢を受けて息絶える)

神官

 ああ、惑える我らが王子よ。御身はその最期に正しい道を選ばれましたぞ。御身の魂もまた天に昇ろうぞ。

大臣

 よりによって王子を弑するとは、もはやこの縁談と同盟は無効。皆の者、王子の仇討ちぞ。あの魔女どもを成敗せよ。

 (大臣の怒声をもって戦闘の火蓋が切られ、両軍相見える)

道化

 さて、地上では愚かな戦いが繰り広げられておりますが、手負いの白鳥乙女は純白の羽を深紅に染めながら、蒼く、ついで赤く色づき始めた遙かな東の空を目指すのです。王子の魂とともに、暁光にその身を献げたのであります。かくして、ふたりの献身によって世界は破滅を免れましたが、地上には争いが絶えないのもまた事実。

 どれほどの犠牲が払われようと人間の愚かさは変わらず、それ故芝居の種も尽きぬのです。

 それでは日も昇ります故、そろそろ退散いたしましょう。

 ああ、どうか世界に調和と均衡を。そして、どうかあっしにはこの胸に溢れんばかりの喝采と懐から溢れるほどのお捻りを。これにて幕引き。どっとはらい。

 (道化、深々とレヴェランス。幕)




 やがて、極地に打ち立てられた巨大なる墓標、不死の皇帝が眠る氷の聖塔が眼下に捉えられた。


(六)


 「お待ちしていました。レッド・スワンよ」

 と、みめよき童子の姿をした三体の自動人形(オートマトン)。(なんと贅沢なことに、その本体も衣装も類い希なる金属と宝石で造られていた)


 氷に包まれたオベリスクの内部。

 館内に通されたのはゲイルひとりだった。地上の降り立ったムルカベールの戦士たちは翼でおのれの身体を包み込むと、そのまま動かぬ氷像となった。


  光が溢れる部屋の中央には、たくさんの捻子や管が付着した銀色の巨大な筒があった。

 エアシャワーの後、絹のような薄い生地で仕立てられたガウンに着替えると、少女は輸送台(ストレツチヤー)に横臥するよう指示された。輸送台はそのままその恐ろしげな筒状装置の深奥へと向かっていた。

 機械の内部では耳に捉えられるかどうかの高域の金属音とブルブルと震える重低音が太古の呪文歌にも似た禍々しい共鳴音を奏でていた。ゲイルは言われるままに横たわった。


 (バイタルチェックは完了だ。なんの問題も無いよ)

 これは、金の髪と緑玉(エメラルド)の瞳を持つ一の童子。


 (割と良い子だね。もっと抵抗するかと思った)

 これは、銀の髪と紫水晶(アメジスト)の瞳を持つ二の童子。

 

 (完全無欠のプログラムはこうでなくちゃ)

 これは、白銀の髪と青玉(サファイア)の瞳を持つ三の童子。


 (そろそろ麻酔を導入するよ)

 と、金の髪を震わせて一の童子。


 (この子はどこまで自分の旅を知っているのかな)

 と、銀の髪を震わせて二の童子。


 (知らない方が戦いやすいのさ。行き着く先は物理法則すら存在しない仮想世界だから、中途半端な見通しなんて何の役に立たない)

 と、白金の髪を震わせて三の童子。


 (準備は終わったよ)

 緑玉(エメラルド)の瞳を閃かせて一の童子が知らせた。 


 途切れ途切れに自動人形たちの声が聞こえた。意識がぼんやりとしてくると、ゲイルは身体ごと液体のなかに投げ出された。ごぼごぼと液体が肺を満たす音がする。手足はもう動かなかった。


 (意識を失ったみたいだね)

 紫水晶(アメジスト)の瞳を閃かせて二の童子が呟く。


 (それじゃあ、転送開始だ)

 青玉(サファイア)の瞳を閃かせて三の童子が宣告した。


 今、未知なる物語の扉が開く。

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