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夜行獣 The Nocturnal Eyes  作者: 齊藤 鏤骨
28/37

第二十七話 前夜

(壱)


 !

 来る。

 もうすぐ、それはやって来る。

 その刻はやって来る。

 

 少年のほの暗き思念は、彼を取り巻くモルフォ蝶の群れと一体化して、目眩く速さで渦巻き、メインフレームの広大な海へと飛び散った。


(弐)


 イムナン・サ・リは、革張りの肘掛け椅子に身を沈ませ、その柔らかな感触を懐かしく感じていたが、決してくつろいではいなかった。

 その原因は目前のあの男だった。

 魔術師は、先刻から射るような視線でこちらを睨めつけている男に対して当てつけがましくため息をついてみせた。

 「わざわざこちらから出向いてやったんだ。何故、わたしにつきまとう。少し休みたい。出て行ってくれないか」


 宿駅カシャ。

 ダール・ヴィエーラを縦断する主要な交易路、ニョーク、オトス、ゲルムダールの三街道の分岐点であり、商都タルクノエムの表玄関。

 ガムザノンを北の終点とするゲルムダール街道をそのまま南へ進めばウズリン族の冬の都ザラスへと至るだろう。いわば地政学的要所である。


 その瀟洒な商館の客室で、イムナン・サ・リは武器商サーマスの監視下にあった。

 班雪(はだらゆき)に送られてカシャへ到着した遅い明け方、粉雪の舞うなかで、銃槍を高く掲げた百の騎兵に迎えられたことを魔術師はもはや驚きはしなかった。


 くつろげない訳はもうひとつあった。

 「やめろ、離せ。熱いじゃないか。煮えたぎっているぞ」

 普段は往還の交易を統べる閑静な館も、湯船に無理矢理押し込まれたゲイルの叫声で蜂の巣をつついたような騒ぎである。


 一方の魔術師は、すでに身仕舞いは済ませていた。

 湯を浴びて用意されていた上質の衣類に着替えると、やや放蕩の過ぎるタルクノエムの商人貴族の子弟といった風情で、蛮族のあいだで長らく過ごしてきた男にはとてもみえなかった。

 この部屋に用意された豪奢な調度のすべてが彼のために誂えられていたかのようだった。あえて残しておいた無精髭すら垢抜けていた。この雪中行で持てる体力と精気を消耗した分、その美貌に凄惨さが増しているようでもあった。


 「気にするな。ふたりとも必ずお連れするようにとのイルラギース様からのお達しだ。貴殿に逃げられてはかなわん。仮にそうなったら、あちらの客人もこの騒ぎの比ではなかろう」

 武器商は魔術師の不興顔など意にも介さなければ、その凄みのある美貌にも頓着しなかった。


 「わたしに用なぞなかろう。娘は送り届けた」


 「つれないな。イルラギース様は末の君との再会を心待ちにしておられるというのに」

 イムナン・サ・リは、反論するだけ無駄と悟った様子で鼻を鳴らすと以後は沈黙をもって応じた。

 だが、サーマスもまた然る者で、常人では耐えられぬほどの殺伐とした空気のなかで、魔術師の憤懣なぞどこ吹く風という面持ちで受け流している。


 やがて、薄刃のごときとげとげしい静寂が一刻ほどつづいた時、突として扉が勢いよく開かれた。

 期せずして、ささくれだった沈黙は驚嘆に取って代わられた。

 扉の向こうの景色はまったくの想定外だった。


 なにしろ、見目麗しいひとりの少年が現れたのだから。


 身に纏っているのは、レース飾りがふんだんに使われたドレープのうつくしい琥珀織(タフタ)のシャツにつややかな黒い繻子織(サテン)の細身のパンツ。

 ふわりと整えられた赤い髪と額を飾る繊細な銀細工のラリエット、そして細腰に巻かれた幅広の飾り帯(サツシユ)のみが、その中性的な容姿にほのかに色香を添えていた。


 無論、少年とみえたのはゲイルで、気恥ずかしさをむくれ顔で隠して、そっぽを向いている。


 男装の美少女。

 その楚々とした風情に、強面のサーマスさえも多少のわざとらしさはあるものの感嘆の声をもらした。

 一方の魔術師は、内心の驚きを抑えつつも、不機嫌さの仮面をはずさなかった。


 「ほう、これは、ゾイエ殿。先ほどまでの行き倒れ寸前の姫君とは別人だ。なかなか良い見立てをしている」

 サーマスが後ろに控えた痩せた背の高い女に声を掛けた。

 「いいえ、姫君が選ばれたのよ。せっかくのドレスはみなお気に召さなかったの。だから、一組だけあったサディウス様のお召し物を。ちょうど丈もぴったりだったわ」


 サーマスの言葉の端に魔術師は思慕、いやむしろ崇拝に近い感情を読み取った。女の方もまんざらではなさそうだ。

 それはそれでおもしろくもあったが、野暮ったい羅紗(ラシヤ)のドレスで全身を覆った、いかにも職業婦人然とした雰囲気の女は魔術師の最も苦手とするところであった。そして、みるからに理知的な光に満ちた女の品格に圧倒されたことも事実だった。

 したがって、当面は不愉快きわまりない武器商にも思わぬ泣き所があると知っただけで満足することにした。


 「あなたは、サディウス様にお会いになられたことはないのかしら」

 去り際にゾイエが声を掛けた。落ち着いた声が眩(くるめ)く微風となって魔術師を捉えた。

 「イルラギース様のご長子よ。わたしがその養育係のゾイエ。母君を亡くされてから長らくサディウス様をお預かりしているわ。以後お見知りおきを」

 どこかで会ったような気もしたし、初対面だという確信もあった。結局疑問は心の片隅に追いやった。イルラギースのみならず、エフェルメの忘れ形見ともいずれは会わねばならないとは気が重かった。


 「日暮れとともに入市する。時間はないぞ。タルクノエムは貴殿らを歓呼の声をあげて迎えよう。長い夜になるだろう。しばし休まれよ」


 魔術師の葛藤などまるで意に介する素振りもみせず、そう言い置くと、サーマスはあっさりと退室した。


 「ずいぶんと不機嫌だな。天空の鍵を開けてやるというのに我々は招かざる客なのか」

 部族社会で育った少女にもサーマスの皮肉は通じたようだった。

 「あなたはともかくわたしは歓迎されないでしょうね」

 「何故だ」

 聞くだけ無駄と思いつつ、ゲイルは問いかけた。


 「タルクノエムを放逐される端緒となったわたしの罪は決して許されないものだからです。許しを請うことすら許されない。だから、憎悪には憎悪で応じることしかできない」


 そう答えながら、魔術師はまるで別のことを考えていた。

 ダール・ヴィエーラのそこかしこに仕掛けられた、彼自身を逃れようのない運命へと絡め取る蜘蛛の巣。その巧みに張り巡らされた網掛(いがき)のこちら側にはルー・シャミラ、あちら側にいるのは……。

 不愉快な同盟だったが、少なくとも、イルラギースが谷への工作にあたって人畜無害なファーセルと懐刀のサーマスを巧みに使い分けていた理由の一端が解った。ルー・シャミラと接触するときはファーセルを用いていたのだろう。魔術師に余計な疑念を抱かせないために。

 ルー・シャミラもあえてサイラス側との接触をつづけていた。今となっては、それも煙幕としか思えない。


 「解らん理屈だな。謝りたいのであれば、素直に謝ればいい。お前は許しを求めているのだろう」

 「長い夜になるのは、本当です。あなたは少しお休みください。わたしは眠りすぎました。それに、その服のセンス、なかなか良いですよ。丈長のドレスなど絹でつくられた桎梏(しつこく)、文字通り足手纏いですから、いざというとき邪魔なだけです」

 不穏な内容に触れたにしては、あっさりとした口調だった。


 「お前の兄の協力を得て、最果ての地へ赴き、天空の鍵を開ける。そういう単純な話ではないのか」

 ゲイルは目を見開いた。


 「天空の鍵を開けるといっても、所詮は同床異夢。タルクノエムが谷を救う気があるとは思えません」


 意に染まぬ帰還。

 イルラギース。タルクノエムの最高権力者にして異能者。長年に渡る権力の座は彼をどのようは怪物に仕立てあげたのだろうか。

 その異能者としての力はルー・シャミラやキシアン・ナージに及ばぬとしても、巧みな心理戦がそれを補うだろう。もはや、感傷は小道具のひとつに過ぎぬ、とイムナン・サ・リは自らに言い聞かせた。おのれの感情を封じ込めるために。

 あの兄との再会にあたっては、力と力、策謀と策謀とがぶつかり合うに違いなかった。

 なにしろ、彼の地はあらゆる欲望と思惑がうずまく魔都タルクノエムなのだから。


 気がつくと、ゲイルの顔が目の前にあった。

 「サ・リ。わたしはお前しか頼るものが無いのだ。そんな冷たい顔で考え込まないでくれ。今回はこれまでの戦いとは違う。我らが向かうのはお前の故郷、向き合うのはお前の家族なのだ。策を弄する必要は無い。望郷の念を抱きながらも、お前はずっと逃げ続けてきたんだろう。これ以上逃げるな」


 「あなたに何が解るのです」

 もはや慇懃さで鎧うことも優しさを装うこともやめた、まつろわぬ瞳が問うた。

 「かつてお前は言った。星々の興亡の歴史を語りながら、わたしたちは罪人だ、と。お前がずっと独りで抱えている心の痛みや罪の意識がわたしには解らないとでも」

 顔を寄せると、少女はしずかに口づけた。

 「目を覚ませ、サ・リ。お前は善人だ。悪人なら苦しむこともないはずだ。策謀では谷は救えない。谷の命運はお前の善良さに懸かっている」


 少女のつたない言葉が魔術師の胸中にどれほど響いたのかは解らなかった。ただ、一片の光は投げかけられ、男は柔らかな抱擁をもって応えた。


(参)


 オーロラに守られた城塞都市(シタデル)。

 商都タルクノエム。

 日暮れとともに、一行は馬車でタルクノエム市内へ入った。馬車はそのまま螺旋状の広小路を昇りつつけた。


 イムナン・サ・リの五感は、その特異な能力を使うまでもなく、あっという間に通り抜けていった貧民窟に澱(おり)のように沈み込んだ悪意を否応なく嗅ぎ取った。為政者が彼の父から兄に代替わりしても、貧困や暴力といった人間の生そのものが排出する汚泥(スラツジ)の放つ臭気はまったく変わらなかった。

かつて、自らの精神の脆弱さに脅える少年のまえにあれほど堅固に立ちはだかっていた世界はいまや脆く崩れ落ちそうだった。その一方で、あれほど傷つきやすかった精神は年を経るごとに感受性を失い鈍麻していった。


 傍らに寄り添うゲイルは、最下層から頂上に至る町並みの変遷に都市というものの本質を垣間見つつ、長い放浪の末自らが育った家に帰る男の郷愁を思いやってか、すべてに対して鈍感さを装っていた。目に入るものひとつひとつに素朴な驚愕を覚え、その胸のうちは感嘆詞の嵐だったが。


 やがて、馬車は最上層のアッパーシティにおいて最も豪壮な邸宅の門をくぐった。


 王家の裔であり、何代もの執政官を輩出した家系、リザイツェオーン家。ここが傍らにいる男の、ゲイルの婚約者であり兄の配下である魔術師の本来の居場所なのだ。闇に閉ざされた谷の生活とはあまりにも違いすぎた。


 その男、タルクノエムの執政官イルラギースは自らの私室で彼らの訪れを待っていた。


 瓦斯燈(ガスとう)の照明は暗く、全体に薄緑の靄が立ちこめているかのようだった。そこかしこで闇は澱み、四辺(あたり)は仄かなる光がゆらめく暗い、暗い海の底。


桃花心木(マホガニー)の大ぶりな書き物机のその向こう側。

 移ろう陰りのなかで、手すさびにおのれの爪を磨いている男は人心を熱狂させるに価する剛胆さと繊細さ、権力の座にあるもの特有の倦怠感、そして男盛りの香気が綯い交ぜになった言いしれぬアウラを放っていた。あたかも、彼自身が爛熟の都タルクノエムそのものであるかのように。


 イムナン・サ・リとともに連行されるように権力の深奥に案内されたゲイルは、その最高指導者として君臨する男のあまりの若々しさに驚いた。

 イムナン・サ・リより十歳年上と聞いていたが、実際に見るその男は彼女の感覚ではまだ青年と言って良かった。少なくとも、谷にあっては初老の域である四十路に手が届くとは到底思われなかった。それ以上に意外だったのは、その外見が魔術師とまるで似ていないことだった。

 英姿颯爽(えいしさつそう)たる長躯とふわりとしたヴェールのようにその半身を覆う暗い真鍮色(かないろ)の髪に見合った派手な容貌の持ち主で、余人が纏えば悪趣味とすらおもえる装飾過多の衣装も華麗に着こなしていた。


 その会見は寒々しい空気のなかで粛然と進行した。

 ゲイルの傍らには件の魔術師。商館の衣装部屋で見繕ったのか、例によって黒い外套(マント)でその身を覆い、長い流浪の果てに再会した異母兄をまえにずっと目を伏せたままだ。

 ふたりの後ろにはサーマスとゾイエが控えている。サーマスが只者ではないのは明らかだったし、ゾイエもまた隙が無く良く訓練された女と見えた。

 そして、壁際を取り囲むように銃を掲げた衛士たち。

 イルラギースの背後にある衝立の向こうにもまた何人かの気配があった。


 「ウズリン族の姫よ。よく見えた。我が名はイルラギース。平たくいえばタルクノエムの意思の代弁者たるもの。認めたくはないが、そなたの連れの異母兄になる。我らには時間がない。形式張った挨拶は省かせてもらう。この氷河地方の極夜はそう長くは続かない。出立は明晩だ」

冷ややかで艶やかな、総じて傲然(ごうぜん)たる声が響いた。


 儀礼など一切無視して、鑢(やすり)をかける手すら休めない男の尊大さもここまで極まれば威風辺りを払うほどの域にまで達していた。

 なによりも、黒い瞳の魔術師の近親者であってもこの男は紛れもないヌークであった。顔をあげると青い瞳が銀色に光った。

 ゲイルはその瞳の非情さに心の底から驚いた。その冷え冷えと輝く青い瞳は一瞥されただけで常人には身も凍るほどの畏怖を与えるだろう。

 ましてや、同じ男が公の場ではにこやかな笑みを絶やさず、時に歯の浮くような台詞を吐き、阿諛追従(あゆついしよう)も厭わないことを知れば、少女にとって二重の驚きとなるに違いない。


 「サ・リ、邪魔するな。お前の帰還を祝うのはこの後だ」

 イルラギースは、何か言いたげな魔術師をちらりと見やると、いち早く牽制の礫を投げた。ゲイルにもその虚ろな響きのうちに強い執着と憎悪の相反する想いが窺われた。長い空白期間は暗く縺れた情念を心の奥深くで醸成させただけだった。そして、それは彼女の愛する男もまた同様だろう。 


 「姫よ、手短に話そう。あなたには極寒の極地方に眠る皇帝の許へ行ってもらう。氷上の道無き道をゆく危険な旅だ。サイラスの目も光っていよう。送り届けるにあたって、我が精鋭を同伴させる。サーマスとゾイエ。すでに見知っていよう」

 長らく待ち続けていた天空の鍵を手に入れようというのに、その当の本人である男装の少女には一片の関心も興味も抱いていないことは明らかだった。


 衝立の向こうからも、人影が現れた。そのなかには明らかに異形と思われる者も。

 「ファトランも紹介する必要はないな。彼らが、氷河地域にあるサイラスのメタン採掘所まで送る。かの地を始点とする管路(ストリーム)はサイラスとタルクノエムの動脈だ。特別に用意した氷馬と補助エンジン付きの特装車両での旅になる。他に技術者も同行するが、彼らは何も知らされてはいない。採掘所は例年にない降雪で孤立している。口実は慰問を兼ねた物資の補給といったところだ。姫君には巡業団の一員として潜入していただく」


 「無論、採掘所は極地方のほんの入り口だ。そこからの旅はムルカベール族の戦士たちが同行する。ここまでくれば追っ手は来まいが、余人では到達できぬ過酷な旅だ」

 鋼鉄の肌を持つ怪人がその翼を拡げた。


 「サ・リは行かぬのか」

 「姫よ、これは命を賭けた旅だ。その男と行きたければ、独力で行くのだな。この時期に北の地へ向かうにはそれなりの装備と良く訓練された人員が必要だ。そやつは昔から不和の種、わたしの選んだ生え抜きの戦士たちの足を引っ張るだけだ。この旅でおのれの能力を使う場面など無いことを本人が一番知っていよう。違うか、サ・リ」


 頑(かたく)ななまでの沈黙が返答だった。


 「わたしの話はこれで終わりだ。ゾイエ、姫君を控えの間に案内しろ。ほかの者も下がれ」

 部屋の者たちを追い立てるかのように、イルラギースは研磨された爪先に息を吹きかけた。

 サーマスだけは何か言いたげだったが、執政官は冷ややかな沈黙を保って、口を挟むことを許さなかった。

 ゲイルはうながされるまま、衛士たちに囲まれながら退室した。


(四)


 「さて、サ・リ。お前との時間だ。気分はどうだ」

 ようやくイルラギースは爪を研ぐ手をとめた。


 「恐ろしくて身も縮む思い、と言えばあなたは満足かな。それにしても、ずいぶんと無節操に立ち回ったもの。伝え聞くところによれば、あなたは毒にも薬にもならない享楽的な大衆主義者であり新鋭の理想主義者、既得権益の庇護者であると同時に改革派の若き指導者。よくもまあ、青い血の流れる象牙の塔の住人だったあなたがタルクノエムのあらゆる層に取り入ることができたものだ」

 魔術師はその面をあげて、暗がりのなかでちらちらと瞬く煌めきを纏った男をまっすぐと見つめた。

 「しかるに、その実体は裏世界を統べる闇の帝王。この商都のみならず、谷におけるあらゆる陰謀の影にはあなたがいる。あなたの目配せひとつで、我が身首(みしゆ)処を異にすることになりそうだ」


 「拗(す)ねてふてくされるだけが取り柄だと思っていたら、これはずいぶんと饒舌になったものだな。だが、お前の頸を刎ねるのに他人の手など借りはしないさ」

 イルラギースの顔が僅かに歪むと、ぞっとするほどの陰翳がその面に移ろった。

 「お前の所行はすべて伝え聞いている。わたしの力をお前が斃した夜盗の首魁(しゆかい)と同程度と見くびっているなら、笑止」

 イルラギースの掌のうえで即席の鋭利な寸鉄となった爪やすりが宙に浮かんだ。

 「お前にはわたしの心は読めない。わたしはお前のごとき脆弱な魂の持ち主の支配なぞ受けぬ」

 それは真実だった。幼い頃からずっとイルラギースの心は堅固な城壁に守られていたのだ。


 寸鉄は憎悪の矢となってあり得ないほどの速さで飛んできた。

 柔らかい肌に切っ先が突き立てられる瞬間に、魔術師はその鋭利な刃をからくもつかみ取った。

 間一髪。

 白い喉許から血が一筋流れた。

 イルラギースは頬杖をついたまま、興に入るふうでもなく、ただその様子を眺めていた。


 「人払いしたのは、わたしに代わりの人形を与えないためか。それとも、その怪物ぶりを他に明かさないためなのか」


 「つまらぬ質問だ。わたしはただ誰にも邪魔されずにお前の力を、この十余年でお前がどれほど成長したかを試したいだけ」

 冷然たる口許から気怠げな嘆息がひとつ零れた。


 イルラギースが部屋の隅に無造作に置かれた剣掛台に目を向けると細身の刺突剣(レーピア)のすべてがカタカタと鳴り始めた。

 「それがお前の得物だ。存分に楽しませてもらう」

 先んじて鞘からすっぽりと抜き出た一条の剣が、柄を前にして魔術師の方へ向かってきてそのまま掌に収まった。

 イムナン・サ・リは目前の男を凝視したが、その陰翳をおびた面からはいかなる感情も読み取れなかった。

 ただ、陰りのなかで鈍い真鍮色(かないろ)の髪がちらちらと煌めいた。


 今まさに、仄暗き光と輝ける闇が交わろうとしていた。

 「さあ、余興の始まりだ」

 イルラギースが指をならすと、残りの七条の剣が低い刃鳴りを立てながら魔術師をめがけて襲いかかった。

 イムナン・サ・リが反射的に身体を後ろにそらせると、刺突剣(レーピア)は玲瓏(れいろう)な金属音を響かせて、彼の真上で放射状に交差し、そのまま七端の卍(まんじ)となって旋回した。

 再び解(ほつ)れると渦巻くように上方から魔術師を取り囲んだ。


 宙に舞い遊ぶは、煌めく白刃。

 奏でるは、幻夢の円舞曲。


 だが、魔術師が壁際の椅子のうえにひらりとその痩躯を踊らせると、七条の剣は一斉に牙を剥いた。

 左手でマントを優美に翻して五条を振り払い、残りの二条を右手の剣で続けざまに叩きつけた。一条は床に突き刺さり、一条はふたつにへし折られて、床を滑っていった。

 心憎いほどの鮮やかな手並みだった。


 「まだまだだ」

 イルラギースは瞬きもしない。


 残りの五条が正面から向かった。

 魔術師は椅子から飛び降りると、その脚をつかんで盾とした。三条が座面に突き刺さった。

 残る二条は───。魔術師はそのまま椅子をおろすと、その背もたれに置かれた左手に重心をかけた。

 あっと思う間もなく、横様に大きく跳んだ。

 魔術師の足刀にはじき飛ばされた剣は、イルラギースの目前、書斎机の甲板(こういた)上に前後に突き立てられた。


 まさに、狙い違わずの妙技だった。


 その流麗かつ無謬の所作は、むしろ緩慢に思えるほど抑制されており、微塵の無駄もなかった。


 「ほう、お前の腕前はその程度か。まあ、いいさ。及第点をくれてやろう」

 イルラギースはようやく立ち上がると、目の前に突き刺さった剣を抜き、そのしなり具合を確かめた。


 一体、なんの冗談なのか。

 イムナン・サ・リは、剣を持つイルラギースをまえに僅かに当惑した。 

 他を圧倒する長身の偉丈夫であるが、遠い記憶をなぞっても学究肌の異母兄が剣を持つ姿を目にした覚えはなかった。幼いイムナン・サ・リを荒っぽいチャンバラ遊びに無理矢理駆り出したのはセツとイレージェだったし、この豪奢な衣装を身につけ、夜ごと遊蕩に耽っているだろう男が鍛錬に励んでいるとも思えなかった。

 だが、一方で数々の死地をくぐり抜けてきた手練れ者としての本能が迫り来る危難を告げていた。先刻までのサディスティックな遊戯とは明らかに異なる、と。

 ここに来てイムナン・サ・リは選定された得物が計算しつくされていることに思い当たった。突く剣では体格差、リーチ差がありすぎた。刺突剣(レーピア)による対戦では往々にしてありがちな組み討ちの格闘戦となった場合も体格差は不利なまま、長くしなる剣針は防具にすらならない。


 跫音を響かせながら、片手剣を脇に流したイルラギースが近づいてきた。

 その構えを見ただけで、思ったより訓練を受けていることが解った。イムナン・サ・リは後退し、壁際に身を寄せた。

 魔術師はじりじりと彼を追い詰める男の相貌を見つめた。その面にいまだ老いの影はなかった。ただ、幼い彼を引き取ったとはいえあまりにもよそよそしく、最後まで他人だった父ギランの面影が色濃くあった。あの鷹揚たる大人(たいじん)ぶり。退廃の一歩手前の優雅さ。何ごとにも動じることのない超然たる夢想家。

 皮肉なものだった。イルラギースは兄弟の誰よりも父を憎んでいたはずだったのに。

 そして、魔術師はまっすぐと凝視した。父親譲りの青く冷たく輝く峻拒(しゆんきよ)の眼差しを。彼をずっと拒んできた、彼の術が決して及ばぬ瞳を。暗いまつろわぬ瞳で。


 イルラギースは、泰然と剣先をあげて正眼の構えを取った。


 なるほど軍の統帥権を握る男だ。素養も良いと認めてやろう。だが、タルクノエムの商人貴族の嗜みとしては上等の部類だろうが、所詮奥義も秘術もない遊戯に過ぎないさ。


 この形勢不利な状況にあって、幾通りかの攻撃プログラムが瞬時に魔術師の脳裏に思い描かれた。

 たとえば、刺突直前に相手の腕がわずかに引かれたその瞬間に、すばやく身をかがめて相手の懐に潜り込み、そのまま急所を突くという小兵ならではの切り返し……。


 だが、イムナン・サ・リは最後まで抑制を貫いた。定石通り彼の右肩を狙って真っ直ぐと突き上げてきたイルラギースの剣をまともに受けた。正確にはまともに受けたとみせて、剣先を絡ませ、その突きの勢いを削がぬよう微かに、ほんの少しだけ上方に受け流した。

 イルラギースの剣針は、魔術師の肩を掠めて、壁に深く突き刺さった。


 見事な防御だった。(前方にあるものだけが盾ではないのだ)


 イルラギースは壁にめり込んだ剣を抜き取ろうとしたが、イムナン・サ・リはその手の甲を剣先で静かに制した。

 「終わりだ。イルラギース。取り巻きどもは賞賛するのだろうが、お前の剣は所詮お遊びだ」


 「つまらぬな。何故本気を見せない」

 敗北したほずのイルラギースの眼に微かに皮肉の色が浮かんだ。

 「ここは戦場ではないからさ。死活を懸けて戦う理由はなかろう」

 そう言いながらも、イムナン・サ・リは得体の知れない違和感の在処を探った。

 「ふん。サーマスからの話ではお前はずいぶん激しやすいとのことだったが。血迷わせるにはなぶり方が足りなかったか。こちらも当てがはずれた」

 いつのまにか、イルラギースの左手には細身の拳銃が握られていた。おそらくは始めから。まるで気づかなかった。抜かりのなさはサーマス直伝か。あの型にはまりきった構えも隠し持った暗器を気取らせない大仰な芝居なのか。なるほど、とんだ役者だ。

 「保険は銃だけじゃないさ。見ろ」

 イルラギースがその眼差しをちらりと向けただけで、頭上に下げられたシャンデリアの瓦斯の炎が一瞬激しく燃え立った。その瞬きは魔術師にとって閃光に等しかった。思わず顔を背け、自らの視線を腕でかばった。

 「ほう、まぶしいのか。お前はどうやら昼盲らしいな」

 すばやく刺突剣(レーピア)を引き抜くと、おのれの腕を絡め取ったイムナン・サ・リの剣を強くはじいた。

 あっという間に、剣先は魔術師の喉許近くまで押し当てられた。かろうじて鐔元で押さえた。だが、耳許でカチャリと撃鉄を起こす音がした。銃口はすでに向けられていた。

 光に背いた形のイルラギースの面は陰り、炎に映えた真鍮の髪だけがちらちらと煌めいていた。

 そして、瞳はヌークの闇に光るそれ。

 「商人の護身剣は蛮族の上をいく小聡明(あざと)さこそが肝要、とあの弟思いの兄たちに学ばなかったのか」

 彼にのしかかる力は尋常ではなかった。もはや剣の力量よりその常人ならざる力に圧倒された。


 「教えてやろう。ケスの民ばかりではない。タルクノエムもまた壮大なる実験場だった。ヌークとコーダの融合だけではない。初代のイムナン・サ・リは皇帝レィヴンの複製(クローン)そのものだった。記憶を持たぬ空っぽの器だったそうだ」

 イルラギースの口許が皮肉に歪んだ。

 「お前を待つまでもなく、我らの家系には始めから呪われた異能者の種が蒔かれていたのさ。なかなか発現せず、親父は大分焦っていたようだ。つぎつぎとこれはと思う異能者の女に手をつけた。その成果がわたしとお前。親父の意にはかなわなかったがな」

 「そのような話に興味はない」

 「果たしてそうかな。お前はお前の出生に纏わる呪いにずいぶんとこだわっていたようだったから、本当のことを教えてやったんだ。夢想家のお前のことだ。お前は本当は愛から生まれたと、父とお前の母のあいだにロマンスがあったと信じていたかもしれないな」

 イムナン・サ・リの漆黒の瞳に一瞬炎が浮かんだ。だが、すぐにかき消えた。

 彼は彼の死の天使をまっすぐに見据えた。その面は間近にあった。細かく波打つ金髪が彼に降りかかるほどに。


 「何故そのようにわたしを挑発する。お前らしくないぞ、イルラギース」


 投げ返された言葉の礫によって、今度はイルラギースの側に変化が生じた。

 そして、その深青色の瞳の青が極まり菫色に変わったとき、魔術師の魂は蒼茫たる眼差しの奥に吸い込まれた。


 その先には、青く澄みわたる凍りついた世界。

 青、青、青一色の凍れる青(アイスブルー)の闇。

 星ひとつない蒼茫たる宇宙(そら)、

 あるいは光届かぬ深海(うみ)の底。

 深く、際限なく、墜ちてゆく。


 いつの間にか、暗闇のなかにちらちらと輝く金のヴェールに包まれたひとりの少年が、十代の前半だった頃のイルラギースが現れた。


 少年は見目麗しく、聡明で、見るからに恵まれた良家の子弟だった。すべてを満たされ、すべてを約束されていたが、ただ愛だけが足りなかった。その暗く凍えた瞳は路上に住まう少年となんら変わりはなかった。それなのに、抱えるものが多すぎた。今もまたその手に余る瀕死の少年を抱え込もうとしていた。

 一方で、少年自身は他者に寄りかかることを潔しとはしなかった。堅固な防壁の内側に孤独と矜持、古い傷痕とふつふつと滾る強い怒りをしまい込んで、誰かと何かを分かち合うことを頑なに拒んでいた。

 幼いイムナン・サ・リの目から見たあの頃の兄は年齢よりずっと大人びた存在だった。だが、目の前にいる少年はそのか細い肩を精一杯いからせたちいさな震える魂に過ぎなかった。


 「僕らしくないと言ったね。君は僕の何を理解しているのかい。僕は君に多くは望まなかった。ただ命ある限り穏やかに生きてほしいと願っていた。なのに、どれほど慈しもうと、君は僕の期待をことごとく裏切り、自らの価値を貶めていった。挙げ句の果てに僕のすべてを奪った」


 少年の思惟は囁く辻風となって魔術師をなぶると、心の奥深くを冷ややかに吹き抜けた。深い孤独とやるせない痛みをともなって。


 「重い、重すぎるよ。君の存在は僕には重すぎる。だけど、僕は君を背負わなくてはならなかった。死にかけたちいさな君を守ることはこの家の長子たる僕の使命だったから。君はずいぶんと薄汚れた大人になったんだね。想像通りだ。君の卑しさには虫酸が走るよ。相変わらず君は詐欺師なのかい。それとも男妾(ジゴロ)? ああ、両方だね。何も知らないあの娘をだましてここまでつれてきたのだから」


 「黙れ。わたしを助けたのはお前の勝手だ。では、何故もっと早くに放り出さなかったのか」


 そう言いながらも、イムナン・サ・リは気がついていた。入り込むつもりもなかったのに、イルラギースの堅固に守られた心のわずかな空隙に深く落ちてしまったのだ。

 目の前にいるのは、あるべき姿のイルラギースではなかった。当人すらも関知しえぬ心の奥深くに秘匿されたうちなる影であり、永遠の少年、トリックスター、あるいはそのすべて。


 「ねえ、思い出してごらん。君と僕はつながっていた。何故だと思う?ずっと解らなかったよ。どれほど完璧を目指そうと、母様が何故僕を出来損ない扱いするのか。ずっと考えていた。僕はいったいどんなへまをしてお母様の勘気に触れたのか。でも、君がちいさな怪物だと解った段階で、おぼろげに見えてきた。僕が生まれてきた理由(わけ)、君が産み出された理由(わけ)を。君が痛ましかった。そして、愛おしかった。君はちいさな僕だったから。だから、断ち切れなかった。僕を破滅へ引きずり込もうとする君の穢れた手を」

 少年の凍りついた心が幻影となってひたひたと迫ってくる。影の人格はイムナン・サ・リの胸に顔を沈めて腰に手を廻すと、少年の姿のまま氷霧でできた人形となった。魔術師はあっさりと呪縛された。少年の魔性に精気が奪い取られ、魂が呑みこまれていく。

 「僕は君のことを何でも知っているよ。君がいつしか盗みを覚え、初めてその肌を汚した日も。愛を請うままに幼な子のように泣きわめく君の心のうちも。どんなに耳をふさぎ目を閉じても聞こえてくる。そして、時々解らなくなる。泣いているのが、君なのか、それとも僕なのか」 

 「殺りたければ、殺ればいいさ。わたしは償う術を持たない」

 「では、君は僕の一部となれば良い。あの宝箱にはすでに君の一部が納められている。僕との完全なる合一が脆弱でちっぽけな自我を持つ君の密かな望みだろう。でも、そうすれば彼は永遠に目覚めない」


 この魔空間にも件の聖櫃が置かれていた。そして、その傍らには壮齢の男が、今を生きるイルラギースが横たわっていた。

 「彼はとても弱っている。君が闇の世界で過ごした年月と比べものにならないくらい過酷な時を彼は生きた。僕が君のすべてを奪えば、彼はもう目覚めることはない。言っておくけど、僕は世界を救うつもりなど毛頭ないから」

 少年の腕が頸に廻り、虚空を映す蒼海のごとくに幼い諦観を湛えた双眸が迫ってくる。

 その面に表情はなく、もはや無貌。

 この狂言回しの少年はイルラギースの過剰なる克己心、自己統制力が産み出した副産物であると同時に、イムナン・サ・リ自身の脆弱な自己の投影でもあった。いずれにしても、ふたつの不幸な魂が互いに触媒となって姿を現した怪物であることは確かだった。


 魔術師は微かに目を眇(すが)めた。その黒き瞳に暗い光が宿った。


 「ふふっ、僕と斬ると決めたね。いいよ、僕に勝てば君の記憶も力も返してやろう。新たなる魔王の顕現(エピファニー)のために。そして、黒い太陽の治世が始まる」


 消散。

 掻き消える幻影。

 魔術師は身を引きながらも、抱き寄せるかのように腕を伸ばした。両価的(アンビバレント)な想いもまたさらさらと零れ落ちていく。出口無き相克(アポリア)を遺(のこ)して。


 有るか無きかの少年の実体は雲散霧消(うんさんむしよう)して、跡形も無く消え失せたかにみえた。だが、雷鳴のごとく轟く咆吼がたちまちのうちにそれを打ち消した。


 夢を構成する元素は、瞬く間に再構成されていた。

 少年の仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てて忽然と現れたのは、玻璃(はり)の鱗(うろこ)を逆立てて猛り狂う氷水晶のヒュドラ。

 狂気と破壊を司る大いなる龍。

 それは、かの人の魂に封ぜられたパトス。

 超自然の怪物として実体化されても、その異形の造作はなお伏して崇めたくなるほどの王者の威容と光輝を放っていた。 


 怒り、失望、恐怖、不安、緊張、悲しみ、苦悶、諦め、罪悪感───九頭(くず)の龍は、原始的な脳の最深部に潜む非言語的感情の標徴(ひようちよう)だった。受肉した暗い情念は、高く、低く、悲痛に、猛々しく、むせび泣き、あるいは慟哭した。


 イムナン・サ・リは目前に展開する事象を読み解くと、戦士の習い性として我知らず構えた剣を打ち棄てた。


 「さあ、来るがいい。わたしがお前を取り込んでやる」


 魔術師は両手を大きく拡げて胸を開いた。目には見えぬ十字架に張りつけられた受難者であるかのように。


 九つの首が轟くほどの咆吼を放った。


 生々しい情動の渦は爆ぜて飛び散り、爆風は魔術師の心の襞を舐めるように吹き抜けた。剥落した玻璃の鱗は光の束となって魔術師の身体を切り刻んでいく。

 瞬く間にクリスタルの鎧が解けると、その残骸から再び少年の姿をしたトリックスターが現れた。絶え間なく変容する外貌(モルフェ)。夢の像はかくも移ろう。


 「ふん。君は、ずいぶんと大人になったものだね。だけど、君の罪は消せない。僕は君を一生許しはしない。一生……。忘れないで」


 少年もまた光の粒子となって魔術師の意識体を通過していった。羽のように柔らかな口づけを頬に残して。

 すべては、一刹那のうちの、瞬刻の放心のなかの出来事だった。


 そして、真の闇の到来とともに魔術師の意識もまた薄れていこうとしていた。


 「長旅でお前の精気は尽きたようだな。相変わらずひ弱な奴だ。もういい、ぬらくらと躱されるのには飽き飽きだ。この勝負はまたの機会に取っておこう」

 気を失う寸前に、もはや少年のものではない冷ややかな声が響いた。

 


(五)


 揺らめく夜の海の光景が広がる。

 彼の意識は柔らかな青い陰翳のなかをたゆたう小舟のようだった。

 イムナン・サ・リは、懐かしい記憶の底を漂った。


 夢世界の断片をそのままとどめたかのような一葉の絵画。

 岸壁に縛られた異教の美姫。

 伝説の混合獣ヒポグリフを操る浅黒い肌の混血(ムラート)の騎士。

 敵は巨大な光そのものとなった堅い鱗をもつ海の怪物オーク。 

 善と悪、光と闇のメタファーは完全に入れ替わり、何もかもが暗い夜の波濤に溶け込んで仄めき、まるで全体が深い海の底の出来事のようだった。


 その昔、耽読した物語の挿絵だと思い当たった。


 「お帰りなさい、向こう見ずな冒険家の王子様。愛する中国(キタイ)の姫君は無事に救えたのかしら」

懐かしい声。今も昔も変わらずに彼を支配しようとする声。

 「もう僕をからかうのはやめてくれ、エフェルメ。君は君が誰を愛していたか解っているはずだ」

 イムナン・サ・リは、少年の心でかつて誰よりも愛した女性に語りかけた。

 亡霊の怒りをしめすように激しい暴風が夢の世界を襲った。

 「無駄だ、エフェルメ。肉体から自由になった君はいくら待っても僕の前には現れなかった。君が本当にほしかったのはイルラギースの心だった。君はイルラギースから僕を取り上げたかっただけだ。君が今もこの館に取り憑いていることが何よりの証拠だ」

 嵐は否定するように、非難するように、一瞬荒れ狂い、そして掻き消えた。


 目覚めると、心地よく清潔な寝台のうえだった。

 そう、十三年前奔走したままの状態に残された自らの私室だった。正確には惨劇の痕跡はすっかり拭い取られていたし、塵ひとつないまま整然と整理整頓されているところも違っていたが。


 酷い頭痛がした。心配そうにゲイルが顔を覗き込んでいる。

 「大丈夫か、サ・リ」

 イムナン・サ・リの無言の問いかけにゲイルは答えた。 

 「お前は兄の部屋で倒れたのだ。医者によるとかなり衰弱しているそうだ。お前はヌークではないから、水や空気から取り込んだ重金属を代謝できない。ろくな食料も装備せず厳寒期の氷河地方をうろつくなど命知らずにもほどがある。と、お前の兄たちは言っていた。よほど身体に堪えたのだろうと」


 あれからどうしたのだろう。イルラギースの心象世界に入り込んだときすでに意識を消失していたのかもしれない。イルラギースは心の奥底、もはや無意識の領域での相克を覚えているだろうか。


 「兄たち……ですか」

 イレージェとセツ。彼らも健在らしい。

 「お前の兄弟はみな揃っている。何故かお前の身体を心配している」

 「……。そのことは、またいずれお話ししましょう」


 「何故なのだ、サ・リ。あのイルラギースという男は得体が知れないが、他のふたりは誠実さを絵に描いたような人柄で、心底お前のことを心配していたぞ」


 ずきずきとした鈍い痛みが混濁した意識にひとつの光景を運んできた。


 つかの間の団欒。

 硝子越しの午後の陽射しに抱擁されて、庭先のコンサバトリーには微睡むように緩やかな時が流れていた。

 家を離れたふたりの兄、イレージェとセツも戻っており、相変わらずおどけた様子で軽口を叩いていた。からかいの的になるのは決まってイムナン・サ・リだった。

 嫁いできたばかりのエフェルメが、女主人としてかいがいしく立ち回っている。

 彼女が腕を振るった焼き菓子のスパイスやナッツ類を混ぜ込んだ香ばしい香りは、落ち葉と湿った土とが入り交じった秋の小径を連想させた。

 イルラギースもにこやかに笑っており、ひとりイムナン・サ・リだけがむくれ顔だった。

 エフェルメの若妻らしくすっきりと纏めた髪から零れる後れ毛が陽光に透けてつややかに輝く様を今でもはっきりと覚えている。触れたいと強く願ったことも、手を伸ばせばすぐに届きそうだったことも。

 羨望に囚われた強い憎悪、歪んだ自己愛と自己憐憫の結実である破滅願望がどれほど的外れで理にかなわないものであったかも。


 己の負の感情が多感で不安定なエフェルメの心と結びついたことが不幸の始まりだった。彼自身の邪な恋慕がなければ、彼女も破滅することはなかっただろう。

 失われた時はあまりにも美しく、追憶はやるせなく古傷を疼かせた。


 「起きられるか、サ・リ」

 「ええ、行きましょう」


 起き上がって見るとも為しにちいさな文机のうえに目を走らせると、遠い昔兄に取り上げられた『狂えるオルランド』の装丁本が置かれていることに気づいた。



 時に鞣(なめ)されて金文字の箔押しも判別しかねる古びた皮装の表紙を捲(めく)るように、重厚な桃花心木(マホガニー)の扉が開かれた時。

 自らを歓迎するために設えられた会場で、部族社会に生まれた少女は文明の区分(フェーズ)を数段階飛び越えてしまったかのようだった。

 人知では窺い知れぬ驚異と複雑な陰翳に満ちた彼女の属する夜の国とはまるで別世界だった。清潔なホールは夜半を過ぎているというのにまぶしいくらい明るく、魔法は科学と名を変えていた。

 想像もつかぬ用途に用いられるとおもわれる精緻な道具類やきらきらとした調度に囲まれて、手が込んでいて元の材料が何か解らなくなった料理の皿をまえにふわふわと落ち着かない気持ちになっていた。


 ここでは、沼沢地から風に乗って運ばれる泥炭香やかすかな獣の匂い、積雪のあとむずむずと鼻をくすぐる重い大気の気配がなかった。貯蔵した食物の放つ甘く乾いた発酵臭や人間の住まう処に必然である不浄臭、つまりはあらゆる生活の匂い、垢と汗とかすかな麝香の入り交じった人間特有の匂いすらも。代わりに刺激の強すぎる人工的な臭気が充ち満ちていた。

 男たちは柔らかな物腰でよくしゃべり去勢されてでもいるかのようだったし、女といえば揃いも揃って娼婦のような媚態を示している。

 

 傍らに寄り添う男ももはや彼女の属する世界の住人では無かった。いや、むしろ初めから異邦人(あだしびと)だった。


 一方、イムナン・サ・リはすぐに目指す相手を見出した。

 嫌みなほどにインテリ臭を漂わせた黒の法衣の男はガルムの法院に身を置くというイレージェ、すっかり田舎貴族然としたひげ面の伊達男は荘園主セツだろう。人目を引く好男子ぶりに変わりは無かったが、かつて双生児のようによく似ていた二人はまるで別人のように変貌していた。職業的属性が持って生まれた形質をすっかり覆い隠してしまっているようだった。

 

 ゲイルは、ふたりの兄と再会を果たそうとするイムナン・サ・リを少し距離をおいて見守っていた。男はおずおずと歩んでいく。

 明るい金髪の二人組は放蕩者の帰還をいまや遅しと待ち構えていた。

 がっしりとした方がイムナン・サ・リの肩を拳固で小突くように叩いた。イムナン・サ・リがその手を祓うと、男はやおらに抱きしめた。理知的な雰囲気をもつ青白い貌の男の抱擁がそれに続いた。


 彼女が目をそらさずにもう少し注意深く観察していたら、彼らの傍らで無邪気な笑みを浮かべている少年に微かな違和感を覚えたかも知れない。

 少年は、イルラギースの一人息子でイムナン・サ・リの甥であるサディウス。完璧な笑顔で鎧うことが今のところ彼の最大の防御であり機先を制する攻撃手段。


 ゲイルは広間を抜け出すと、薄暗い館内をふらふらと探索した。やがて、廊下の突き当たりの八角室に行き着いた。そこに窓は無く一族の肖像画が掛けられていた。

 分けても目を引くのは、杏のような形の琥珀色の瞳が印象的な暗褐色の巻き毛の婦人。その少女めいた顔立ちに浮かぶ賢しらに挑発的な笑み、何よりもその媚態を含んだ眼差し。暗い方へと男を誘う運命の女(ファム・ファタル)。あの憎むべき女と同じ匂いがする。

 そして、もう一幅。

 やや年代を感じさせるそれは、淡い金色の髪と淡い水色の瞳を持つ色白の婦人の似姿が描かれていた。先ほどの婦人よりもあどけない表情で夢を見ているかのように虚ろに微笑んでいたが、同種の女であることは明らかだった。何よりも成熟へと向かう過程を拒絶するかのような幼い顔立ちがそっくりだった。

 おそらくこの毛色の違うふたりは血縁関係にはなかろう。代々の館の主の配偶者で、彼らの嗜好は呪いのようにその血脈に受け継がれているのだ。ここにあるはずもない欠けている第三の肖像画も容易に想像できた。先代の非嫡出子であるイムナン・サ・リの母親。あの黒い眼の一族の女だ。


 「我が一族の歴史に興味をお持ちか」

 傲慢な声の持ち主はこの館の当代、イルラギースだった。

 「先ほどからそなたが見入っているのは、我が亡き妻エフェルメの肖像だ。何か気になるのか」

 「別に、ただサ・リの好みの女だと思っただけだ」

 そう言いながら、ゲイルはイルラギースの反応を見るために振り返った。

 「と、いうよりもサ・リ当人によく似ている。そして、こちらはお前の母親か?」

 彼より淡い水色の目をした女を指し示した。

 「ああ、我が母ロジェだ」

 「都会ではこういう子供じみた女が好まれるのか」

 イルラギースは思わず含み笑いを漏らした。

 「何がおかしい」

 「いや、子どもに子どもと言われるとはふたりも心外だろうと思って。これが描かれた当時はそなたより年上だったはず」

 「ふん、都会者は若作りなのだな」

 「いや、そなたもなかなかかわいらしい。いや凛々しいと言えばいいのかな。それに、そなたもある意味サ・リの好みだ」

 男装の少女を見つめながら、イルラギースの面が人が悪そうに歪んだ。

 「あいつの初めての恋人の面影がある」

 「……続きは聞きたくない」

 「もう少し、険があって虚ろな瞳をしていたが、あれもなかなか見栄えの良い青年だった。人間の嗜好というものは……」

 少女が間髪を入れずに廻した足蹴りを難なく手刀で受け流すと、館の主はおもしろそうに告げた。

 「さすが谷が誇る戦士だ。相手をしてやってもよいが、明日に響く。早く休むのだな」


(六)

 

 愛を交わす時、少女は男の目を布で覆った。

 「今からわたしがお前を抱く。お前は一切抗うな」

 魔術師は、少女の激情の原因も解らぬまま、その手荒で無骨な愛撫に身を任せながら、身体ごと寄る辺なき小舟となり幻想の青い波濤をたゆたった。

 旅の終わりの甘い疲労がすべての感覚を鈍らせていた。

 幻惑が、眩暈が、この蕩揺(とうよう)を引き起こすのか。愛の行為のただなかにあるのか。男はもはや判別がつかなかった。

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