第二十六話 漂流者たち(下)
(壱)
愚か者の船は航行する。
人間の生からみれば久遠にも等しい時の澱みを、
神の時間からみれば泡沫の夢のあわいを。
率いるのはならず者の王、悪名高き我らがレィヴン。
太陽帆を拡げた慣性航行と近傍通過による加速を繰り返しながら、ガリオン船の航路はうねりゆく蛇のごとく、星々の間を縫いながらジグザグに旋回する軌跡を描いた。彼らが通過する惑星系から掠め取ったのは重力加速度だけではなかった。行きがけの駄賃として、彼らの母星と同じように貧困にあえぐ植民星を標的としたささやかな略奪行為を行っていた。ただ悪だけが自らを打ちのめす閉塞感からつかの間の解放感を与えてくれた。
亜光速のゆがんだ時間のなかで、船上で七年、地上では百年が過ぎた頃、世界のすべてだったラグーンズの星域を抜けようという時に、とある取引のためレィヴンは拝火教徒の武装商船隊を訪れた。地球時代からの風習と信仰を旧套墨守と貫くあまたの漂泊者のなかでも、浮き草稼業のティンカーらとは違って、拝火教徒の一団は名だたる財閥だった。彼らは母星をもたぬ隊商ながら、時空すらも超えた広範で緻密なネットワークによってクンルーン無き後の星域一帯の交易を制していた。
「これは、レィヴン閣下。御前みずから足を煩わせてくださるとは。拝謁できて光栄ですぞ。悪名もまた栄誉のひとつゆえに。海賊の真似事は楽しいですかな」
壁に設えられた聖龕に似た炉壇では護摩が焚かれていた。レィヴンは、商人の挑発に乗ることなく、醒めた心持ちでその炉火を見るとも為しに見ていた。
燃える火。テオティワカンの陰鬱な荒野から吹き出す硫黄の野火。かつての世界の中心にあった太陽炉を包み込むプラズマの炎。宮廷礼拝堂と父なる人を灰燼に帰したあの劫火。
彼自身、ずっと永遠の焔に包まれているかのような人生だった。もはや感覚は麻痺していた。ただ、この責め苦に終わりがないことのみが苦痛だった。
「裸火が珍しいですかな。地球より持ち出した絶やすことのない浄火です。余人は火を我らの神と思っているようですが、火は火。御神体でもなければ、血に渇えた異教の神の求めに応じるかのように燔祭を献げる訳でもない」
「オリエントの神は偶像を好みませぬ。あれは知恵と想像力の足らぬヨーロッパの森の蛮族の風習。ただ、揺らぐ炎の向こうに自らの魂の影を、そして神を見ることもあります。例えば、主の目として世界を照らす太陽神フワル・フシャエータの熾える瞳を。あるいは隼翼を閃かせて羽ばたく、創造主アフラ・マズダの霊威を」
レィヴンは、炉の祭壇に刻まれた有翼円盤の紋章を煩わしげに見た。
(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者)
「俺はただ取引に来たのだ。最新の艦隊防御システムをお前たちは扱っているはずだ。宙の旅は何かと物騒だからな」
「これはご冗談を。この星域を危機に晒しているのは、果たしてどなたですかな。どうせまともな対価など支払う気もないのでしょう。多少の喜捨は覚悟していたが、厚かましいにもほどがある。次はどの星で狼藉を働くおつもりか」
「正当な対価とはお笑いぐさだ。法外に吹っかける腹づもりだったのだろう。死の商人め」
レィヴンは醜く顔をゆがめたが、商人はあくまで強気だった。
「取引はいたしませぬ。生活物資の補給であれば融通しないでもありませぬが」
「ふざけるな。俺は、物乞いに来たわけではない」
「では、外宇宙への旅の餞としてひとつ情報を差し上げましょう。我が同胞よりもれつたわる話によると、テオティワカンの最後の女王は、お子と共に亡くなられたとか。か弱き心臓は産みの苦しみに耐えきれず、お子もまた月足らず。産声すらあげなかったと。いずれにしても地上においては一世紀も前、あなたが時空の彼方に捨て去った故郷の消息です。それほど感傷をそそるものではありませんかな」
途端に、商人の身体が宙に飛び、壁にしたたかに打ちつけられた。
「……なるほど、これが噂通りの悪しき魔術師の本性。おぞましき変異者よ」
「では、もうひとつ奇蹟を見せてやろう」
言い終えぬうちに、祭壇の炎はかき消え、すべての灯りは消失し艦内は真の闇に包まれた。
(弐)
今は亡き文明の置き土産である鉄の砦、環礁地帯と外宇宙との狭間をあてどなく彷徨う、星図に記されることの無い人工惑星、九天───。その名の通り、九つの球体がその本体。鈞天を中心に据えて、蒼天、昊天、炎天、玄天、変天、幽天、朱天、陽天。それぞれは複雑な分子構造を為しており、電磁力で引き合い、あるいは弾き合いながら交錯した軌道を回転していた。
かの取引が決裂してほどなく、九天は当事者の一方、拝火教徒からのレーザー・パケットに封じ込められた使者を受け入れた。
(この先しばし続く条は、メインフレームのみが知る記憶にして知識。それすらも無為無聊なる時の流れのうちに改竄されたかもしれなかったが)
「計画は中止なさるがいい」
円筒形のホログラム映写機のなかで、交渉の全権委任プログラムの化身である白猿は言った。
「聞けぬな」
女の声が答えた。それもまた機関めいた自動人形だった。
「あのならず者は救済者ではありはしない。悪の被造物、不義なす者。巨大な翼を持つ暗黒の蛇アジ・ダハーカよ。彼奴ひとりにして我らが一個船隊を殲滅させた」
使いの猿は地団駄を踏むと、円筒の檻のなかで左右にせわしなく動き始めた。
「陰は陽の内に在りて、陽の対には在らず。太陽、太陰なり」
女は太古の言葉、太古の韻律で応じた。
「アーリヤ人よ。我らが伝統では、善と悪、光と闇は対峙するものではない。闇は光を孕み、光もまたうちに闇を宿している。テラの太陽とその光明に照り映える月のごとく。光と闇は移ろい、溶け混じり、世界は淡墨で描かれた山水画のように柔らかな陰映に満ちている。それこそが宇宙の法であり道、無極であり太極なのだ。それに誤解があるようだが、我らが求めているのは救済者にあらず。かの若者の持つ人類再生の秘密が記された遺伝暗号のみ。かの者のなかには万人と同じく悪と善が混在しておろう。ならば、無愧なる魂のなかに輝ける資質が、善なる能力もまた存在しよう」
白猿は歯を剥くと、罵りの言葉を投げつけた。
母語は異なってもその意味するところは時代と国を超えて共通だった。すなわち、邪悪な魂よ、呪われよ、地に堕ちよ、と。
「残念ながら、我らの魂もまた陰陽に、魂と魄とに分かたれる。魂は煙のごとく清気をはらんで天上に立ち昇り、地上的な愛や憎しみは魄となり肉体とともに大地に還り、時に鬼となって人界に彷徨う」
「大地に還るもなにも戻る母星なぞなかろうが。善と悪は歴然と存在する。お前たちの長い漂流生活を支えてやったというのに恩義を忘れたらしいな。我らの仁心無くしてこの砦は存在しえまい。すべての補給路を断っても良いのだぞ」
「それが結論なら、失せるがいい」
瞬時にプログラムは跡形もなく消去され、使いの猿も消えた。
それからほどなく、応えなきことこそが応えと解すると、拝火教徒は次なる手として、テオティワカンの地下宮殿でかろうじて生き残っていたこの星の貴族らの裔と接触した。
新たなる新天地への移住の可能性をちらつかせながら、故郷の名を地に墜とした反逆者たちを討つべしと彼らに囁いた。なんと気前のよいことに、この企てに賛同するなら、最新鋭の追撃システムを丸ごと提供すると。
善意を装った恫喝に近いものであったが、百年も前の因縁など残されたものたちにはなんの感傷もなかった。ただ大商人からの見返りを期待して、彼らは自らの手を汚さぬ討伐に同意した。
噂では、無償で提供された無人の追跡艦には、船霊、あるいは波浪神として一基の柩が納められていたという。
これについては諸説あり、事実であったとしてもその意図するところは不詳であった。一国を破滅させることを厭わぬほどの強い執着こそが追っ手にふさわしかろうという皮肉を利かせたのか。それとも、弔う当てもなく持てあましていた屍をこれ幸いと宇宙の果てに埋葬したのか。
いずれにしても、子孫たちはもはや義務でしかなかった墓守の役を放棄した。
はからずも、骨の赤子を抱いた女王の亡骸は、およそ生前の静かなる隠遁生活に似つかわしくない数奇にして杳窕たる航路をたどることになった。伝説が真実であれば。
(参)
十年の歳月を経てたどり着いた約束の地は、奇怪な獣人どもの楽園だった。
海賊王レィヴンを導くのは、天青石の鱗粉を纏った一頭の胡蝶。
鬼火のような燐光を放つ青蝶は、ぬばたまの夢路へ向かう露払いとなって、ふわふわと頼りなげに舞い飛びながら、迷宮の奥深くに彼を誘う。
不等形のモザイクが張り巡らされた回廊は、フレーザーのねじれ紐のようにたわんでゆがみ、どこまでも果てなくつづくかにおもわれた。錯視とあるかなきかの重力との相互作用でいくらも歩まぬうちに平衡覚は失われた。
そして、仰々しい銅鑼の音にあわせて重い扉が開くと、朱赤、金赤、茜、猩々緋、唐紅───、夕映えのごとき赤と金が結合したバーミリオンの目眩く色彩が彼を圧倒した。その刺激的な光景に目がなじむと、朱の列柱が並び、緋の垂れ絹がふわふわと張り巡らされた球体の神殿が現れた。
朱漆と鍍金を基調とする装飾のぬめるような光沢の放つ毒が相俟って、神々しさよりもむしろ異教めいた淫靡さを感じさせた。
そこかしこに配された螺鈿や琥珀を嵌めこまれた幻想獣の像が、燭光を受けて揺らめきながら紅い陰翳に溶け込んでいる。
だが、グロテスクな装飾よりも目を引くのは、砦の住人たちそのものだった。
牛頭の怪人が門番を司り、牧人と隼頭のホルスからなる衛士らが守りを固めていた。朱柱の陰でスフィンクスに似た人面虎身の九尾の獣が番犬代わりに寝そべる傍らには、垂れ絹に半ば身を隠しながら猫頭人身のバステトと蛇女ラミアが嘲るような笑みを浮かべてしなを作っている。
いずれも、獣と人との交雑者にふさわしい愚鈍で怠惰な頭脳の持ち主とみえた。
焚きしめられた咽せるほどの麝香が獣臭さをかえって際立たせていた。
嘔吐くほどの終末観。
退廃と倦怠に縁取られた圧倒的な悪意。
ここかしこに渦巻く緋色の狂気が、レィヴンを取り込もうとしていた。
「よくぞ来た。レィヴンよ」
異形の怪物たちに囲まれて玉座に坐すのは、ほっそりとした異国の美女だった。肌は黄みを帯びた象牙でできており、絹糸のように身体を覆う長い髪は濡れ鴉の紫黒色であり、その肌と髪の色のコントラストは背後の壁一面に拡げられた太極図と完全に合致していた。
人間らしい外観を持っていたのは唯一その首領の女だけだったが、ナイフで刻んだかのような切れ長の瞼の下の黒い瞳は、人間のものとは思えないほど冷たく冴えた光を湛えていた。
「我が名は鈞天。この砦を統べるもの」
その声音はうっとりするほどの柔らかな鈴の音ながら、有無をいわさぬ傲然たる口調は予想を裏切らずに、総じて聞くものすべてを威圧する響きを持っていた。女の膝にはその夫君とおもわれるしなやかな四肢をもつ雪豹が物憂げに頭を乗せ、先刻の胡蝶は女の廻りをふわふわと所在なげに漂った。
「どうやら、俺が来たのは間違いだったらしい。俺を切り刻むつもりか」
最初の衝撃が去ると、生来の尊大さが顔をもたげた。指の刃針で胸を裂いてみせながら問い掛けた。
「それは誤解だ。なにも取って食うつもりはない。それに、彼らの製造はほんの手すさびの慰み。我らとていつ現れるとも知れぬ救済者を待つのに先人から引き継いだ腕を鈍らせてはならぬゆえ」
雪豹の頭を愛でながら、女は目を伏せたまま答えた。
「我らが求めてきたのは、そなたの超越者としての能力と遺伝暗号のみ。そなた自身にもそなたが引き連れてきた係累にも興味はない。クンルーンの帝国がありし日より、我らは我らが理想とする人類、(羽人)の誕生を待っていた。この宇宙にふさわしい新しい人類を創造することが我らの使命だった」
女の声はあくまで機械的だった。ここに至っては、生身の人間であることも疑わしかった。
「なるほど、切り刻むには変わりが無いようだな」
男は冷ややかに言った。今度は己の頭をドリルで穿孔するように指さしながら。
女は男の挑発を軽くいなしてつづけた。
「とはいえ、我らの命運はとうに尽きた。我らにはもはや新しい人類を創造する力も時間も残されてはいない。できることはそなたを遠い時空へ逃すことだけ。五百光年先にかつての地球によく似た手つかずの大地がある。すべての実験はそこで始まる」
「ふざけるな。所詮、大義なぞ無い寄せ集めの烏合の衆だ。ここまで持ったのは、俺が恐怖をもって治めてやっているからこそ。旗頭を失っては、乗員たちの志気は半世紀も持つまい。うちから崩壊するのを待つばかりだ」
女は雪豹を愛でる手を休めて、その冷たい面をあげた。冴え冴えと輝く非情な瞳が一瞬赤く光った。ふうと氷の息が零れた。
「では、そなたに千年の寿命を与えよう。神性を得たそなたがその永生をかけて導けば良い。不老不死は我らの専売特許ゆえに」
「機械の身体なぞごめんだ」
「その理解こそ謬見であり浅慮。なによりも、そなたの遺伝暗号とそこから得た能力をそのまま保持できる唯一の方法だ」
女はつめたく笑った。あくまで優婉ではあったが、どこか感情に欠けた古色古香たる彫像をおもわせる不可解な微笑だった。
「蒼天や、こちらにおいで」
やがて、呼びつけた当人に瓜二つのほっそりとした子どもが、無風の風にはためく垂れ絹のあいだをみずからも浮遊するように現れた。
面をあげると、その瞳は常夜の闇のように真黒く、氷雪のように冷たく、まるで魂を持たぬものかのようで、生涯にわたって鈍麻以外の感情を映し出すことはないとおもわれた。
「この娘は蒼天。生身の人間としては我らの唯一の生き残りにして、そなたの伴侶となる」
覚束なげに舞っていた青い蝶が、少女の黒髪に止まると、そのまま動かぬ髪飾りとなった。
「機械とはまったく逆の機関だ。我らは元来クンルーンの皇帝の伴侶だった。聖なる交わりで生まれるのは、二親それぞれの分身たる男女の双子。我らの遺伝子は決して他者と混じり合うことはない。受精は単為生殖のトリガーに過ぎず、胚芽はただちに陰と陽のふたつに分かれる。太極を表す陰陽魚のごとく。かくして、肉体を脱ぎ捨てて生をつないできた。これもまた、始原の蛇のごとく」
女は不審顔を解くことのない客人をみやった。
「問題は肉体よりも魂の在処、であろう。仕組みは簡単だ。これが、仙丹虫。不老不死の妙薬だ」
翡翠色に輝くそれは、未知なる金属元素で造られたとおもわれる黄金虫。
「いわば人工海馬。この前世の記憶を引き継いだインプラントを鼻腔より注入すれば、やがて己自身の記憶装置、海馬と一体化する。はずせば廃人となろう」
「その娘もそのおぞましい施術がなされているのか」
「我らの同一性の保持は、インプラントには依存しない。我らは生まれついて記憶と感情を共有するのだ。そして、彼女とともに我らの叡智、(老母)をそなたに授けよう。かつてはこの宇宙の中心だったメインフレーム、偉大なる人類の母だ。出でよ、太古の母よ」
部屋の中心に突如としてひかりの柱が立ち上がった。
そのひかりの渦から、砦と同じように絡まり合った軌道をえがく九つの球体が現れた。蒼天と呼ばれた少女が手を伸ばすとそのひとつが彼女の許に飛来した。
少女は、その腕に黒く光る金属の球体を抱えた。あたかも世界の卵であるかのように重々しく。その途端、少女の目に僅かに光が宿った。
「いいだろう。商談は成立だ。ありったけの武器と食料が必要だ。それから、早速あの丸腰同然のガリオン船を武装してくれ。できうる限り重装備にな。最先端で無くても構わん」
レィヴンは、ふと思い出したように付け加えた。
「俺たちが出航するときには、この砦の防御シールドを外せ」
鈞天の面にほんの僅かに動揺が走ったが、微かに開きかけた唇はあえて理由を問うことはなかった。
「お前たちの存在する目的は終わった。反逆者を匿った代償はさぞかし大きかろう。この獣人どもが生きて敵の手に落ちれば、さぞかし悲惨な末路が待っていよう。いただいたばかりの砲弾で俺が一気にけりをつけてやる。俺たちの痕跡も消し去ることができる。一石二鳥ってやつさ」
(五)
蒼天は、故郷が跡形無く消える光景をガリオン船のスクリーンを通して見た。 東の空を表す呼び名は、いつとはなしに彼女の母語ではなく、アズールすなわち地球の紺碧の空あるいは海を表す古い雅語となった。
時は緩慢に流れた。(あるいは、千年を生きる男にとっては、過ぎ去った時間はほんの瞬きするほどの間だったかも知れない)
略奪と暴力は千篇一律なる日常のささやかな忘れ種。
彼らの武装船は辺境の星域を恐怖で席捲し、
時に同じような無法者どもの襲撃を受け、
やみくもに戦い、
あるいは彼らを取り込みながら、
やがて星影まばらな外宇宙へと出帆した。
宇宙嵐の突風をからくも逃げ延び、
繰り返される生と死の連鎖。
すべてはナトリウム灯のセピアの闇のなか。
やがて、三百年が過ぎたとき、彼らの船は目的の座標にたどり着いた。
その青い惑星にガリオン船はためらわず突入した。熱を帯びた船体が大洋に着水したとき、すでに十数回の転生を果たしたレィヴンは故事に習い、新天地への露払いとして聖なる鳩を放した。
楽園。
その当時、惑星夜は、その言葉がなによりもふさわしい星だった。たとえ、その陽射しが移住者にとって明るすぎたにしても。
人類発祥の地によく似たうつくしい草原と豊かな生態系。原初の暗い森を捨ててたどり着いた明るく開けた約束の大地。
一面の駘蕩たる大平原。
その黄金がかった萌葱色は、慈雨に養われて、吹き渡る風にそよぎ、寄せては返す光の波濤となる。
やがて、その草海原を草食獣の群れが埋め尽くすだろう。
ああ、なんたる光と風と命に満ちた世界。
だが、ながらく無菌状態で生きてきた彼らにとって、野の獣以上に、目に見えぬ敵、すなわちあらゆる病原体と、これらを媒介する昆虫や齧歯類などのベクターが大いなる脅威だった。
一方、討手として放たれた追跡艦は、一世紀の遅れを取りながらも、逃亡船の残した磁気ひずみの軌跡を追って、彼らの新天地ニュクスの上空に到着した。
その目的は死の制裁、楽園の完全なる破壊であった。
船首に組み込まれた衝突型加速器から、惑星へ向かって破滅的な光子の矢が放射されようというその時。
(お願い。やめて)
船霊として納められた女王の思念が目覚めたのか、波動の衝撃で想定よりも照準がずれたのか。見えない力を受けて追跡艦の舳先があがると、放射光の軌道は大きくぶれた。
惑星への直撃は免れたものの、閃光は衛星のひとつ、ひしゃげた楕円体の月、ヒュプノスに命中し、打ち砕かれた月の欠片は火の玉となって地上に降り注いだ。
かくして、大いなる冬の時代は到来した。




