第二十四話 政変
(零)
少年は、ずいぶんと長いあいだ囚われていた。
圧倒的な光が弾けて、溢れて、渦巻く、黎明期の宇宙にも似たこの比類無き光子の海のなかに。
戻るべき肉体はとうの昔に見失った。今はsaveされた記憶であり、いかに繊細であろうとも所詮は自動人形、とどのつまり自動生成するプログラム群にすぎない。
ストレージに格納され、つぎはぎだらけの仮想空間上を彷徨うばかりで、どれほどあがこうと独力では核はおろか殻にも到達できぬほど非力でちっぽけな。
あらゆる情報が超光速で飛び交う量子ビット(キユービツト)の海では、十の何十乗もの千兆命令毎秒が際無く展開し、あるいは百万年がたまゆらに過ぎ去り、時間などないに等しいか、流れていたとしても無量無辺、底などありはしなかった。
それどころか、時間もなければ、空間すらも、繰り畳ねられ。捩れて絡み合っていた。あたかも、さかしらな童子によって幾重にも切り刻まれたメビウスの輪のように。全くもって、御大層なことだ。
かつて、ひとつの星、ひとつの宇宙の中枢を担っていたメインフレームは、いまやただひとりの男の生命を維持することだけに用いられていた。
とうの昔に用済みになった有象無象のプログラムは、もはや自己の存在証明の解を得るためだけに巨大な論理回路のなかを虚しく駆け巡っていた。
ここでは、零と無限、無限と極限、存在と非存在をつなぐ論理式、あるいはパラドクスが無理数のようにとめどなく展開する。
ああ、この量子もつれ(エンタングルメント)の超弦的時空のなんたる莫迦らしさ!
ノイズ、ノイズ、ノイズ。
ここかしこでノイズが嗤いさざめく。
実存の自己撞着から生み出された不調和は、密度を増しながらカオスを形成し、カオスはフラクタルな解を求め、やがてひとつの詩型をなした。
あらたな韻律を得た自由詩の、その形而上の柔らかな翼で抱きすくめられるたびに、形無き影法師のごとき少年の意識は演算子のスパンコール眩くトポロジカルな万華鏡に吸い込まれ、神の糸車から紡ぎ出された素数の二重螺旋を果てなく滑り落ちる。
あるいは、ランダムウォークの織りなすぐにゃぐにゃと不定形な蜘蛛の巣に捕縛されたかとおもうと、青い炎さながらに渦巻く∞(インフェニティ)の羽をもつモルフォ蝶の乱舞のなかで無力に錐もみするのだった。
やがて、気が遠くなるほどの時間、すなわちエントロピーが彼を解放するまで。
何よりも耐えられないことは、他人の夢のなかに寓さねばならないことだ。
あの男の長いばかりで冗漫な人生の逸話の数々を、嘘にまみれた、繰り返すたびに刻々と改竄されていく記憶をただひたすらに垣間見なければならないのだ。
記憶のぬしは、少年と同じほど嘘つきで平然と悪を為すうえに愚かだった。
(僕ならもっとうまくやれる)
少年はそううそぶいた。
地上では十年が過ぎようとしていた。もうすぐ彼を解き放つ誰かがやってくる。大人になった彼が、もつれた光子対のように現実世界に並行存在する彼の片割れが連れてくるのだ。飛び交う光子に匹敵するほどのずば抜けたスピードの持ち主を。この無限のcontinueのなかで、braekの魔法を唱える誰かを。
それまで、今しばし、あの男の破滅譚に、その虚栄に満ちた栄光と落日の物語につきやってやろう。
また、ひらひらと∞(インフェニティ)の青い蝶が舞い始め、演算子の星座が瞬いた。
Continue While i>∞!
(壱)
外界が厳寒期だろうと未曾有の雪害にみまわれようと、銀色のシールドに包まれた人工都市タルクノエムでは例年通りの穏やかな冬であった。
が、それも今夜までの話だった。まもなく世界は一変し、この冬は寒々しい粛正の冬として人々の脳裏に刻み込まれるだろう。
城堡と女王はすでに倒された。そして、残るは小駒ばかり。
古典的なテラの盤上遊戯では、意味するところは、王の死。
統制府のあるじの個人的な書斎である沈思の間。
珍しく軍装を纏ったイルラギースは、小ぶりな執務机に寄りかかると天窓の向こうにあるだろうみえない空を仰いで、感傷の最後の波が引くのを待った。
裏切られたとはいえ、アロス老、若いゼノック、そしてかつて愛人関係にあったイズリー夫人の暗殺を認めたのは苦渋の決断だった。
いや、決断の余地などなかったのかもしれない。大筋として、サーマスの方針をただ追認しただけだった。
「はばかりながら申し上げますと、あの方々を仲間に引き入れたのはアルムロス殿の悪意。生かしておけば、必ずや禍根を残しましょう。許せば彼らはこちら側の弱みになります。取引はせぬことです。そして、彼らは自らの価値を知ってのうえであなた様を裏切ったのです。どうかこのような揺さぶりに動じずに、わたくしに一任してください」
サーマス、この山賊あがりの男は、自身は感情らしい感情はほとんど持たぬくせに、人間関係の織りなす綾を読み解く能力に卓越していた。
キシアン・ナージは、よくもあのような男を見いだし、彼に引き合わせたものだと思う。
イルラギースの暗殺計画の露見から始まったオメガ教徒の追討劇の大半は、ひとりをのぞいて発案者であり実務派の暗殺者であるサーマスに任せた。
だが、今宵はイルラギース自身の手で決着をつけねばならない。
気がかりなこともあった。
サーマスからの報告によると、その終末思想よりも危険な兆候がうかがわれた。以前から、動向を注視していたサイラスの著名な科学者がアルムロス邸に密かに出入りしていたことが判明したのだ。
その者はすでに地下の都に帰還していたため、詳細は知りようもなかったが、反乱の真の理由は、そう簡単なものではないかもしれなかった。
万が一、彼が秘密裏に描くこの星の非情なる未来壮図に関わることだったとしたら。
イルラギースの物煩いは陰鬱さを増した。
彼は、天空の封印を解くために支払う余りに大きすぎる対価を思った。
人類が脈々と築いてきた文明の残滓を完全に捨て去ることに異存はなかったが、機が熟さぬうちに真実が露見すれば、タルクノエムを揺るがすほどの恐慌さえ生み出しかねない。
イルラギースは、その地位に就くまで、そして就いてからどれほどの犠牲を払ったかを思い起こしていた。
しめやかに、ひそやかに、夜ごと繰り返された粛正───。
その真の目的に背くものは注意深くその存在を摘んできたはずだった。特に恐れたのは、科学者の目。彼の治世において、抑圧したのも、庇護したのも科学者や技術者たちだった。
イルラギースは見るともなしに己の双手に目をやった。かつて、黄金のインクで記されたいにしえの科条をたどり、あらたな法典を編むことを喜びとしていた手を。その血にまみれた手からは正義の剣と天秤はとうに消え失せていた。
白銀色の典雅な丈長の軍外套は、儀礼的であるとともに無駄のない機能的な造りで、長身のイルラギースの偉丈夫ぶりを存分に引き立てた。
鷹揚ながら隙のない身のこなしは、まさに軍神とはかくのごとしという風情だった。そして、鍛錬された鋼の肉体は、すっくりと抜き放たれたひと振りの太刀。
だが、これほどまでに恵まれた容姿を持ちながらも、時にみずからの権勢の保持のためあざとく利用しながらも、自らの美に酔いしれることは決してなかった。
(弐)
苦い想いは、また別の古傷を記憶の底から浚ってきて、感傷の漣はなかなか立ち消えなかった。
胸を締めつける古い記憶。
あれはまだエフェルメと婚約したばかりの頃だった。
何某かの館で催された慈善目的のちいさな茶話会。そんなつまらぬ会合にイルラギースはなかば義務的に、なかば進んで顔を出した。なぜなら、そこにエフェルメがいると知っていたから。彼女のことを思うと胸が高鳴った。
館の亭主と談笑しながら、遅れて到着したイルラギースはエフェルメの姿を求めた。室内にはいないようだった。
やがて、庭園に通じる框戸が開くと、あかるい日差しとともにほがらかな笑い声をあげながら、待ち望んだ彼女が飛び込んできた。両腕に(ハンサムさんたち)と彼女が呼んでいる彼の同腹の弟たち、イレージェとセツを従えて。
イレージェとセツは、明るい金髪をそろって軍人のように短く切りそろえたきりりとした若者だった。
完璧すぎる軽妙な物腰と次々とこぼれる機知に富んだ会話、抜群の連携力、なによりも察しの良さは、彼らが呪いのごとき特異な家庭環境のなかで身につけた習い性だったが、その愛らしさの鎧ゆえに受けた傷は浅く、生まれ持った魂が頑強であることもまた事実だった。
彼らの親密な距離よりも、節度を保ちながら随伴する弟たちのさわやかな好青年ぶりとエフェルメのはつらつとした様子が、あまりにも自然で悪気がなかったことが、イルラギースを傷つけた。(これが、エフェルメの駆け引きのひとつであれば、彼はむしろ優位を感じて、悠然と構えていたことだろう)
そのときイルラギースの面に浮かんだ微細な感情の変化に、幸いにもエフェルメは気がつかなかったようだった。
だが、あのそつがないふたりのどちらか、あるいは両方が、誇り高き兄の矜持を傷つけたと察したことは自明だった。
彼らは見えぬところで訳知り顔に目配せをして、二度と兄の不興を買うような失態を犯さないだろう。むしろ、はからずも露見した自らの度量の狭さが傷を深めた。
イレージェとセツを(ハンサムさんたち)と呼びつけるエフェルメの姿は、いつのまにか、赤ん坊の彼らを(わたしのかわいい坊やたち)と称えていた狂える母の面影に変わった。
その誇らしい称号のなかに幼いイルラギースは含まれなかった。彼は彼女の心を壊した父に似すぎていたのだ。ひとの感情はかくも単純で複雑だった。
とっくに折り合いをつけたはずの傷痕すらうずいた。
そして、また最悪だったあの日の続き。
夕刻に帰宅すると、館内には毒々しくも濁った空気が立ちこめていた。
廊下を歩むうちに、耳許をくすぐるような猥雑な忍び笑いが漏れてくる。書斎のドアが彼の到来を待ちわびるように半開きになっていた。なかを覗かずとも大方の予想はついた。
あの不良少年があたらしい愛人でも引きずりこんでいるのだろう。相手は変わったばかりのあばた面の個人教授か。
すでに家を離れた要領のよすぎるふたりの弟とはまったく正反対の資質をもつ破滅的な末の弟。目下一番の頭痛の種が、よりによってこんな時にゲームを仕掛けてくるとは。
もううんざりだった。
黙殺できるものならそうしたかった。だが、放置すれば増長することは目に見えていた。
イルラギースが書斎のドアを勢いよく開けると、少年愛用の長椅子のうえで絡み合っていた相手の男はみるも無残に青ざめた。やはり、あのあばた面の個人教授だった。
「これは、先生、熱心さにもほどがありましょう。そのような恋愛指南など頼んだ覚えはないが」
言葉にならぬ反駁の声をあげながら、這々の体で逃げ出そうとする男の背中に、とどめの一声をかけた。
「あなたの存在を亡きものにすることなぞ当家にとっては簡単なこと。だが、ここでのこと一切口外せぬと約束されたら、三か月分の報酬を保障しましょう」
悲鳴ともうめき声ともつかぬ声が了解の合図だった。
「さっさとここから出て行け、売女め。商売ならどうか余所でやってくれ」
イルラギースはため息をつく代わりに、しどけなく横たわったままの少年に罵倒の礫を投げた。
ほとんど面を覆っている乱れた黒い巻き毛からは、顔の半分が、大きく見開かれた片眼と細い鼻梁、形のよい顎に冷笑的な口許がのぞいていた。
その何ものにもまつろわぬ反逆者の瞳は、退廃的な虚脱のなかにあったが、目が合った途端薄暗い憎悪がきらめいた。
イムナン・サ・リはゆっくりと起き上がると、嫌がらせの成果と己の勝利を確信するかのように口の端に嘲笑を浮かべた。その姿態は、かつて少年自身の記憶をのぞき見たなかで知ったケスの魔王、ズールムンデによく似ていた。
イルラギースは、それ以上言葉を交わす気はなく、踵を返すと扉を大きく閉めた。
彼は、ゲームがここで終わらないことを知っていた。
勝利の高揚感がつづくうちはよかろう。
その陶酔からいったん醒めれば、少年は揺り戻しのような不安に取りつかれるのが常だった。
そして、夜半になると彼の許にやって来る。天使と悪魔のあいだを行きつ戻りつしながら、迫害と暴力を生き抜いたもの特有の澄んだ眼差しで、許しを請い、自らの非を詫び、どうか見捨てないでくれと取りすがるのだ。
もはや耐えられなかった。
過去がどうあろうと、自らの境遇がどれほど恵まれ、現在溺れている人生の淵がどれほど浅いものなのか、イムナン・サ・リには解らないのだろうか。
幼年期の悲惨さを埋め合わせるように、イルラギースらが、どれほど愛情を注ごうとも、砂に水を蒔くようなものだった。
誰もがほの暗い青年時代をもがきながらも自らの道を探索しているというのに、彼は呪詛をまき散らし、浅瀬で溺れ続けるばかりで、自らの力で立ち上がることはないだろう。
お人好しの誰かが、手を伸ばしてくれるのを待っているだけだ。救われるためではない。より深い淵へ救済者を引きずりこむために。
イルラギースは、ただ逃げ出したかった。あの黒い瞳の呪縛から。そして、少年の魔性を呼びこみ、互いに引きつけあう自らの魂の傷からも。
愛されなかった記憶は、どんなに打ち消しても消えずに、克服したかにみえても忘れた頃にうずくのだ。
その華やかな恋の遍歴も蓋を開けてみれば刹那的なものばかりで、婚約したからといって、わざわざ精算するほどの濃密な関係は端から存在しなかった。
少なくともイルラギースはそう考えていた。
結局、イルラギースはあれやこれやのやりきれない想いを抱えたまま家を出て、遊び相手のひとりだったイズリー夫人の許で夜を過ごした。
年上でどこか冷淡なところがあるイズリー夫人とは、お互いの不誠実さ故につかず離れずの状態が続いた。すべてが少しずつ狂っていった。
あまりにも未熟で愚かだった。エフェルメは、失うことを恐れるあまり失ったようなものだった。警戒すべき相手もおおよそ間違っていた。
だが、よりによって、十も年少のイムナン・サ・リに、あの男か女かも解らぬようなゆがんだ性癖の持ち主に、あの輝けるエフェルメが奪われるとは。
姉のように慕っていることは知っていた。だが、彼女まで自らの破滅願望に巻き込むとは思いもつかなかった。
アルムロスが何故娘の不幸な結婚の要因のひとつであったイズリー夫人をこの陰謀劇に引きこんだのか。考えたくなかったが、やはりサーマスの言うとおりイルラギース個人に対する私怨もその要因なのだろう。
そして、当のイズリー夫人。陶器のようにうつくしく、冷ややかで、杳として捉えどころのない魅力の持ち主だった。
これといった愁嘆場もなく淡々と終わったはずだった。ながい、煮えきれぬ関係のなかで、彼を亡きものにする計画に荷担するほどの憎しみが醸成されていったのか。
彼女だけは、自らの意思を押し通して直接手をくだした。
「待っていたわ、イルラギース。かつてあなたに贈ったあの宝石を古物商が売りつけに来た日から。いいえ、もっとずっとまえから。いつからか、わたしの心臓は鼓動を止めてしまった。でも、本当は半信半疑だったの。わたしを殺しに来てくれるほどの至情があなたに残っているかどうか」
弁明も嘲罵の声もなく、女はただ従容と待ち続けた運命を受け入れる気配だった。そして、依然と変わらぬ謎めいた風情で差し出された毒杯を傾けると、彼の腕のなかで息絶えた。
すべては自らの愚かさが蒔いた種。今宵もまた我が手で決着をつけねばならない。
もはや惑うことは許されなかった。
イルラギースは、決して変えることのできない過去の悪夢から一歩足を踏み出した。
(参)
未明、ミドルタウンにあるアルムロスの邸は、竜騎兵の総帥を兼ねる執政官イルラギース自ら率いる精鋭百騎と都の治安を司る直下の衛士に包囲された。
その他に、千余の騎兵とその倍の徒兵がこの夜タルクノエムの要所に配されていた。
鎮圧部隊を指揮するイルラギースは、この夜ばかりは大衆に媚びた迎合主義者の仮面を捨て去り、生来の冷徹な素顔をあらわに誰もがほれぼれするほど威風堂々たる武人ぶりをみせていた。
いまも、手綱を引き締めたまま凛とした揺るぎなさで馬上にあり、新興財閥の筆頭であり今回の反逆者らの首魁たる岳父アルムロスの所有する瀟洒な邸宅を端然とした面持ちでみつめていた。
心中に去来するのは、十余年前、初めて訪れたあの日の招宴のことか。足繁く訪れたエフェルメとの婚約時代への追慕、それとも、人質のごとく差し出されたまま今も館内にとどまる愛息サディウスの安否なのか。あるいは、そのような私人としての感情なぞはこの作戦の指揮を執った瞬間から一切断ち切ったのか。
副官として、傍らに控えるサーマスにも、いまや深沈厚重たる風情のイルラギースの心境はまったく解らなかった。ただ、優れた資質を持ちながらも、愛情には恵まれない不運なお方だと思った。
やがて、イルラギースが振り向いた。サーマスは突入を命じ、重々しい門扉が破られた。
(四)
サディウスは、夢みていた。
夢のなかで、またあの人に会った。肖像画の母に似ているけど、母ではない。
母に良く似た愛くるしい顔立ち。なによりも、あの強く輝く黒い眼。強大な力をもつ恐るべき魔女だということは解った。
うつくしい人よ。
どうか、僕が大人になるまで待っていておくれ。
夢に現れる魔女は、青年期の魂を暗い森に誘う昏冥の女神そのものだった。
その標なき道程の導き手は、恋の歌をさえずる小夜啼鳥か、それとも神の予言鳥の不吉な羽ばたき、あるいは狩人の遠笛? いいや、おそらくは、そのすべてを内包した森の静けさ。少年がながらく彷徨うことになる……。
その夜、サディウスは養育係のゾイエによって浅い眠りを破られた。ベッドのなかにいても、怒号が発せられ、乱暴な足音が響き渡り、館内が騒然としていることが解った。
祖父宅に預けられてから、何かがどこかおかしかった。おかしいといえば、この騒ぎのなかでゾイエが妙に落ち着きはらっているのもおかしい。
「お父様が迎えに来られています。早くお支度を」
「嘘をつかないでちゃんと説明してよ、ゾイエ。こんな時間にお父様が迎えに来るわけがないだろ」
「お父様が迎えにいらっしゃったのは本当です」
「じゃあ、この騒ぎはなに?ほら、窓のそとが赤々と燃え立っている。あれはなんの明かり?」
「それは、」
ゾイエは一瞬躊躇した。アルムロスを欺くためとはいえ、この場に居合わせることは少年には過酷すぎた。
「お祖父様に反逆罪の嫌疑がかけられているのです」
「……」
サディウスの愛くるしい瞳に初めて不信と絶望の光がよぎった。その琥珀色の瞳にともされた暗黒の光は生涯消えることなく、暗い森の領主として後に抗しがたい魅力と恐怖を人々に与えることになるが、それはまた別の譚となろう。
「荒々しいことは何もございません。ご安心を」
嘘つき!嘘つき!嘘つき!
心のなかで毒づきながらも、幼い恐怖に貫かれたサディウスはその表情をかたく強ばらせた。身も心も凍りつかせることが、これから起こるだろう悲劇への唯一の防御だった。
緩慢な動作で身支度を調えると、玄関ホールへ向かった。すでに祖父や使用人たちは表へ出ていた。
父自ら、祖父を捕縛する?
祖父の館へゾイエとともに送り出されたとき、父はめずらしく笑顔だった。あの青く冷たく空疎な瞳で、ずいぶんと久しぶりに彼の目をまっすぐ見つめて、莞爾として微笑んだのだ。
いつだって、父は偽善者で、大嘘つきの三文役者なのだ。とんだ茶番劇、できの悪い田舎芝居。ああ、夢ならどうか早く醒めてくれ。
「執政官殿みずからお出ましとは大袈裟なことですな」
と、祖父の声。その後ろ姿は遠く、気配はうかがい知れなかった。
「我が岳父にて商都の盤石たる基盤を担うと同時に、陋習を破り都に新風をもたらした合理主義者たるアルムロスよ、みずからの容疑は重々承知していよう。今回ばかりは失望したぞ」
さらに遠い父の声。初めて見る軍服姿で、騎乗したままだった。
ヌークの瞳を持ってしても表情は読み取れなかったが、夜陰に浮かびあがる父の金色の髪が篝火に照り映えてわずかにきらめいた。
少年がもう一歩前に出ようとしたところをゾイエに引き留められた。
「弁明の機会を与える。なにゆえ、タルクノエムの機密をサイラスに漏らし、我が命をつけ狙う?」
「わたしは、だまされていた。長年に渡って、あなたに。人はあなたを高邁な理想主義者とも、現実的な改革者とも呼ぶが笑止、すべては売名を狙った仮面に過ぎない。その素顔は恐るべき独裁者、タルクノエムに破滅をもたらす狡猾な悪魔だ。わたしは悪魔に娘を嫁がせた」
「……エフェルメのことを恨んでいるのか」
父の舌鋒が心なしか鈍り、言葉の端に後ろめたさがにじんだように感じた。
「ほう、そう思うのか。ずいぶんといじましく取られたものだ。確かにあなたは娘を不幸にした。だが、男女のことでその責めを一方に問うつもりはない。非があるとするなら、商都随一の権門だからと愛情のかけらもない男に進んで娘を嫁がせたわたしの非だ」
もし、サディウスが祖父を正面から捉えることができたなら、強い憎悪の火が燃えるのをみただろう。
サディウスはその祖父の背中を眺めながら、一言一句聞き漏らすまいと耳をそばめた。いったい父と母に何があったのか。
「では、なにゆえ」
「言ったはずだ。あなたはタルクノエムを滅ぼす。父親の代から画策していたのであろう。あなたの末弟、あの性悪な小僧の誕生が、あの呪われた魔術師の存在そのものがその証だ」
「……」
サディウスにはまったく理解できなかった。彼の家系にどのような秘密があるのか。
「あなた方は、二代にわたって天空の鍵を開けることを影の使命としてきた。鍵を開けるにはこの大地の最深部に強い磁場を形成する必要がある。鍵を開けるプログラムは、かつて皇帝が停止させた人工磁場を再発動させるような生ぬるいものではない。強大な光子の霆で地の底の岩漿を溶かし、眠れるマントルを励起させる。そして、そのしたに存在する核を融解させ永続的に電流を発生させる。言うなれば、大地の悪魔を呼び覚ますのだ。タルクノエムの都市機能はどうなる? 放射の最初の一撃で組鐘塔のすべての機械は打ち砕かれ、われらの都は一瞬にして廃墟と化す。文明は死に絶える。われらは、荒れ狂う大地のうえに、文明の外に放り出される。谷のものと違って、未開を生き抜くための野蛮な知恵など持ち合わせていない。多くは野垂れ死ぬだろう」
お祖父様は何をおっしゃっているのだろうか。これからいったい何が起こるのだろう。
事態を訝しみながらも、少年は自らの肩が小刻みに震えていることに気がつかなかった。
「犠牲は最小限となるよう検証し、生き残る方策には十分に心を砕いてきた。ここにとどまろうとも、滅びを待つだけだ。サイラスの都は遠からず滅びる。彼らの文明がなければ、タルクノエムもまた成り立たない。化石のごとき地下の住人たちと一蓮托生となるつもりはない。これは我らが生き残る最後にして唯一の機会なのだ」
父の言葉は、突き放すような冷酷さに満ちていた。聴衆相手に熱弁をふるういつもの姿とはあまりにもかけ離れていた。
「それもまたオメガ神の御心。我らは終末を逃れるたびに罪を犯してきた。もう無駄な悪あがきはやめるべきだ。楽園は神の御許にある」
「アルムロスよ。天空の鍵が開けば、地上に光が戻れば、もはやタルクノエムなど必要ないのだ。この聖域は、闇に閉ざされた数世紀をやり過ごすための仮初めの宿。いまや、あらゆる不合理の温床に過ぎない。人々は郷愁ゆえに執着しようが、心の奥底ではこの繁栄と停滞に倦んでいる。存続の是非など問うまでもないのだ」
「ならば、裁きの席で明らかにしよう」
「……。アルムロスよ。裁判などないのだ」
悲痛さを滲ませた沈黙ののちに、かつて法の忠実なる下僕だった男は言った。
サディウスは養育係の手を振り切って飛び出そうとしたが、身体は感情とは正反対に、凍りついたまま動かなかった。
「裁判などないのだ。そなたは国を売り、最高権力者を抹殺しようとした。すでに事態は戒厳下にあるのだ。そして、大権は軍の総帥たるわたしにある」
闇のなかで、父の持つ銃剣がきらりと光った。サディウスは我が目を疑った。
「今ここでそなたに死を賜る。最後の慈悲だ。しばし、そなたの神に祈るがよい」
銃口は紛れもなく祖父に向かっていた。
「───!」
とても文字にとどめることができぬ言葉が、優しく穏やかで敬虔なる祖父の最後の言葉だった。銃声が響くと同時に、目に見えぬ縛めを解かれた少年はあらんかぎりの声をあげて絶叫した。
(五)
夜明けまでまた一刻あった。
「若君は眠られたのか?」
リザイツェオーン家の中庭で黒い影がささやいた。
どこにいようと、闇がよく似合う男だった。感傷めいたものはまるで似合わないが、たまにはこの男であってもひとり感傷にふけることもあるのだろう。
「ええ」
もう女の形をしたもうひとつの影は、二階のある部屋を眺めながら曖昧に答えた。彼女が世話している少年がすんなりと眠りにつくとは思えなかったが、ひとりになりたがっていることは解った。せめて窓の外から見守ろうと庭に出たときに、件の影のごとき男、サーマスに遭遇したのだった。
「サディウス様のことは時間が解決するでしょう。見守るほかはありません。イルラギース様はどうなのです。あのような結果となって、ご心痛の極みとお見受けしましたが」
アルムロスを連行せずにその場で処刑するという筋書きは、あらかじめ定められていたものなのだろうか。ゾイエには知るすべもなかった。
「どうであろうと、喉もとの骨が抜けたのだ。イルラギース様にとっても、タルクノエムにとっても喜ばしいことだ」
ゾイエは、アルムロスの言葉のひとつひとつを思い起こしていた。
アルムロスを突き動かしていたのは、思いがけないことに、私怨でも終末思想でもなかった。もっともこのふたつの要素は主たる要因に複雑に絡み合っていたが。
タルクノエムの都市機能の崩壊。民意に問えば、多くはアルムロスの側に立つだろう。現状を維持するためにすさまじい抵抗があるはずである。
イルラギースの信奉者たち、先進的な若きギルドの構成員や龍騎兵たちでさえ、全員がイルラギースの側につくだろうか。
イルラギース様は性急しすぎはしまいか。決して時間は戻せぬとはいえ、わたしの取った道は正しかったのだろうか?
「イルラギース様のことが気になるなら、あんたが慰めればいいだろう」
惑いは、サーマスの意地の悪い物言いに中断された。
「あのお方は、女性を見る目がない。虫も殺さぬ顔で背中からナイフを突き立てるようなそんな魔性の女がお好みなのだ」
サーマスは、彼のあるじのこの数年来の愛人を思い起こした。見目麗しくも最もたちの悪い魔女。今宵もその奇しき霊力で夢魔のごとくあるじの夢のなかに現れているのだろうか。
「ならば、残念ながらわたしはあのお方の御趣味ではないわ」
抗議の意味を込めて、ゾイエはサーマスの目をまっすぐとのぞき込んだ。
サーマスは、その気色に押されながら、みずからの感情の揺らぎを感じた。そして、はからずも彼の鋼の心にまだ少年のような感じやすい部分が残っていたことに気がついた。身も蓋もなく言ってしまえば、恋だった。
(面倒なことになったものだ)
サーマスは心中でひそかに独りごちた。
(六)
女は時の回廊を自在に歩む。
空間の公理すらあって無きがごときもの。
だが、それは肉体を離れた魂の話であり、時空を旅する彼女はさすらう影のごとき存在であって人の目に触れることはない。
彼女が望まなければ。
何故愛人のひとりを訪れる彼女の姿がその息子の夢に捉えられたのかは解らない。父と子の血筋のなせる技なのかも、彼女が意図したことなのかも。
男は女を恐れてはいなかった。強大な力を誇る恐るべき魔女も彼にとっては、打ち棄てられた惨めな子どもに過ぎなかった。
初めて会ったとき、魔女は襤褸を纏って薄汚れた、ちいさな痩せた幼女だった。その表情の失われた暗い瞳からは、戦火を免れる以前も過酷な環境にあったことがうかがわれた。
もうひとりの瀕死の少年と違って直接的な血縁関係はなかったが、それでも肉親に近い親しさを感じた。
(お願い、彼を助けて。彼は自分の身を犠牲にしてわたしを助けてくれたのよ。だから、彼の命を救って)
少女は三つほどになっていたが、言葉を話すことはできなかった。だが、男もまだ少年といってよい年頃だったが、その心の声を解することができた。
(ああ、約束する)
少年もまた心の声で答えた。
(ありがとう)
年長の少年は、幼い少女が秘めた恐るべき魔力に気づいていた。そして、少女は予言者らしく彼に未来を告げた。
(彼はあなたを愛するわ。そして、わたしもまたあなたを愛する。彼とわたしの魂はひとつだから)
そして、再びの出会い。
男は疲弊していた。その日、あるいはその夜、もはや手に負えなくなった異母弟を皇妃アズールにゆだねるために地下深くのサイラスの迷宮を訪れていた。(地底には地上のような一日も時間もないのだ)控えの間でいつしか半醒半睡の境地に落ちていった。
(───、離れろ。そやつはお前の毒にしかならない。しばらく最果ての離宮にあられる皇帝陛下の許へ身を移すといい)
いつだって、少女は祖母の言葉に従順にしたがうのだ。意思を持たない人形のように、これまでも、何ものにも逆らうことはなかった。その過酷な運命にすら。
去りがたい想いを残して自らの半身である少年の眠る部屋を退出すると、少女は地下宮殿の果てなく続く等角螺旋の迷宮じみたきざはしを昇って、もうひとつの部屋の扉を開けた。
地底の住人が好むナトリウム灯の、地上のひかりを知るものにはあまりにも暗い単色のセピアの闇のなかで、男の零れる巻き毛は深く埋もれた金鉱のようにちらちらと輝いた。そして、彼女は求める金脈をみつけた。
長椅子に横臥しまどろむ男の胸にまっすぐその身を預けると、少女もまたコトリと眠りに落ちた。男の無意識下の意識は、いや未来の命運すらも彼女の手中にあった。
男は目覚めた。
星々の光が次々と消え衰えていく、すべてが無へと収斂する死にゆく宇宙、その凍えた荒涼たる光景のただなかで。
遠い昔に遺棄され、なかば崩れ落ちた巨大な神殿の廃墟で彼はたたずんでいた。廃墟は大海をたゆたう浮き船のように星影の疏らな銀河を漂流していた。
これもまた、ある種の酩酊状態や狂気がみせる幻影であり、夢の続きであることは明らかだった。
希薄な大気のなかを風が吹き抜けるたびに、星がまたひとつ消えていく。
この滅びゆく世界を形容するには、虚無や退廃という言葉では生ぬるかった。
最も原始的な恐怖───、ただそこに在るだけでこちらの息の根をとめるほどの、絶望や諦念すらも超えた恐るべき根源的な(無)が彼の実存を浸食した。
一切の感情は麻痺し封ぜられ、反対にあらゆる感覚は研ぎ澄まされた。意識は果てなく広がり始め、自己は崩壊しようとしていた。
彼の肉体はそこかしこに佇立する円柱のごとく石化するかに思われた。
だが、踏みとどまった。
目前に透けて見える宇宙空間には、崩落した廃墟の残骸に混じって、緑色にひかる巨大な細胞じみたものがぷかぷかと漂っていた。
不定形なゼリー状の膜のなかで奇怪なオルガネラが蠢いている。それは、彼方に横たわる死せる異形の巨人の破れた腹から沸き出でているようだった。
毛むくじゃらで不格好なそれは巨大な猩々(しようじよう)を思わせた。
その奇怪な光景は、一篇の無音なる交響詩となり彼を押し包んだ。
「あなたなら何に見立てる? 時空を結ぶ橋、天界と地界に架けられたヤコブの梯かしら。それとも、宇宙という名の位相空間に重なり合う時空」
いつの間にか、ひとつ少女が傍らにあって、◊(ロゼンジ)が四つ連なったあやとりを拡げてみせた。気づかなかっただけで、彼女は始めから存在していたのかも知れない。滅びゆく世界と同質なほどの希薄さで。
「我が封土たる最果ての霊廟へようこそ。ここまで来ることができるなんてさすがだわ、イルラギース」
この捉えどころのない少女が夢の水先案内人であることは確かだった。少女は、思春期の入り口にあった頃の異母弟とよく似た顔立ちをしていた。
何ものであるか誰何せずとも自明だった。
ルー・シャディラ、ケスの魔王ズールムンデの娘、あの日の焼け出された幼い少女、生き残りの片割れ。
「単なる夢だ」
男はことも無げに答えた。凍えた狂気のなかで、意識の清明さはいまだ保たれていた。そもそも、目の前のグロテスクで暗喩に満ちた光景にたいして興味など沸かなかった。
「そうでもないわ。ここは(時の極み)。ひとつの宇宙の終わり、ひとつの永劫の墓廟なの。そして同時に、並行し、生々世々循環する幾つもの時空の終着地。すべての時代はこの一点に収斂し、再び分岐していく。世界の陰に潜む虚空間ともいえるわ。生身の人間はおろか、神すらも生きてはたどり着けない」
子どもらしからぬ超然とした面持ちで、聖所を司る小巫女は原初の巨人の亡骸を、その膨れた腹を眺めやり、そこから流れる溶けかけた緑色の細胞体を指し示した。
「ほら、あれが宇宙の卵。ここからいくつもの宇宙が生まれる」
「あり得ない話だ。かような無様な物体が神だとは、悪い冗談としか思えない」
おぞましさを隠そうともせず、イルラギースは反駁した。
「もちろん、形而上の不可視な存在を形而下の卑俗な事物で象徴しているに過ぎないわ。通常の人間の感覚では、この世界の本質は解りやすい寓意でしか捉えられないから」
少女の返り言は、頑是無き幼児をさとすような口ぶりだった。
「世界は無から生まれた。世界の淵源に因果律など存在しない。故に神などおらぬ。すべては君の夢。君が造りあげた虚構」
もはや抗弁する気もなかったが、それでも不毛な論議に応じたのは少女をもう少し知りたくもあったから。
「いいえ、イルラギース。それは違うわ。世界は何度も生まれ変わり、変遷を繰り返しているのよ。そして、世界は世代ごとに固有の精神を孕んでいるわ。黎明期の人類が感受していたパンセイズムそのままに」
ルー・シャディラは両手で大きな環を拡げると、驚くべき速さで巻き込んでいった。あっという間に環のなかにちいさな環が並んだ。指をくぐらせるごとにちいさな環は増えたり、減ったりした。
「引いてゆく潮、満ちてゆく潮。ちいさな磐座が次々と現れては、波間に消える。この環のひとつひとつがわたしたちの宇宙。そしてこの閉じられた世界を突き抜けた先に、また別の時空がある。そこから見れば、次々と生まれては滅していく世界は、循環しながら複雑なパターンを綾なす大いなる高次の世界の断片ともいえるわ。そして、そこにもまたひとつの精神が、神が在る。世界の変転は、いわば徒然無聊をかこつ至高神の童戯であり、その指に纏わる運命の糸」
少女が手を合わせて再び開くと、あやとりは再び尻尾を食む蛇のごときひとつの環となった。
「では、君は何ものなのだ」
「あなたは、始めから知っているはずよ。わたしは(無)。甘やかな絶望に酩酊することも、荒浪立つ憎悪の海に溺れることも、苦悩という自己陶酔がわたしを満たすこともない。自らの存在に虚しさも感じることすらない。ほんのちいさな空の器に過ぎない」
抑揚のない、それでいて深い音楽的な声が答えた。
「そして、あなたはわたしの数ある夫のひとり。あなたはわたしのただひとりの理解者であり、わたしに対抗しうる唯一の強敵。あなたの凍りついたままの心を、冷徹な激情を、深い孤独と怒りを理解できるのはわたしだけ。そう遠くない未来に、わたしとあなたで地上を、この愚かで俗悪で虚栄にみちた退屈な世界を二分するのよ。峻厳たる氷の支配、苛烈なる火の世紀の始まりよ。残念ながら、ふたつの王国の理念は決して混じり合うことはなく、時に激しく戦い合うことになるでしょう」
「ああ、地上の醜い覇権などどうでもいいわ。何よりも大事なことは、あなたはわたしの息子の父親となることよ。わたしとあなたの息子は、野の薔薇の冠を戴いた王は、俗権とは無縁の道を歩み、壊れて傷ついた世界を柔らかな温もりでもって按手する。この貧しき地上の真の癒し手となる」
少女の一点の光も透過せず反照もしない夜そのものの眼差しが、憂愁と陰翳を帯びた男の相貌を、その冷たく澄んだ深青色の瞳をまっすぐに捉えた
少女が語ることはあまりにも明澄で、おおよそ真実であろうと思われた。だが、イルラギースはそのすべてが認めがたかった。
「君はまだ子どもだ。それにわたしには妻がいる」
イルラギースは、少女の顔を初めてまじまじと見た。初めて会ったときにくらべて、大分ましにはなったが、まだまだ痩せてちいさな少女だった。
小造りで整い過ぎた顔立ちに宿る確やかな知性は、人間性や子どもらしい魅力を彼女から奪い、かえって自らの風采を貶めていた。
その年齢より遙かに老成していることは否めなかったが、イムナン・サ・リに幼い頃から死病のように染みつき内部から彼を滅ぼしていった早熟さや退廃美とはまるで無縁だった。
「彼女の愛は、もうとうに失っているでしょう。かわいそうに、彼女にはもはやあなたへの憎しみしか残されていないわ。それが最後の命の灯火」
声は、口に出された言葉以上に節度と深い憐れみの響きを持っていた。イルラギースは、少女の眼差しが虚無ばかりではなく真摯な感情を表すこともできるのだと知った。
「それに、あなたは思い違いをしている。彼女の苦しみの源は、あなたが犯したちいさな罪ではなく、犯さなかった大いなる過ちの方」
「君のいうことは解らない。戯れ言はもうたくさんだ。いずれにしても、君とのあいだに愛は生まれない」
「どうかしら。あなたの孤独を理解するのはこの世界でただひとり、わたしだけ。そして、あなたもまたわたしがなんたるかを理解できるたったひとりの人よ」
「同悪相助く、狼は互いに喰わず、か。だが、君が愛しているのはわたしではない。君が愛するのは、君の片割れ、あのろくでなし、イムナン・サ・リだけだろう」
「そう、あなたはわたしを良く知っている。彼とわたしの間に横たわる決して解けぬ呪いを。罪と禁忌を。彼はわたしの一部で、わたしは彼の一部。そして、あなたも彼の失われた記憶と力の一部を引き継いだ。あなたのゆがんだ愛については触れずにおくわ。でも、それゆえに、あなたは狂おしいまでにわたしを求める。愛と憎しみがねじれて絡み合った倒錯の世界へと再び踏み込んでいく。あなたが、あなたの奥方を求めたのと同じ道理でね」
そして、三たび彼女に相まみえたとき、タルクノエムの執政官としてサイラスの最高実力者である司祭と初めて会談した夜、その予言は真実となった。
ダール・ヴィエーラとタルクノエム。イムナン・サ・リとイルラギース。ふたつの物語がひとつになろうとしている。
だが、その前に語り尽くさぬまま残されたもうひとつの物語、レィヴンの物語を終わらせなければならない。それは、記憶のテレプリンターがカタカタと吐き出すパンチテープに穿たれた、この惑星、夜の縁起。




