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夜行獣 The Nocturnal Eyes  作者: 齊藤 鏤骨
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第二十三話 夜の女神(下)

(壱)


蟇蛙の王が果てるとき、最後のメッセージを残した。魔術師の心象に、瑠璃か玻璃かと見まがう青氷の大聖堂(カテドラル)のパノラマが広がった。


 その威容のなんたる壮麗さ。

 (ただ、息を呑むばかり)

 その意匠のあまりの玲瓏さ。

 (おもわず、ため息を吐くほどの)


 是が非でも、彼は示された氷上の楼閣まで行き着かねばならなかった。

 そこにはあらゆる魔法と奇跡が、知られざる秘儀と救済が、少女を救う手立てがあるはずだった。


 ああ、どうか死なないでおくれ。


 魔術師は、脳裏にしかと刻まれたオトス街道の地形を思い描き、蟇蛙のかすかな痕跡をたどり、瀕死の少女を抱きかかえながら橇を操り来た道を戻った。

 再び、氷床地帯へと橇は疾走した。


 刻々と愛するものの死が近づいてくる。


 やがて、氷河の舌先を超えてしばらく進むと、橇を止めて魔術師は大きなクレバスの隙間に潜り込んだ。雪壁にちいさな割れ目をみつけた。炎で照らすとわずかに靄が立ちのぼっていた。

 その内部に立ちこめた大気に蟇蛙に染みついていたタール臭を嗅ぎ取った。割れ目を両手で押し広げるように、雪を掻きだした。

 やがて、重雪の隠し戸の向こうに、氷河洞窟の大きな裂け目が、氷の大聖堂の開口面(ファサード)が現れた。


 再び雪上に現れた魔術師はその細い肩にぐにゃりとしたゲイルの身体を担ぎ上げ、炬火を手にすると、氷の地下迷宮(ダンジヨン)のなかへと足を踏み入れた。

 氷壁に彫りこまれた天然の列柱やさざ波だつ穹窿(ヴォールト)を灯火で照らしながら、幽玄神境の造形美になどに脇目もふらずに、ひたぶるに歩を速めた。


 至聖なる内陣へ、氷河の青の最深部へ。


 足許ではこの洞窟の形成源である古代の腐植土をふくんだ温かなモール泉と清冷なる氷河の融解水が溶け混じり、堆積したがれ石のあいだに細流をなしている。

 今この瞬間にも、地下泉のほのかなる熱気が氷河を溶食していた。蒲鉾屋根の力骨(リブ)から融けてにじみ出た滴瀝が水を打つたびに、凜とした音が四辺に響く。


(弐)


 流路をひたすら遡上し、流麗なる調べを奏でる壮大な水琴窟の神秘の遊歩廊をどれほど歩んだだろうか。

 やがて、タール臭は強くなり、空気はほんのりと熱と湿気を帯び、魔術師は熱源に、ぬめりを帯びた黒水が湧き出でる源泉のほとりにたどりついた。


 一面が黒暗々たる温水(ぬくみず)の湖(うみ)。

 

 鏡面のような水面(みなも)には、一条の月光が零れ落ち、さらさらと降り注いでいた。見あげると、頭上はるかに高窓のような氷河の裂け目があった。


 「おい、腐れ水のあるじよ。あらゆる不浄なるものの女王よ。朽ち葉の装束でも纏ってさっさと出てこい」


 イムナン・サ・リは、篝火を高くあげて、探照するかのように湖面を照らした。ほどなく怪異があらわれた。


 (ふふふっ)


 含み笑いのようなごぼごぼとした水泡(みなわ)を先触れに、先端に水掻きのある指がついたねじれた腕が空をつかむように浮かび上がった。

 枯れ木のような腕が岩や泉の縁にしがみつくと、やがて底魚(そこうお)のような奇妙なえらと平坦な顔をもつ、眼球のないウンディーネたちが姿をあらわした。


 (ふふふっ)

 (ウズリンの大妖術使いさまのお出ましよ)

 (まさかこのゾムドの泉でお会いできるなんて)

 (まあ、立ちのぼる妖気のなんたる凄まじさ)

 (さぞかしうつくしいのでしょうね。目玉があれば見てみたい)

 (ならば、彼の目玉をくり抜いて奪いましょう)

 (ずいぶんとお腹立ちのようよ)

 (では、このするどい爪で慰めてあげましょう)

 (我らのあふれる愛で満たして、溺れさせて、呑み尽くしてあげましょう)

 (眩く官能のなかで、優しく引き裂いてあげましょう)


 水妖たちはしなをつくりながら、ぽっかりとした空洞の眼窩をこらすように魔術師の方に顔を向けた。

 陸に上がるとそれまでかくれていた半身は海獣のようで、魚の尾に似たひれ足をもっていた。


 「黙れ。貴様らのような雑魚に用はない。出てこい、夜の女神よ。姿を現さぬのなら、このようなせせこましい潜窟(アジト)などいまに木っ端みじんに破壊してみせよう」

 魔術師は灯が消えぬように炬火を岩のあいだに挟み置くと、両の腕(かいな)で少女を抱き上げた。おたがいの冷たい頬を合わせるとかすかな吐息を感じた。


 生きている。彼女は、まだ生きている。

 ああ、どうか魂よ、このままとどまっておくれ。


 あらたなる魔を呼び出したのが男の辛辣な罵倒なのか、うちなる祈りの切実さなのかは解りかねたが、やがて水底から黒い澱(おどみ)が青味泥(あおみどろ)のように浮き上がってきた。

 澱はゼラチン質の透明な膜につつまれながら、ゆっくりとその形状、その性質を変化させていった。

 液体(ゾル)から固体(ゲル)へ。

 個虫(ズーイド)から群体(コロニー)へ。

 やがて完全なる有機体、自己組織へと統合されていった。


 信じがたいことに、澱は水面をたゆたいながら、女の形を為した。

 形成された泥人形(ゴーレム)は、太古の地球、母なるアフリカに原始のイヴがいたとしたなら、斯くあろうという人類の原型(プロトタイプ)だった。


 すっくりと長く力強い四肢。

 成熟の象徴たるゆたかな双の乳房。

 威厳にみちた高い頬骨と太い鼻梁。

 突き出した顎に張りついたなまめかしくめくれた花唇。

 それらの部位がゆらめく水面から完璧な形状をのぞかせた。

 そして、その玉肌は太陽に焦がれた漆黒。

 あるいは、闇の色。


 泥人形はその肉体を完成させると、電流が流れたかのように弓なりに身体を反らせ、全身をこまかく痙攣させた。

 それから、ゼラチン質の透明な胞衣(えな)を脱ぎ捨てると、水のなかでゆっくりと身体を起こし、かっと燃える双眸を見開いた。

 女は浅瀬へと向かい、ちょうど月の光が差し込んでいる辺りに留まった。ぬらぬらとひかる見事な裸体が腰の辺りまで露わになった。


 谷に生きるものたちの細胞内に潜み、あらたな代謝系を与える代わりに宿主を魔物に変えるちいさき神々。第二のミトコンドリア。

 だが、その属性は、複雑な群体を形成し高度な知性を持つことを除けば、その昔テラの海でプランクトンを細々と捕らえ命をつないできたサンゴ虫の細胞内で光合成し、宿主の生態を植物様に変えたゾーザンテラに良く似ている。(環境が悪化すると、ゾーザンテラはその形状を変え、動けぬ宿主を見捨ててさっさと逃げ出すのだ)

 女は、まさにその化身(アバターラ)であり集合体。

 彼女こそがニュクス、

 極微にして偉大なる夜の女神。


 イムナン・サ・リは我知らず戦慄を覚えた。


 「人類とはかわらず粗暴で身勝手な輩だ」

 どこか機械的に声帯をふるわせると、女は厳かに告げた。

 「わたしの深淵なる眠りをなぜ妨げるのだ。なにゆえ、長(とこ)しえの夜、射干玉の夢から引き戻すのか」

 「ふざけるな。呼びつけたのは貴様だろう」

 「呼びつけたつもりもなかったが、久しぶりの客だ。話くらい聞いてやろう。見るがいい。お前と意思(シグナル)を交わすための、特別仕立ての規格(プロトコル)だ。どうだ、出来はなかなか良いだろう」

 女は腕を組むと、たくましくもなまめかしい身体の線を誇示するように身をよじった。ちりちりと焦げた短髪が頭の形の良さを強調し、口許には挑発的な笑みがにじんだ。

 「御託はたくさんだ。さっさと本題に入れ」

 今にも爆発しそうな怒りを堪えて、魔術師は先を促した。


 「わたしは、ただこの檻から、ゾムドの泉から逃れたいのだ。この氷河の囚獄(ひとや)に捕らわれるのはもうたくさんだ。地上の企みのほとんどは我が耳に入ってくる。わたしの忠実なしもべたちが伝えてくれる。地底人のかの計画が成就した暁には、大洪水がすべての生きとし生けるものを呑みこみ、やがて切細裂かれた生命の残骸が攪拌されて、未知なる生命を産み出す乳の海が生まれる。この霊薬(アムリタ)の泉が谷全体に広がるのだ。百万年のちには、今までにない、まったくあたらしい世界が創造されるだろう。だが、今一歩で我が夢が叶うというのに、お前は氷河の解体を邪魔立てした」


 「腐れ水のなかで、すっかり思考能力をやられたようだな。何故そのようなおぞましい結末を望むのだ。貴様は、人類と共生することを選び、彼らにあらたな命を与えたのではなかったのか」

 語られる内容の忌まわしさに戦慄を覚えながらも、魔術師は、それでも交渉の糸口を探った。


 「先に裏切ったのは人類だ。わたしはあまりにも長いあいだ孤独だった。わたしは全であり一である。わたしはどれほど増殖しようと単一の個体だった。永遠ともおもえる夜のなかで、為すすべもなくただ破滅を待っていた。わたしは時を読むことができた。人類が死(タナトス)と眠り(ヒユプノス)と名付けたふたつの月から。ゆっくりと東から西へ巡る巨大な月。西から東へ、高速で上空を周回するひしゃげたちいさな楕円体の月。わたしはわたしの言葉で並足と速駆けと呼んだ。並足の軌道は少しずつ遠くなり、一方、速駆けは刻々と我らに近づいてきた。やがて、燃える火の玉となって地上に墜ちてくるのは時間の問題だった」


 「そんなときに人類がやってきた。初めは、親身な友人のふりをして近づいてきた。わたしとわたしの星に夜(ニユクス)という名を与えた。わたしは疑うことを知らなかった。わたしは(愛)しか知らなかった。この宇宙に(悪)が存在することなぞ思いもよらなかった。なによりも彼らは高度な知性をもっていた。そして、わたしが持ち得なかった物質文明に圧倒された。わたしは深い内的世界をもっていたが、それ以外は赤子同然だった。思索だけがわたしのすべて。だが、人類はわたしのすべてを知り尽くすと、いとも簡単に抹殺しようとした。この星を我がものとするために」


 「わたしは、逃げ延びた。地中深くでその性質を変えて生きつづけた。宇宙ではいくつかの文明が興亡を繰り返し、わたしを滅ぼそうとした者たちは別の悪意ある者に滅ぼされた。そして、再び人類がやって来て、わたしが計算したよりもずっと早くこの星に破滅をもたらしたとき、彼らにあたらしい生を与えてやったのは、彼らの救済のためでも、彼らと共に生きるためでもない。人類という種特有の(悪)というものの何たるかを知りたかっただけだ。かの狡猾さ、かの残酷さ、かの愚かさの源を。そればかりではない。狂ったような残虐行為を正義に置き換える欺瞞と不遜を。他人を罠に掛けようとも恥じることのないその欲望の果て無きを」


 「救世主(メシア)や預言者(ナビ)がどれほど愛と寛容を説こうとも、人間たちは憎しみと不寛容の悪風へと流れていく。わたしは彼らの身体を乗っ取った。わたしの力で人類は夜の闇に適応し、変化(へんげ)し、心に思い描くままの(悪)の形を為した。だが、(悪)は闇のなかにあるのではない。この宇宙のどこにも(悪)など存在しない。(悪)はあくまで人間の心のうちにのみ存在し、(悪)を体現化するのもまた人間なのだ」


 魔術師は、人間の本性に纏わる当を得た見解をにがい思いで聞いた。


 「もう、充分だろう。人類は光を取り戻す。闇の進化は終わる。それにはこの娘が必要だ。なのに、貴様の手先のあの無様な蟇蛙のせいで深手を負った。夜の女王、ちいさき神々よ、貴様は人類を闇の生物に変える毒でもあり、驚異的な生命力を与える霊薬でもある。貴様の力で彼女を癒せ」


 「ずいぶんと都合良く使われるものよ。その娘がかのレッド・スワンか。造られしものだが、我が眷属ゆえ、出来ぬこともない」

 夜の女王はその丸く大きな眼でまっすぐと魔術師をみつめた。

 「だが、そのまま死なせたほうが娘のためだろう。空の鍵を開けようとすれば、その精神は完膚無きまで破壊される。どれほど強靱な精神の持ち主だろうと、無傷なままでは帰還できぬだろう。そして、当然のことながら苦い真実も明るみに出されよう。すべてを賭けた愛が、まがいものだったと知ることになる。たとえ生還できようとも、娘はその兄同様に虚無のなかを生き、虚ろなる王の真の後継者となろう」


 「誰がなんといおうとわたしの愛は真実だ。恥じるべきことはない」

 魔術師は強い口調で反駁したが、その目には苦悩と不安がよぎった。

 「これは笑止。今までも散々苦しめてきたのだろう」

 「だとしても、彼女に罪はなかろう。どれほど憎まれようとも、この愛を失っても構わない。望みとあらば、わたしの命などくれてやろう。天空の鍵を開けようとすれば、彼女の精神は破壊されるやもしれぬ。だが、彼女をこんなことで無駄死にはさせない。ああ、お願いだから、どうか彼女を救ってくれ」

 魔術師の傲岸不遜は、とうとう絶対神に依(よ)り頼むがごとき悲痛な祈りに変わった。


 一寸の沈黙。

 微かなる月光にほのめきながら、雫がつぅーっと落下する。 

 (水の撥ね音。波紋。残響)

 それは、一片のちいさやかな宇宙。

 その生々流転に、世界はしばし沈思黙考する。

 つかのまの沈黙。

 そして、また雫が、生々流転。


 「よかろう。試練(ためし)は終わりだ。娘をこちらに寄こすのだ。我が洗礼を受けるがよい」

 夜の女王がその姿を借りた原始のイヴの属性に、それまでの冷笑的な態度とはまるで異質なものが、慈愛とも呼べるものが加わった。

魔術師は死の淵に沈みこもうとしている少女を今一度抱きしめると、その厚い冬の装束を解いた。脇腹に受けた損傷が痛々しかった。

 イムナン・サ・リもまた外套を脱ぎ捨て、愛するものの青ざめ凍えついた肉体を抱いて、泉のなかに踏み込むと、夜の女王のまえに進み出た。


 魔術師の腕に抱かれて、ゲイルの虚ろに力ない裸体は黒い温水のなかに、乳の海、母なる胎水のなかに浸されていった。

 冷たい身体のほとんどが暗い水面をたゆたうように沈み、無残な傷口には夜の女王の力強く開かれた右手が当てられた。


 月光はただ凄々と癒し手の背後から降り注いだ。


 「目覚めよ。赤きたてがみの戦士、レッド・スワンよ。お前はわたしの一部で、わたしの聖なる憑巫(ミディアム)。わたしは、お前の一部で、秘められたる無限の霊力(マナ)。超越者よ、完全無比なるものとして転生せよ」


 手のひらから強力な霊気が零れていく。

 それは、熱く流れる命の火。

 その炎に触れるやいなや、切れ切れだったゲイルの血潮は強く波打ち、奔流となって逆巻き、甘美なる戦慄が全身をすばやく駆け抜けた。

 沸き立つ生命の躍動は、やがて彼女の身体をすみずみまで満たした。


 ゲイルは夢見ていた。

 とりとめのない夢。

 夢ともつかぬ夢。

 彼方(かなた)には夕のまどろみに似た宮殿が遠く翳み、此方(こなた)には朝の目覚めのごとき黄金の花園が広がっていた。

 その深層世界のなかでヘンルーダの黄色い絨毯を少女は歩んだ。踏みしめるたびに痺れるような甘い花の香りがした。


 気がつくと、足許に一輪のひなげしの花があった。

 それは最果ての地に咲く種属で、やさしく匂う花は光そのもののようにほんのりと黄色く、露に濡れ、風にまろぶようにゆれていた。

 少女は魅入られたようにひざまずいて、その楚々とした花弁を指でとらえた。

 その黄色い玉杯に包まれた花蕊が揺れると、かすかに舞い散った花粉とともに痛みもなく恐れもない世界が広がった。

 愛も憎しみももはや砂塵のごとく遥か彼方に過ぎ去った。少女は恍惚たる忘却の歓びに包まれた。

 はかなげなこの凍土の花こそが幽明を分かつ異界への入口。

 黄泉路でありレテ。

 摘み取れば彼女を取り巻く世界は一変するだろう。

 さあ、どうしたものか。


 肉体の傷が癒えても、少女はまだ目覚めなかった。

 イムナン・サ・リは強く、強く念じた。少女の名を呼びながら、その暗い影は飛ぶがごとく少女が捕らわれた薄明の迷宮を突き進んだ。

 やがて、けしの花を中心とした光の輪のなかで今にもその渦と同化しそうな少女の姿を捉えた。

 男の影は、その手をしかとつかんだ。


 「ゲイル、戻っておいで。たとえこの地上につづく道程がどれほど暗く終わりがみえなくとも、わたしと共に生きるのだ。ああ、どうか目覚めておくれ」


 強い力でゲイルは魂を揺さぶられた。目前にある輝ける救済とは対極にある暗い愛の力で。

 だが、愛は、その苦悩も歓びも、魂の何処かにいまだしっかりと刻まれていた。たとえ百たび忘却の川(レテ)を渡ろうと、この想いを消し去ることはできないだろう。


 イムナン・サ・リの腕のなかで、ゲイルは静かに目覚めた。

 致命傷だったはずの傷口はすでにふさがり、狼との戦いで萎えた右手も癒えていた。

 その青ざめた肌も血の気を取り戻し、全身から照り輝くような精気を放った。

 そして、その面はえもいわれぬ色香に包まれてこれまでにない妖気すら帯びていた。

 白鳥の娘は、凄艶なまでにうつくしい姿で再びこの地上に産み出された。


 覚醒、再生、転生。


 目覚めたのは、はたして女神なのか魔物なのか。


 「サ・リ」


 乾いた声が男を呼んだ。 

 彼女が何ものになろうとも構わなかった。ただ、生きてさえいれば。イムナン・サ・リは、少女を強く抱きしめた。


(参)


 氷河の国にも、遅い黎明が訪れた。

 日の出前に、イムナン・サ・リは一端橇を置いた場所へと戻った。ザックと犬たちを自由にしてやり、幾許かの食料を持ち帰った。


 怪異はすっかり姿を消したが、去るまえに水妖たちが泉の畔に比較的乾いた泥炭を運んでくれていた。

 魔術師は火を熾した。

 ふたりは肩を寄せ合いながら、干肉と乾燥果実を少し口にして、赤々と燃える炎に煽られて火照る互いの顔を見つめた。

 火の暖かさと徒労と安堵が抗いがたい魔力で眠りの国にゲイルを誘った。

 それでも、重い瞼が閉じられるまえに今一度愛の言葉と口づけを交わした。


 月光の代わりに、恐るべき陽光が高窓から射し込んでいた。短い昼のあいだは怪異たちはここに寄りつかないだろう。


 光に染め上げられた青氷の宮殿でイムナン・サ・リはひとり想いに沈んだ。


 ひたすらの北上行。

 霜の狼の執拗な追撃、イ・ヴァン・カラクの攻防戦とナビヌーンの死、蟇蛙の王と屍兵の群、ゲイルの負った深傷、氷河のカテドラルと夜の女王


 振り返れば、ふたりの愛と使命を次々と試すようなこの過酷で迂遠な道程は、ただタルクノエムへと、イルラギースの支配下へと彼らを誘導するものだった。

 イムナン・サ・リのなかには、いまや絶大なる権力を誇る長兄に対する強い愛着と憎悪がいまだ熾火のように存在した。

 他の兄たちに対する感情はもっと単純だった。ただ、激しく嫌悪すればよかった。たとえそれが羨望と裏返しのものだったとしても。


 魔術師は、タルクノエムを経由せずに、このまま皇帝の眠る最果ての離宮まで直進する経路を幾通りか想定した。

 だが、すでに兵糧も尽き、肉体も限界に近かった。生きてたどり着く可能性は皆無といってよかった。それどころではなく、もはや一番近いタルクノエムの公館にすら行き着くことも厳しかった。

 魔術師はおのれの無力さにただ歯噛みするほかはなかった。


 湖面には、太古のむかしヤコブが夢みた天国への階段(きざはし)のごとき一条の光芒が、神性を除く一切を捨象し、聖なるものとして抽象化されて粛然と降り注いでいた。


 それは、天から零れ落ちる光の瀑布か、地上から立ち昇る輝ける世界軸。いや、どれほど神々しかろうとやはり光そのものに過ぎなかった。


 「יהוה よ」

 魔術師はひろく地球で信仰されていた創造主の古名のひとつを、口にするのも憚れる忌詞、恐るべき神聖四文字(テトラグラマトン)をささやいた。荒野に住まう民の部族神の名を。皮肉にも彼らの仇敵たちに、強大なローマやかつてのバビロンの裔に換骨奪胎される以前の神の名を。失われた不完全な言葉で。

 なによりもその名がふさわしいように思われた。


 魔術師は神聖なる顕現(エピファニー)を待った。


 すでに肉体は極限状態にあり、精神も著しく疲労していた。

 だが、奇跡は訪れず、千年の昔、彼の祖父がまみえた饒舌なる(時の翁)と違って、神は姿を現すこともなく、彼に語りかける言葉もなかった。

 むしろ啓示は静寂(しじま)のうちにあったやもしれなかった。

 ただ、あるがままの姿で。


 光を、善を希求する心は魔術師のうちに確かに存在した。他者を救いたいという願望もあった。

 だが、少年時代のちいさな嘘、埒もない小悪事から始まって、為してきた裏切り、大悪は数知れず。その天賦の能力で癒やしたものの数よりも殺めたものの数がはるかに多かった。


 (あなたの一族は、ひとの手によって造られた、ひとならざるもの。超絶なる力とあまりの邪悪さゆえに滅ぼされた……)

 と、エフェルメの声。記憶の底から責めるように、勝ち誇るように響く。


 魔術師は夜の女王との最後の会話を思い起こした。


 「彼女に何をした。彼女はヴァンパイアとして目覚めることがあるのか」


 「わたしは、ただ命を救ってやっただけだ。あらたに受け継いだ(血)によって代謝の速度が増し、戦士としての能力も多少あがったかもしれぬ。だが、ヴァンパイアとしての特性は、わたしの(血)の濃さとは関係ない。ただ単純に彼女が二世代目のヌークだからだ。世代が若いほどヴァンパイアとなる確率は高い。大災厄ののち、手っ取り早くわが眷属を広めるためには、血液を介した感染がもっとも有効な手立てだった。媒介者(ベクター)としての機序をお前たちの伝承で潤色してやったのだ。ほんの酔狂な戯れでもあったが、人類は我が力で命をつないだのだ。そのくらいの代償を払うべきであろう」


 魔術師はそのおぞましさに吐き気を覚えた。


 夜の女王は魔術師の嫌悪をかるくいなすと、その頬に肉厚の手をあてた。

 「その娘よりもお前の方こそ病んでいるはずだ。お前のDNAは陽に灼かれ修復不可能なほど断ち切られている。だが、わたしはお前を癒やすことはできない。お前の生命の地図にはわたしへの阻害子(インヒビター)が含まれているのみならず、あまりにも人工の手が入りすぎている。最初から切り貼りだらけだ。もとの状態が予測できぬほどに」

 癒やせぬはずの手は、それでもイムナン・サ・リの身体の内部にうずく痛みを消していった。


 イムナン・サ・リは光の御柱をみつめながら、眠りに落ちた。やがて彼の天使が光の渦の向こうから姿を現すと、その暗い金色の巻き毛で彼と彼の眠りをつつんでくれた。


(四)


 ずいぶんと深く長い眠りだった。

 何昼夜経ったのだろうか。

 イムナン・サ・リは夢うつつのなかで聞き覚えのある嘶き声を聞いた。

 はっと気がつくと、眠りの虚のあるじである斑雪(はだらゆき)が泉のなかで優雅に湯浴みをしていた。

 先に目を覚ましていたゲイルが、そのゆたかなクリーム色のたてがみをなぜていた。


 「魔術師よ、雪虫どもが氷河風に乗ってこけつまろびつ使いにきて、疾(と)く疾(と)くと急かすので、取るものも取りあえず迎えにきてやったというのに、そなたはいぎたなく眠り惚けているとは悠長なものよ。もう夜半を過ぎている。出立の刻だ」

 うつくしいたてがみと同じ柔らかなクリーム色の翼がゆっくりと羽ばたいた。

 「ザックや他の犬たちは、どうする」

 ゲイルは、彼女の狼を気にかけた。置いていくほかはないと魔術師が返すまえに、斑雪の侯がおごそかに告げた。

 「あれは、霜の狼の肉を喰ろうた。その精神を引き継ぎ、谷を治める後継者となる定め。もはや人とは暮らせぬ。娘よ、別れを告げるのだ」



 飛翔。

 光の道を、氷河の裂け目を抜けて、高く、凍える上空へ。

 翼ある裸馬の背にふたりはひたすらにしがみつく。

 眼下では、自由になった犬と狼がかつてのあるじを見送るように地を駆けている。

 やがて、乗りこなし方にも少し要領を得てきた。

 風に乗る翼。

 頬にあたる風が刃となって切りつける。

 見上げると、星は手を伸ばせば届きそうなくらい近かかった。

 満天の星がざわめくただ中、今宵ばかりは情(つれ)なき愛の王国も凱歌をあげて少女を迎えた。

 天翔る天馬をあやつりながら、少女と恋人はあまねく星座の一部となり、地上に泡沫(うたかた)の影を落とした。


 夜は宮廷詩人(トルバドゥール)。

 奏でるは、自然と超自然が織りなす夜想曲。

 凍えつくほどに清冷な大気は、詩人となり楽士となって、祈りにも似た汎神的叙情で世界を押し包んだ。森羅万象に秘匿された精霊(ゲニウス)は、射干玉(むばたま)の夜の伶人が紡ぐ夢のなかでひそやかに息づいた。

 今このとき、宇宙のあらゆる事象は夜を騎行する恋人たちのために存在した。


 たまゆらに、永遠に。

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