番外編【出会い】(前半)
――それは、今から十三年前の出来事。
五歳のロッシュは、両親とはぐれ、一人で立ち込める深い霧の森の中を彷徨っていた。
視界を遮るその霧は、決して自然の生み出したものではなく、濃密すぎる魔力が沈殿した異常な空間――だが、幼いロッシュにそんなことがわかるはずもなかった。
「おかあさん……おとうさん……?」
小さな足でどこかも分からぬ森を歩き続けていたロッシュは、ふと、視界が急に開ける場所へと出た。
そこは、濃霧の中にポッカリと浮かび上がるような、色鮮やかな花畑だった。見たこともない美しい花々が、風もないのに静かに揺れている。
そして――その花畑の中央に、一人の少女が立っていた。
ロッシュより少し年上に見えるその少女は、夜のように深い黒のロングヘアーに、背中からは漆黒の羽を覗かせていた。そして何より異質だったのは、ロッシュを射抜くように見つめる、血のように赤い瞳。
「……人間……?」
少女――アストラゼノスは、突然現れたロッシュに対し、露骨な警戒心を露わにした。
魔族の領地に足を踏み入れた不躾な幼子。幼いながらもすでに規格外の魔力を秘めた彼女は、ロッシュをその場で引き裂き殺そうと、鋭い爪を伸ばす。
一瞬で周囲の空気が凍りつき、圧倒的な殺気が渦巻いた。
アストラゼノスがロッシュを屠るべく、冷酷に一歩を踏み出そうとした――その時。
「あっ……!」
ロッシュが大きな声をあげた。
その直前、鋭い叫び声に、アストラゼノスは思わずピタリと動きを止めた。攻撃を警戒されたのか、あるいは怯えて許しを請うつもりなのか。だが、ロッシュから返ってきた言葉は、彼女の予想を遥か斜め上へと吹き飛ばすものだった。
「うごいちゃダメだよ。ほら、お花を踏んじゃうところだったよ」
「……え……?」
ロッシュは恐れ怯える様子もなく、てくてくと少女へ近づいていく。
そして、殺気を放つアストラゼノスの爪など目に入っていないかのように、彼女が持ち上げた小さな足を、そっと手で支え――花の咲いていない、安全な土の上へと優しく戻してあげた。
アストラゼノスは、あまりの事態に毒気を抜かれ、呆然と面を喰らっていた。
(……この人間……自分の命よりも、こんな小さな花を気にして……?)
自分に向けられた本物の殺気すら気付かず、足元の小さな命を守ろうと笑いかける男の子。
「ぼくはロッシュ。君のなまえは?」
無邪気に首をかしげるロッシュ。アストラゼノスはしばらく言葉を失っていたが、毒気を抜かれたまま、静かに口を開いた。
「……アストラゼノス」
「……ながい……」
短くつぶやかれたロッシュのあまりに率直すぎる感想に、アストラゼノスは思わず「クスッ」と小さく吹き出してしまった。
恐怖も、警戒も、殺気も吹き飛んだ花畑の中。
これが、世界最強の魔王と、ただのモブ冒険者の――全ての始まりとなる運命の出会いだった。




