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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第12章 第1話:夏の調査


あらすじ:七月。大学の夏季休暇が始まった。篠崎誠一郎の刑事手続きが進む中、ヴィクトラムの研究データの解析が本格化する。村上准教授のチームとマーカスのチームが連携した解析作業から、認知操作の技術が思っていたよりも単純な原理に基づいていることが明らかになり始める。その原理の単純さこそが、最も恐ろしいことを、智也は理解する。一方、美優の書籍がいよいよ最終稿を迎え、智也は「あとがき」を頼まれる。書き慣れない形式に向き合いながら、智也は、この旅全体を言葉にしようとする。


---


七月の初旬。


大学の夏季休暇が始まった。


初日の朝、智也は、いつものように図書館に向かった。


夏の朝の光が、キャンパスの木々を、緑に輝かせていた。


長期休暇中の図書館は、普段より静かだった。


しかし、奥の席は、変わらずそこにあった。


智也は、その席に座り、今日から始まる夏の調査の計画を、頭の中で整理した。


篠崎の刑事手続きは、弁護士との協議を経て、少しずつ進んでいた。


直接的な指示の証明は難しいが、斎藤との関係と、ヴィクトラムへの資金提供については、文書で確認できる事実が積み重なっていた。


木村刑事は、「年内には何らかの法的な結論が出るだろう」と言っていた。


ヴィクトラムの研究データの解析は、村上准教授が指揮していた。


データの規模は、村上が最初に見た通り、膨大だった。


「夏の間、集中して取り組みます」


村上は、智也に言った。


「解析が進むにつれて、認知操作の原理が、より明確に見えてくるはずです。それが、対抗手段の設計に繋がります」


「どんな原理が見えてきていますか」


「まだ途中ですが、一つだけ言えることがあります。思っていたよりも、単純です」


「単純というのは、どういう意味ですか」


「精巧な技術を使っているのは、確かです。ただし、その技術が操作しているものが、非常に基本的な人間の認知の仕組みです。人間は、自分の思考の流れに一致するものを、正しいと感じやすい。その一点を、精密に利用している。それだけです」


「その単純さが、なぜ恐ろしいのですか」


「単純な原理は、どこにでも応用できるからです。特定のプラットフォームを閉鎖しても、別の場所で同じ原理が使われる可能性がある。技術が進歩するほど、その応用の幅が広がる。完全な防御を作ることが、原理的に難しくなっていく」


「つまり、技術的な対抗手段には、限界がある」


「そうです。だから、人間の側の変化が必要だと思っています。思考の流れへの一致を、正しさの基準にしない、という習慣の形成です。そのための教育や実践の設計が、技術的な対抗手段と同じくらい重要になります」


その言葉が、智也の心に、深く刺さった。


技術の問題は、最終的には、人間の問題だ。


その認識は、この旅全体を通じた、最も重要な洞察の一つだった。


その日の昼、美優から連絡が来た。


「書籍の最終稿が完成しました。あとがきを書いてほしい。あなたに」


「あとがき、ですか」


「そう。この旅を、一番深く経験した人間が書くべきだと思う。千葉智也の言葉で、締めくくってほしい」


「私は、文章を書くことに、慣れていません」


「知ってる。だから、頼んでいる。慣れていない人間が書く言葉の方が、時に、深く届くことがある」


智也は、少し考えた。


「書いてみます。ただし、書けたかどうかの判断は、美優さんに委ねます」


「それで十分よ」


その夜から、智也は、あとがきを書き始めた。


最初は、うまくいかなかった。


推理ノートに書くような言葉と、一般の読者に向けた言葉は、異なる。


何度か書き直した。


三日後、一つの形になった。


---


**あとがき**


この旅は、一人の学生の死から始まりました。


田中陸斗さん。私と同じ高校に通っていた、一人の男子生徒です。


彼がなぜ死ぬことになったのか。その問いが、私の推理の出発点でした。


その問いを追いかけるうちに、私は、この旅に出ました。


日本の学園から、国際的な陰謀へ。


一人の犯罪者から、複数の国にまたがる組織へ。


そして最終的には、人間の認知そのものへの問いへ。


旅の中で、多くの人物に会いました。


善意から誤った方向に進んだ人。


絶望から支配を選んだ人。


信頼を失いながらも、最後に真実を語った人。


彼らは全員、何かを求めていました。


より良い世界を。より合理的な社会を。あるいは、ただ、誰かに理解されることを。


その求めが、時に誤った形を取りました。


しかし、求めそのものは、人間の本質的な部分から来ていました。


私はこの旅を通じて、一つのことを学びました。


人間の認知は、外部から設計できます。


その事実は、恐ろしい。


しかし、同時に、その事実を知ることが、最大の防衛の出発点になります。


気づくことが、守ることの始まりです。


この本を読んでいるあなたに、一つだけ、お願いがあります。


重要な考えに辿り着いた時、一度、立ち止まってください。


「なぜ、私はこう思うのか。どこを通ってこの考えに至ったのか」


その問いを、自分に返してみてください。


完全な答えは、出ないかもしれません。


しかし、その問いを持つ習慣が、あなた自身の思考を、少し自由にします。


推理者の仕事は、真実を見つけることではありません。


真実を探し続けることです。


その探求をやめない人間が、複数いる限り、希望は続きます。


千葉智也


---


書き終えた後、智也は、それを美優に送った。


返信は、すぐに来た。


「これで行きます。一言も変えません」


「本当に、これで良いですか」


「完璧よ。ありがとう」


智也は、その返信を見て、小さく息を吐いた。


「完璧」という言葉が、自分のあとがきに使われることは、不思議な感覚だった。


しかし、美優の評価を信頼することにした。


翌日の朝、マーカスから連絡が来た。


「シグネチャ検出ツールのバージョン二が、完成しました。今日、オープンソースとして公開します」


「どのような改善がありましたか」


「第二世代のコンテンツへの対応精度が、大幅に向上しました。フレームのずれを検出する機能も、新たに追加されました。完全ではありませんが、現時点での最善です」


「公開することで、第二世代の設計者たちが、対策を取ってくる可能性がありますか」


「あります。しかし、それを恐れて公開を遅らせることは、本末転倒です。ツールを使える人が一人でも増える方が、長期的には社会の利益になります」


「同意します。公開後の反響を、教えてください」


「もちろんです」


その日の夕方、ツールは公開された。


マーカスのチームのSNSアカウントが、公開を告知した。


三時間で、千を超えるダウンロードがあった。


世界中の研究者、ジャーナリスト、学生が、それぞれの目的で、ツールを手に取り始めた。


「これが、認知の多様性の力だ」


智也は、その数字を見ながら、静かに思った。


一つのチームが作ったツールが、世界中の人々によって使われる。


それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの問いに使う。


その多様な使われ方の中から、設計者が予測できなかった応用が生まれるかもしれない。


それが、どんな精密なシステムも、完全には制御できない部分だった。


その夜、智也はノートを開いた。


**「夏の調査が始まった。篠崎の手続きが進む。ヴィクトラムのデータ解析が続く。マーカスのツールが公開された。それぞれが、独立しながら、繋がっている。」**


**「村上先生の言葉が残っている。認知操作の原理は、単純だ。人間が自分の思考の流れに一致するものを正しいと感じやすい、その一点を利用している。単純だからこそ、どこにでも応用される。技術だけでは防げない。人間の習慣の変化が必要だ。」**


**「あとがきを書いた。美優が『完璧』と言った。その言葉を、素直に受け取ることにした。書くことの難しさを、初めて実感した。しかし、書けたことの充実感も、初めて感じた。」**


**「夏は長い。その長さを、調査と学びに使う。一歩一歩、丁寧に。それが、変わらない在り方だ。」**


夏の夜が、窓の外に広がっていた。


虫の声が、遠くから聞こえた。


その声が、夏の始まりを告げていた。


推理者の旅の、次の季節が、静かに始まっていた。


---

第12章 第1話「夏の調査」完


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