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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第12章 第2話:美優の書籍、世界へ


あらすじ:美優の三冊目の書籍「見えない設計:デジタル時代の思考の自由と、認知的自律性の回復」が、ついに発売される。発売初日から予想を超える反響が生まれ、特に「あとがき」への反応が、智也を驚かせる。同時に、西島教授の実験データが、国際的な学術雑誌に掲載されることが決まる。一方、篠崎誠一郎が、弁護士を通じて、田中陸斗の母親への直接の謝罪面会を申し入れる。その場に、智也も立ち会うことになった。


---


七月の第三週。


雨が上がり、本格的な夏の日差しが始まっていた。


その週の火曜日、美優の書籍が発売された。


タイトルは、「見えない設計:デジタル時代の思考の自由と、認知的自律性の回復」。


出版社は、第一章の書籍と同じところを選んでいた。


報道の自由と原稿への不干渉を、明確に保証していた出版社だ。


智也は、発売日の朝、書店に立ち寄った。


入り口近くの新刊コーナーに、その本が積まれていた。


表紙は、シンプルだった。


白地に、人間の脳の輪郭線だけが、細い線で描かれていた。


その輪郭の中に、微かな歪みがあった。


智也は、その歪みを見て、美優がデザインに込めた意図を、感じた。


完全な自律ではなく、しかし完全な他律でもない。


その中間の、微かな歪みの中に、人間の認知の現実がある。


その日の午後、美優からメッセージが来た。


「発売初日、大きな書店では完売が出始めている。増刷の連絡が来た」


「あとがきへの反応は、どうですか」


「それが、一番驚いている。SNSで、あとがきの一節が、繰り返し引用されている」


「どの部分ですか」


「『重要な考えに辿り着いた時、一度、立ち止まってください。なぜ、私はこう思うのか。どこを通ってこの考えに至ったのか』という部分。多くの人が、この問いを自分に投げかけてみたと書いている」


智也は、その事実を、静かに受け取った。


自分の言葉が、知らない人々に届いている。


その感覚は、テレビに出演した時とも、書籍に名前が載った時とも、異なっていた。


あとがきという形式が、直接、一人一人の読者に語りかけるものだったからかもしれない。


「良かったです」


智也は、そう返信した。


美優からは、すぐに来た。


「それだけ?もっと感想があるでしょう」


「正直に言えば、自分の言葉がそのまま届いているという感覚が、少し不思議です。テレビや講演の時は、多くの人の前に立って話すという緊張感があった。でも、あとがきは、一人で書いて、一人一人の読者が一人で読む。その静かさが、逆に、より深く届くのかもしれない」


「それが、文章の力よ。あなたは、文章に向いているかもしれない」


「そうは思いません。ただ、書くことの意味を、今回、少し理解できた気がします」


その翌日、西島教授から連絡が来た。


「いい知らせがあります」


「何ですか」


「私たちの実験データを、国際的な認知科学の学術雑誌に投稿していました。その審査結果が来ました。掲載が決定しました」


「それは、素晴らしいですね」


「ただし、一つ、査読者からのコメントがあります」


「どのようなコメントですか」


「実験の設計と結果は評価されましたが、査読者の一人から、こんな指摘がありました。『この研究は、特定のシステムへの批判的な文脈で行われている。その文脈が、実験の設計や解釈に、バイアスを与えている可能性はないか』と」


「それは、正当な指摘ですね」


「そうです。私も、その可能性を否定できません。ただし、査読者は続けて、こう書いていました。『しかし、バイアスの存在を認識した上で実施されたこの研究は、その透明性において、類似の研究よりも誠実だ』と」


「バイアスを認識して公開することが、誠実さの証になる、ということですか」


「そう評価されました。そして、その評価の文脈で、掲載を決定したと」


智也は、その話を聞いて、この旅全体を貫く一つの原則を、改めて感じた。


完全な客観性はない。


しかし、自分のバイアスを認識して公開することが、最も誠実な在り方だ。


その原則は、研究でも、推理でも、人間関係でも、同じだった。


「おめでとうございます、西島先生」


「ありがとう。千葉さんが実験に参加してくれなければ、この研究は始まらなかった」


その週の木曜日、木村刑事から連絡が来た。


「篠崎の弁護士から、申し入れがありました」


「どのような申し入れですか」


「田中陸斗さんのお母さんに、直接、謝罪をしたいということです。弁護士を通じた書面ではなく、直接の面会で。その場に、千葉さんにも立ち会ってほしいとのことです」


「私に立ち会ってほしい理由は、何ですか」


「篠崎は、あなたに対して、一つのことを伝えたいと言っています。謝罪の場で」


「分かりました。田中さんのお母さんが同意されるなら、立ち会います」


田中陸斗の母親に、その申し入れを伝えると、彼女はしばらく考えてから、答えた。


「会います。千葉さんがいてくれるなら」


面会は、三日後の土曜日の午後に設定された。


場所は、田中陸斗の母親が選んだ、自宅近くの小さな喫茶店だった。


土曜日の午後、智也は先に到着した。


しばらくして、田中陸斗の母親が来た。


その後、篠崎誠一郎が、弁護士なしで、一人で入ってきた。


四人が、小さなテーブルを囲んだ。


木村刑事は、入り口近くの席に座って待機した。


篠崎は、席に着くと、テーブルの上で両手を組んだ。


そして、田中陸斗の母親を見て、頭を下げた。


深く、長い礼だった。


「申し訳ありませんでした」


その言葉が、喫茶店の静けさの中に、静かに落ちた。


田中陸斗の母親は、黙って、篠崎を見ていた。


「息子さんの死に、私が直接的な原因ではないとしても、その死に繋がる状況を、私が作った土壌の一部があります。それを、認めます。そして、謝罪します」


田中陸斗の母親は、しばらく沈黙した。


「息子は、どんな状況の中にいたのか、私はずっと知りたかった。あの子が、なぜああいう選択をしたのか。その背景を、あなたが作っていたということですか」


「間接的に、そうだと思っています」


「あなたは、何を目指していたのですか」


篠崎は、その問いを受けて、答えた。


「より良い教育を作ることです。子供たちが、自分で考える力を持てる社会を。その目的は、今も変わっていません。ただし、その目的を実現しようとした方法が、誤っていました」


「誤っていた方法というのは、何ですか」


「人の思考を、同意なく設計しようとしたことです。より良い思考を育てようとして、思考そのものを操作しようとした。その矛盾に、長い間、気づいていませんでした」


田中陸斗の母親は、しばらく考えた後、言った。


「息子は、考えることが好きな子でした。一人でいろいろ考えて、でも人に話すのは苦手で」


「そうだったんですね」


「あなたの言う、考える力を持つ子供に、育てようとしていた。でも、その考える力が、誰かに利用されてしまった。そういうことですか」


「そう、受け取っていただいて、構いません」


「息子は、考えることを奪われたのかもしれない。自分で考えているつもりで、実は誰かに誘導されていた。それが、あの子を追い詰めた」


篠崎は、その言葉を聞いて、目を伏せた。


「私の行動が、そういう状況に繋がった可能性があります。申し訳ありませんでした」


田中陸斗の母親は、その後、しばらく沈黙した。


智也は、その沈黙の中で、何も言わずにいた。


この場は、二人の時間だと思った。


やがて、田中陸斗の母親が言った。


「謝罪を、受け取ります。完全に許すかどうかは、まだ分かりません。でも、あなたが来てくれたことは、意味があります」


「ありがとうございます」


「一つだけ、お願いがあります」


「何でしょう」


「息子のような子が、二度と出ないように、してください。あなたには、その力があるはずです。正しい形で」


篠崎は、その言葉を聞いて、深く頷いた。


「それを、残りの人生でやります。誓います」


面会が終わった後、篠崎が出て行く時、智也に向かって言った。


「一つ、あなたに伝えたいと言っていました」


「何ですか」


「第一章の頃、警察署の廊下であなたとすれ違った時、私は、何かを感じました。この少年は、何かを追っている、という感覚です。その感覚が正しかった」


「私も、あの時、何かを感じていました。言語化できませんでしたが」


「あなたが追い続けてくれたから、今日の場が生まれました。感謝します」


篠崎は、静かに頭を下げて、去った。


残った田中陸斗の母親が、智也に言った。


「千葉さん、また約束を守ってくれましたね」


「まだ、完全には終わっていません」


「分かっています。でも、今日だけは、ありがとうと言わせてください」


「ありがとうございます」


喫茶店を出ると、夏の陽光が、強く降り注いでいた。


智也は、その光の中に立って、目を細めた。


第一章から始まった旅が、今日、一つの大きな区切りを迎えた。


田中陸斗の母親と篠崎の面会。


それが、この旅の中で、最も大切な場面の一つだったと、智也は感じた。


推理で真実を明かすことと、その真実が人間の心に届くことは、別のことだ。


今日、後者が起きた。


その夜、ノートに智也は書いた。


**「田中陸斗のお母さんと、篠崎が会った。謝罪が伝えられた。受け取られた。それだけで、今日は十分だ。」**


**「篠崎の言葉が残っている。第一章の廊下で、私が何かを追っていると感じた、と。そして、私も、あの時、何かを感じていた。その感覚が、三年以上の時間を経て、今日、一つの形になった。」**


**「美優の書籍が世界に出た。西島先生の論文が掲載される。マーカスのツールが公開された。ヴィクトラムのデータ解析が続く。篠崎の手続きが進む。それぞれが、それぞれの速度で、前に進んでいる。」**


**「そして、田中陸斗のお母さんが、今日、少し前に進んだ。それが、一番大切なことかもしれない。」**


夏の夜が、静かに東京を包んでいた。


虫の声が、遠くから届いた。


その声の中に、新しい季節の始まりを、智也は感じた。


---

第12章 第2話「美優の書籍、世界へ」完


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