第11章 第7話:円環の構造
あらすじ:ヴィクトラムの正式な証言が始まる。その証言の中で、篠崎誠一郎とコグニティブ・ブリッジ・リサーチの関係が、具体的な形で明らかになっていく。同時に、木村刑事が第一章の頃の記録を精査する中で、篠崎とゲームの設計者との繋がりを示す文書が発見される。この旅が、最初の場所から始まり、最初の場所に戻ってきているという確信を持ちながら、智也は推理の最後の段階に入る。しかし、篠崎という人物を理解しようとするほど、智也は、これまでの誰とも異なる種類の問いに直面する。それは、悪意の問いではなく、善意の問いだった。
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六月の初旬。
雨の季節が始まっていた。
東京は、しとしとと降る雨の中に包まれていた。
ヴィクトラムの正式な証言は、インターポールとマレーシア当局の立会いのもと、六時間にわたって行われた。
その内容は、木村刑事を通じて、智也に逐次共有された。
証言の中で、篠崎誠一郎との関係は、以下のように説明されていた。
ヴィクトラムがコグニティブ・ブリッジ・リサーチの設立を構想していた頃、日本の教育産業に関係するある人物から接触があった。
その人物が、ミライ・エデュケーション・グループの関係者だった。
最初の接触は、学術的な意見交換という形で行われた。
認知科学の研究と、教育産業の実践の橋渡しをしたい、という提案だった。
その提案の窓口になったのが、グループ代表の篠崎誠一郎だったという。
「篠崎は、ヴィクトラムに何を求めていたのですか」
木村刑事が、証言の要約を読み上げながら答えた。
「研究の提供と、教育コンテンツへの応用の許可です。ヴィクトラムの認知操作の研究を、学習効果の向上という文脈に転用することを、求めていたようです」
「それは、学習者の認知に、設計された方向付けを行う、ということですか」
「そう解釈できます。篠崎は、ヴィクトラムの研究を、より良い人材を育てるための技術として利用しようとしていた可能性があります」
「より良い人材」
その言葉が、智也の中で、奇妙な響きをもって届いた。
「木村刑事、篠崎がヴィクトラムの研究に興味を持った理由について、ヴィクトラムは何か言っていますか」
「一つ、印象的な言葉があります。篠崎は、ヴィクトラムにこう言ったそうです。『日本の教育は、知識を教えることには長けているが、思考の型を作ることに、まだ不十分な部分がある。あなたの研究は、その部分を補う可能性がある』と」
「思考の型を作る」
「そうです。それが、篠崎の言葉です」
その日の夜、智也は、篠崎誠一郎について、可能な限りの情報を集めた。
彼の過去のインタビュー記事。
業界誌での発言。
審議会での議事録。
読み進めるうちに、篠崎という人物の像が、智也の中で、ゆっくりと形を成してきた。
篠崎は、生涯を教育に捧げてきた人物だった。
若い頃から、日本の教育の課題を深く憂えていた。
詰め込み型の教育が、思考力の育成を妨げているという問題意識を、三十年以上にわたって持ち続けていた。
その問題意識から、認知能力の開発という新しいアプローチを追求し始めた。
「これは、善意から始まっている」
智也は、その認識を持った。
篠崎の出発点は、悪意ではなかった。
より良い教育を実現したいという、誠実な問題意識だった。
しかし、その問題意識が、ヴィクトラムの研究と出会い、設計された認知操作という方法と結びついた。
善意が、誤った手段と出会った時、どのような結果をもたらすか。
その問いが、智也の心の中で、静かに展開した。
「これは、これまでと異なる種類の問いだ」
これまでの人物たちは、それぞれの動機を持っていた。
アレクサンダーは哲学的な理想。
エドワードは人類への恐れ。
デイビッドは知的な探求。
ヴィクトラムは研究への渇望。
しかし、篠崎の動機は、それらとは根本的に異なっていた。
子供たちをより良く育てたいという、最も普遍的な善意が、その出発点だった。
翌日、木村刑事から追加の情報が来た。
「第一章の頃の記録を精査しました。篠崎とゲームの設計者との繋がりを示す文書が、見つかりました」
「どのような文書ですか」
「ミライ・エデュケーション・グループが当時関与していた、民間の教育改革プログラムの記録です。そのプログラムの実施校の中に、宮本隆司が通っていた高校が含まれていました」
「ゲームが行われていた学校が、篠崎のグループのプログラムに参加していた」
「そうです。ただし、そのプログラムが、ゲームと直接繋がっていたかどうかは、まだ確認できていません」
「ゲームの設計者は、斎藤教師でした。斎藤と、ミライ・エデュケーション・グループの関係は?」
「今、調べています。ただし、一つ、別の情報があります」
「何ですか」
「斎藤教師の経歴を改めて確認したところ、彼は教師になる前に、ミライ・エデュケーション・グループの子会社で、教育コンテンツの開発を担当していた時期があります」
「つまり、斎藤は、篠崎のグループの元社員だった」
「そう言えます」
その事実が、推理の輪郭を、さらに明確にした。
篠崎が主導する教育改革プログラムの中で、斎藤が動いていた。
斎藤が、ゲームを設計し、実行した。
そのゲームが、田中陸斗を追い詰め、命を奪った。
その連鎖の起点に、篠崎の善意があった。
「直接的な指示があったかどうかは、まだ分かりません」
木村刑事は言った。
「ただし、構造的な繋がりは、確認されています」
「篠崎に、事情聴取の準備はできていますか」
「今、任意同行の要請を検討しています。ただし、彼は弁護士を複数抱えています。法的な手続きを慎重に進める必要があります」
「分かりました」
その夜、智也は、一人で図書館の奥の席に座った。
ノートを開き、この旅全体を、もう一度、見渡そうとした。
第一章。田中陸斗の死。ゲームの発覚。斎藤教師の逮捕。
第二章以降。宮本の失踪。全国規模への拡大。田中隆太郎。
第三章以降。アレクサンダー。シャドウ・ネットワーク。エドワード。
第五章以降。デイリーモーメント。橘。エリック。
第七章以降。北条。行動科学研究所。マーカス。AcademicMind。
第八章以降。エドワードの再接触。シグマ・ファンデーション。エドワードとの対峙。
第九章以降。グローバル・コグニティブ・ファンド。デイビッド。レナ。EngageMax Analytics。
第十章以降。エデュポータル。フューチャーマインド・ラボ。コグニティブ・ブリッジ・リサーチ。
第十一章。ヴィクトラム。篠崎誠一郎。
その全てを並べると、一つの構造が見えてきた。
中心にあるのは、篠崎ではない。
中心にあるのは、問いだ。
「より良い人間を育てることができるか」
「人間の思考を設計することができるか」
「社会をより良い方向に導くことができるか」
それらの問いに、それぞれの人物が、それぞれの動機で向き合ってきた。
アレクサンダーは哲学として。
篠崎は教育として。
ヴィクトラムは研究として。
デイビッドは絶望として。
そして、その問いに向き合う方法として、全員が選んだのが、人間の認知への介入だった。
「人間を設計しようとすること」
その衝動が、この旅全体を貫く、本質的な問題の核心だった。
智也は、そのことを、長い時間をかけて認識してきた。
しかし、今、篠崎という人物を通じて、その問題がより鮮明な形を持った。
なぜなら、篠崎の動機は、最も無垢な形の善意だったからだ。
「子供たちをより良く育てたい」
その願いを、誰が否定できるか。
しかし、「より良く」を誰が決めるか。
その問いから目を逸らした時、善意は、最も巧妙な支配の形になる。
翌朝、美優に電話した。
「篠崎について、一つ聞いてほしいことがあります」
「何?」
「彼に直接会う前に、彼が教育について何を語ってきたか、彼の言葉を、できる限り集めてほしい。インタビュー記事、講演記録、審議会での発言、何でも」
「なぜ、事前に彼の言葉を集めたいの?」
「彼を理解したいからです。これまでの対話の全てで、相手を理解してから接触することが、有効でした。篠崎は、これまでの誰とも異なる動機を持っています。その動機の深さを、理解してから向き合いたい」
「動機が、善意だから、より慎重に理解する必要があるということ?」
「そうです。悪意を持つ相手よりも、善意を持つ相手の方が、説得が難しい場合があります。なぜなら、相手は、自分が正しいことをしていると信じているから」
「それは、これまでの旅で一番難しい接触になるかもしれないわね」
「私もそう思っています」
「分かった。集めます。少し時間をください」
電話を切った後、智也は、ノートの最後の部分に書いた。
**「篠崎誠一郎の動機は、善意だ。子供たちをより良く育てたいという願いが、出発点にある。その善意が、設計された認知操作という方法と出会い、田中陸斗の死に繋がった。その連鎖の意味を、私は理解しなければならない。」**
**「善意の問いは、悪意の問いよりも難しい。なぜなら、善意は正当化されやすいからだ。誰もが、より良くしたいと思っている。しかし、その『より良く』の定義を、一人の人間が独占する時、善意は支配になる。」**
**「篠崎に向き合う前に、彼の言葉を集める。彼がどのような教育を目指してきたかを、理解する。その理解の上に、対話を築く。それが、今できる最善の準備だ。」**
**「この旅は、最初の場所に戻ってきた。田中陸斗の死が、より大きな構造の中に位置づけられた。その構造を最後まで解明することが、彼への最善の追悼になると、私は信じている。」**
雨が、窓を打っていた。
六月の雨は、しとしとと、静かだった。
その雨音の中で、智也の推理は、最後の段階に向かって、静かに動いていた。
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第11章 第7話「円環の構造」完




