第11章 第5話:クアラルンプールの夜
あらすじ:ヴィクトラム・ナイルが、インターポールの同席と記録を条件として受け入れ、クアラルンプールでの対話が実現する。智也は木村刑事とインターポールのエージェントとともに、現地へ飛ぶ。ホテルの一室で行われた対話は、これまでとは全く異なる種類のものだった。ヴィクトラムは降伏ではなく、告発でもなく、ある告白をしに来ていた。その告白は、第十一章の問いをひっくり返すものだった。そして智也は、「見えていないもう一面」が何だったのかを、ようやく理解する。
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五月の中旬。
クアラルンプール国際空港に降り立つと、赤道に近い湿った熱気が、体を包んだ。
東京とは全く異なる空気だった。
智也の隣には、木村刑事がいた。
インターポールのエージェント、ファリダ・ラーマンが、到着ロビーで待っていた。
マレーシア当局との調整を担ってきた、三十代の女性エージェントだった。
「千葉さん、ようこそクアラルンプールへ。ヴィクトラムは、明日の夜、指定のホテルに来ることを確認しました」
「彼は、自分から来るのですか」
「そうです。私たちが迎えに行くのではなく、彼が自分の意思で来る。それが、彼の条件の一つでした」
「つまり、逮捕ではなく、自発的な対話として扱う」
「そうです。マレーシア当局も、現時点では逮捕状は出ていません。ヴィクトラムに対する法的な手続きは、対話の内容を踏まえた上で、改めて検討されます」
空港から、市内のホテルに向かう車の中で、智也は窓の外を見ていた。
熱帯の夜の街が、赤と黄色と緑の光で彩られていた。
人々が、それぞれの夜を歩いていた。
「緊張していますか」
木村刑事が、静かに聞いた。
「していません。集中しています」
「その二つは、違うものですか」
「緊張は、不安から来ます。集中は、好奇心から来ます。今の私は、後者です」
木村刑事は、少し笑った。
「あなたは、いつも、そうなのですね」
翌日の夜、指定されたホテルの会議室に、三人が待った。
智也と木村刑事。
そしてファリダが、隣の部屋でモニタリングしながら待機した。
部屋には、小さなテーブルと、四脚の椅子があった。
壁に、一台のカメラが設置されていた。
ヴィクトラムが来るのは、夜の九時だった。
八時五十分、廊下に足音がした。
扉が開いて、一人の男が入ってきた。
五十代と思われる、褐色の肌のインド系の男性だった。
細身で背が高く、鋭い目をしていた。
しかし、その目の奥に、疲弊が滲んでいた。
「千葉智也だね」
彼は、日本語で言った。
「はい」
「日本語を少し学んだ。あなたと話すために」
その言葉は、エドワードと同じだった。
ただし、エドワードの日本語が、知的な好奇心から来ていたとすれば、ヴィクトラムのそれは、もっと切迫した動機から来ているように感じられた。
「座ってください」
智也は、向かいの椅子を示した。
ヴィクトラムは、静かに座った。
「まず確認します。この会話が、記録されていることは、承知していますか」
「承知している」
「では、始めましょう」
智也は、静かに言った。
「あなたのメッセージに、『一面しか見えていない』とありました。見えていないもう一面とは、何ですか」
ヴィクトラムは、しばらく沈黙した。
その沈黙は、言葉を選んでいる沈黙ではなかった。
どこから話すべきかを、整理している沈黙のように感じられた。
「私がコグニティブ・ブリッジ・リサーチを立ち上げたのは、エドワードの指示ではなかった」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
「エドワードの指示ではなかった、というのは、どういう意味ですか」
「エドワードは、私がその組織を作ることを、後になって知った。最初に動いたのは、私だ。エドワードが始めた計画を、私は、別の目的のために、利用した」
「別の目的とは、何ですか」
ヴィクトラムは、テーブルの上で、両手を組んだ。
「エドワードは、民主主義の改良を目指していた。人々の認知を整えることで、より良い判断を引き出すことを。彼の動機は、哲学的な理想に基づいていた」
「その動機の問題点は、誰が『より良い』を決めるかという問いを回避していた、と私は理解しています」
「その通りだ。しかし、私の動機は、そこから始まってさえいなかった」
「では、あなたの動機は、何でしたか」
ヴィクトラムは、まっすぐ智也を見た。
「調べたかった」
「何を調べたかったのですか」
「人間の認知が、外部から設計できるかどうかを。それが、本当に可能なのかを、実証したかった」
「つまり、認知操作そのものへの、知的な関心が動機だった、ということですか」
「そうだ。エドワードやデイビッドは、人々の思考を特定の方向に向けることで、社会を変えようとしていた。しかし、私は最初から、それが本当に機能するかどうかを、確認したかっただけだった」
「研究の動機だった」
「そうだ。ただし、その研究を進めるためには、実際のフィールドが必要だった。エドワードの組織は、その最良のフィールドだった」
智也は、その言葉を受けて、静かに考えた。
「つまり、あなたは、エドワードの目的のために動いていたのではなく、エドワードの組織を、自分の研究のフィールドとして使っていた、ということですか」
「正確には、そうだ」
「それは、エドワードは知っていましたか」
「知らなかった。デイビッドも、知らなかった。私は、二人に、組織の目的のために動いていると、思わせていた」
「しかし、実際には、あなたの研究のために動いていた」
「そうだ。そして、その研究の結果は、私が予想していたよりも、はるかに大きかった」
「どういう意味ですか」
「人間の認知は、外部から設計できる。それが、私の研究が示した答えだ。しかし、その答えが正しければ、私が行った全ての実験は、倫理的に許されないものだった。私は、人間を実験対象として使い、彼らの同意を得ることなく、認知を操作した」
「その事実を、あなたは、どう受け止めていますか」
ヴィクトラムは、しばらく沈黙した。
その沈黙の中に、この旅で出会ってきた全ての人物の沈黙とは、異なるものがあった。
悔恨でも、恐怖でも、安堵でもなかった。
それは、長い時間をかけて積み重なってきた、重さの沈黙だった。
「あなたは、私に、選択を迫ると言いました。その選択とは、何ですか」
智也は、核心を問うた。
ヴィクトラムは、ゆっくりと答えた。
「私が、研究の全てを公開することを、選択肢として提示する。研究の方法、データ、そして結論を、全て開示する。ただし、その研究は、あなたたちが追ってきた組織の計画と、切り離して扱ってほしい」
「切り離して、とはどういう意味ですか」
「私の研究の内容そのものは、公共の知識として扱ってほしいということだ。認知が設計できるという事実を、社会に知らせることで、人々が自分の認知を守る手段を得られるようにする。しかし、その研究が、エドワードやデイビッドの犯罪計画のフィールドとして使われたという文脈は、切り離して伝えてほしい」
「なぜ、切り離すことが必要なのですか」
「研究の内容そのものは、社会にとって有益だと思っているからだ。認知操作が可能であることを知ることは、その操作に対する防衛の出発点になる。しかし、その研究が、犯罪組織と結びついたものとして認識されれば、研究そのものへの信頼が失われる可能性がある」
智也は、その論理を、静かに咀嚼した。
「あなたは、研究者としての自分を、守りたいということですか」
「守りたいと言えば、聞こえが悪い。しかし、正直に言えば、そうだ」
「その正直さは、評価します。ただし、一つだけ言わせてください」
「言ってくれ」
「あなたの研究が、同意なく人間を操作する実験のフィールドとして機能していたという事実は、研究の内容と、切り離すことはできません。研究の倫理と、研究の内容は、一体のものです」
ヴィクトラムは、その言葉を受けて、視線をテーブルに落とした。
「分かっている」
「しかし、あなたが提案する選択肢の中に、私が選べるものが、一つあります」
ヴィクトラムが、顔を上げた。
「研究の内容を全て公開することには、同意します。ただし、研究の倫理上の問題についても、同時に、誠実に示すことを、条件とします。研究の価値と、研究の問題点を、両方、社会に提示する。その形なら、研究の内容を公共の知識として扱うことができます」
「それは、私の研究者としての評価を、傷つける」
「そうかもしれません。しかし、研究の倫理上の問題を隠したまま、研究の内容だけを公開することは、第二の欺瞞になります。あなたが、真に研究者としての誠実さを示したいなら、両方を開示する以外の方法はありません」
ヴィクトラムは、長い沈黙に入った。
テーブルの上で組んだ両手が、微かに震えていた。
「あなたは、容赦がないな」
「誠実であることと、容赦がないことは、別のことです。私は、容赦しているつもりです。だからこそ、あなたに選択の余地を残しています」
「どういう意味だ」
「あなたが今日ここに来たのは、自分の研究を世の中に残したいという欲求があるからだと思います。それは、研究者として、自然な欲求です。私は、その欲求を否定しません。しかし、その欲求を果たすための道が、一つしかないことを、伝えています」
「両方を公開する、という道が」
「そうです。不完全な開示よりも、完全な開示の方が、最終的にはあなたの研究の価値を高めます。なぜなら、認知操作の研究において、倫理的な問題を正面から向き合った人物の言葉は、それを避けた人物の言葉より、重いからです」
ヴィクトラムは、その言葉を聞いて、また長い沈黙に入った。
今度の沈黙は、先ほどより、さらに長かった。
三分が過ぎた。
やがて、ヴィクトラムは、静かに言った。
「分かった。あなたの条件を受け入れる」
その言葉が、部屋に落ちた。
「研究の全てを公開する。内容も、方法も、倫理上の問題も。全部だ」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ、頼みがある」
「何ですか」
「私の研究が、最終的に、人々の認知を守るための知識として使われるように、あなたに関わり続けてほしい。私には、もう、それを一人でする力がない」
その言葉に、智也は、この旅で何度も感じてきた感覚を、再び感じた。
追い詰められた人間が、最後に選ぶのは、真実を語ることだ。
そして、真実を語った後、彼らは必ず、誰かに頼む。
一人では、もう続けられないと。
「引き受けます」
智也は、静かに言った。
「私一人ではありません。チームで、あなたの研究が正しく使われるように、関わり続けます」
ヴィクトラムは、その言葉を聞いて、初めて、表情が柔らかくなった。
老いた研究者の顔が、そこにあった。
会議が終わった後、ファリダが部屋に入ってきた。
「ヴィクトラム・ナイル、任意同行をお願いします。マレーシア当局が、話を聞きたいとのことです」
ヴィクトラムは、静かに頷いた。
「分かった」
立ち上がりながら、彼は智也に言った。
「あなたに、もう一つだけ伝えておく。私が最初にコグニティブ・ブリッジ・リサーチを立ち上げた時、その資金の一部は、エドワードの組織からではなかった」
「どこからでしたか」
「日本のある企業グループからだ。その企業グループが、私の研究に関心を持っていた。彼らの名前を、後で伝える」
「それは、これまでの調査で出てきた名前ですか」
ヴィクトラムは、扉に向かいながら答えた。
「おそらく、出てきていない。それが、あなたに見えていなかったもう一面だ」
扉が閉まった。
部屋に、静寂が戻った。
木村刑事が、智也の隣に立った。
「日本の企業グループ、ですか」
「はい。それが、次の問いになります」
木村刑事は、手帳に書き込みながら言った。
「第十一章は、まだ終わっていませんね」
「そうです。むしろ、核心に入ってきた気がします」
翌朝、東京へ帰る飛行機の中で、智也はノートを開いた。
**「クアラルンプールでの対話が終わった。ヴィクトラム・ナイルは、降伏ではなく、告白をしに来ていた。彼の動機は、エドワードやデイビッドとも異なっていた。哲学的な理想でも、商業的な利益でも、権力への欲求でもなく、純粋な知的探求だった。しかし、その探求が、倫理的な問題を伴った形で実行された。」**
**「見えていなかったもう一面は、日本の企業グループの存在だった。これまでの調査で一度も出てきていない名前が、コグニティブ・ブリッジ・リサーチの資金源の一部だった。それが、第十一章の次の問いになる。」**
**「ヴィクトラムは、研究の全てを公開することに同意した。倫理的な問題も含めて。その決断を、引き出せたのは、論理ではなく、誠実さへの訴えだったと思う。両方を開示することが、最終的に研究者としての誠実さを示す唯一の道だと伝えた。その言葉が、届いた。」**
**「これまでの旅を振り返ると、全ての対話に共通することがある。人間は、誠実さに、誠実さで応える。その確信は、今回も、裏切られなかった。」**
**「帰国したら、木村刑事と共に、日本の企業グループの特定を始める。それが、第十一章の次の局面だ。」**
飛行機が、雲の上に出た。
窓の外に、白い光が広がっていた。
その光の中で、智也は、ヴィクトラムの顔を思い浮かべた。
長年、一人で研究の重さを抱えてきた男の顔。
告白の後、初めて柔らかくなった表情。
人間は、変われる。
その確信が、またここで、更新された。
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第11章 第5話「クアラルンプールの夜」完




