表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/149

第11章 第4話:ヴィクトラムの影


あらすじ:実験データが法的な証拠として整備される一方、インターポールによるヴィクトラム・ナイルの追跡に進展が生じる。彼の最後の足取りが、東南アジアのある都市に絞り込まれる。同時に、智也のもとに、匿名のメッセージが届く。そのメッセージは、ヴィクトラム自身から送られた可能性があった。内容は、対話の申し入れだった。ただし、今回の申し入れは、これまでのどの人物とも異なる種類のものだった。ヴィクトラムは、降伏を求めているのではなかった。彼は、智也に、ある選択を迫っていた。


---


五月の初旬。


新緑が、キャンパスを鮮やかに覆っていた。


実験データの法的な整備は、想像よりも速く進んでいた。


西島教授のデータ、村上准教授の技術的解析、そしてエドワード・クレインとレナ・ホールの証言が、一つの証拠体系として束ねられた。


木村刑事は、それを「これまでの事件の中で、最も技術的に精密な証拠群だ」と評した。


エデュポータルの運営会社・エデュテクノロジーには、任意の資料提出要請が出され、担当者が警察の事情聴取に応じることになった。


コンテンツプロバイダー数社も、同様の要請を受けた。


その中の一社が、ヴィクトラム・ナイルの名前を、顧問として登録していたことが、書類から確認された。


「これで、ヴィクトラムとエデュポータルの繋がりが、一つ、文書で確認できました」


木村刑事は、智也に報告した。


「ヴィクトラムの追跡は、どうですか」


「インターポールが、東南アジアの複数の国で、渡航記録の照合を進めています。最後に確認されたドバイからの移動が、マレーシアへの航路だったことが分かりました。現在、クアラルンプール近辺を中心に、追跡が続いています」


「クアラルンプール、ですか」


「そうです。ただし、現地当局との連携に、まだ時間がかかっています。正式な協力体制の構築を急いでいます」


「分かりました。何か動きがあれば、すぐに知らせてください」


電話を切って三日後の夜、智也のもとに、匿名のメッセージが届いた。


使われたのは、公開鍵暗号を使った、匿名メッセージシステムだった。


セキュリティに詳しい人間が、追跡を防ぐために使う手段だった。


メッセージは、英語で書かれていた。


**「千葉智也へ。私の名前は言わない。ただし、あなたは、私が誰かを、すでに知っているはずだ。私は、あなたに一つのことを伝えたい。あなたは、今、自分が追っているものの一面しか見えていない。見えていないもう一面を、あなたに示すことができる。ただし、条件がある。あなたが、私の話を聞いた後に、選択をしなければならない。どちらを選ぶかは、あなた次第だ。話を聞く準備があれば、返信せよ。私は、あなたが返信するかどうかで、あなたという人間を、改めて評価する。」**


智也は、そのメッセージを、三度読んだ。


送り主がヴィクトラムである可能性は高かった。


暗号化の手法の洗練度、「あなたは私が誰かを知っているはず」という前提、そして「話を聞いた後に選択をさせる」という構造。


これまで接触してきた人物たちとは、明確に異なるアプローチだった。


黒川は、取引を求めた。


河合は、家族の保護を条件にした。


橘は、書籍の言葉に動かされた。


エドワードは、対話を通じた自己理解を求めた。


しかし、ヴィクトラムのアプローチは、それらのどれとも違った。


彼は、智也に、何かを選ばせようとしていた。


その選択の内容を、まだ伝えていない状態で。


「これは、心理的なテストだ」


智也は、直感した。


心理戦の専門家であるヴィクトラムが、まず智也の反応を観察しようとしている。


返信するかどうか、そしてどのように返信するかが、ヴィクトラムにとっての情報になる。


智也は、すぐに美優に連絡した。


「メッセージが届きました。ヴィクトラムからの可能性があります」


内容を共有すると、美優はしばらく沈黙した。


「選択を迫っている、というのが引っかかる。どんな選択か分からない状態で、話を聞く準備があると言わせようとしている。それ自体が、心理的な誘導かもしれない」


「私も、同じことを感じています」


「返信するつもり?」


智也は、しばらく考えた。


「します。ただし、私からも、一つの条件を提示した上で」


「どんな条件?」


「選択の内容を、事前に教えること。選択肢を提示せずに、話を聞くかどうかを決めさせること自体が、既に一種の操作であることを、伝えます」


「それを伝えることで、ヴィクトラムが引くかもしれない」


「引けば、それはそれで情報です。彼が、こちらの対抗を予測していたかどうかが分かります。引かなければ、より誠実な接触の可能性があります」


「どちらにしても、あなたは返信する」


「そうです。沈黙は、最も情報が少ない選択です」


木村刑事とサラにも、メッセージの内容を共有した上で、以下の返信を送った。


**「返信する。ただし、条件がある。あなたが私に示すという選択の内容を、事前に概略だけでも教えてほしい。内容を知らずに話を聞くと約束することは、すでに一種の選択だ。その選択を、盲目的に行うつもりはない。それが私の推理者としての在り方だ。概略を教えてくれれば、引き続き対話する。」**


返信を送ってから、三十六時間が過ぎた。


その間、智也は通常通りの生活を続けた。


授業に出席し、倫理委員会の追加申請を準備し、村上との会議を行った。


待つことへの不安より、推理者としての観察の姿勢を保つ方が、今の自分には自然だった。


三十六時間後、返信が届いた。


**「あなたは、私の期待通りに動いた。条件を提示したことは、正しい判断だ。概略を教える。あなたへの選択は、次の二つだ。一つ目:あなたが調査を続けることを、私は支持する。ただし、私が示す情報を基に、調査の方向を、一つだけ変える。二つ目:あなたが調査を続けることを、私は妨害しない。ただし、私が示す情報は、永遠に失われる。どちらを選ぶかは、私の話を聞いた後に決めてよい。しかし、決断するまでの猶予は二十四時間だ。この条件は受け入れられるか。」**


智也は、そのメッセージを読んで、二つのことを同時に感じた。


一つは、ヴィクトラムが、単純な逃走や取引を求めているのではない、という確信。


彼は、智也の調査そのものに、何らかの形で関与したいと思っている。


もう一つは、「調査の方向を一つだけ変える」という条件が、何を意味するのかへの、強い好奇心だった。


「方向を変える、とは、何を隠すためなのか。それとも、何を明かすためなのか」


その問いが、返信を書く前に、智也の頭の中で展開した。


ヴィクトラムが心理戦の専門家であることを前提にすれば、この提案には、複数の層がある可能性がある。


表層:智也に選択をさせることで、心理的な優位を保つ。


中層:「方向を一つだけ変える」という条件が、実際には智也に有利な情報を含んでいる可能性がある。


深層:ヴィクトラム自身が、何かから抜け出したいと思っている可能性がある。


その深層の可能性が、智也に、これまでと同じパターンを思い起こさせた。


追い詰められた人間が、最後に選ぶのは、真実を語ることだ。


その確信を持ちながら、智也は返信を書いた。


**「条件を受け入れる。ただし、一つだけ確認させてほしい。あなたが示す情報は、私の調査が正しい方向に向かうことを、助けるものか。それとも、私の調査を、誤った方向に引き込むためのものか。どちらかを、正直に答えてほしい。あなたが心理戦の専門家であることは知っている。しかし、私は、あなたが今この瞬間、その専門性ではなく、別のものに従って動いている可能性があると、感じている。その感覚が正しいかどうかを、あなたの返答から判断する。」**


その返信を送った後、智也は、美優に全ての経緯を話した。


美優は、メッセージを全部読んでから言った。


「あなたは、ヴィクトラムを、追い詰められた人間として見ているのね」


「その可能性があると思っています。確証はありません」


「もし違ったら?」


「その時は、罠だと判断して、引き返します。ただし、罠だったとしても、彼が接触してきたという事実そのものが、調査の進捗を彼が脅威として感じていることの証です。それは、私たちが正しい方向に向かっているということを意味します」


「どちらに転んでも、情報になる」


「そうです。それが、推理者の考え方です」


「怖くないの?」


「怖さより、好奇心の方が大きいです。今は」


「それが、あなたらしい」


美優は、静かに笑った。


翌朝、返信が届いた。


**「正直に答える。私が示す情報は、あなたの調査を正しい方向に助けるものだ。ただし、その情報が、調査の一部の方向を変えることにもなる。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、矛盾していない。あなたが追っているものは、一面しか見えていない。もう一面を見た時、あなたは、今の調査の一部を、手放すことになるかもしれない。それでも、全体としては、真実に近づく。あなたが私の言葉を信頼するかどうかは、あなた次第だ。」**


そのメッセージを、智也は何度も読んだ。


「一面しか見えていない」


「もう一面を見た時、今の調査の一部を手放すことになる」


「それでも、全体としては、真実に近づく」


その言葉は、真実を語っている人間の言葉のように、感じられた。


しかし、それ自体が、心理戦の専門家が意図した印象かもしれなかった。


智也は、そのジレンマを、ノートに書き出した。


そして、一時間、一人で考えた。


最終的に、智也は、一つの判断を下した。


その判断の根拠は、論理ではなく、この旅を通じて積み重ねてきた経験だった。


追い詰められた人間が、最後に選ぶのは、真実を語ることだ。


その確信を、ここで試すことに、意味があると思った。


木村刑事に電話した。


「ヴィクトラムと直接会う準備を、進めたいと思っています」


「今の状況では、リスクが高すぎます」


「分かっています。ただし、彼が接触してきたことは、彼が何かを伝えたがっているサインです。そのサインを無視することは、もったいない」


「彼が心理戦の専門家であることを、忘れないでください」


「忘れていません。だからこそ、慎重に設計した上で、接触したい。クアラルンプールに、インターポールの協力を得た上で、安全な場所を確保することは可能ですか」


木村刑事は、少し間を置いた。


「検討します。ただし、一つ条件があります」


「何ですか」


「インターポールのエージェントが、同席すること。そして、会話の全てが、記録されること」


「それを、ヴィクトラムに伝えた上で、彼が同意すれば進める、という形でいいですか」


「そうしてください」


その日の夜、ヴィクトラムへの返信を書いた。


**「話を聞く。ただし、条件がある。インターポールのエージェントが同席し、会話が記録される。この条件を受け入れるなら、場所と時間を調整する準備がある。この条件を提示することは、あなたへの不信感からではない。私は、あなたが降伏を求めているのではなく、何かを伝えたいと思っていると、感じている。その感覚が正しければ、記録されることを恐れる理由はないはずだ。」**


返信を送ったその夜、智也はノートに書いた。


**「今日、最も難しい判断をした。ヴィクトラムへの接触を進める決断だ。心理戦の専門家との対話は、これまでの誰とも異なる。しかし、その困難さが、この旅で最も重要な接触になる可能性があると、直感している。」**


**「なぜ、この判断をしたか。道筋を問い返す。ヴィクトラムが接触してきた。心理戦の専門家が、自ら接触してくることは、何らかの変化が彼の内側で起きていることを示唆する。その変化を無視することは、推理者として、不誠実だ。」**


**「条件を設けた。それが、私の自律性の証だ。盲目的に飛び込まない。しかし、閉じたままでもいない。その中間の道を、一歩一歩、丁寧に歩む。」**


**「次の返信が来た時、第十一章は、次の局面に入る。」**


夜の東京が、静かに呼吸していた。


どこかで、電車の音がした。


それがフェードアウトすると、また静寂が戻った。


その静寂の中で、智也の推理は、休むことなく続いていた。


---

第11章 第4話「ヴィクトラムの影」完


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ