第9章 第3話:レナ・ホールという人物
あらすじ:EngageMax Analyticsの創業者・レナ・ホールの経歴と内面の調査が深まる。美優の取材とサラ博士の分析が、レナという人物の複雑な背景を照らし出す。神経科学者として純粋に人間の認知を守ろうとしていた女性が、なぜ、認知操作の技術を提供する企業を率いることになったのか。その経緯を理解した智也は、レナへの接触の方法について、これまでとは異なる新たなアプローチを考え始める。
---
十一月に入った。
東京は、紅葉の季節を迎え、街路樹が赤や黄色に染まっていた。
智也は、大学の後期授業を受けながら、並行して、レナ・ホールという人物の調査を進めていた。
その調査は、今回、美優とサラ博士の二人が、それぞれ異なる角度から進めていた。
美優は、ジャーナリストとしての取材ネットワークを活用し、シリコンバレーの複数の関係者から、レナについての証言を集めていた。
サラは、神経科学の研究者としての立場から、レナの過去の論文や研究成果を、丁寧に読み込んでいた。
二人の調査の結果を合わせると、レナ・ホールという人物の像が、徐々に、鮮明になってきた。
まず、サラからの報告が届いた。
「レナの研究論文を、全て読み直しました。二十本以上の論文が、公開されています。そのテーマは、全て、デフォルトモードネットワークと注意制御の関係に集中しています」
「その研究の目的は、何でしたか」
「一貫していました。デフォルトモードネットワークが過剰に活性化することで生じる、注意散漫や批判的思考の低下を、いかにして防ぐか。つまり、彼女の研究の全体が、認知的自律性を守るためのものだったのです」
「マーカスの博士論文テーマと、本質的に同じですね」
「そうです。非常に興味深い共通点があります。そして、もう一つ、重要な発見があります」
「何ですか」
「レナの研究の中に、EngageMax Analyticsを設立する三年前に、発表された論文があります。タイトルは、『アダプティブフィードアルゴリズムの認知的影響:エンゲージメント最適化が批判的思考に与えるリスク』というものです」
「それは、アダプティブフィードのリスクを警告した論文ですか」
「そうです。その論文の中で、レナは、以下のように述べています。『アダプティブフィードアルゴリズムが、ユーザーのエンゲージメントを最大化するように設計された場合、その最適化は、必然的に、デフォルトモードネットワークの長時間活性化を引き起こす。これは、短期的な快感を伴いながら、長期的には、批判的思考能力を低下させる。このリスクを、テクノロジー企業は、真剣に認識すべきだ』と」
「つまり、レナは、アダプティブフィードの危険性を、最初から認識していた。それを警告していた人間が、なぜ、その危険なアルゴリズムを開発する企業を設立したのか」
「それが、最大の謎です。何かが、彼女を変えた。あるいは、変えさせた」
その謎に対して、美優の取材が、答えを提供してくれた。
「レナについて、重要な情報が入った」
美優から、その夜、連絡が届いた。
「何ですか」
「彼女に、かつて、非常に親しい共同研究者がいたらしい。**デイビッド・チェン**という、神経科学者よ。彼女の博士論文の共同指導教員だった人物で、レナが最も信頼していた研究者だったという」
「そのデイビッドという人物は、今、何をしていますか」
「そこが、問題なの。彼は、七年前に、突然、大学を去った。その後の行方が、しばらく、分からなくなっていた。そして、最近、彼の名前が、グローバル・コグニティブ・ファンドの顧問リストに、確認されている」
智也は、その情報を聞いた瞬間、推理の輪郭が、鮮明になるのを感じた。
「つまり、レナが最も信頼していた研究者が、グローバル・コグニティブ・ファンドの顧問になっていた。そして、その後、レナはEngageMax Analyticsを設立し、グローバル・コグニティブ・ファンドからの出資を受けた」
「そう。デイビッドが、レナとファンドを繋いだ可能性が高い」
「デイビッドは、レナに、どのような形で接触したのでしょうか」
「それを、さらに詳しく調べた。複数の証言から、デイビッドは、大学を去る前後に、レナに対して、こんな提案をしていたらしい。『認知的自律性を守る技術は、それ自体を研究するだけでは不十分だ。実際にその技術を社会に実装するためには、産業界に入り込む必要がある。アカデミアの外から、内側を変えていく方法が、より効果的だ』という主張よ」
「その論理は、表面上は、説得力があります。純粋な研究よりも、産業界での実装の方が、社会への影響力が大きい。その論理に、レナは、納得したのかもしれない」
「おそらく。そして、産業界に入ったレナは、最初は、自分の研究の理念を実現しようとしていた。アダプティブフィードの危険性を緩和する技術を開発しようとしていた。しかし、グローバル・コグニティブ・ファンドの意向が、それとは逆方向だった。危険性を緩和するのではなく、その危険性を最大化する形での実装を求められた」
「そして、契約上の制約や、デイビッドとの信頼関係を人質に取られる形で、抜け出せなくなった」
「そう考えられる。典型的なパターンよ。信頼できる人物を通じて取り込み、そのまま深みにはまらせる」
その構造が、これまでの事件と、全く同じだった。
だが、今回は、デイビッドという中間人物が存在していた点が、異なっていた。
「デイビッド・チェンという人物は、グローバル・コグニティブ・ファンドにとって、どのような役割を果たしているのでしょうか」
「それを調べた。彼は、ファンドの科学顧問として、複数の研究者を、ファンドと繋ぐ役割を担っているらしい。いわば、学術界とファンドをつなぐ、リクルーターのような立場よ」
「つまり、レナだけでなく、他にも、同様の形で取り込まれた研究者が、複数いる可能性があるということですか」
「その可能性は高い。デイビッドが、複数の研究者と、長期的な関係を持っていることが、確認されている。彼のターゲットは、特に、認知科学、神経科学、人工知能の分野の研究者に集中しているようよ」
その情報が、智也に、この事件のより広い構造を、見せてくれた。
グローバル・コグニティブ・ファンドは、デイビッドのような橋渡し役を通じて、学術界から優秀な研究者を引き抜き、自分たちの目的のために、その研究力を活用しているのだ。
「デイビッド・チェンへのアプローチを、検討すべきかもしれません」
「そうね。ただし、彼はレナより、より深くファンドと関わっている可能性がある。アプローチの順序を、慎重に考える必要がある」
「レナへのアプローチを先にすることを、提案します」
「なぜ?」
「レナは、既に、自社の技術の使われ方に懸念を持ち始めている。彼女が本来目指していたものと、現状の矛盾を、既に感じている。その状態でのアプローチは、より成功の可能性が高い。そして、レナが情報を提供してくれれば、デイビッドへの接触の方法も、より明確になる」
「わかった。では、どのようにレナにアプローチする?」
智也は、しばらく考えた。
「彼女の論文から始めます」
「どういう意味?」
「彼女が三年前に発表した、アダプティブフィードのリスクを警告した論文。その論文に対して、学術的な形でコメントを送ります。現在のEngageMax Analyticsの技術が、その論文で警告したリスクを、意図せず実現してしまっているのではないかという点について、研究者間の対話を求める形で」
「学術的なアプローチ。それは、レナが最も応じやすい形ね」
「はい。彼女は、もともと研究者です。商業的な目的よりも、研究の理念を大切にしていたはずです。その理念に直接訴えることが、最も有効だと思います」
「マーカスへのアプローチと似ていますね」
「本質的には同じです。ただし、今回は、学術的な論文を通じた対話という形にすることで、より自然で、より圧力を感じさせない形にできます」
「いいわ。その方針で進めましょう。ただし、一つ確認しておきたい」
「何ですか」
「あなたは、レナが本当に懸念を持っているという前提でアプローチしようとしている。しかし、その情報が、実は、私たちをおびき寄せるための罠だった場合、どうする?」
その問いは、智也が、既に考えていたものだった。
「その可能性は、ゼロではありません。ただし、いくつかの理由から、罠の可能性は低いと判断しています」
「どのような理由ですか」
「まず、サラ博士が確認した、レナの過去の論文の内容です。アダプティブフィードのリスクを警告した論文は、三年前に書かれたものです。現在の状況を見越して、その内容を書くことは、不可能です。つまり、あの論文は、本物の問題意識から書かれたものだという確証があります」
「それは、説得力があるわね」
「次に、レナへの懸念の情報が、複数の独立した情報源から、来ているという点です。美優さんが取材した複数の関係者が、それぞれ独立して、同じような情報を提供しています。もしこれが罠なら、複数の人物を、同じ方向の情報を伝えるように、調整する必要があります。それは、リスクが高すぎる」
「なるほど。ただし、絶対はないということも、念頭に置いておく」
「もちろんです。慎重に進めます」
その翌日の昼、智也は、サラ博士に連絡を取り、レナの論文へのコメントの草案を、共同で作成することを、提案した。
サラは、即座に同意した。
「レナの論文は、私も非常に高く評価していました。彼女の問題意識は、本物だと思います。学術的な対話の形でのアプローチは、最善の方法だと思います」
「では、コメントの草案を、一緒に作成しましょう」
二人は、その週末、オンラインで、コメントの草案を書き上げた。
その内容は、以下のようなものだった。
「レナ・ホール博士の論文、『アダプティブフィードアルゴリズムの認知的影響』を、私たちは、非常に興味深く読みました。特に、アダプティブフィードアルゴリズムがデフォルトモードネットワークの過剰活性化を引き起こすというリスクの指摘は、極めて重要なものです。私たちは、近年の技術的な分析を通じて、現在、複数のスマートフォンOSに実装されているアダプティブフィード機能の一部が、まさにこの論文が警告したリスクを実現している可能性があることを、発見しました。この点について、博士の見解を聞かせていただきたく、学術的な対話を求めます。サラ・チェン(スタンフォード大学)、千葉智也(国際民主主義保護条約監視委員会)」
そのコメントを、レナ・ホールの大学時代のメールアドレスに、送信した。
現在は、そのアドレスが有効かどうかは、不明だったが、試してみる価値があった。
コメントを送信した後、智也は、図書館の奥の席で、返答を待ちながら、論文の課題を進めた。
窓の外では、秋の夕暮れが、深まっていた。
その光の中で、智也は、静かに考えた。
レナが応じてくれるかどうかは、分からない。
だが、試みることは、常に正しい。
人間を信頼することが、推理者としての根本的な姿勢だ。
その姿勢を、貫き続けることが、この旅を、前に進め続ける力になっている。
ノートに、智也は書いた。
**「レナ・ホール。デイビッド・チェンという人物を通じて、グローバル・コグニティブ・ファンドに取り込まれた、神経科学者。彼女の原点は、認知的自律性を守ることだった。その原点が、今も、彼女の中に生きている可能性がある。論文へのコメントを送った。彼女が応じてくれることを、信じる。」**
**「デイビッド・チェンという人物の存在が、新たな課題を示している。彼は、学術界とファンドをつなぐリクルーターとして機能している。つまり、グローバル・コグニティブ・ファンドは、個別の研究者を取り込むことを、組織的に行っている。その仕組みを解明することが、第九章の核心的な課題の一つになるかもしれない。」**
**「しかし、今夜は、一つずつ進める。レナからの返答を待つ。焦らず、一歩一歩、丁寧に。それが、私の在り方だ。」**
夜が更け、キャンパスが静まり返っていた。
だが、どこかで、新たな動きが始まろうとしていた。
第九章の推理は、着実に、その中心へと向かっていた。
---
第9章 第3話「レナ・ホールという人物」完




