第7章 第3話:倫理委員会への申請
あらすじ:智也は、大学の倫理委員会への正式な調査依頼を、準備し始める。その過程で、倫理委員会の委員の一人が、行動科学研究所と関係している可能性が浮上する。同時に、社会情報論ゼミの学生の一人が、智也に自ら接触してきた。その学生は、ゼミでの体験に、違和感を感じているという。かつての田島由美を思わせるその状況が、智也に、この事件の被害者の顔を、改めて見せる。
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倫理委員会への正式な調査依頼書の作成は、想像以上に、複雑な作業だった。
大学の倫理委員会は、研究の適正性を審査するための機関だ。
そこへの申請には、複数の証拠と、法的に適切な根拠が、必要とされる。
智也は、村上准教授の技術的な分析結果と、美優が取材で得た情報を、組み合わせて、申請書類を作成し始めた。
申請書類の構成は、以下の通りだ。
**第一部:問題の概要**
行動科学研究所が、大学の複数のゼミを通じて、学生のデータを、同意なしに第三者に転送している可能性。
**第二部:技術的な証拠**
村上准教授による、データ転送の痕跡の分析結果。
**第三部:法的な問題点**
個人情報保護法の観点からの、同意なし転送の問題。
**第四部:調査の要請内容**
大学として、行動科学研究所との共同研究の実態を、調査することの要請。
その書類の作成を、三日間で、ほぼ完成させた。
だが、その作業の過程で、一つの問題が浮上した。
倫理委員会の委員リストを確認していた村上が、以下の情報を伝えてきた。
「倫理委員会の委員の中に、**中島哲也教授**という人物がいます。彼は、行動科学研究所の顧問を務めているという情報があります」
「倫理委員会の委員が、調査対象の機関の顧問を務めている、ということですか」
「そう見えます。これは、利益相反に当たる可能性があります」
智也は、その情報の意味を、すぐに理解した。
もし、中島教授が倫理委員会での審査に関与した場合、その審査が、適切に行われない可能性がある。
「その場合、倫理委員会への申請は、有効ですか」
「申請自体は、有効です。ただし、中島教授を、審査から除外するよう、申し入れる必要があります。そして、もし、その申し入れが、受け入れられない場合は、外部機関への申告を、検討する必要があります」
その判断を、木村刑事に伝えた。
木村刑事は、以下のようにコメントした。
「利益相反の問題は、大学内で解決できない場合、文部科学省や、研究費を提供している機関への申告が、可能です。ただし、その前に、大学内での手続きを尽くすことが、適切です」
「わかりました。まず、倫理委員会への申請と、中島教授の除外申し入れを、同時に行います」
その日の午後、智也が、図書館で申請書類の最終確認をしていた時、後ろから声がかかった。
「千葉さんですよね」
振り返ると、見知らぬ女子学生が立っていた。
「はい」
「私、社会情報論ゼミに入っている、二年生の**長谷川詩織**といいます。少し、お話しできますか」
その名前と、ゼミ名を聞いた瞬間、智也は、内心、警戒した。
調査の対象であるゼミの学生が、自ら接触してきた。
これは偶然か、それとも、何かの意図があるのか。
「どのようなご用件ですか」
「実は、ゼミでの体験について、相談したいことがあって。千葉さんが、この問題に詳しいと聞いたので」
「誰から聞きましたか」
「一年生の中村彩香さんから。彼女が、千葉さんとよく話していると言っていたので」
中村彩香。入学初日に、話しかけてきた女子学生だ。
彼女は、悪意があるわけではなく、単純に、智也のことを、友人として話したのだろう。
「どのような体験ですか」
長谷川は、少し躊躇した後、語り始めた。
「ゼミに入ってから、二ヶ月ほどになります。最初は、先生の授業がすごく面白くて、どんどん学びたいという気持ちが強くなりました」
「ただし、最近、何か変化がありましたか」
「はい。気づいたら、ゼミのメンバーと話す時と、他の人と話す時で、自分の意見が、違ってきているような気がして」
「どのような違いですか」
「ゼミの中では、社会問題に対して、すごく批判的な見方をするようになった。でも、ゼミの外で、例えば家族と話す時は、そこまでではない。なんか、ゼミに入ると、特定のレンズをつけて見るような感じになって、出ると外れる。その落差が、最近、気になって」
その説明を聞いた智也は、深く考えた。
「そのレンズを通して見ると、世界はどのように見えますか」
「批判的に、全てが問題に見える。でも、それが本当に自分の考えなのか、それともゼミで刷り込まれたものなのか、分からなくなってきた」
「ゼミでの授業の形式は、どのようなものですか」
「ディスカッション中心です。先生が、特定のテーマを提示して、私たちが議論する。でも、振り返ると、議論の結論が、いつも、最初に先生が示した方向に、収束している気がして」
その説明が、智也の推理を、大きく前進させた。
ファシリテートされた議論によって、学生の思考を、特定の方向に誘導する。
それは、表面上は、自由な議論のように見えるが、実際には、緻密に設計された誘導だ。
「その体験を、正式な記録として残すことに、協力していただけますか」
長谷川は、驚いた様子だったが、頷いた。
「協力します。ただし、先生や他のゼミメンバーに知られたくない」
「その点は、最大限、配慮します」
その後、長谷川は、詳しい体験を、スマートフォンのメモとして、智也に送ることを、約束した。
彼女が図書館を去った後、智也は、その出来事の意味を、考えた。
かつての田島由美も、自ら情報を提供することで、第五章の解明に貢献した。
今回の長谷川詩織も、自ら接触してきた。
被害者が声を上げることで、推理が前に進む。
その構造が、第一章から、一貫して続いていた。
「人は、声を上げられる環境があれば、声を上げる」
智也は、その事実を、ノートに書いた。
だが、同時に、長谷川の接触に、一つの疑問も感じていた。
彼女は、本当に自発的に来たのか。
それとも、山本が、智也の調査に気づいており、逆に情報を収集するために、学生を使ったのか。
その可能性を、排除できなかった。
「慎重に」
智也は、自分自身に言い聞かせた。
相手を信じることと、相手を疑うことの、バランス。
それが、推理者として常に必要な、複雑な判断だった。
翌日、美優に、長谷川の件を伝えた。
「自発的な接触ですか。可能性は二つ。本当の被害者か、それとも、山本側の情報収集か」
「その通りです。どちらかを判断するには、長谷川の証言の内容が、実際の状況と一致しているかどうかを、確認する必要があります」
「どうやって確認する?」
「長谷川が言っていたゼミでの体験を、他のゼミメンバーの証言と、照合する。もし、複数の学生が、同様の体験を語れば、それは、本物の被害の証拠になります」
「他のゼミメンバーへの接触は、慎重に行う必要がありますね」
「はい。長谷川を通じて、信頼できる別のメンバーを、紹介してもらうのが、最も安全な方法です」
その方針を、長谷川に伝えた。
「信頼できるゼミのメンバーで、同じような体験をしている人を、紹介していただけますか」
「いると思います。実は、私と同じようなことを、感じていると話していた人が、一人います」
「その方と、話せますか」
「確認してみます」
翌週、長谷川は、もう一人の二年生を、連れてきた。
**松田啓介**という男子学生だった。
彼の証言は、長谷川の証言と、極めてよく一致していた。
「ゼミの外では、自分の意見を持っているはずなのに、ゼミに入ると、先生の示す方向に、議論が引っ張られていく感じがする」
その証言の一致が、長谷川の接触が、本物の被害者からのものだという確信を、智也にもたらした。
「ありがとうございます。大切な情報を、提供していただきました」
二人が去った後、智也は、図書館の奥の席で、この調査の全体像を、整理した。
行動科学研究所による不正なデータ収集。
山本健司によるゼミでの思考誘導の可能性。
倫理委員会への申請と、利益相反の問題。
そして、複数の学生による証言。
これらが、一つの構造として、見え始めていた。
ただし、この構造の全体を明かすには、まだ、いくつかの重要な確認が、必要だった。
一つは、山本が、自分の行為の問題性を、認識しているかどうか。
もう一つは、行動科学研究所のトップが、誰であり、シャドウ・ネットワークの残存組織との関係が、どの程度なのか。
その確認が、第七章の推理の、次の段階だった。
ノートに、智也は、以下を書いた。
**「長谷川と松田の証言により、ゼミでの思考誘導の可能性が、具体的な形を取り始めた。次の確認事項:山本の認識と、行動科学研究所のトップの特定。慎重に、しかし確実に、前進する。」**
窓の外では、新緑のキャンパスが、午後の光の中に輝いていた。
第七章の推理は、着実に、深まっていた。
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第7章 第3話「倫理委員会への申請」完




