第7章 第2話:山本健司という人物
あらすじ:行動科学研究所と山本健司教授の調査が本格化する。村上准教授の技術的な分析と、美優の取材活動が並行して進む中、智也は、山本という人物の内面を理解するために、彼の授業に潜り込むことを決意する。その授業で見たものは、智也に、この事件の新たな側面を突きつけた。山本は、単なる悪意ある研究者ではなく、自分の研究への純粋な信念を持つ、極めて複雑な人物だったのだ。
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山本健司の担当する授業が、法情報学部の一年生向けにも、開かれていることが判明した。
「社会認知とデジタルメディア」という、選択授業だ。
智也は、履修登録の締め切りぎりぎりに、その授業を、追加登録した。
最初の授業は、木曜日の三時間目だった。
講義室に入ると、すでに、複数の学生が席についていた。
智也は、後方の席を選んだ。
目立たず、しかし、全体を見渡せる位置だ。
高校の図書館の奥の席と、同じ選択だと、智也は気づいた。
場所は変わっても、習慣は残る。
定刻より少し遅れて、山本健司が講義室に入ってきた。
五十代前後の、細身の男性だ。
白髪交じりの髪。
眼鏡の奥の目は、鋭いが、どこか、疲れた印象があった。
「では、始めます」
山本は、静かに言った。
「今日のテーマは、『情報環境が人間の認知に与える影響』です」
スライドが、スクリーンに映し出された。
複数のグラフ。複数の実験データ。複数の引用文献。
その内容は、極めて充実していた。
「人間の認知は、周囲の情報環境によって、大きく形成されます。どのような情報に、日常的に接しているかによって、同じ出来事に対する解釈が、全く異なってきます」
山本の言葉は、明確で、論理的だった。
「例えば、このデータを見てください」
スライドに、複数のグラフが表示された。
「同じニュースを、異なるフレーミングで提示した場合、受け手の反応が、大きく変わることを示しています。これは、単なるバイアスの問題ではなく、人間の認知の根本的な特性です」
智也は、その説明を聞きながら、一つのことに気づいた。
山本の授業内容は、感情操作のための悪用を前提としていない。
純粋に、人間の認知の仕組みを、科学的に説明しようとしているのだ。
その純粋さが、智也に、複雑な感情をもたらした。
授業が終わった後、智也は、講義室に残り、山本が資料を片付けるのを、遠くから観察した。
山本は、一人の学生から、質問を受けていた。
その様子を見た時、智也は、山本が、その学生の質問に、真剣に向き合っていることを感じた。
彼は、少なくとも、教育者としては、誠実なのかもしれない。
その印象が、智也の推理に、新たな複雑さを加えた。
誠実な研究者が、なぜ、問題のある研究に、関わっているのか。
あるいは、彼は、自分の研究が、問題のある目的に使われていることを、知らないのか。
その問いを、その夜、美優に伝えた。
「授業の様子は、どうだった?」
「複雑でした。山本教授は、少なくとも、授業の場では、誠実な教育者として見えます。自分の研究への純粋な信念を持っているように見えました」
「それは、アレクサンダーと似ているかもしれない」
「そうかもしれません。だが、アレクサンダーは、自分の研究が、どのように使われるかを、完全に理解していた。山本は、どうでしょう。彼が、行動科学研究所の本当の目的を、知っているかどうか、まだ、分かりません」
「それを明かすことが、次のステップね」
「はい。ただし、その前に、もう少し情報が必要です」
翌週の月曜日、村上から、さらに詳細な分析結果が届いた。
「行動科学研究所の研究データについて、技術的な分析が進みました」
「何が判明しましたか」
「研究所は、複数の大学の複数のゼミを通じて、大量の学生データを収集しています。そのデータの種類は、以下の通りです」
村上は、リストを提示した。
**・各学生のSNSの投稿内容と、その時系列的な変化**
**・各学生のスマートフォンの利用パターン**
**・各学生が参加したゼミでの発言内容の文字起こし**
**・各学生の学業成績の推移**
**・各学生の交友関係の変化**
「ゼミでの発言内容の文字起こし?それは、どのようにして収集されているのですか」
「ゼミの録音データです。表向きは、授業記録として保管されていますが、その録音データが、研究所のサーバーに、自動的に転送されていることが、判明しました」
「学生たちは、そのことを知っているのですか」
「おそらく、知りません。ゼミの参加同意書には、録音についての記述がありますが、その録音が第三者機関に転送されることについては、明記されていません」
「つまり、同意なしの第三者へのデータ転送が、行われているということですか」
「そう見えます」
その事実は、法的な問題を、明確に示していた。
個人情報保護法の観点から、同意なしの第三者へのデータ転送は、問題がある可能性が高い。
「その証拠を、法的に適切な形で保全する必要があります」
「既に、その準備を進めています」
「ありがとうございます」
進藤刑事の後任として、智也の相談に乗ってくれている、**新たな担当刑事・木村**にも、その情報を伝えた。
木村刑事は、三十代の女性刑事で、デジタル犯罪を専門とする部署に所属していた。
「村上先生の分析結果は、法的な調査の開始に、十分な根拠になり得ます。ただし、まず、大学の倫理委員会に対して、正式な調査依頼を行うことが、手順として適切です」
「わかりました。それを、まず進めます」
その判断は、以前の智也なら、取らなかった判断だった。
以前は、まず、自分で調査を進め、証拠を集めてから、警察に相談していた。
だが、今は、最初から、適切な手順を踏むことを、考えていた。
大学での経験と、委員会での活動が、彼に、制度的なアプローチの重要性を、教えていたのだ。
翌日、美優から、取材の報告が届いた。
「行動科学研究所の元研究員に、話を聞けた」
「どのような情報が得られましたか」
「その元研究員によると、研究所は二段階の構造になっているらしい。表向きの学術研究の部門と、その研究データを商業目的で活用する部門とが、内部で分かれているらしい」
「山本健司は、どちらの部門に属していますか」
「表向きの学術研究の部門だ。つまり、彼は、自分の研究が、商業目的で利用されていることを、知らない可能性がある」
「あるいは、知っているが、見て見ぬふりをしている可能性もあります」
「そうね。どちらかを確認するには、山本本人に話を聞くしかないかもしれない」
「まだ、その段階ではありません。もう少し、証拠を固める必要があります」
「慎重だね、今回は」
「はい。大学という場所は、学術的自由という強力な保護があります。その保護を尊重しながら、適切な手続きを踏まなければ、調査が逆に批判される可能性があります」
美優は、しばらく沈黙した後、以下のように言った。
「あなた、本当に成長したね」
「どのような意味ですか」
「以前は、とにかく真実を明かすことを、最優先にしていた。でも、今は、真実を明かす方法と、手順の適切さを、同様に重視している。それは、大きな変化よ」
その言葉が、智也の心に、静かに響いた。
真実を明かすことと、その方法の適切さを、同様に重視する。
それが、推理者としての成熟の一形態なのかもしれない。
その夜、智也は、大学図書館の席で、今日の授業での山本健司の言葉を、再び思い返した。
「人間の認知は、周囲の情報環境によって、大きく形成されます」
その言葉は、正しい。
そして、その正しい言葉が、誤った目的に、利用されているのかもしれない。
だが、その利用が、山本の意図によるものなのか、それとも、山本を道具として使っている別の存在の意図によるものなのか。
その答えを見つけることが、第七章の中心的な推理課題だ。
ノートに、智也は、以下を書いた。
**「山本健司という人物の真の姿:純粋な研究者か、悪意ある操作者か、それとも、利用されている人間か。その答えが、第七章の方向性を、決定する。」**
その言葉の横に、智也は、小さな疑問符を、書き加えた。
まだ、答えは出ていない。
だが、推理者は、答えが出るまで、推理を続ける。
それが、智也の在り方だった。
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第7章 第2話「山本健司という人物」完




