第5章 第8話:橘との対話と第五章の終焉
あらすじ:橘哲也との会合が実現する。彼は、智也と美優の前で、自分がエリック・ノースの組織に取り込まれた経緯を、語り始める。その告白は、残存組織の全容を解明するための、重要な鍵をもたらす。同時に、橘という人物の内面に、智也は、かつてアレクサンダーとの対話で感じた複雑さとは、全く異なる、純粋な疲弊を、見る。第五章は、橘の証言を契機に、一つの区切りを迎え、物語はさらに深い次の段階へと進んでいく。
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月曜日の昼過ぎ、東京都内の公立図書館の、静かな会議室に、三人が集まった。
智也と美優。
そして、橘哲也。
橘は、スーツ姿だったが、その表情には、以前のメディアでの強気な態度は、消えていた。
目の下に、疲労の色が見えた。
複数の弁護士を引き連れてくるかと思っていたが、彼は、一人で来た。
「千葉君、来てくれてありがとう」
橘の声は、落ち着いていた。
「こちらこそ、連絡をいただきありがとうございます。で、何を話したいのですか」
智也は、単刀直入に聞いた。
橘は、一瞬、視線を落とした。
そして、ゆっくりと、語り始めた。
「まず、謝りたい」
その一言が、智也と美優を、驚かせた。
「何について謝るのですか」
「学園への匿名書類です。私の指示でした。君の立場を揺るがすことで、調査を止めようとした。あれは、間違いでした」
「なぜ、今、それを認めるのですか」
「もう、続けられないからです」
橘の言葉には、疲弊と、何か別の感情が、混在していた。
「続けられないとは、どういう意味ですか」
橘は、深呼吸をした。
「エリック・ノースという人物を、ご存知ですか」
智也は、内心、驚いたが、表情には出さなかった。
「知っています」
「やはり、そこまで調べていましたか」
橘は、苦い笑いを浮かべた。
「私は、三年前、エリックに接触されました。彼は、当時の私に、データエコノミーの未来について、極めて説得力のある話をしました。そして、モーメントラボの設立資金を、提供してくれました」
「見返りは、何でしたか」
「収集したデータの、一部を、彼の組織に提供することです。最初は、そのデータの使用目的について、詳しく聞かされませんでした。ただ、マーケティングデータとして、活用されると、聞かされていました」
「ですが、後になって、本当の目的を知った」
「はい。収集したデータが、政治的な目的で、利用されていることを、知りました。特定の政治家への支持を高めるための、選挙キャンペーンのデータとして、使われていたのです」
「それが、シャドウ・ネットワークが行っていたことと、同じですね」
「その通りです。私は、シャドウ・ネットワークの手法が、新たな形で、継続されていることを、知りました。だが、その時点では、既に、深く関与してしまっていて、抜け出す方法が分かりませんでした」
智也は、橘の言葉を聞きながら、複数の推理を組み立てた。
橘は、最初から悪意を持って、このビジネスを始めたわけではない。
だが、エリックという人物の巧みな誘導により、徐々に、深みにはまっていった。
「抜け出せなかった理由は、何ですか」
「証拠です。エリックの組織は、私がやましいことをしていた証拠を、握っています。例えば、設立資金の出所に関する書類、データの提供記録、複数の内部会議の録音など。もし、私が離脱しようとすれば、それらを公開すると、脅されています」
「つまり、かつての学園のゲームと同じ、脅しによる支配ですね」
「そうです。そして、私自身が、同じ手法で、ユーザーを操作しながら、同じ手法で、自分も支配されていた。その矛盾に、ずっと苦しんでいました」
橘の目に、疲れとともに、何か別のものが浮かんでいた。
それは、恥辱と、解放への渇望だった。
「エリックの組織について、知っていることを、全て話していただけますか」
橘は、ためらいの後、頷いた。
「ただし、条件があります」
「何ですか」
「私の家族を、守ってください。妻と子供が、二人います。エリックの組織が、彼らを利用することを、恐れています」
智也は、その言葉を聞いて、河合信也の条件を、思い出した。
同じ条件。家族の保護。
「進藤刑事に連絡します。警察として、家族の保護を、最優先で対応してもらえるよう、確認します」
「お願いします」
智也は、会議室の外に出て、進藤刑事に電話した。
「橘が、情報提供を申し出ています。条件は、家族の保護です」
「わかった。直ちに、対応する」
会議室に戻ると、橘は、静かに待っていた。
「警察が、家族の保護を、最優先で対応することを、確認しました」
橘は、深く頷いた。
「では、話します。全て」
その後の二時間、橘は、エリック・ノースの組織について、詳細に語った。
エリックの組織の構造。
複数の国での活動の実態。
資金の流れ。
そして、現在も続いている、複数のアプリと企業を通じた、データ収集と民意操作の実態。
その告白の内容は、智也と美優が、想定していた以上に、深刻なものだった。
エリックの組織は、デイリーモーメントだけでなく、複数の国の複数のアプリを通じて、広範な感情誘導とデータ収集を、継続していた。
そして、収集されたデータは、複数の国の選挙に影響を与えるために、活用されていた。
「つまり、これは、日本だけの問題ではなく、複数の国での民主主義への介入だということですか」
「その通りです。エリックの最終的な目的は、複数の国の政治を、商業的に操作することで、自分の組織の利益を最大化することです。アレクサンダーのような哲学的な野望はない。ただ、権力と金が目的です」
その言葉が、第五章の敵の本質を、明確に示していた。
会合が終わった後、橘は、正式な証言のために、警察署に同行することを、受け入れた。
進藤刑事の部下が、会議室まで迎えに来た。
「行く前に、一つだけ聞かせてください」
智也は、橘に、最後の質問をした。
「なぜ、私に、直接、接触しようとしたのですか。他の方法もあったはずです」
橘は、少し考えた後、答えた。
「君の書籍を、読んだからです」
「書籍?」
「美優さんが書いた、あの書籍です。その中に、智也君のことが、詳しく書かれていた。人前では話せない少年が、信頼できる人と出会い、少しずつ変わっていった話が。その話を読んで、私も、変われるかもしれないと、思いました」
その言葉が、智也の心に、深く響いた。
美優が書いた書籍が、橘に、変化のきっかけを与えた。
それは、書籍を出版することの、最も重要な意味の一つだった。
「ありがとうございます」
智也は、そう言った。
橘は、最後に、美優に向かって、以下のように言った。
「あの書籍の最後に書かれていた言葉、覚えていますか。『民主主義を守ることとは、人と人との信頼を守ることなのかもしれない』という言葉。その言葉が、私の心に、ずっと残っていました」
美優は、静かに頷いた。
「それを書いたのは、私ですが、その意味を教えてくれたのは、智也です」
橘は、小さく微笑み、進藤刑事の部下と共に、会議室を出た。
その後ろ姿を見送りながら、智也は、これまでの旅の全てを、振り返った。
第一章から第五章まで。
複数の人物との出会い。
複数の真実の発見。
そして、複数の変化。
その全ての根底に、一つのことがあった。
それは、人間は変われるという信念だ。
アレクサンダーも、黒川も、河合も、そして橘も、全員が、かつては別の道を選ぶことができた人物だった。
だが、複数の要因によって、誤った方向に向かってしまった。
それでも、彼らの中に、真実を語りたいという欲求は、消えていなかった。
その欲求が、最終的に、彼らを動かした。
「美優さん」
智也は、美優に声をかけた。
「何?」
「書籍を書いてくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。でも、なぜ今更?」
「橘さんを動かしたのは、あの書籍でした。あの書籍がなければ、彼は、接触してこなかったかもしれない。つまり、美優さんの言葉が、この事件を、一歩前に進めた」
美優は、その言葉を聞いて、照れたように視線を逸らした。
「そういうことを、自然に言えるようになったじゃない」
「美優さんとの関係で、学んだことです」
二人は、公立図書館を後にした。
夕暮れの街を、並んで歩いた。
「第五章は、どうなると思う?」
美優が、歩きながら聞いた。
「橘の証言により、エリックの組織の実態が、さらに明かされます。そして、複数の国での捜査が、本格化するでしょう」
「第六章は、国際的な規模になるかもしれないわね」
「そうですね。ただし、その前に、第五章の事件を、きちんと解決することが必要です」
「そうね。一つ一つ、丁寧に」
その言葉が、この旅の進め方を、最も的確に表していた。
一つ一つ、丁寧に。
急がず、確実に。
信頼できる仲間と共に。
第五章は、橘の証言を契機に、新たな局面へと向かっていた。
だが、智也の心には、不思議な落ち着きがあった。
どんな困難な問題でも、一歩一歩、前に進み続ければ、必ず、答えに辿り着ける。
この長い旅が、彼に与えてくれた、最も大切な確信だった。
学園に帰る途中、智也は、空を見上げた。
夕暮れの空が、オレンジ色から、藍色へと、移り変わろうとしていた。
その色の変化が、この旅そのものを、象徴しているように感じた。
恐怖と孤独の藍色から、信頼と希望のオレンジ色へ。
そして、その二つの色が混ざり合う、この瞬間のような、複雑で、しかし美しい、現実の中に、自分はいる。
**沈黙の推理者の旅は、続く。**
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第5章 第8話「橘との対話と第五章の終焉」完




