第5章 第7話:残存組織の正体
あらすじ:学術論文の公表により、社会的な関心が高まる中、進藤刑事の調査が、シャドウ・ネットワークの残存組織の実態に、迫り始める。ケイマン諸島のファンドを通じた資金流入の追跡が進み、残存組織の中心人物が絞り込まれていく。同時に、橘哲也が、予想外の行動に出る。彼は、智也と美優に、直接、接触を求めてきたのだ。その接触の目的は何か。智也は、橘の心理を推理しながら、接触に応じるべきかどうか、判断を迫られる。
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学術論文の公表から三日が経過した。
社会的な反響は、急速に広がっていた。
**五十万人以上のユーザーが、デイリーモーメントのアカウントを削除した。**
**複数の保護者団体が、アプリの使用禁止を、学校側に要請し始めた。**
**国民生活センターが、アプリについての相談窓口を、設置した。**
その動きは、智也たちが予想していた以上に、速かった。
「論文の効果が、こんなに早く出るとは、思いませんでした」
智也は、村上に、そう伝えた。
「社会的な準備ができていたのだと思います。人々は、スマートフォンアプリへの漠然とした不安を、既に抱えていた。その不安に、科学的な根拠を与えたことで、行動に結びついたのでしょう」
「つまり、人々の直感は、正しかったということですね」
「そうかもしれません。直感は、データよりも前に、真実に気づくことがある」
その言葉が、智也の心に、深く響いた。
人間の直感。
それは、AIには、まだ、完全には模倣できないものだ。
田島由美が、アプリへの違和感を感じたのも、智也が学園での生徒たちの変化を察知したのも、どちらも、直感によるものだった。
その直感を、推理という形で整理し、証拠という形で裏付けることが、推理者の役割なのだと、智也は改めて感じた。
その日の午後、進藤刑事から、重要な連絡があった。
「ケイマン諸島のファンドの追跡が、さらに進んだ。残存組織の中心人物が、絞り込まれてきた」
「誰ですか」
「まだ、確定ではない。ただし、複数の情報源が、共通して指摘している人物がいる。その人物の名前は、**エリック・ノース**という。スウェーデン系の、五十代のフィンテック起業家だ」
「エリック・ノース。アレクサンダー・ヴァイスとの関係は?」
「そこが、興味深い部分だ。エリックは、かつて、アレクサンダーの研究機関でインターンをしていたという記録がある。つまり、アレクサンダーの直接の弟子に当たる可能性がある」
「アレクサンダーが逮捕された後、弟子が残存組織を引き継いだということですか」
「その可能性が高い。ただし、エリックは、アレクサンダーとは、異なる方向性を持っている可能性もある」
「どのような違いですか」
「アレクサンダーは、民主主義の改良という哲学的な野望を持っていた。一方、エリックは、フィンテック起業家として、データエコノミーの商業的な活用に、より関心を持っているようだ。つまり、橘の実利的な動機と、より親和性が高い人物かもしれない」
「つまり、アレクサンダーの哲学は引き継がず、彼の手法だけを、商業的に活用しようとしているということですか」
「そう見える。それが、第五章の特徴かもしれない。哲学的な野望ではなく、純粋な商業的利益のために、民意操作の技術が、利用されているということだ」
その分析が、智也に、新たな認識をもたらした。
哲学的な野望から商業的利益へ。
その変化は、ある意味で、より危険かもしれない。
なぜなら、哲学的な野望には、少なくとも、何らかの「理想」がある。
だが、純粋な商業的利益のためには、どのような手段も、許容されてしまうからだ。
「エリック・ノースへのアプローチは、どのように行いますか」
「慎重に行う必要がある。彼は、国際的な活動をしており、複数の国の法律を駆使して、追跡を避けている可能性がある」
「アレクサンダーとの接触と、同様のアプローチが有効でしょうか」
「それは、君の判断に委ねたい。ただし、エリックは、アレクサンダーとは、性格が異なる可能性がある。アレクサンダーは、自分の思想を語ることへの欲求を持っていた。エリックは、それほど哲学的ではないかもしれない」
「つまり、同じアプローチは、通じない可能性があるということですね」
「その通りだ」
その会話の後、智也は、エリック・ノースという人物について、村上と共に、詳細な分析を始めた。
だが、その作業の途中で、予想外の連絡が届いた。
「千葉智也さんへ。直接、話し合いたいことがあります。橘哲也」
そのメッセージは、智也の個人メールアドレスに、直接、送られてきた。
どこからそのアドレスを入手したのかは、不明だった。
だが、重要なのは、橘が、自ら、接触を求めてきたという事実だ。
智也は、そのメッセージを、美優と進藤刑事に、すぐに転送した。
「これは、罠ですか。それとも、本当に対話を求めているのか」
進藤刑事は、しばらく考えた後、答えた。
「どちらの可能性もある。ただし、このタイミングで接触を求めてきたことには、何か意図があるはずだ」
「どのような意図だと思いますか」
「一つの可能性は、懐柔だ。智也たちを取り込もうとしているのかもしれない。もう一つの可能性は、情報収集だ。智也たちが、どこまで知っているかを、探ろうとしているのかもしれない。あるいは、第三の可能性として、本当に、協議したいことがあるのかもしれない」
美優は、別の視点を提示した。
「論文が公表されて、ユーザーの離脱が急増している。橘のビジネスが、崩壊に向かっている。その危機的な状況で、彼は、何らかの打開策を求めているのかもしれない」
「打開策とは、何ですか」
「例えば、和解の提案。あるいは、協力の申し出。自分のビジネスを守るために、私たちの協力を求めているのかもしれない」
その推測は、智也に、新たな仮説を与えた。
橘は、追い詰められているのかもしれない。
そして、追い詰められた人間が、次に何をするか。
それは、場合によっては、より多くの情報を、開示することだ。
「接触に応じます」
智也は、決めた。
「ただし、複数の安全対策を、講じた上で」
「どのような安全対策ですか」
「まず、場所は、公共の場所にする。次に、会話の全てを、記録する。そして、進藤刑事の部下に、周囲で監視してもらう」
進藤刑事は、その条件に同意した。
「それなら、応じても良いだろう。ただし、橘に、条件を伝える必要がある。もし、橘がその条件を受け入れれば、本当に対話を求めていることになる。拒否すれば、罠の可能性が高い」
「では、その条件を、橘に伝えます」
智也は、橘に返信した。
「了解しました。ただし、以下の条件で、お会いします。場所は、東京都内の公共の施設。会話は、記録します。それらの条件を受け入れられる場合のみ、お会いします」
返信は、数時間後に届いた。
「条件を受け入れます。日程は、来週の月曜日でどうですか。場所は、あなたが指定してください」
その即座の同意が、智也に、橘が本当に対話を求めていることを、示唆していた。
「彼は、本当に話したいことがあるようです」
美優に、そう伝えた。
「何を話したいと思う?」
「それが、まだ、わかりません。ただし、彼が何を話すにしても、そこから、エリック・ノースについての情報が得られる可能性があります」
「残存組織との関係を、橘自身から聞けるかもしれないということ?」
「その可能性があります。橘が、本当に追い詰められているなら、残存組織との関係を、切り捨てることで、自分を守ろうとするかもしれません」
「そして、そのためには、私たちに情報を提供することが、有効だということね」
「はい。これは、黒川さんや河合さんとの接触と、本質的に同じパターンかもしれません」
「組織に取り込まれた人間が、追い詰められた時、情報提供によって、自分を守ろうとする」
「そのパターンが、また、起きようとしているのかもしれません」
その推測を確認するために、智也は、会合の準備を、慎重に進め始めた。
その週の金曜日の夜、図書館の奥の席で、智也は、推理ノートを広げた。
これまでの旅全体を通じて、複数のパターンが、繰り返されてきたことに、改めて気づいた。
組織に取り込まれた人間は、必ず、葛藤を抱える。
そして、その葛藤が、やがて、真実を語ることへの勇気に変わる。
黒川も、河合も、そうだった。
そして、今、橘も、同じ道を歩もうとしているのかもしれない。
ノートに、智也は、以下を書き加えた。
**「組織に取り込まれた人間には、必ず、かつての自分が残っている。その残った自分が、いつか、声を上げる。それが、推理者が信じる、人間の可能性だ。」**
その言葉が、第五章の、さらに深い層への、鍵となるのかもしれなかった。
翌週の月曜日、橘哲也との会合が、始まろうとしていた。
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第5章 第7話「残存組織の正体」完




