第5章 第6話:実証実験の完了
あらすじ:村上准教授の実証実験が、予定より早く完了する。その結果は、「デイリーモーメント」による感情誘導の実態を、科学的に証明するものだった。同時に、学園への匿名書類の出所追跡が完了し、意外な事実が判明する。橘の反撃の背後に、単なる一個人の力を超えた、新たな組織の関与が示唆され始める。智也は、第五章が、当初の想定よりも、はるかに大きな問題であることを、改めて認識する。
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実証実験の短縮完了の報告が届いたのは、木曜日の夕方だった。
「全ての測定が完了しました」
村上は、研究室のパソコンの前で、データを確認しながら、智也と美優に報告した。
「結果は、中間報告の内容を、さらに強化するものです」
「具体的に、教えていただけますか」
「まず、感情誘導の効果についてです。三週間にわたる測定の結果、デイリーモーメントを使用したグループは、使用前と比較して、以下の変化が確認されました」
村上は、複数のグラフを表示させた。
「朝の感情状態は、平均して、十八パーセント高い数値を示しました。これは、アプリによる感情の底上げ効果を示しています。一方、夜の感情状態は、使用前の基準値と比較して、平均七パーセント低い数値を示しました。これは、感情の人工的な底上げの反動による、低下を示しています」
「つまり、アプリを使うことで、朝は気分が良くなるが、夜はより落ち込むようになる、ということですね」
「そうです。そして、重要なのは、次の数値です」
村上は、別のグラフを指した。
「アプリを使用しない日の、朝の感情状態は、使用を開始する前の基準値と比較して、平均十二パーセント低い数値を示しました」
「つまり、アプリを使わない日には、以前よりも、気分が悪くなっているということですか」
「その通りです。アプリに依存することで、使用しない日の感情状態が、使用前よりも悪化しているのです。これは、医学的に言えば、**耐性と離脱症状**に相当します」
その言葉が、智也の脳内で、複数の推理を呼び起こした。
耐性と離脱症状。
それは、物質的な依存症で使われる概念だ。
だが、このアプリは、感情的な依存を、同じメカニズムで、作り出していた。
「これは、デジタル版の依存症といえますか」
「そう言っても、過言ではないかもしれません。ただし、法的には、現在のところ、このような感情的な依存を、明確に規制する法律は、存在していません」
「つまり、橘は、法律の空白地帯を利用していたということですか」
「その可能性があります。意図的に、現行法では規制しにくい方法を、選んでいたのかもしれません」
その分析が、橘の戦略の巧みさを、改めて示していた。
「この実験結果を、報道に使用するための、正式な研究論文として、まとめていただけますか」
「はい。既に、その準備を進めています。学術的な査読プロセスを経ることで、より信頼性の高い証拠になります」
「どれくらいの時間が必要ですか」
「通常の査読プロセスでは、数ヶ月かかります。ただし、緊急の社会的意義があると判断された場合、一部の学術雑誌では、迅速審査が可能です。その場合、二週間程度で、査読が完了する可能性があります」
「では、迅速審査での提出を、お願いします」
「了解しました。今週末中に、論文を提出します」
その翌日、別の重要な進展があった。
学園への匿名書類の出所追跡が、完了したのだ。
「書類の出所が判明しました」
村上は、技術的な追跡の結果を、智也に報告した。
「書類は、デジタルで送付されていました。そのメタデータを分析した結果、作成に使用されたパソコンの特定のソフトウェアのバージョンと、ネットワーク接続の痕跡が、残っていました」
「その痕跡は、誰を指していますか」
「直接的には、特定の人物を特定できていません。ただし、そのネットワーク接続の痕跡が、モーメントラボのオフィスが入居しているビルの、IPアドレス範囲と、一致しています」
「つまり、書類は、モーメントラボのオフィスから、送付された可能性が高いということですか」
「その可能性が高いです。ただし、確定的な証拠とするためには、さらなる調査が必要です」
その情報を、進藤刑事に伝えると、彼は、以下のように言った。
「その情報は、令状取得のための材料として、十分な可能性がある。ただし、もう一つ、重要な情報が入った」
「何ですか」
「橘哲也の背後に、新たな組織の影が見えてきた」
智也は、その言葉に、強い驚きを感じた。
「新たな組織?」
「ああ。橘の資金流入を、さらに詳しく追跡した結果、スイスの金融機関を経由している資金の他に、**複数のケイマン諸島のファンドからの資金流入**が確認された」
「ケイマン諸島のファンド。それは、何を意味しますか」
「ケイマン諸島は、極めて高い金融的秘匿性を持つ地域だ。その地域のファンドからの資金流入は、通常、複数の層の匿名性で保護されており、追跡が極めて困難だ」
「ただし、今回、その一部の追跡に、成功した」
「その先には、何がありましたか」
「複数の国際的な投資家グループが、関わっていることが判明した。そして、その投資家グループの一部に、**シャドウ・ネットワークの残存メンバーが含まれている**可能性が高い」
その情報は、智也の推理に、新たな次元を加えた。
橘は、単なる個人の実利的な判断で、モーメントラボを立ち上げたのではない。
シャドウ・ネットワークの残存メンバーたちが、解体後も組織的に活動を続けており、橘という新たな実行者を使って、デジタル空間での民意操作を、再開しようとしているのかもしれない。
「つまり、橘は、シャドウ・ネットワークの残存組織が、新たに仕立てた実行者だということですか」
「その可能性が高い。田中隆太郎が宮本隆司を使ったように、残存組織が、橘を使っているのかもしれない」
「そうなると、第五章の敵は、橘個人ではなく、その背後にいる残存組織ということになります」
「その通りだ。そして、その残存組織の実態を解明することが、第五章の、真の課題になるかもしれない」
その夜、美優に、その情報を伝えた。
「思ったより、深い問題ね」
美優は、その情報を聞いて、深刻な表情になった。
「はい。当初は、橘個人の実利的なビジネスだと思っていましたが、実際には、シャドウ・ネットワークの残存組織が、橘を通じて、活動を継続しているかもしれません」
「つまり、今回の件は、第一章から続いている、同じ陰謀の、新たな章だということ」
「そう言えるかもしれません」
「では、報道の方向性を、変える必要があるかもしれない。単なるアプリの問題ではなく、より大きな組織的犯罪の続きとして、報道する必要があるかもしれない」
「それは、美優さんの判断に任せます。ただし、一つだけ、お願いがあります」
「何?」
「報道の前に、残存組織についての、もう少し詳しい情報が必要です。現時点では、まだ、確定的なことが言えない状況です。残存組織の実態を、より明確にしてから、報道することを、お勧めします」
「わかった。では、もう少し調査を続ける。でも、それには、時間がかかる。橘の反撃が続いている中で、時間を稼ぐ方法が必要ね」
「一つ、案があります」
「何?」
「実証実験の中間結果だけを、先に公表する。それは、確定的な事実に基づいており、法的なリスクが低い。そして、その公表によって、アプリへの社会的な関心を高め、さらなる情報提供者が現れる可能性もある」
「なるほど。部分的な先行公表で、時間を稼ぎながら、より深い調査を続けるということね」
「そうです。完全な報道は、残存組織の実態が明かされた後に、行う」
美優は、その提案を、しばらく考えた後、頷いた。
「わかった。その方針で行く」
その週末、村上が迅速審査に提出した論文が、審査を通過した。
**「スマートフォンアプリによる感情誘導の実証研究:デイリーモーメントを対象とした事例研究」**
というタイトルの論文が、オンライン先行公開される形で、発表された。
その論文の公表は、即座に、複数のメディアで報道された。
**「学術論文が証明:人気アプリが感情を誘導し、依存を形成」**
**「デイリーモーメントの実態:科学的な分析が示す感情操作の仕組み」**
その報道を受けて、複数の新たな動きが生じた。
複数のユーザーが、アプリの使用を停止した。
複数のメディアが、独自の調査を開始した。
そして、複数の政治家が、AIによる感情操作への規制を、検討し始めた。
智也は、その動きを見ながら、情報が社会に与える影響の速さを、改めて認識した。
「学術論文という形での公表が、最も効果的でした」
村上に、そう伝えた。
「なぜ、そう思いますか」
「メディアの報道よりも、学術論文の方が、異議を唱えにくいからです。橘の法的な攻撃も、学術論文の内容に対しては、機能しにくい」
「その通りです。学術的な証拠は、最も強固な証拠の一つです」
その夜、智也は、学園の図書館で、一人、推理ノートを広げた。
第五章は、当初の想定よりも、はるかに大きな問題であることが、明らかになってきた。
橘個人の問題ではなく、シャドウ・ネットワークの残存組織が、デジタル空間での支配を再開しようとしている、という問題だ。
その問題に対して、自分たちは、どのように向き合うべきか。
智也は、ノートに、以下を書き加えた。
**「第五章の真の課題:デジタル空間での見えない支配の可視化。そして、シャドウ・ネットワークの残存組織の実態の解明。これは、第一章から続く、同じ陰謀の新たな章だ。終わりは、まだ、遠い。しかし、一歩一歩、前に進む。信頼できる仲間と共に。」**
その言葉が、この長い旅の、さらなる続きを、予感させていた。
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第5章 第6話「実証実験の完了」完




