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沈黙の推理者  作者: 最後に残った形
第9章

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第19章 第3話:引っかかりと尊厳


あらすじ:十月の後半。吉川亜希との直接の対話が実現し、施設長の白井誠也も加わった三者の対話が行われる。白井施設長は、シルバーケアナビの導入を決めた人物だったが、吉川の観察を受けて、自分たちが見落としていたものについて、真摯に向き合っていた。その対話の中で、智也は、問いの生態系を守ることが「尊厳のある老い」という概念と、深く繋がっていることを確信する。同時に、長谷川が、認知的な勇気の概念を高齢者ケアに応用する可能性を探り始め、岡田教授との連携が正式な共同研究として動き出す。そして、田村先生の特別支援学校からの報告が届く。「なんで?」と問えるようになった子供が、今度は自分より言葉が出にくい仲間の「なんで?」を受け取ろうとし始めていた。問いの生態系が、子供たちの間で自発的に広がっていた。


---


十月の第三週。


秋が本格化していた。


智也は、今日の対話に向けて、少し早く準備を整えていた。


吉川亜希と、あかね介護施設の施設長・白井誠也との直接対話が、今日の午後に予定されていた。


場所は、施設に近い神奈川県内の会議室だった。


木村刑事も、今日は参加しない。


これは、捜査ではなく、対話だった。


問いを共に持つための場として設定した、対話だった。


---


午後二時、会議室に入った。


吉川亜希は、智也が思い描いていた通りの人物だった。


三十代前半の、落ち着いた表情の女性だった。


しかし、その目には、長年の現場経験から来る、細やかな観察力が感じられた。


白井誠也は、五十代半ばの男性だった。


施設長らしい、穏やかな落ち着きを持っていたが、今日は少し緊張している様子だった。


「千葉さん、今日はお時間を作っていただいてありがとうございます」


白井が、最初に言った。


「こちらこそ、吉川さんの観察を深く伺いたくて、参加させていただきました。白井さんも来てくださって、よかった」


「吉川から話を聞いて、私自身も、考えなければならないことがあると感じました。シルバーケアナビの導入を決めたのは、私です。その判断の中で、見落としていたものがあったかもしれない」


その言葉が、この対話の出発点を誠実に示していた。


「白井さん、シルバーケアナビを導入された時、どのような目的を持っていましたか」


「三つの目的がありました。一つは、認知機能の維持と向上。二つ目は、入居者の方々が自立的に活動できる機会を増やすこと。三つ目は、職員の負担軽減です。特に三つ目は、現実的な理由でした。介護の現場は、人手不足が深刻です。職員一人ひとりが入居者の方々と過ごせる時間が、減っている。その中で、入居者の方々が自分でタブレットを使って過ごせる時間を作ることは、双方にとって良いことだと思っていました」


「その判断自体は、現実的な問題への対応として理解できます。しかし、吉川さんの観察が示していたのは、その副作用かもしれない」


吉川が続けた。


「副作用、という言葉が正確だと思います。シルバーケアナビ自体が悪いとは思っていません。でも、タブレットが入居者の方々の時間を埋めることで、職員との直接のやり取りが減った。その減った部分が、実は、その方々にとって最も大切な時間だったかもしれない」


「最も大切な時間というのは、具体的にはどのような時間でしたか」


「引っかかりを声に出す時間です。なんで秋になると葉っぱは赤くなるの?とか、今日の空がきれいねとか。そういった、答えを求めていない問いかけが、職員との繋がりを作っていた。タブレットを使う時間が増えると、その種の問いかけが向けられる対象がなくなる」


「タブレットには、向けられないのですか」


「向けられません。タブレットは、答えを提供することはできますが、一緒にその引っかかりを持つことはできない。引っかかりの受け取り手は、人間でなければならない部分がある」


「白井さん、その観察を聞いて、どう感じますか」


白井は、少し間を置いてから、正直に答えた。


「導入を決めた時、そこまで考えていませんでした。認知機能の維持という目標と、職員の負担軽減という現実的な課題に、意識が向いていた。入居者の方々が職員に問いかける時間の価値を、数値化できないから、計画の中に入らなかった」


「数値化できないものが、最も大切だった可能性がある」


「そうです。その盲点を、吉川が指摘してくれた」


白井は、吉川を見た。


吉川は、静かに頷いた。


「吉川さん、一つ確認させてください。今の施設の状況で、何が変われば、引っかかりを守ることができると思いますか」


吉川は、少し考えてから答えた。


「二つあります。一つは、タブレットを使う時間と、職員と過ごす時間のバランスを、意識的に守ること。タブレットがあるから、職員は別の仕事をしていいという発想を、変えること。タブレットを使っている時間でも、近くに職員がいて、引っかかりが出てきた時に受け取れる状態を作ること」


「もう一つは」


「タブレットの設計を変えることです。今のシルバーケアナビは、答えを提供することが主な機能です。でも、引っかかりを引き出すことや、引っかかりを言葉にするのを支援することが、機能として入れば、違うかもしれない」


「その設計の提案を、開発元に伝えることはできますか」


白井が答えた。


「できます。シルバーケアナビの開発元とは、定期的に連絡を取っています。吉川の観察と、専門家の意見を合わせて、設計の改善を求めることができます」


「岡田教授も、この動きに協力してくれると思います。老年医学の専門家の意見として」


「それがあれば、開発元も真剣に受け取るでしょう」


対話が続く中で、智也は、この場の可能性を感じていた。


施設長が、現場の職員の観察を受け取り、専門家と連携して、設計の改善を求める。


その動きが、高齢者介護の現場でも始まろうとしていた。


---


対話の後半、白井が、一つの話をしてくれた。


「一つ、施設の中で起きていることを話させてください。先月、ある入居者の方が、久しぶりに吉川に声をかけてきたと、報告を受けました」


「どんな声かけでしたか」


「その方は、最近タブレットをよく使っていた方です。吉川との直接の会話が減っていた。しかし先月、吉川が近くを通りかかった時、その方が、あのね、最近、夢をよく見るんだけど、なんで夢って見るの?と声をかけてきたそうです」


「夢はなんで見るの?という問いですね」


「そうです。吉川は、タブレットで調べれば分かりますよ、と言いそうになって、やめたと言っていました。代わりに、私も不思議ですね、どんな夢を見るんですか?と聞いた。すると、その方が嬉しそうに、夢の話をしてくれたと。その時間が、今月の一番豊かな瞬間だったと、吉川から報告を受けました」


吉川が続けた。


「タブレットで調べれば分かりますよ、という言葉が出そうになって、はっとしました。それを言ってしまったら、その方の引っかかりが終わってしまう。そして、私との繋がりも、そこで終わる。それが、とても怖かった」


「代わりに何を言いましたか」


「私も不思議ですね、と言いました。それが、正直な言葉だったと思います。夢がなんで見られるのか、私も本当に分からない。だから、一緒に不思議だと思うことができた」


「その一緒に不思議だと思うことが、引っかかりを受け取ることだったのですね」


「そうです。その方の引っかかりを、私が受け取った。そして、私の引っかかりも、その方に伝えた。それが、繋がりだと感じました」


「その繋がりが、問いの生態系の最も純粋な形ですね」


「そうかもしれません。八十代の入居者と、三十代の職員が、同じ引っかかりを持って向き合っていた。年齢も、状況も、全く違うのに、問いが繋いでいた」


---


対話を終えて、施設の外に出た。


秋の午後の光が、柔らかく降り注いでいた。


吉川さんが、少し先を歩いていた。


智也は、その背中を見ながら、この旅で出会ってきた人たちのことを、静かに思い返した。


進藤刑事。木村刑事。美優。


本多先生。中川先生。橋本先生。篠原先生。


長谷川。田島。


エレン。西川。佐藤医師。田村先生。松本調査官。


そして今日、吉川亜希と、白井誠也。


全員が、問いを持った人間だった。


問いを持って、声を出した人間だった。


その声が、この旅を作ってきた。


「問いを持つことが、この旅を作る」


智也は、心の中でそう確認した。


---


その夜、長谷川からメッセージが届いた。


「岡田教授から連絡がありました。認知的な勇気の概念を、高齢者ケアに応用する可能性について、共同研究の話し合いを始めましょうという提案がありました」


「正式な共同研究に向かいますね」


「そうです。山田教授も参加してくれる予定です。発達心理学と老年医学が、同じテーブルで、認知的な勇気について議論する。これは、これまでにない組み合わせだと思います」


「問いの生態系が、人間の一生を通じた問題として、学術的に示されていく」


「そうです。子供の発達から、人生の終わりまでを、一本の線で繋ぐ研究が始まる。その研究の中心に、認知的な勇気という概念がある」


「この旅が、学術の世界にそういう形を作り出しているのですね」


「そうだと思います。千葉さん、感謝しています。この旅に連れてきてもらって」


「連れてきたのではなく、一緒に歩いてきた。その形が、この旅の正しい形です」


---


田村先生からも、その夜、メッセージが届いた。


「千葉さん、一つ、報告があります」


「何ですか」


「先日、特別支援学校で、印象的な場面がありました。春に初めて手を挙げた子供のことを覚えていますか。お湯はなんで白いの?と聞いた子です」


「よく覚えています」


「その子が最近、クラスの別の子供の様子を、じっと見ていることがあります。その別の子は、言葉を発することがほとんどない子です。コミュニケーションが非常に難しい。でも、その子も、確かに引っかかりを持っている。表情や体の動きで、引っかかりを表現することがある」


「お湯の問いを出した子が、その子の引っかかりに気づいている」


「そうです。先週、その子が何かを気にしているような表情をしていた時、お湯の問いを出した子が、近づいて行って、こうしていました」


「どうしていましたか」


「その子の見ている方向を、一緒に見ていました。言葉は出さずに、ただ、一緒に同じものを見ていた。そして、自分がその方向に引っかかりを感じた時、先生、なんであそこの窓だけ光が違うの?と聞いてきました」


「自分が声に出すことで、声を出せない仲間の引っかかりを代弁した」


「そうです。言葉を持っている子が、言葉を持てない子の引っかかりを受け取って、それを言葉にした。その瞬間、言葉を持てない子が、少し体を動かして、安心したような表情をしました」


「問いの生態系が、子供たちの間で自発的に育まれている」


「そうです。私が何かを教えたわけではない。問いを受け取り続けることが当たり前のクラスになって、子供たち自身が、互いの引っかかりを受け取り合い始めた」


その報告が、智也の心に、深く届いた。


問いの生態系が成熟すると、子供たちが自分たちで、互いの引っかかりを守り始める。


それが、問いの連鎖の最も豊かな形だった。


「田村先生、その場面を、記録に残してください」


「残しました。この場面を、長谷川さんの新しい研究に使ってもらえますか。子供たちが互いの引っかかりを受け取る、という観察として」


「使わせてもらいます。長谷川さんに伝えます」


---


その夜、智也は、今日の全てをノートに書き留めた。


秋の夜が、静かに深まっていた。


月が出ていた。


その月の光が、部屋に差し込んでいた。


**「十月の後半。吉川さんと白井さんとの対話が実現した。引っかかりを受け取ることが繋がりを作る。答えを渡すのではなく、一緒に不思議だと思うことが、問いの生態系の核心だ。」**


**「夢はなんで見るの?という問いを、吉川さんが受け取った。タブレットを使えば分かりますよ、と言わずに、私も不思議です、と言った。その選択が、繋がりを作った。」**


**「岡田教授と長谷川の共同研究が動き出す。発達心理学と老年医学が、認知的な勇気について議論する。人間の一生を通じた問いが、学術的に示されていく。」**


**「田村先生の報告。言葉を持つ子が、言葉を持てない仲間の引っかかりを代弁した。問いの生態系が、子供たちの間で自発的に広がり、互いの引っかかりを守り合っている。それが、問いの連鎖の最も豊かな形だ。」**


**「問いを持つことと、引っかかりを受け取ることの両方が、問いの生態系を作る。贈ることと受け取ることが、交互に来る。その循環が、生態系を維持する。」**


**「田中陸斗さん。あなたの問いが、今日、八十代の入居者と三十代の職員が夢について話し合う場に届きました。問いは、年齢を超える。その事実を、今日また確認しました。」**


ノートを閉じた。


月の光が、静かに部屋を照らし続けていた。


その光の中で、問いが続いていた。


問いは、月光のように、静かに、しかし確かに、届き続ける。


届いた場所で、引っかかりを生む。


その引っかかりが、また次の問いになる。


その連鎖が、人間の一生を通じて続いている。


推理者の旅は、今日も続いていた。


一歩一歩、丁寧に。


信頼できる仲間と共に。


そして、次の問いへと向かって。


---

第19章 第3話「引っかかりと尊厳」完


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