第二十五話「柵状の槍
ひなたがSAMAを訪れてから、もう数日が経っていた。
その間、私の毎朝は少しだけ変わった。
「……おはよう」
家の前に出ると、すでに燈火くんが待っていた。ジャージの上下姿で、いつもの黒縁眼鏡もかけていない。学校では絶対に見せない、素の顔。
「おはよう」
燈火くんは短くそう返すと、軽く肩を回して準備運動を始める。
私も、Tシャツにジャージという、走りやすさを最優先にした格好だった。髪はいつもの赤いリボンじゃなく、ランニング用に用意したピンクのリボンでポニーテールにまとめてある。訓練用の気合の入ったスタイルとは、また違う気軽さがあって、私はこの色が気に入っていた。
「じゃ、行くぞ」
「うん!」
二人で並んで、朝の住宅街を走り出す。
最初の数百メートルは、いつも息が上がって苦しい。あの訓練メニューを渡された日、藤崎さんの笑顔の裏にある容赦のなさを、身をもって実感することになるとは思わなかった。でも、隣を走る燈火くんのペースに合わせているうちに、少しずつ体が軽くなっていく感覚があった。
結んだポニーテールが、走るたびにぴょこぴょこと跳ねる。その感覚が、なんだか楽しくて、苦しいはずのランニングが、少しだけ心地よく感じられる瞬間があった。
住宅街の角を折れると、朝の光が眩しく差し込んでくる。まだ人通りの少ない道を、二人分の足音だけが規則的に響いていた。
「そういえば、燈火くんはいつからこんな朝練みたいなことしてたの?」
息を整えながら聞いてみると、燈火くんは少し考えるように視線を上げた。
「小さい頃からだ。柳瀬さんのところに通い始めてから、ずっと」
「十年も……?」
「体力がなければ、魔法を制御する余力もない。柳瀬さんの教えだ」
その一言に、燈火くんが積み重ねてきた時間の重みを、改めて感じた。彼にとって、この毎朝のランニングは、今始まったばかりの私よりも、ずっと長い付き合いのものなのだ。
「燈火くん、毎朝ありがとね」
息を切らしながらも、なんとかそれだけ言うと、燈火くんはちらりとこちらを見て、そっけなく答えた。
「気にするな」
その一言だけ。それ以上の言葉はない。
けれど、そのそっけなさが、私にはどこか優しく感じられた。付き合ってほしいなんて頼んでいないのに、当たり前のように毎朝ここにいてくれる。その事実そのものが、言葉以上に何かを伝えてくれている気がした。
走りながら、ふと隣を見ると、燈火くんの横顔は、少しも息を乱していなかった。十年間の積み重ねが、そのまま体に刻まれているんだろう。私が必死に足を動かしている隣で、彼はいつも涼しい顔をしている。
「私も、いつか燈火くんくらい、平気な顔で走れるようになるかな」
「なる。今より、確実に」
その即答が、なんだか嬉しかった。根拠のない気休めじゃなくて、燈火くんなりに、私の成長をちゃんと見てくれている。そう感じられる一言だった。
朝日が昇り始めた住宅街を、二人分の足音が並んで響いていく。五キロという距離は、まだ私にとって決して楽なものではなかったけれど、走り終えた後の清々しさと、燈火くんが隣にいてくれる安心感が、なんとか毎朝の私を支えてくれていた。
*
その日の昼休み、私と燈火くん、ひなたの三人は、いつものように中庭の芝生に座って過ごしていた。
燈火くんは、いつもの黒縁の伊達眼鏡をかけ、猫背で大人しく座っている。学校での彼は、あくまで陰キャの男の子だ。朝のランニングの時とはまるで別人のような雰囲気に切り替わっているのを見るたび、私は今でも少しおかしくなる。
「今日のお弁当、卵焼き入れてきたんだよね」
ひなたが、嬉しそうにお弁当箱を開いて見せてくれる。
「わあ、美味しそう」
「でしょでしょ! お母さんが甘めに作ってくれたの」
いつも通りの、なんでもない昼休みの一幕。こういう時間が、日々の訓練の疲れを忘れさせてくれる。
しばらく他愛のない話をしていたところで、ひなたがふと箸を止めて、思い出したように切り出した。
「ねえねえ、二人に相談があるんだけど」
「私の土の壁の発現速度、どうやったら速くなると思う?」
「発現速度……」
私は顎に人差し指を立てて、小首を傾げながら考えてみる。
「壁の厚みを薄くするとか?」
「私も考えたよ、それ」
ひなたは腕組みをしながら、うーん、と唸った。
「でもさ、薄くなると防御力が下がるんじゃない? せっかく分厚い壁が作れるようになったのに、それを台無しにするのはちょっと嫌なんだよね」
「うーん、それも確かに……」
二人揃って唸りながら思案する。芝生の上に、しばらく静かな時間が流れた。
そこに、ぼそりと燈火くんの声が挟まった。
「柵状に生やしてみるのはどうだ?」
「柵状に?」
ひなたが、きょとんとした顔で首を傾げる。
「壁全体を持ち上げるんじゃなくて、細く鋭い形をいくつも並べて生やす。細い分、一本一本の発現は速くなるはずだ」
その説明を聞いて、私の頭に、ふと一つの光景が浮かんだ。
「竹が生えるみたいな?」
「あ、それ、イメージしやすいかも!」
ひなたの目が、きらりと輝いた。
「竹ってさ、あっという間にニョキニョキ伸びるもんね。あのイメージなら、確かに速く出せそう」
「土の性質的にも、合ってると思う」
燈火くんが、珍しく積極的に言葉を続けた。
「壁は面で押し出す分、負荷が大きい。槍状なら一点に集中させられるから、発現も速くなるはずだ」
「なるほどぉ……燈火くん、意外と魔法のこと詳しいよね」
「柳瀬さんの下で、色々教わってきたからな」
いつもは無口な燈火くんが、こういう時だけ饒舌になるのを見るのは、なんだか新鮮だった。理論的なことになると、自然と言葉が増える。彼のそういう一面を知るたびに、私はまた少し彼のことを好きになっている気がした。
「よし、ちょっとやってみる! 見てて!」
ひなたはぱんと手を打って、勢いよく立ち上がった。
並んで座る私と燈火くんの前に、ひなたが立つ。軽く肩幅に足を開いて、目を瞑り、集中を高めていく様子が伝わってくる。彼女の眉間に、きゅっと力が入るのがわかった。
しばらくの静寂。中庭を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。
次の瞬間、ひなたの足元の土がモコッと盛り上がった。
「おお……」
思わず声が漏れる。
そして、タケノコが生えてくるみたいに、槍のような先端を持った土の筒が、ニョキニョキッと空へ向かって一直線に伸び始めた。
その勢いは、これまでのひなたの魔法とは、少し違う印象だった。太い壁とは違う、細くて鋭い、けれど確かな力を感じさせる伸び方。土の粒子が朝露のように光を反射しながら、まっすぐ天に向かって突き進んでいく。
「すごい、ちゃんと生えてる!」
私が声を上げたその時――ひなたの背後から、ふわりと風が吹いた。
その風に乗って、ひなたのスカートの裾が、ほんの少し捲れそうになる。
――あっ。
私が気づいた瞬間には、もう遅かった。
空を目掛けて伸びていた土の槍の先端が、まさにそのタイミングで、ひなたのスカートの裾に引っかかりながら、そのまま伸びあがっていったのだ。
「あっ!」
私と燈火くんの声が、綺麗に重なった。
ひなたのスカートは、土の槍の先端に引っかかったまま、まるでスカート捲りの要領で、じわじわと持ち上げられていく。白のショーツが、はっきりと見えてしまう。
燈火くんの顔が、一気に紅潮した。目を見開いたまま、一瞬体が固まっているのがわかる。
「見ちゃダメェッ!!」
考えるより先に、体が動いた。私は咄嗟に両掌で燈火くんの顔を覆いながら、小柄な体を勢いよく押し出して、彼をそのまま芝生の上に押し倒してしまう。
「ぐっ……」
燈火くんの小さな声。芝生の上に、私と燈火くんが重なり合うように倒れ込んだ。押し倒した拍子に感じた、燈火くんの体の重みと、間近にある彼の驚いた顔。頭では冷静に考える余裕なんてなかった。とにかく、これ以上見られてはいけない、という一心だった。
視界いっぱいに燈火くんの顔がある。両掌で目を塞いだまま、私は必死に叫んだ。
「ひなた! 早く土の槍を消して!!」
「や、やだぁ! スカート捲れちゃったぁ!!」
振り返ると――ひなたは、涙を流しながら大笑いしていた。恥ずかしさよりも、事の面白さの方が勝ってしまっているらしい。
「ひなたぁ!」
「消す消す! ちょっと待って、笑いすぎて力が入んない!」
ようやく土の槍が、しゅるしゅると音を立てて地面に消えていく。ひなたは涙目のまま、なんとか呼吸を整えようとしているけれど、まだ肩が小刻みに震えていた。
でも、そのひなたの視線は、いつまでも私たちの方に向いていた。
「美月ったら、大胆!!」
「え……?」
「傍から見たら、思いっきり抱き合ってるみたいだよ、それ!」
その一言で、私はようやく自分の状況に気づく。燈火くんの顔を両手で覆ったまま、彼の上に完全に乗っかって、密着している。
「――!!」
顔から火が出るくらい熱くなるのを感じながら、私は慌てて飛び退いた。
「ご、ごめん、燈火くん……!」
「……いや」
燈火くんは、眼鏡の位置を指先で直しながら、まだどこか赤い顔でそっぽを向いた。
「気にするな」
朝、私が言われたのと同じ言葉。でも、今度は、なんだかいつもよりぎこちなく聞こえた。
ひなたは、まだ笑いを収められないまま、涙を拭っている。
「ふふ……もう、二人とも……最高のリアクションだったよ」
「ひなたのせいでしょ!」
中庭に、私の抗議の声と、ひなたの笑い声が響き渡った。
周りのクラスメイトたちが、何事かとちらちらこちらを見てくる。私は慌てて声を落として、ひなたの隣に座り直した。
「もう、静かにしてよ……変な誤解されたら困るじゃん」
「はいはい、ごめんごめん」
ひなたは笑いすぎたせいでまだ目に涙を溜めながら、それでもなんとか笑いを収めようとしていた。燈火くんは、いまだに眼鏡の位置を落ち着かなく直しながら、そっぽを向いたままだ。
「……とりあえず、槍の練習は、もう少し風のない場所でやった方がいいと思う」
燈火くんが、ぼそりとそう付け加えた。誰よりも冷静なはずの彼が、まだ耳の先が少し赤いままなのを見て、私はまた笑いそうになった。
*
午後の授業は、正直、あまり頭に入ってこなかった。
黒板の文字を見ているつもりで、頭の中では何度も、あの時の光景が蘇ってくる。芝生の上、燈火くんの驚いた顔。密着した体の距離。思い出すたびに、頬が熱くなって、隣の席をちらりと見てしまう。
燈火くんは、いつも通り猫背でノートを取っていた。表面上は完全にいつもの陰キャの彼に戻っている。でも、時々ペンを持つ手が止まっているのを見ると、彼も同じことを考えているんじゃないかと、そんな気がしてしまう。
放課後を告げるチャイムが鳴った時、私は少しだけほっとした。少なくとも、これで気まずい教室から解放される。
*
放課後、私たち三人はSAMAへ向かった。
街の裏通りを歩きながら、ひなたは相変わらず、昼休みのことを思い出してはくすくす笑っていた。
「まだ笑ってるの?」
「だって、あの光景、面白すぎたんだもん」
「もう、忘れて……」
燈火くんは、そんな私たちのやり取りを黙って聞きながら、少し離れた場所を歩いている。認識阻害の魔法がかかった、あの見慣れた漆黒の建物が見えてくると、自然と三人の足取りが揃った。
更衣室に入ると、私とひなたは、いつも通りセーラー服のリボンを解いて、ブラウスを脱いでいく。白のブラジャーとショーツ姿になってから、それぞれのロッカーから訓練着を取り出す。
私は濃紺のボディスーツに銀色のライン。ひなたは、テラコッタ色のボディスーツに深緑のライン。二人で並んで袖を通していく。
「ねえ美月」
ひなたが、着替えながらくすくすと笑い出した。
「灯火くんに見られちゃったね、私」
「もう、その話やめてよ……」
「私が全力で阻止した、でしょ?」
私の口調を真似るように言われて、思わず頬が熱くなる。
「だって、あのままじゃ……!」
「わかってるって。ありがと、美月」
ひなたは笑いながらも、素直にお礼を言ってくれた。
「にしても……美月って、こういう時、迷わず動けるんだね。かっこよかったよ」
「そ、そんなことないよ……」
思い出すだけで恥ずかしくなる。あの時は、本当に反射的に動いてしまっただけだった。
「でもさ」
ひなたは、訓練着の袖を通しながら、少しだけ真面目な声で続けた。
「美月って、燈火くんのことになると、本当に迷わないよね。前から思ってたけど」
「そ、それは……」
言葉に詰まる私を見て、ひなたはにんまりと笑った。
「いいと思うよ、そういうの。応援してる」
その一言に、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなった。
「あ、ありがと」
小さくお礼を言うと、ひなたは満足そうに頷いて、リボンを結び直し始めた。
訓練着に着替え終えて、二人でくすくす笑い合いながら更衣室を出ると、廊下には燈火くんが、いつも通り訓練着姿で待っていた。
「遅かったな」
「ご、ごめん、ちょっと話が長引いて」
私とひなたが交わした内緒話の内容を、燈火くんは何も知らない。そのことが、なんだかおかしくて、私はひなたと目を合わせて、また小さく笑ってしまった。
「なんだよ、二人で」
「なんでもないよ、行こっか!」
三人並んで、訓練室へと歩き出す。
厳しい訓練の日々の中にも、こんな些細な出来事の積み重ねが、私たちの毎日を少しずつ、温かいものにしてくれている気がした。
朝は五キロのランニングから始まり、昼休みには友達との他愛のない――時々とんでもない――ハプニングがあって、放課後にはSAMAでの本格的な訓練が待っている。忙しくて、大変で、正直、体力的にはきつい毎日だ。
それでも、隣を歩く燈火くんと、少し前を歩くひなたの後ろ姿を見ていると、不思議と頑張れる気がした。
一人だったら、きっとここまで来られなかった。
二人がいてくれるから、私は今日も、前を向いて歩いていける。
そんなことを思いながら、私は訓練室の扉に手をかけた。
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