第二十三話「氷風磨砕陣」
朝、目を覚ました瞬間、体の芯にまだ鈍い疲労が残っているのがわかった。
昨日、私は一人で魔獣と戦った。
燈火くんがいない中で、無我夢中で編み出した魔法。あの時のことを思い出すと、今でも心臓がドクンと跳ねる。
「美月、大丈夫? 顔色、あんまりよくないわよ」
朝食の席で、お母さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「ちょっと、訓練で疲れが溜まってるだけ。平気平気」
昨日、公園で魔獣に襲われたことも、気を失ってSAMAのベッドで目を覚ましたことも、お母さんは知らない。ちゃんとした説明はお父さんが後でしてくれるって言ってたけど、今この瞬間、目の前でにこにこ笑うお母さんに嘘をついているみたいで、少しだけ胸が痛んだ。
それでも今は、笑って誤魔化すしかない。
「いってきます」
いつもより少しだけ元気なふりをして、私は家を出た。
通学路を歩きながら、昨日の記憶を頭の中で何度も辿った。公園の茂みが不自然に揺れた瞬間の悪寒。両親を庇わなきゃという焦り。そして――気づいたら夢中で組み立てていた、あの魔法。
風の渦。凍りついていく水。ジャリジャリと何かを削るような、あの独特の感触。
あれは、一体どうやって出来上がったんだろう。今、もう一度やれと言われて、本当にできるんだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわしてくる。それを振り払うように、私は少し早足になった。
*
教室に着くと、隣の席の燈火くんが、いつも通り黒縁の伊達眼鏡をかけて、猫背でノートに何かを書き込んでいた。誰がどう見ても、目立たない陰キャの男の子。
でも、私は知っている。眼鏡を外した彼の目が、どれほど鋭くて、綺麗かということを。
「おはよう」
小さく声をかけると、燈火くんは顔も上げずに、囁くような声で言った。
「……今日、放課後。柳瀬さんたちのところへ行くぞ」
「うん」
「昨日の魔法、見せてほしいって。もう一度」
その一言で、朝からずっと胸の奥にあったざわめきの正体がはっきりした。
昨日の魔法。無我夢中で作り上げた、あの攻撃魔法。
もう一度、あれを――今度は、自分の意思で、再現しなければならない。
「……できるかな、私」
思わず呟くと、燈火くんはちらりとこちらを見て、いつもより少しだけ優しい声で言った。
「大丈夫だ。昨日、お前は一人でやり遂げた。今日は、俺たちがついてる」
その一言だけで、強張っていた肩から力が抜けていく気がした。
*
お昼休み、ひなたと一緒にお弁当を食べていると、ふと彼女が箸を止めて、こちらを見た。
「そういえばさ、美月、最近、燈火くんと放課後どこ行ってるの? 図書委員の仕事にしては、帰るのちょっと遅くない?」
どきりとした。
「え、えっと……本の整理とか、色々あって」
「ふうん」
ひなたは特に疑っている様子もなく、屈託のない顔でまた卵焼きを口に運んだ。
「まあ、美月が楽しそうならいいけどね。燈火くんと二人きりで、羨ましいなー」
「べ、別にそんな、やましいことしてるわけじゃ……!」
思わず声が裏返ってしまい、ひなたはくすくすと笑った。
「別に疑ってないってば。ただの冷やかしだよ」
からかわれているとわかっていても、頬が熱くなる。私はその一言が、なんだかいつもより胸の奥に引っかかるのを感じていた。
図書委員という嘘。優しい嘘のはずなのに、ひなたの明るい顔を見ていると、時々申し訳なくなる。いつか、ちゃんと話せる日が来るんだろうか。
でも今は、それを考えている余裕はなかった。放課後のことで、頭がいっぱいだったから。
*
放課後、燈火くんと二人でSAMAへ向かった。
いつもの、街の裏通りにひっそりと佇む漆黒の建物。認識阻害の魔法がかかっているせいで、普通の人には見えないこの場所が、今の私にとってはもう一つの「学校」みたいなものになっている。
更衣室に入り、セーラー服のリボンを解く。ブラウスのボタンを外し、スカートを脱いで、下着姿になる。何度も繰り返してきた動作のはずなのに、今日はいつもより少しだけ、手が震えていた。
鏡に映る自分と、目が合う。ブラジャーとショーツだけの、いつもの自分。でも今日は、その下にある心臓の音がやけに大きく聞こえる気がした。
ロッカーから濃紺のボディスーツを取り出し、袖を通していく。ひんやりとした生地が肌に馴染んでいくたび、少しずつ気持ちが引き締まっていくのがわかった。銀色のラインが背筋に沿って光るのを鏡越しに確認する。訓練着に着替えるたびに、私は「戦う自分」に切り替わっていくような感覚がある。
昨日は無我夢中だった。怖くて、必死で、気づいたら魔法が出来上がっていた。
でも今日は違う。ちゃんと自分の意思で、あの魔法をもう一度作らなきゃいけない。
「よし……」
小さく自分に気合を入れて、髪を結んで赤いリボンでポニーテールにまとめると、更衣室を出た。
廊下では、すでに黒を基調とした訓練着に着替えた燈火くんが待っていた。
「行くぞ」
「うん」
二人で並んで歩く廊下は、いつもより長く感じた。
*
訓練室の扉を開けると、中央に魔獣を模した人形――等身大ほどの、灰色をした模型――が置かれていた。
柳瀬さんと藤崎さん、そして司書の如月先生が既に待っていた。如月先生は肩と袖口についた記録用デバイスを起動させながら、静かにこちらを見ている。
「美月さん。昨日、あなたが無意識のうちに発現させた魔法について、詳しく分析させていただきたく思います。もう一度、同じ魔法を見せていただけますか」
柳瀬さんの落ち着いた声が、訓練室に響いた。
「……はい」
私は頷いて、模型の前に立った。
燈火くんと藤崎さんは、私の少し後ろで、いつでも動けるように身構えているのがわかる。もし暴走したり、魔力切れで倒れたりしたら、すぐに助けに入れるように。
その気配だけで、少しだけ心強かった。
目を閉じて、昨日の記憶を辿る。
あの日、公園の茂みの奥から現れた魔獣。両親を庇いながら、無我夢中で組み立てた魔法。あの時感じた恐怖と、絶対に負けたくないという気持ちを、もう一度、体の奥から呼び覚ます。
大丈夫。落ち着いて、順番通りに。
柳瀬さんも、藤崎さんも、如月先生も、燈火くんも――みんな、私を信じて見てくれている。
だったら、応えなきゃ。
(風を、渦にする)
両掌を広げ、意識を集中させる。ゴオッ、と音を立てて、目の前の空間に風が渦を巻き始めた。渦はゆっくりと広がり、模型を包み込むように「檻」の形を作っていく。
(次は、水を纏わせて――凍らせる)
渦の内側に、細かな水の粒子を送り込む。しゅわり、と音を立てて水が広がり、次の瞬間、キィンと澄んだ音とともに、その水が凍りついていく。渦の内側に、無数の氷の棘が浮かび上がった。
「……すごい」
背後で、藤崎さんが小さく息を呑む声が聞こえた。
その声で、少しだけ気持ちに余裕が生まれる。いける。私はもう一度、深く息を吸った。
私は出力を上げていく。三十二パーセント、四十八パーセント――そして、六十四パーセントまで。
体の奥から魔力がどんどん引き出されていく感覚。額に汗が滲む。それでも、止めるわけにはいかなかった。
(径を、狭める)
渦を絞るように意識すると、風の檻がぎゅうっと縮まっていく。内側の氷の棘が高速で回転しながら、じりじりと模型に迫っていく。
ジャリジャリジャリッ――!!
耳障りな、削るような音とともに、模型の表面が削れていく。回転する氷の刃が、まるでミキサーのように模型を擂り潰していく。灰色の破片が、渦の中で舞い散った。
数秒後、風がやみ、渦が消えると――そこには、粉々に砕けた模型の残骸だけが残っていた。
訓練室が、しんと静まり返る。
「……見事です」
最初に口を開いたのは、柳瀬さんだった。その声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
「風の渦で対象を拘束し、その内側で水を凍結させて刃とする。さらに出力を段階的に上げながら渦の径を絞り、圧殺する――これは、極めて高度な複合魔法です。しかも、これを昨日、あなたは無意識のうちに、独力で編み出した」
「あ……ありがとうございます」
褒められて、なんだか照れくさくなる。
「これは、間違いなくあなたの固有魔法です。名前をつけましょう」
柳瀬さんは少し目を細めて、考え込むように顎に手を当てた。
「風の渦、氷の刃、そして――擂り潰す力。……《氷風磨砕陣》、というのはいかがでしょうか」
「氷風磨砕陣……」
口の中で繰り返してみる。かっこいい。素直に、そう思った。
「素敵な名前です。ありがとうございます」
「私からも一言」
如月先生が、記録デバイスを操作しながら口を開いた。
「これで美月さんの固有魔法は三つ目。《砂塵の盾》、《天昇旋風》、そして《氷風磨砕陣》。防御、拘束、そして――攻撃。役割の異なる魔法が、着実に揃ってきていますね」
「今回の映像は、貴重な訓練資料になります。特に、出力を段階的に引き上げながら渦を絞っていく制御の仕方は、他の特異属性者の指導にも応用できるかもしれません」
如月先生は淡々とそう続けながら、それでもどこか嬉しそうに目を細めていた。
「あなたの成長は、私たちにとっても財産です」
柳瀬さんも、深く頷きながらそう言った。
その言葉に、なんだか胸の奥が熱くなった。
でも――その熱が広がる前に、ふっと、視界が揺らいだ。
「あ……」
体から力が抜けていく。まるで栓を抜かれたバケツみたいに、魔力と一緒に体力までごっそり持っていかれたような感覚。膝がかくんと折れかけたその瞬間、
「美月っ」
燈火くんの声が近くで聞こえたと思ったら、次の瞬間には彼の腕の中にいた。
「……ごめん」
「謝るな。無理させたのはこっちだ」
燈火くんの声は、いつもより少し低く、心配そうだった。抱き留められた腕の中で、彼の体温と、少し速い鼓動が伝わってくる。
「魔力切れですね」
藤崎さんがすぐに駆け寄ってきて、私の顔を覗き込んだ。
「あれだけの魔法を、意図的に、しかも段階を踏んで発動させたんだもの。当然の反応よ。……ちょっと休みましょう」
*
訓練室の壁際に置かれた長椅子に座らされ、藤崎さんが淹れてくれた温かいお茶を飲むと、少しずつ体に力が戻ってくるのがわかった。
柳瀬さんが、静かな声で切り出した。
「美月さん。今回のことで、はっきりしたことがあります。あなたの魔法は、確かに強力です。ですが、それを支える魔力量と体力が、まだ十分ではありません」
「……はい」
「これから、あなたには魔力量の底上げと、体力強化のための訓練メニューに取り組んでもらいます」
藤崎さんが、にっこりと――どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、一枚の紙を差し出してきた。
そこに書かれていたメニューを見て、私は思わず声を上げた。
「え……朝のランニング五キロ、魔力回復訓練一時間、筋力トレーニング……こ、これ全部、毎日ですか!?」
「もちろんよ」
「そんな、無理です……!」
「無理じゃないわ。あなたなら、できる」
藤崎さんの笑顔は優しいのに、なぜか有無を言わさない迫力があった。柳瀬さんも、静かに頷いている。
「体力がなければ、せっかくの固有魔法も、いざという時に使いこなせません。今回のように、発動直後に倒れてしまっては、本末転倒ですから」
柳瀬さんの言葉は正論すぎて、反論の余地もなかった。
「それに」と藤崎さんが悪戯っぽく付け加える。「これくらいこなせなければ、燈火くんの隣に立つ資格もないわよ?」
「な、藤崎さん!?」
燈火くんが珍しく慌てた声を上げるのを見て、私は思わず笑いそうになった。
私はがっくりと肩を落とした。せっかく固有魔法が完成した嬉しさが、一気にどこかへ吹き飛んでいくような気がした。
「げ、げんなりする……」
思わず本音が漏れると、隣に座っていた燈火くんが、ふっと小さく笑った。
「そんな顔するなよ」
「だって……」
「大丈夫だ」
燈火くんは、まっすぐに私を見て言った。
「そのメニュー、俺も一緒にやる。お前一人にはさせない」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「……本当に?」
「ああ。それに――」
燈火くんは少し照れくさそうに、視線をわずかに逸らしながら続けた。
「昨日みたいに、お前が一人で無茶するのを見てるのは、もうごめんだ。だから、今度からは、俺がちゃんと支える」
その一言に、じんわりと胸が温かくなる。
厳しい訓練メニューへのげんなりした気持ちも、燈火くんのその言葉のおかげで、少しだけ軽くなった気がした。
*
SAMAを出て、夕暮れの道を燈火くんと二人で歩く。
オレンジ色に染まった空の下、二人分の影が長く伸びている。
「今日は、頑張ったな」
ふいに、燈火くんがそう言った。
「三つ目の固有魔法。しかも、あれだけの威力だ。……お前は本当に、すごいよ」
「え、そんな、大したことじゃ……」
「大したことだ」
燈火くんは、珍しくはっきりとした声で言い切った。
「無我夢中とはいえ、あんな複雑な魔法を組み立てられる奴、そうそういない。俺だって、驚いた」
真正面から褒められて、顔がかあっと熱くなるのがわかった。
「……ありがとう」
小さくお礼を言うと、燈火くんは少しだけ口元を緩めた。学校では絶対に見せない、素の彼の表情。
「……げんなりするくらい厳しい訓練メニューだけど」
私は、ふうっと息を吐きながら呟いた。
「燈火くんが一緒にやってくれるなら、頑張れる気がする」
「ああ。付き合うよ、どこまでも」
その言葉に、明日からの過酷な日々が少しだけ怖くなくなった気がした。
「あ、そうだ」
燈火くんが、ふと思い出したように言った。
「明日の朝、迎えに行く。一緒に走ろう」
「え、朝から!? 燈火くんも走るの?」
「言っただろ、一人にはさせないって」
当たり前のようにそう言われて、私は一瞬、言葉に詰まった。
「……ありがとう」
小さくお礼を言うと、燈火くんは少し照れくさそうに視線を逸らした。眼鏡のない、素のままの目が、夕焼けを反射してオレンジ色に染まっている。
三つ目の固有魔法。《氷風磨砕陣》。
そして、これから始まる厳しい訓練の日々。
不安がないと言えば嘘になる。朝のランニングも、魔力回復訓練も、想像するだけでうんざりする。でも――燈火くんがそばにいてくれるなら、きっと、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、私は燃えるような夕焼けの中、家路を急いだ。
明日からは、また新しい毎日が始まる。少し厳しくて、少しだけ、楽しみな毎日が。
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