第三話 あぁ、妹よ
店内では、一心不乱のように黙々うどんをズーズーすする客。食べ終えた客が食器をカチャカチャとカウンターへ戻そうと運ぶ客。中央では石油ストーブの上に乗っかったやかんがシュンシュンと沸騰して湯気を立てている。
年寄り二人はその前で暖をとっており、全く帰る気配はない。
時計の針は七時半を差していた。
七時を過ぎてやって来た白川はともかく、岩次郎が来てからは一時間近くが経とうとしている。うどん一杯、百八十円で居座り続ける姿は、ファーストフード店の若い学生たちよりも神経が図太い。
「これはの、道さんから聞いた話じゃけんどの」
狸話はまだ続いていた。
目を閉じている白川の隣で、一体誰に向かってなのか、岩次郎は一人語り出す。
「町内の集まり事で公民館へ向かい竹林を歩いとった時の出来事じゃ。ふと気づけば、目の前を着物を着た美しい後ろ姿の若い娘さんが歩いとった。その若い娘は道さんよりもはよぅ建物の中へと入っていきおったんじゃ。確かに、それを見た。それやのにじゃ、道さんが辿り着くと、先程の娘はおらん。姿が見えん。居合わせた他の者に聞いても、そんな娘は来ていない、知らんと、皆が口を揃えて言うんじゃ。今でも不思議でたまらん話じゃあ」
「それ、ただのじぃちゃんの妄想だろ。白昼夢、夢物語!」
祖父が生きていて聞いていたならば、この孫からの言われように何と言い返すだろうか。道人も子供の頃は信じていたが、今は〝美しい若い娘〟のくだりでどうにも胡散臭く感じられるのだった。祖父は若い頃は男前でよくモテていた。と、祖母は自慢なのか嫉妬なのか口癖のように言う。
道人は祖父が亡くなる少し前までは離れて都会で暮らしていたため、それほど祖父の事はよく知らない。盆正月に帰省してもこの通り、祖父は自営業で忙しくしていた──今の比ではないくらいに、だ。
「けど、じぃちゃん。タヌキは好きみたいだったなぁ」
と、レジ台に置いてある狸の置物を手に取る。商売人の家になら必ず一つはありそうな商売繁盛の縁起物だ。──四国の総大将である太三郎狸を祀っている屋島寺のある屋島。そこへ訪れれば、そこかしこの店で売られているため、道人は子供の頃に祖父に買ってもらった記憶がおぼろにある。しかし、化けてしまったのかどこかへいってしまった。
「狸だらけじゃ」と、店内のあちこちに置かれた大小ある狸の置物を見渡して岩次郎は呆れるように言ったが、実は道人も掃除をする際に邪魔だと思っていたりするものの、捨てる事もできずにどうしたものかと困っていた。
「ところで、タマ子さんはどっしょる?」
「あぁ、ばぁちゃんは……」
言いかけて、厨房の奥にある勝手口が勢い良く開かれた。
「お兄ちゃーん?」
現れたのは道人の妹──歩だ。朝から元気な声が厨房を通り越して、客室にいる道人の背中までしっかりと届く。
「歩ちゃん、おはよう」
岩次郎がとても嬉しそうに満面の笑顔で挨拶すると、道人はどことなくブスッとした。
「岩さん、おはよー! ねぇ、お兄ちゃん!」
「聞こえてるー、ちょっと待て!」
そう遠くはない距離を、早く来てよ! とばかりに語調を強めて急かされるのを、客の会計を済ますまで待つように道人は指示する。
兄から返事が聞こえて来ると、得心した様子で勝手口で静かに大人しく待つ歩は、制服姿で髪を低めの位置でお団子ヘアに一つにまとめている。
一見、小柄でおっとりとした感じに見えるのは、母親似だろう。道人も以前は母親似と言われていたが、最近では父親似と言われる事も多い。性格は兄妹二人して、父親譲りの頑固で責任感の強いものだった。
道人が歩の側まで寄ると、
「今日、ばぁちゃんとこ寄って来るから。午後から雨降るって天気予報で言ってたから、洗濯物干してあるから悪いけど取り込んどいて。あと、時間あったらショッピングセンターに寄って来るから」
「あぁ、分かった。ばぁちゃんとこなら兄ちゃん行って来るから、たまにはゆっくりショッピング楽しんで来いよ」
まるで所帯染みた夫婦のような会話。だが、嫁の気を遣ったつもりが旦那はどうやら失言をしてしまったらしく、嫁の機嫌を損ねてしまう。
「何言ってんの! お兄ちゃんのTシャツ、買いに行くんでしょ? あの黒いやつ、首元ヨレてたから、もう廃品に出すからね! だから、もう勝手にハンガーから引っ張って取って着るのやめてよね? いつまで経っても廃品に出せないじゃないっ。引っ張って取るから余計に伸びるんじゃないのぉー。ハンガーから取るんなら、あたしもう、服、畳まないからね!」
次々に言葉が矢継ぎ早に飛んで来るも、甲高くやかましい喋り方ではなく、一語一句ハッキリとした口調だ。お年寄りにはとても聞き取りやすい。これにより白川が覚醒し、「わし、もういなな」と、レジの方向へと稼働を始めた。
「じゃっ、行って来る!」
言うや否や、バタンッと力いっぱいに閉められた勝手口のドアを、道人が慌てて開ける。
「おい、歩っ! 車に気をつけろよ! 車にっ!」
いつもは「はーい」と、可愛い返事が返って来るのだが、今日は無言のまま。兄は、「いってらっしゃー……」と声を沈めて立ち尽くし、妹の背中を見えなくなるまで見送るも、何をそんなに腹を立てているのかが、兄には理解できずにいた。
勝手口のドアを閉めると、レジまで辿り着いた白川が小銭をきっちりと揃えて待っていた、確認して欲しいの。道人は五円玉や十円玉の混ざった小銭を、背中に影を落としながらピンッピンッと指先で跳ねて数えてやる。
「はい、ちょうど。まいどー」
白川が後ろに方向転換して歩き出すと、店の主は客席の椅子にドスッと座り、深い溜め息を吐き出した。
「タマ子さん、元気なか?」
「……あんた、まだいたの? 勘定いらねぇから、もう帰れよ」
話の骨が途中で折れている事にもすっかり忘れていた道人は、投げやりに吐き捨てる。
祖母は現在、介護施設にいた。去年の暮れに脳梗塞で倒れて病院に入院していたのだが、左半身に後遺症である麻痺が残ってしまっていた。リハビリによりどこまで回復できるかは今はまだ分からないが、そのまま介護施設に入居させざるを得なかった。家事のほとんどを歩がしなければいけなくなったため、介護までは無理であると判断した末の結果だった。
「食事はちゃんと取ってて元気なんだけどな、なんでか俺の言うことはよく理解してくんないんだ」
「それは、おまえの言い方が悪いきにじゃ」
皮肉を込めるも、今の道人からは何も跳ね返って来ず。面白くなくなった岩次郎は、ようやく椅子から腰を持ち上げ立ち上がる。
「タマ子さんがおらんようになって、一人だけじゃあ、さすがにこの店でも忙してかなわんのぅ。あー、タマ子さんの作るおはぎ。もう食えんのやろかのぅ……残念じゃのぅ。おまえも、あんま無理せんようにの。わしが死ぬまではこの店やってもらわなぁ、困る。わしのうどん食う生きがいがなしのうてしまうきんのぅ。ほんだらの、また明日来らい」
そう言い残して、岩次郎は店を後にした。
──数秒後。
「あーっ! 勘定!」
気づいた時にはもう遅い。店の外飛び出すも、岩次郎の姿はすでになかった──店の裏に回って出て行ったのだ。
「こんのやろうっ、くそジジィッ」
お金が惜しいのでなく、まんまとしてやられたのが悔しい。自分が言ったのが悪いが、まさか本当にやられてしまうとは思っていなかったからだ。
まだまだ、常連客の扱い方にも道人は修業が足りていないのだった。
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