第二十五話 大ピンチ
ドンドンドンッ──
店の勝手口を叩く音がして、厨房の椅子に座って帳簿をつけていた道人は怪訝に眉をひそめた。
店の勝手口に、しかも夜に誰かが叩くことなど普段はない。いるといたら、歩だけだ。しかし切羽詰まったドアの叩く音に何か嫌な予感を感じながら、「どした?」と鍵が開いているのに開かれないドアまで向かう。
「店主さんっ! 店主さんっ!」
「たぬ子ちゃん? どしたの?」
予想外の声に目を丸くしてドアを開けると、立ち込めて来た煙の臭いに反射的に鼻を覆う。
「火事ですっ! 火事ですっ! 凶事を知らせにやって来ました! 台所が……大変なことになってます!」
すぐ目の前にある窓ガラス越しに赤々と揺れる炎が見え、そこから煙がわずかな隙間をくぐり抜けて外へと細く流出していた。一目でそれが火事だと分かる。
唖然としている間も、なぜたぬ子が来ているのかを考える暇もない。もう勝手口から中へと入るのは無理と判断した道人は、家の玄関へと走り向かう。
「歩ー! 歩ー!」
叫ぶ続けながら鍵を開けて靴を履いたまま中へと入ると、台所から玄関の廊下まで煙が充満していた。
「お兄ちゃんっ?」
尋常ではない兄の叫び声を聞いた歩が飛び起きて部屋から出てきた。
「火事だ! 外へ出ろっ、早く!」
「えぇっ?」
慌てて階段を下りて台所から流れてくる煙を目の当たりにしてからようやく事態を飲み込む。道人はすぐさま消防へ通報をする。
「うそ……なんでこんな?」
信じられなく、出火した原因を歩はあれこれ考える。
「いいから、出てろっ」
道人は怒鳴った。歩はうろたえながら玄関から外へと出ると、
「大丈夫ですかっ? お怪我はありませんかっ?」
たぬ子が歩の無事を心配して待っていた。
「うんっ、うんっ、あたしは大丈夫。たぬ子さんは? 大丈夫っ?」少しパニックを起こし気味の歩に、「わたくしは大丈夫ですよ! これくらいなんの、へっちゃらです!」とたぬ子は気を強くして返答する。
消防への通報を終えた道人は火が燃え上がる台所を再度見るなり、おそらく消し忘れたストーブが何かしらに引火したのが原因だろうと推測し、自身が招いた過失に怒りに心頭した。
外に飛び出すと、台所とは正反対に位置する倉庫へと走ると、ホースを取り出し蛇口へと取り付ける。
台所からはどす黒い煙と炎が立ち上がり始めた。家の台所と店の厨房は隣接している。このままだと、火が燃え移るのは時間の問題だ。
「お兄ちゃん、どうすんの?」
ソワソワ落ち着かなく心配して歩が近寄る。
「いいからっ、駐車場まで行ってろっ、たぬ子ちゃんも!」
「はいっ! 歩さん、店主さんの言う通り、ここま離れましょう! さ、駐車場へ」
どうしていいのか分からず庭をうろつく歩の腕をたぬ子が引いて、道人の命令通りに駐車場までへと連れて行く。
道人が蛇口の栓をひねろうとしたところへ、
「火事かぁーっ?」
岩次郎が駆けつけてやって来た。すぐ隣だ、窓の外を眺めていたか庭を徘徊でもしていて見えたのだろう。
「岩じぃ、蛇口全開頼む!」と、道人はホースを持って台所まで走る。
「よっしゃあ!」
たった蛇口をひねるだけだが、岩次郎は大きく気合いを込めた。そして、火事場の馬鹿力の様な声を腹の底から持ち上げて言う。
「わしんとこまで燃やしたら、こらえんぞ!」
「分かってるっ」
道人はホースで放水を試みるも、雀の涙だった。それでも、少しでも火の手を食い止めるべく放水を続ける。
一方、炎と煙に家は包まれていく様に何もできないまま、歩とたぬ子はただ立ち尽くして見守るしかなかった。
「どうしよ、どうしよ……」
歩は不安に落ち着かず繰り返しつぶやいた。
「お兄ちゃん、大丈夫かな?」
「大丈夫です! 店主さんなら、大丈夫ですよ! 何も心配ありません!」
確かな根拠もなく、そう言い聞かすしかなかった。
そうこうしている間に、防災無線から火災放送のサイレンがけたましく鳴り響き、近所の人々や西村も軽トラで慌ただしく飛んで来る。
「どんなんなっ? 消防、あっち向いて走ってったんがおったで、道間違えとるわ」と反対方向を指差す。
「ほうか、馬鹿じゃの。今、道人が消火しよる。わしら煙吸うたらイカン。ここでおろで」
二人は安全地帯の駐車場で野次馬と化す。
「あっ!」
突然、歩が声を大きく上げた。
「タヌキ! タヌキどこっ? どこっ?」
部屋で一緒に寝ていたはずのタヌキを探して辺りを見渡すも、いない。
「大丈夫です、大丈夫ですよ! 狸は野生動物です、本能で真っ先に逃げています!」
庭先まで戻って行こうとする歩をたぬ子が慌てて引き止める。
(タヌキの心配は無用です)
(それよりも……)
(あぁ、どうしましょう、どうしましょう)
(わたくしには何の御力もありません……!)
たぬ子は自分の非力と無力を思い知り痛感して泣きべそをかく。そこへ──、
ポツン──
空から雫が落ちた。
「雨?」と誰かがつぶやけば、一斉に周りは湧き上がる。「雨じゃ!」「奇跡の雨っ? うそやん!」
その雫は細く長く、絹糸のように伸びて降りてくる。それを岩次郎は手の平にすくい取る。
「こなん細い雨じゃ、水浴びもできんの。もっと、がいにに降らなイカン」
皆の目に輝いた期待は消えて、どんより暗い不安の色を雨と共に地面に落とす。
そんな中、たぬ子は目線の先に人影を見つけた。悪天候と夜の暗闇により人間の目では目視できない位置──玲子が立っていた。
(あれは……)
(有難い御言葉です)
耳を澄ませば聞こえてくる、凛高く奏でる美しい音色。それは祓詞の奏上だった。たぬ子と目を合わすと玲子は唇の端をわずかに上げた。が、その微笑みに余裕は少ない。
(玲子さん……)
(そんな、ご無理を……)
神を降臨させるなど、荒業だ。玲子とて容易くできるものではない。それでも運をわずかに天へと願い申し上げていた。
──あなたは? そんなところで何をしているの?
直接、声は届いていないはずだが、たぬ子の心に玲子の問いかけが伝わってくる。
──店主さんを助けなくていいの? お役に立ちたいいんでしょう?
自信なく、情けなく、垂れ下がっていたたぬ子の耳と尻尾がピクピクと反応する。
──得意の変化妙技はどうしたの?
ピンッ!
たぬ子の耳と尻尾が立ち上がる。
(わたくしは狸です!)
(四国のお山の狸です!)
(変化妙技日本一の太三郎狸さんのいる……!)
たぬ子は真っ直ぐに前を見据えた。
「みなさん、歩さんをお願いします!」
燃え上がる炎へと向かう。その姿はあっという間に闇へと溶けて消えていった。
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