第二十二話 緊急事態宣言
歩の心配も杞憂に、祖母の手術は何の問題もなく無事に終えた。
「タマ子さん、退院はいつや?」
「毎日同じこと聞くな、呆けジジイ。四日後だっつっただろ? 二日差し引いて、二日後だ。つまり明後日だ。ちゃんと覚えとけよ? てか、何でいんだよ」
午後の準備中である『道』にて、岩次郎が指定席に居座っていた。
岩次郎は基本、店に来るのは早朝だったが、おはぎの販売を始めてから、このように邪魔な時間帯にやって来るようになった。もちろん、おはぎを口にしている。
「茶」と言って、仕入れから戻って来て隣に腰を下ろしている道人に向かい湯呑を差し出す。
「は? 茶なら自分で汲めよ」
カウンターにある返却口の所にポットと粉末の茶があり、セルフになっている。冷水は各テーブルに水差しポットが置いてあり、ちょくちょく入れ替えている。何でこうもいちいち面倒な店のスタイルなのかと先代の店主に文句を言いたいが時もあるが、時代遅れで口うるさい常連客が目の前にいる。
「茶っ葉が空になっとる」
「えぇ?」
それは店の責任なので、道人は椅子から立ち上がって缶の蓋を開けた。
「入ってんじゃねーか。朝、追加したばっかだ。いくらサービスだからってそんなガブガブ飲まれたらたまんねぇ」
店主が本音をぶつくさ言うと、
「立てったついでに汲んでくれ」
と、そこで初めてまんまといいようにこき使われた事に気づく。チッと舌打ちしそうになるのを、口を一文字に結んで耐える。岩次郎も一応、客は客だ。この一年間で、接客態度は随分改めてきた。それはつまり店主の自覚をしっかりと強く持つようになったからだ。しかし、無粋に岩次郎に茶を運ぶ。岩次郎は茶をすすりながらおはぎをクチャクチャと入れ歯でこなす。
「うまいか?」
聞かれて、
「あーあ、うまいうまい」
と、厨房の奥からヒョコっと顔を出して現れたたぬ子に向かって、きな粉を上唇にくっつけて、孫に向かって言うように笑顔で頷く。
「嬉しいですぅ」
たぬ子は太いフサフサのしっぽをパタパタと振って喜ぶ。依然として道人の目にしばしば映る事があるが、見えない時もある事を考えると、やはり疲労だと道人は考えた。
それはそうと、たぬ子のしっぽから視線を外して岩次郎に冷ややかな一瞥をくれる。目当てはおはぎではなく、たぬ子ではないかと言ってやりたい。
「おまえ、仕込みはせんでええんか?」
「あんたが邪魔してんだろっ」
たぬ子が淹れてきてくれた熱いコーヒーをせわしく音を立てて一気に流し込んで飲み干す。そこへ、ズボンのポケットから携帯電話が振動すると共に着信音が流れてきた。道人はその着信音に顔をしかめる。仕事ではなくプライベートの着信音だった。携帯電話の受話器ボタンを押すなり、
「センセー? うちは出前ならやってねーよ」
受話器越しの相手が喜びそうな気の利いたジョークで応答した。が、それを無視され返ってきた言葉に道人は固まった。
「え……?」
ゴトッ──
ドラマのワンシーンのように手から携帯電話を滑り落とす。
「あわわ、店主さんっ、携帯電話、壊れますぅ」
ずっしりと重厚な音で落下した携帯電話をたぬ子が拾い上げる。故障はしておらず、受話器の向こうで工藤がしきりに道人を呼び掛けているのが聞こえて来る。
「店主さん? 大丈夫ですか?」
たぬ子は身動きが止まってしまった道人の耳に携帯電話を当てがう。岩次郎とたぬ子が両サイドから道人に耳を傾ける。
「……はい、はい。分かりました。お願いします」
静かに電話を切った道人は、放心状態で重大に告げた。
「歩が……倒れた」
「なんじゃて?」
「えぇっ?」
岩次郎とたぬ子も驚き声を上げる。
「とりあえず保健室で休んでて、今からセンセーが、あ、歩の担任じゃなくて工藤……あーややこしいっ。とにかく今からセンセーが車で送ってくれるって!」
「ほうか、親切な先生で良かったの」
「あぁ」
今日ばかりは、認めた。
「病院は行かんでええんか? 一体、どしたんじゃろの?」
「電話じゃ詳しい事はよく分かんねぇ。今日はもう店じまいだ。岩じぃ、おはぎ早く口に放り込んで帰ってくれ!」と、しっしと手で岩次郎を追い払う。
「落ち着かんかい。おまえは歩ちゃんのことになると大げさやのぅ。先生がついとるんじゃきん、心配ないじゃろ。わしも落ち着いて食わなのどに引っかかって死んでしまう」
「あーもう好きにしてくれ」
今は岩次郎に構っていられる精神の余裕はない。道人は完全に気が動転してしまったいた。たぬ子もおろおろと落ち着きなくしていたが、
「たぬ子ちゃんも、今日はもう上がっていいから」
「で、では。わたくしはお先に失礼します」と、歩の容態と道人が気になり後ろ髪を引かれつつも、大人しく言われるままに店を後にした。
祖母に次いで、今度は歩だ。いくら心臓に毛が生えていたとしても、さすがに堪えないはずがない。早まる鼓動を沈めて無事に帰宅してくれる事を願う。
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