アディ車をバカにすんな
走った。
月明かりの絹道を、全力で走った。バックパックが背中で暴れる。四人分の荷物がまだ入っている。肩紐が肉に食い込む。砂が靴底を吸う。一歩ごとに沈む。
象の影が遠ざかる。
(追いつかない)
当たり前だ。人間の脚で象に追いつけるわけがない。一歩の距離が違いすぎる。俺が三歩走る間にあいつは一歩。その一歩が俺の十倍ある。算数の問題にもならない。
走りながら頭が回り始めた。
(——待て。フラチーナの玉璽がまだ俺のバックパックに入ってる)
ダンジョンから脱出する際、玉璽を押して回るのは俺の役目だった。
フラチーナから預かったままだ。返すタイミングがなかった。
(玉璽をなくしたら……ダンジョンの掃除刑だった)
(届けないと)
五百メートル。差が開いていく。象の影が砂漠の闇に溶ける。
膝に手をついた。息が切れる。肺が焼ける。
「────くそ」
月明かりの道に一人。
(……脚じゃ無理だ。乗り物がいる)
顔を上げた。背後に英知の塔のシルエットが砂漠に突き刺さっている。
(……あった。あの塔に)
踵を返した。来た道を、走り直した。
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地下一階。空気がひんやりしている。壁面の金紫混合印が淡く光って、通路を薄暗い金色に染めていた。
あった。
通路の脇。10年前に大統領が帝国に贈った四輪駆動車——の、こびと族によるコピー品。
ドアを開けた。運転席に座る。刺さったままのキーを回す。
——何も起きない。
ボンネットを開けた。エンジンブロックの形状は完璧にコピーされている。シリンダー、ピストン、クランクシャフト——全部ある。
だが中身が焼きついていた。鋼鉄は焼き入れをしなければ必要な耐燃性が出せない。10年前に一度火を入れたらしく、シリンダー壁が溶けて固着している。形は完璧。中身は死んでいる。
「……ダメだ。このままじゃ動かない」
コピー品の傍らに、オリジナルの部品が分解されたまま転がっている。ダンジョンに入る際に見たスクラップの山。タイヤ。シャフト。排気管。シートの骨組み。ハンドルコラム。
一つずつ手に取って確認した。
タイヤ——空気が抜けてぺしゃんこだが、ゴムはまだ生きている。シャフト——錆びているが折れてはいない。シートフレーム——歪んでいるが使える。
そして——エンジンブロック。
持ち上げた。重い。鋳鉄の塊。表面は汚れているが、亀裂はない。こびと族が分解はしたが、破壊はしなかったらしい。興味で分解して、飽きて放置した。
「……ブロックは生きてる」
鋳鉄の表面を親指で擦った。汚れの下に、刻印がうっすら残っている。
「さすがアーディナル製。頑丈に作ってある」
バックパックを降ろした。万能ナイフ。ロープ。ペンキ。ポーターの道具を並べる。
「……やるか」
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フレームを組んだ。シートフレームの歪みを万能ナイフのドライバーとロープの張力で矯正する。シャフトをフレームに通す。排気管を接続する。ハンドルコラムを取り付ける。手が油で真っ黒になった。爪の間にまで入り込む。
こびと族が寄ってきた。
「なにしてるー?」「あー、あれ組み立ててるー」「おもしろーい」
「手伝ってくれ。ボルトが足りない。ナットも」
「あるよー」「いっぱいあるよー」「舐めたから覚えてるー」
ぽんぽん部品を生み出してくれる。ボルト、ナット、ワッシャー、ガスケット——オリジナルから分解した時に散らばった小部品を、こいつらは全部覚えていた。舐めたものの成分と構造は、全てこびとの頭の中に入っている。
長老が杖をつきながら歩いてきた。作業を眺める。
「ほう……組み立て直すのか。コピー品ではなく本物の方を使うとは。賢い子じゃの」
「コピー品は中が焼きついてました」
「そうじゃろうな。アーディナルの剣を再現するときも苦労した。あれはお前の国の職人の技じゃ」
「エンジンオイルが要ります。10年分が固まって真っ黒です」
「油か。……おい、誰か。あの時の油を覚えておるか」
「覚えてるー! 全部舐めたもんー!」
「では精製してやれ」
こびと族が数匹集まり、手を合わせてぶつぶつ呟いた。掌の間に液体が現れる。琥珀色。10年前にこの車に入っていたオリジナルのエンジンオイルを、舐めた記憶から再現したのだ。
「……本当に作れるのか」
「わしらは物質精製の種族じゃ。舐めたものの成分と構造は全て頭の中にある。この塔にある七千年分のコレクション——全部じゃよ」
長老が自分の頭を指で叩いた。
「もう現物は要らんのじゃ。全部ここに入っておる」
小さな体。丸い頭。大人でも俺の腰までしかない。だがその中に、七千年分の世界が入っている。
「……こびと族って、もしかしてとんでもない種族なんじゃ……」
「とんでもないかどうかは知らんが、珍しいものが好きなだけじゃよ」
古い黒い塊を抜き、新しい琥珀色を注いだ。タイヤにロープとてこで空気を入れた。四本。腕がちぎれそうになる。ボディの錆をペンキで塗った。油性。引火注意。丁寧にやる暇はない。大雑把に塗る。ムラだらけ。だが錆は止まる。
組み上がった車を見た。見栄えは最悪だ。ペンキのムラ。ロープで縛った箇所。こびとの手垢。——だが中身はオリジナルのアーディナル製だ。
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「……バッテリーが死んでる」
オリジナルのバッテリーは精霊石を使っていた。10年間放置されて完全に干上がっている。
「こびとの魔法で作れないか?」
「物質なら作れる。だがわしらの精製魔法では魔力を持ったものは作れん」
そこだけは、どうにもならない。
長老が懐から何かを取り出した。小さな石。淡く光っている。拳より一回り小さい。
「帝国産の精霊石じゃよ。電圧12V。もともとこの車に組み込まれておったバッテリーと同じものじゃ」
「……なんでこれだけ持ってたんですか。もっと色んな精霊石もあるのに」
長老がにかっと笑った。歯が少ない。
「道具の国の子が、また何か珍しいおもちゃを持ってきてくれると期待しておったのじゃよ。その時にまた動かせるようにな」
「…………」
「おもちゃじゃねぇ」
精霊石をバッテリー端子に接続した。カチリと嵌まる。端子に触れた瞬間、石が脈打つように光った。電圧が走る。計器が一瞬だけ点灯し、すぐに消えた。
「……通電した」
印なしのエンジンに、唯一の印つき部品が嵌まった。
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揺れている。
象の歩み。規則的な振動。ショーシが隣に座っている。口を開かない。わたくしも口を開かない。
(——玉璽を返してもらってない)
(ケントシーが持っている。あの人の荷物の中に)
(玉璽をなくしたら、ダンジョン掃除刑ですね)
(……あの人は、届けに来るだろうか)
素手。指先が夜風に冷たい。
(届けに来なくていい。あの人に印はない。義理もない。命令もしていない)
(来なくていい)
(————来なくていいのに)
前を見る。後ろは見ない。
見たら、来ない人を待ってしまうから。
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夜明け前。塔の外。
こびと族が総出で車を押している。
「重いー!」「でっかいー!」「動かないー!」「押すのー! もっと押すのー!」
スロープを通って外へ。砂の上に四つのタイヤが降りた。
運転席に座った。ハンドルを握る。
長老が塔の入口に立っていた。こびと族がわらわらと周りにいる。
「ケント」
「はい」
「お前は誰からも命令を受けていない」
「はい」
「印もない。義理もない。なのに行くのかね」
「……俺、ポーターなんで」
「ポーター」
「荷物を届けるのが仕事です。ダンジョンの最下層で、王女様を拾ったんです。帝国まで届けないと」
長老が笑った。七千年分のしわが動いた。
「——いいポーターだ」
キーを回した。
セルモーターが回る。一回目。精霊石が脈打つ。——かからない。
二回目。エンジンが咳き込む。かぶっている。——かからない。
三回目——
エンジンが咆哮した。
排気が砂漠の夜明け前の空気を震わせた。砂が舞い上がる。ヘッドライトが点灯する。
こびと族が一斉に飛び退いた。
「うるさーい!!」「なにこれー!!」「すごーい!!」「怖いー!!」「もっかいー!!」
バックパックを助手席に置いた。中に玉璽。
ギアを入れる。
「アディ車をバカにすんな」
タイヤが砂を噛んだ。4WDが跳ねるように発進する。
こびと族が見送った。
「いってらっしゃーい!」「がんばれー!」「また来てー!」「次はエンジンの中まで舐めさせてー!」
(最後のは絶対に断る)
絹道。夜明け前。月がまだ西に残っている。象が消えた方角。
4WDが砂漠を走る。エンジンの唸りだけが響く。命令で動くものは一つもない。印なしの機械と、印なしの人間。精霊石だけが唯一の印つき部品。それも、もともとこの車のために作られたものだ。
ポーターは届け先に着くまで走る。
ヘッドライトが砂漠を照らした。月を追うように、西へ。




