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遣唐使

一晩走った。


ヘッドライトの光が朝焼けに溶けて、砂が金色に染まっていく。目の下のくまが重い。ハンドルを握る指の感覚がときどき遠くなる。


象の足跡は絹道の本道からそれていた。わざとだ。追いにくい方へ、追いにくい方へ。道のない砂漠を、でたらめに歩かせている。


——だが俺にはタイヤがある。


轍を追って、砂漠の奥へ。


地平線に影が見えた。小さな塔。こびとの捨て塔だ。

砂漠の各地に臨時の実験塔を点々と立てては放置している。一体何の実験に使ったのかは分からない。

——が、色がおかしい。こびとの精製石は白いはずなのに、塔全体が鈍い銀色にぎらぎら光っている。


(メッキだ。塔を丸ごと紫印の金属で覆ってる)


紫印のメッキ。ショーシが塔をまるごと皇国仕様に変えたのだ。

これではフラチーナの勅令は壁に通らない。


(だが——玉璽で上書きすれば)


(やっぱり届けるしかない)


塔の根元に巨象。繋がれている。周囲に皇国兵の天幕。紫の旗。十数人。


砂丘の影に4WDを止めた。エンジンを切る。


---


裏に回った。


窓は上の方にひとつ。こびとサイズ。人間は通れないが、腕は入る。入口は反対側で、兵が二人立っている。


(配達だ。突入じゃない)


バックパックを開ける。玉璽。万能ナイフ。ロープ。


メッキの壁面に取りつく。亜鉛の銀色が滑る。だがショーシが急いで塗ったのか、裏側は薄い。こびとの精製石の目が荒い部分がむき出しになっている。万能ナイフを壁の目に差し込み、ロープを腰に巻いて登った。


屋根に手をかける。表側に回り、ロープで窓の高さまで懸垂下降。


窓の中を覗いた。


フラチーナが座っていた。壁に背をつけて、目を閉じている。


「フラチーナ」


小声で呼ぶ。フラチーナの目が開く。窓の四角い光の中に、逆さまの俺の顔。砂だらけ。


一拍の間があった。


「お届け物です」


腕を窓から差し込んだ。手のひらに玉璽。


「特大のハンコです。ハンコお願いします」


フラチーナが受け取る。指が触れた。


「……命令していません」


「知ってるよ」


「……ケントシー」


「なんだ」


フラチーナは玉璽を握ったまま、窓の外を——俺の向こうの砂漠を見た。


「かつて、その玉璽を運ぶために、命がけで海を渡った使者がいたそうです。彼らの事を遣唐使と呼ぶそうです。先生から聞きました」


砂を運ぶ風の音だけが、しばらく鳴っていた。


「……俺の名前と似てるな」


「ええ。やはりあなたはケントシーです」


耳が、赤かった。


「使えるか。壁、メッキされてるけど」


フラチーナが玉璽を壁に押し当てた。銀色の表面に金の光が走る。紫が剥がれるように退いた。


「上書きできます」


「さすが。——塔を出たらすぐ壁伝いに左へ。白いテントの裏を通ったら、まっすぐ森の方へ。その先の丘で落ち合おう」


「わかりました」


「じゃ、先に行って待ってる」


ロープを回収して塔を降りた。裏側から砂丘を迂回して、丘へ走る。


---


丘の上から腹ばいで見下ろした。


塔の扉が開く。金の光が漏れる。兵が二人、吹き飛ばされていた。


フラチーナが出てきた。


(よし。出た。あとはこっちに——)


歩いている。


フラチーナは背筋をまっすぐに伸ばし、砂漠を歩いていた。女王の歩幅で。優雅に。一歩一歩が完璧に等間隔。


(走れ。走ってくれ。頼むから走ってくれ)


白いテントの裏を通る。兵は塔の方に集まっていてここにはいない。フラチーナ、悠然と通過。


森の方角へ。歩いている。


(……女王に「走れ」と言った俺がバカだった)


塔の中から叫び声が上がった。


「女王がいない!」


「金印がついている! まさか玉璽を隠し持っていたのか!?」


「探せ!」


天幕から兵が飛び出してくる。紫の甲冑。


——フラチーナは歩いている。


(走れ! 頼む!)


丘の斜面を上がってくる。歩いて。髪が風になびく。表情は涼しい。


「ケントシー」


「……おつかれさまです」


「ええ。少し歩きました」


下を見た。ショーシが巨象の背に立っている。兵が散開を始めている。丘の包囲は時間の問題だ。


「ケントシー」


フラチーナが玉璽を俺の手に、ぽん、と置いた。楽しそうに巨象を指さす。


「行け」


ガクブル。


「戦え」


ガクブル。ガクブル。


「むちゃ言うな」


フラチーナがダメな犬を見るような目で俺を見下ろした。


「仕方ありませんね。わたくしの精霊たちをあなたにつけます」


空中の金印に触れる。指先から光の粒が散った。風の精霊、光の精霊。ダンジョンでフラチーナに傷ひとつつけさせなかった、あの精霊たちだ。


「——彼を守れ」


精霊たちが俺の周囲に集まる。薄い光の膜が体を覆った。


ダンジョンで何十回もこの精霊たちがフラチーナを守るのを見てきた。岩の落下も、魔物の爪も、全部弾いた。


「……了解」


こうなったら無敵だ。

俺は走り出した。

だが——フラチーナが指さした方向、巨象にまっすぐは向かわない。

斜面を降り、テントの方へ逸れる。


丘の上のフラチーナが眉をひそめていた。


「……不埒」


---


キャンプは手薄だった。兵の大半がフラチーナを探して散開している。


天幕に滑り込んだ。紫の甲冑。兜。マント。

素早く着替えた。サイズが合わない。でかい。


(皇国兵ってデカいな。栄養状態がいいのか、紫印で骨格強化してるのか)


兜を被れば顔は隠れる。そのまま天幕を出た。


巨象。近い。ショーシが背の上から指示を飛ばしている。足元に兵が数人。


堂々と歩いた。皇国兵の歩き方を真似る。精霊の膜が甲冑の下で薄く光っているが、紫の金属に紛れて見えない。


巨象の横を通り過ぎる。——通り過ぎざまに、玉璽を取り出した。


巨象の前足。丸太のように太い。面積の大きなものほど印を押すのは楽だった。


玉璽を、押した。


金の光が走る。紫が剥がれるように退く。足から胴へ、胴から背へ、金印が巨象の体を登っていく。


巨象が一声、鳴いた。


「——何だ?」


俺は象から逃げるように走った。


---


丘の上から、フラチーナの声が砂漠に響いた。


「——暴れなさい!」


巨象の体に走った金印が脈打つ。巨大な体が向きを変える。


「止まれ! 止まれと言っている!」


ショーシの紫印の命令。だが巨象の印はすでに金に上書きされている。声が届かない。


巨象が走り出した。テントを踏み潰す。紫の旗が倒れる。兵が慌てて飛び退く。


俺は走った。巨象の横に並ぶ。精霊の膜が振動を吸収する。象の体に手をかけた。引き上がる。ダンジョンの柱を登った要領で。


巨象の背。ショーシがいた。


目が合う。


「——お前」


「どうも」


ショーシが剣を抜き、鋭い突きを放った。

衝撃にのけぞる。だが、精霊の金の光が守ってくれたおかげで、傷ひとつ負わなかった。


「お前……まさか、それは」


驚愕するショーシの足元で、巨象が急旋回した。どうやらフラチーナの命令で丘に向かっているようだ。ショーシがバランスを崩す。


ショーシが背から落ちた。砂の上に転がる。


巨象が丘に着いた。フラチーナが立っている。


手を伸ばした。


「来い!」


フラチーナが俺を見上げた。


「……あなたは私の命令を聞かないのに、なぜ私はあなたの命令を聞かなければならないのですか」


などと文句を言いながら、俺の手を取った。

引き上げる。フラチーナが巨象の背に立つ。


「走れ」


巨象が走る。丘を越え、砂漠を横切り、大河に向かって。


---


大河。幅が広い。水が茶色い。流れが速い。


巨象が躊躇なく水に入った。鼻を水面に上げ、四本の足で水を掻く。


フラチーナと共に、巨象の背にしがみつく。水飛沫が顔にかかる。


「象って泳げるんだな」


「泳げます。知らなかったのですか」


「知らなかった」


「かつては象も印を使っていたと言います」


「象印とかあったんだ……」


背後を見た。岸辺にショーシが立っている。砂まみれ。兵たちが追いつくが、甲冑を着た兵は泳げない。巨象もいない。追う手段がない。


「おのれ……ケントシー……!」


隣の兵が聞いた。「何者ですか、ケントシーとは」


ショーシが歯を噛んだ。


「奴は遣唐使ケントシー……ただの……運び屋だ……!」


対岸。巨象が浅瀬に足をつける。水から上がった。ずぶ濡れだった。


「…………」


俺は対岸をじっと見つめていた。


「車を向こうに置いてきた」


「不埒」


フラチーナが小さく笑った。


初めて見る笑顔だった。すぐに消えた。だが——あった。


---


巨象がのっそり立っている。ずぶ濡れのまま。フラチーナの金印はまだ維持されていた。


フラチーナが巨象の鼻先に手を当てた。声が柔らかい。


「よく頑張りましたね。——もうひとつだけ、お使いをお願いできますか」


巨象が小さく鳴いた。


「向こうの岸の、砂丘の影に、白くてうるさい箱がありますね。あれを持ってきなさい」


巨象が大河に戻る。泳ぐ。対岸へ。


向こう岸に上がった巨象を見て、ショーシの目に一瞬、期待の光が宿ったのが分かった。——象が戻ってきた、と。


だが巨象はショーシに向かわなかった。砂丘の影に回り込み、4WDを鼻でつまみ上げた。


ショーシの「は?」という声が、川を越えて聞こえた気がした。


巨象が4WDを鼻先に持ったまま浅瀬に入る。すさまじい光景だった。水の中をゆっくりと渡り、こちらの岸に4WDをそっと降ろす。


巨象、ふん、と鼻を鳴らした。仕事完了。


「ご苦労様でした。——お帰りなさい」


巨象が再び大河を渡る。今度はショーシの元へ。金印の光がゆっくりと消えていくのが見えた。フラチーナの命令が役目を終え、紫に戻っていく。


向こう岸でショーシが巨象の鼻面を見つめ、それから対岸の俺たちを見た。


「……笑止……あの女……!!」


こちら岸。フラチーナが満面の笑顔で手を振っていた。


生まれて二度目のフラチーナの笑顔。今度は消えない。にっこにこしている。


「……象を使って車を回収して、そのあと丁寧にお返しして……」


「ええ。借りたものは返す。当然です」


「返すんじゃなくて見せつけてるだろ」


「見せつけてなどいません。——少しだけ、見えるようにしただけです」


(……この人、めちゃくちゃ楽しそうだなぁ)


キーを回した。エンジンがかかる。


「……アディ車は頑丈だなぁ」


フラチーナが助手席に座る。


4WDが走り出した。大河を背にして。

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