不埒な女王と異邦人のポーター
砂漠を走っている。
エンジンの唸りと、タイヤが砂を噛む音。それだけが世界の全部だった。
バックミラーに英知の塔が映っている。陽炎に揺れて、蜃気楼みたいに頼りない。入口のあたりに小さな影がいくつか。丸い。全部丸い。手を振っている。
俺は窓から片手を出して振り返した。
助手席のフラチーナは振り返らなかった。背筋をまっすぐにしたまま、前だけを向いていた。
「……先生方、お元気で」
小さな声だった。エンジン音に紛れるくらいの。
塔が地平線に沈んだ。
沈黙。ハンドルの振動が掌に伝わる。砂丘の稜線が左右にうねって、視界の果てまで黄色い。フラチーナの髪が窓から入る風に揺れている。こびと族に貰った絹の布を肩に巻いているが、その下はダンジョンで擦り切れた衣のままだ。
女王が、助手席で砂埃にまみれている。
「このまま私を帝国に届けたら、あなたはどうするのです」
フラチーナが口を開いた。前を向いたまま。
「んー。パワフルな相棒も見つかったし」
ハンドルを叩く。4WDが応えるように軋んだ。
「しばらく帝国でポーターやろうかなって。この車なら砂漠の長距離輸送もいけるだろ」
「仕事は見つからないかもしれませんよ」
怪訝な顔をした。フラチーナは窓の外を見ていた。
「わたくしが英知の塔の最深部にいた理由を、聞いていなかったでしょう」
聞いていなかった。ダンジョンの底で眠っていた女王。金紫混合印の光る玉座。あの場所にフラチーナがいた理由を、俺は一度も訊かなかった。
最初はフラチーナ自身も知らなかったみたいだし、訊いていい立場でもなかった。
「こびと族の自動転送装置です。龍脈を通じて王族を転移する古代技術。王族に──危機が迫った時に、発動します」
砂丘を一つ越えた。車体が跳ねて、フラチーナの体が揺れた。
「つまり──帝国で何かが起きた、ってことか」
「ええ」
「……ダンジョンで遊んでる場合じゃなかったんじゃ」
「遊んでなどいません。これだから無印の民は」
語気は強いが、目が笑っていなかった。
フラチーナが膝の上で指を組んだ。白い指が、きつく。
「帝国は今、内乱状態にあります」
風が止んだ気がした。エンジン音だけが続いている。
「わたくしが命じれば止められます。勅令は絶対ですから。──けれど」
間。長い間。砂丘を二つ越えた。
「そうやって命令に従わせてきた結果が、内乱です。わたくしの何が悪かったのか、わからない。ひょっとすると──このまま王座に戻るべきではないのかもしれない」
女王がそう言った。助手席で。砂漠の真ん中で。こびとの布を肩に巻いて。
俺にだけ、言った。
長い沈黙。砂丘を越える。その向こうに──緑。かすかに。畑の色。帝国の領地だ。
「たぶん」
口を開いた。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
「フラチーナの何が悪かったかって言ったら、全部だと思う」
「不埒」
「……けど、争いを止めること自体は、悪いことじゃない」
フラチーナが黙った。
「もし怖かったら、俺がどこへでも連れて行くよ、フラチーナ」
「不埒。無印の民のくせに」
「無印の民だからこそだ」
フラチーナが俺を見た。視線が横から刺さるのがわかる。俺は前を向いていた。前を向くしかなかった。それ以外にできることがない。
4WDが街道に入った。石畳。揺れが変わる。畑が広がっている。──だが、荒れていた。焼けた跡。踏み潰された作物。納屋が崩れている。人がいない。
フラチーナの目が変わった。肩の線が変わった。膝の上の指がほどけて、肘掛けを掴んだ。
「急ぎなさい」
女王の声だった。
アクセルを踏んだ。
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帝都の城壁が見えた。
門が開きっぱなしだった。守衛がいない。城壁の上に煙が三筋、四筋。
4WDが城門を通過する。石畳に響くエンジン音が、やけに大きい。街路に人はまばらで、壁に剣の傷。石段に、血の跡。乾いている。だが新しい。
中央広場。
武装した二つの集団が睨み合っていた。帝国の紋章をつけた正規兵と、紋章を引き裂いた反乱軍。槍の穂先が陽を受けて光っている。一触即発──その言葉の意味を、俺は初めて肌で理解した。
4WDが広場に乗り入れた。石畳の上でタイヤが軋む。両陣営が振り向く。
フラチーナが扉を開けた。
降りた。
砂漠を渡ってきた衣服。裾は擦り切れている。こびとの布は肩から滑り落ちた。汚れている。傷んでいる。
だが──背筋が、まっすぐだった。
広場が静まった。槍を構えていた腕が下がる。怒号が途切れる。数千の目が、一人の女に向いた。
フラチーナが息を吸った。
────「やめよ」
金印が脈打った。
俺には見えた。石畳に光が走る。放射状に。壁を伝い、武器を伝い、甲冑を伝い、人の体を伝って──広がっていく。
全員が止まった。
剣を振り上げていた腕が、止まった。走っていた足が、止まった。叫んでいた口が、止まった。
広場だけではなかった。街路。市場。城壁の上。金の光が帝都を走り抜けて、届く限りの全てが──止まった。
静寂。
兵が膝をつく。反乱軍が武器を落とす。金属が石畳にぶつかる音が、鐘のように響いた。
「女王陛下……」
「お戻りになられた……」
声が、広がっていく。
フラチーナは広場の中央に立っていた。汚れた衣の女王が、何千人の視線の中心に。
「私が不在の間、多くの血が流れた」
声は静かだった。だが石畳の隅々まで届いた。勅令ではない。ただの声だ。
「私が至らなかった責めです」
民衆がざわめいた。女王が──非を認めている。
フラチーナが間を取った。広場の空気が張り詰める。
「今までは、わたくしの名を口にした者は打ち首に処してきました」
沈黙。全員が息を止めた。俺も止めた。
「これからは──許します」
風が吹いた。
「わたくしの名、フラチーナ二世を口にすることを」
沈黙が落ちた。長い沈黙。おそるおそる、一人が声を上げた。
「フラチーナ……女王陛下……」
もう一人。
「フラチーナ女王陛下、万歳!」
堰を切ったように、声が溢れた。
「フラチーナ女王陛下!」「フラチーナ女王陛下!」
シュプレヒコールが広場を震わせた。石畳が揺れた。壁が揺れた。空気が揺れた。
──だが。
大勢が一斉に「フラチーナ」を叫ぶと、反響と重なりで。
「──不埒な──」
「不埒な女王陛下!」
にしか聞こえなかった。
フラチーナの耳が赤くなった。
顔が赤くなった。首まで赤くなった。
「フラチーナ女王陛下!」=「不埒な女王陛下!」──が、鳴り止まない。広場を。街路を。帝都の全てを、不埒が、覆い尽くしていく。
フラチーナが震えた。拳を握った。我慢の──限界だった。
「不埒! 不埒! 不埒! やめだ! 反乱した者は全員出てこい! 打ち首に処す!!」
広場が凍った。
(……とんでもない暴君が誕生してしまった)
家臣たちが全力で駆け寄った。「陛下お気を静めて!」「今のは撤回で! 撤回でございます!!」「陛下! 陛下!!」
なんとか、なった。たぶん。
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こうして、フラチーナの日常が戻った。
彼女は女王として、帝都の宮殿の最奥にいた。
「召させよ」──食事が来る。銀の食器。侍女が匙を運ぶ。
「召させよ」──衣が来る。侍女が袖を通す。
便利な言葉だ。一言で全てが動く。
玉座。報告。命令。印が光る。全てが動く。
内乱は止まった。だが領主たちの目は笑っていない。民の声に力がない。止めた。──止めただけだ。直していない。
墨国は新たな兵器を完成させたという報告書。皇国は革命を成功させ、領土を広げている。無印の国も新技術の開発を加速させている。帝国だけだ。古い砂漠とともに、同じ場所に立ち止まっている。
夜。
一人。窓から帝都を見下ろした。灯りが少ない。静かすぎる街。
何かが足りない。何が足りないかはわかっている。
フラチーナは窓枠に手をついた。金の光が指先で微かに脈打っていた。
「…………」
────「召せ」
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俺は帝都の安宿で寝ていた。
金の光が走った。体が引っ張られた。比喩じゃなく、物理的に。金印のつけられた布団ごと横に滑って、壁をすり抜けて──すり抜けた。壁を。
気がつくと王宮の廊下だった。寝間着。裸足。近衛兵二人に両脇を抱えられて、石の床を引きずられていく。
「俺また何かやっちゃいました?」
近衛兵は答えなかった。汗をかいていた。
玉座の間の扉が開いた。
フラチーナが立っていた。
正装。女王の衣。金糸の刺繍。冠。──だが表情は。
ダンジョンで見たフラチーだった。いたずらを仕掛ける前の、あの顔。
「いいえ、やっちゃったのは私です」
フラチーナが歩いてくる。片手に玉璽。近衛兵が道を開ける。家臣が息を呑む。
俺の前で止まった。近い。息がかかるくらい近い。
玉璽を持ち上げた。
俺の額に──
ぽん。
金の光が走った。
体の中を。腕を。指先を。足の裏まで。生まれて初めて。印なしだった体に、金印が──灯った。
見えた。自分の体に走る金色の脈が見えた。こんなものが、他の人間には最初から刻まれていたのか。
「さあ、これであなたは私のものです」
フラチーナの声が、近かった。
間。
「ケントシー」
その呼び方。印を持たないのに印を届けるために海を渡る妖精。こびと族がそう呼んだ。
「命じます」
フラチーナの目が、揺れていた。女王の目ではなかった。ダンジョンの底で目覚めた時の、あの──
────「わたくしを連れて逃げなさい」。
預かったものは、届ける。
それがポーターの仕事だ。
──ただ、今回の荷物をどこに届けるかは、まだ決まっていなかった。




