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先制のお墨付き

最下層から地上まで、何時間かかったか正確には覚えていない。


覚えているのは——玉璽を二回壊した。掃除刑を二回食らった。シバラクが木簡の束を抱えたまま寝落ちして、起こすのに三十分かかった。ショーシは鋼塊の剣を使うたびに顔色が悪くなった。フラチーナは一度も弱音を吐かなかった。俺の三倍は文句を言ったが。


あと、これは珍しいといって、三人がどんどん俺のバックパックに詰め込んでいった総重量八十キロのアイテムは、途中から何を入れたか忘れた。人間の背負うものじゃない。


だが——築六千五百年層での戦いだけは、よく覚えている。


---


その層は、空気が違った。


奥の一角だけ壁の石が黒ずんでいる。煤ではない。染みだ。何千年も前に染み込んだ何かの痕。棚に並ぶ遺物は骨細工、干からびた革袋、歯の首飾り。全部に赤い印が浮かんでいる。金でも紫でも墨でもない。朱。血の色。


フラチーナの足が止まった。


「——朱印」


声に温度がなかった。


「帝国の、さらに支流。百年ほど存在した国。血の紋章を用いた」


ショーシが低く補足する。「皇国の記録にもある。青ひげ公の王朝と呼ばれていた。滅びて久しい——はずだが」


通路の奥で、何かが動いた。


骨だった。


骨格だけの四足獣。関節を赤い筋が繋いでいる。朱印が脈動している。生きている。五百年前に滅びた国の精霊獣が、この層でまだ動いている。


(——超レア、というやつだ。冒険者なら垂涎の的だろうな)


だが俺たちにとっては不測の事態だ。


一拍目。煙遁壺が二つ、宙を飛ぶ。白煙が獣の視界を塞ぐ。


「幻獣系。本体は骨格のみ。関節に朱印の筋。金印でも紫印でもない——系統外でござる」


シバラクの声が煙の中から飛んでくる。偵察完了。


「系統外か。玉璽で上書きできるか?」


「やってみなさい」


煙を盾に走り込む。額に玉璽を叩きつける。金の刻印が——浮かばない。朱印が弾く。表面を滑って消える。


「——効かない!」


「おそらく、抵抗を持たせているのでしょう。帝国と皇国に挟まれた国でしたから」


フラチーナの声に苛立ちはない。むしろ学者の冷静さ。


「ならば物理でやるしかないでござるな」


「待て」


ショーシの声。鋼塊の剣を構えている。顔色が悪い。だが目は据わっている。


「物理なら、私の得意分野だ。笑止。この程度」


二拍目。シバラクが煙幕を追加する。ショーシが左から回り込む。俺は右に走る——役割は囮だ。走って注意を引くことはできる。ポーターの仕事だ。


三拍目。俺が獣の前で急停止する。骨の顎が開く。


横から銀色の光。ショーシの長剣が朱印の筋を断つ。前脚が崩れる。だが後脚はまだ動く。


「——フラチーナ! 床!」


「——砕けよ」


勅令が床の石に走る。金色の光が放射状に広がり、石が割れる。後脚が床ごと陥没する。朱印の体に勅令は効かない。だが足場を壊すことはできる。


四拍目。ショーシの二撃目。残りの朱印の筋を全て断つ。骨が散る。赤い光が消える。


沈黙。


「……勅令が本体に効かないなら、環境を変える。勘がいいでござるな、女王殿」


「当然です」


「笑止。私が斬ったのですが」


「あなたに斬らせたのです」


四人が立っている。誰も倒れていない。息は荒いが、全員無事だ。


(——四人だと楽だな。こいつら全員強い)


その感想が、のちに自分の喉に刺さることを、この時の俺は知らない。


---


──光だ。


頭上から差し込む白い光。乾いた、砂と陽の匂いがする風。


塔の出口を四人で越えた。


「……出た」


「出たでござる」


「……ああ」


「…………」


俺、シバラク、ショーシ。三人が口を開いた。フラチーナだけ、何も言わなかった。


──考える暇はなかった。


「おかえり!」「おかえりおかえり!」「お客さん増えてる!!」


小さな影が地面から湧いた。大人でも腰の高さ。丸い。顔も体も手も全部丸い。こびと族だ。


長老が現れた。白い髭。杖の先に鉱石がくっついている。


「おお、来ておったのかね、フラチーナ」


「……ご無沙汰しております、先生」


——先生? あの「ひれ伏せ」の女王が、小さな老人に頭を下げている。


---


俺は塔の入口付近に、今回のサルベージ品を並べた。帝国産の金細工。皇国産の紫水晶。墨国産の硯石。どれも各国の代表者が「先生方はこれを喜ぶだろう」と吟味した逸品ぞろいだ。


こびと族がサルベージ品の前を通り過ぎた。


通り過ぎた。


金細工にも紫水晶にも硯石にも、一瞥もくれなかった。


代わりに群がったのは——俺の装備だった。


---


一匹目が万能ナイフを手に取った。


「なにこれー!」


刃に指を当てる。指先がうっすら光る。表面を何かが走る。こびとの瞳の奥で何かが高速で回転しているような——


「鉄ー! 炭素ー! あとなんかー! 珍しい配合ー!」


そしてナイフを口に入れた。


「入れるな!!」


二匹目がロープを引っ張り出した。繊維を一本抜き、指先で撚る。撚った瞬間、繊維が発光する。赤、青、紫、透明——


「植物ー! 海の近くの植物ー! 印なしの土地のー!」


顔にこすりつけた。よだれがついた。


「こすりつけるな!!」


三匹目がバックパックの革を舐めた。革の表面に微細な光の格子が浮かぶ。こびとは格子を指でなぞりながら目を閉じ、唇を超高速で動かしている。


「牛ー! 若い牛ー! 草を食べてた牛ー! いい革ー!」


バックパックを放り投げた。


「ぽいすんな!!」


道具を取り返そうと走り回る。だが多い。次から次へと手に取り、光らせ、舐め、嗅ぎ、口に入れ、何かを高速で呟き、飽きたら放る。


各国の威信をかけた献上品には見向きもしない。なのに無印のポーター道具にだけ夢中。金細工より万能ナイフ。紫水晶よりロープ。硯石よりバックパックの革。


(——「珍しい」の基準が、根本的に違う)


こいつらにとって、印がついた品物は七千年間見てきた。飽きている。だが無印の品物は——本当に珍しいのだ。


成分、産地、年代——全部言い当てる。幼稚園児が砂場で遊んでいるように見えるのに、遊びのついでに人間がたどり着けない分析を完了している。


問題は、全工程で手がよだれまみれだということだ。


フラチーナを見た。目が潤んでいる。


「……先生方がお気に召された」


「え?」


「あなたの道具に、先生方が興味を持たれたのです。これほどの栄誉はありません」


「栄誉って……万能ナイフ口に入れられたんだけど」


「光栄に思いなさい。わたくしでさえ、先生方にお見せできたのは戴冠式の宝剣だけです」


「宝剣と万能ナイフを同列にしないでくれ」


「先生方にとっては同列です。珍しいかどうかが全てですから」


——わかっていないのだ。何をやっているかは。でも「すごいこと」だとは知っている。幼少期からずっと見てきたのだろう。わからないけれど、敬意だけは本物だった。


こびと族が「あー楽しかったー」「もうないー?」「お腹すいたー」と散っていく。手元に残った道具。全部よだれでベトベトだった。黙ってタオルで拭いた。


---


こびとがシバラクの方に向かった瞬間、あいつの顔色が変わっていた。


よだれまみれの手が木簡の束に伸びる。シバラクが胸に抱きしめて後ずさる。


「ケント氏」小声だ。


「ん?」


「やばいでござる。舐められる前にドロンするでござる」


「え、もう?」


「約束通り。地上で解散。先に行くでござるよ」


こびとがシバラクの足元まで来ていた。「なにそれー! 木ー? 見せてー!」


「見せぬ! 断じて見せぬでござる!!」


煙遁壺が割れた。白煙が充満する。晴れた時、シバラクはいなかった。


壁際に小さな紙片が落ちている。拾った。墨で一言。


「暫。また会うでござる」


——雑だな。あいつらしい。ポケットに入れた。


---


ショーシはどこかにいるだろう。とりあえず地上に出た。終わった——


フラチーナが隣に立っていた。絹道の方を見ている。


「ねぇ、ケントシー」


「ん?」


「わたくし、あの部屋に忘れ物をしてきた気がするのだけど」


「……あの部屋?」


「最下層の、玉璽の保管室」


「——マジで言ってる?」


「取りに戻らないと」


「待て待て待て。今出たばっかりだろ。何日かけて上がってきたと思ってんだ」


「数日でしょう? 大した距離ではありません」


「大した距離だよ!!」


目を見た。本気の目だ。


忘れ物なんかしていない。この人が荷物を忘れるわけがない。


つまりこれは——もう一回潜りたいだけだ。二人で。俺と。


(——無理だ。体力的に無理だ。四人そろってはじめてノーミスで脱出できたんだぞ)


「ショーシ!」


返事がない。


「ショーシー! どこ行った! お前の婚約者がもっぺんダンジョンに潜りたいとか言い始めたぞー!」


塔の中を走り回る。こびと族に聞く。


「あの紫の人ー?」「知らなーい」


長老に聞いた。


「……さて。いつからいなかったかね」


立ち止まった。


地上に出た時、ショーシは「……ああ」と言った。あれが最後だ。こびと族の歓待の間、ショーシのリアクションを一つも覚えていない。


——どこに行ったんだ、あいつ。


---


夜になった。


フラチーナは長老の部屋で休んでいる。こびと族サイズの湯呑みを、大きすぎる手で両手で包むように持っていた。


俺は塔の入口に座っていた。眠れない。絹道に月明かりが落ちている。砂が冷たい光を返している。風はない。


塔の奥から物音がした。


こびと族の悲鳴。きゃーきゃー言いながらわらわら逃げ出してくる。


「でっかいのー!!」「でっかいの来たー!!」


地面が揺れた。


夜の闇の中に、巨大な影が立ち上がった。


象だ。背に豪奢な鞍。紫の布。皇国の紋章。


鞍の上に——ショーシがいた。


だがダンジョンにいた時とは空気が違う。腰に帯びているのは鋼塊ではなく、正式な皇国の剣だった。いつ手に入れた。どこから持ってきた。


象が塔の壁に鼻を叩きつけた。壁が崩れる。こびと族が散る。長老の部屋の壁が——外から破られた。


走った。間に合わない。


ショーシが象の鞍から手を伸ばしている。フラチーナの手を掴んでいる。引き上げている。


「ショーシ! お前——俺たちの仲間じゃなかったのか!!」


月明かりの中、ショーシが見下ろした。仲間の顔ではなかった。


「笑止」


一拍の沈黙。


「帝国の女王が目の前にいるのに、この私が何もしないでいると思ったか」


「————」


「これだから無印の民は」


フラチーナの口癖を——ショーシが言った。


象が向きを変えた。絹道の闇に消えていく。


走った。追いつかない。人の脚で象には追いつけない。砂を蹴り、転び、また走り、それでも紫の影は遠ざかる。


月明かりの絹道に、俺だけが残った。


息が上がる。膝に手をつく。砂が靴に入っている。


バックパックの中に——フラチーナの玉璽が、まだ入っていた。


預かりものだ。


届けないと。

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