笑止千万
フラチーナの背筋が変わっていた。
さっきまでハンバーガーを齧って「アメリカの味がします」と言っていた女の子はもういない。玉座がなくても女王は女王だった。岩の上に腰を据え、膝の上で指を組み、声には薄い金属が混じっている。
「もう一度お聞きします。皇国の王子が、なぜ帝国の最深部に?」
寝台に腰掛けた男──薔薇をくわえたまま片膝を立てている──が、肩をすくめた。
「もう一度お答えします。笑止。逃げてきたと申し上げたでしょう」
「何から?」
「全てから」
俺はフラチーナの斜め後ろに立ったまま、男を観察していた。
紫の印が見える。額、首筋、手の甲。だが色がおかしい。くすんでる。灰がかかったような紫だ。フラチーナの金印が夏の陽射しなら、こいつの紫印は雨上がりの水たまりに映った空みたいだった。
フラチーナにアイコンタクトを送る。小さく頷いた。──弱ってる、と。
ショーシ──いや、まだ名前は聞いていなかった。男が語った事情はこうだ。
皇国の内戦。第一王子と第二王子の王位継承争い。第三王子は双方にとって邪魔者で、塔に幽閉された。食事もまともに与えられなかった。三日。始末される前夜に、城の奥にあった古い機構が紫色の光を放ち──気づいたら、ここに転がっていた。
「紫印の王族に危機が迫った時に自動で起動する転移装置です。龍脈を通って、その源流の終点まで飛ばされる」
フラチーナの表情が、変わった。
「……緊急脱出装置?」
「ええ。紫印の王族用の古代の──」
「……わたくしも同じです」
間。
男の余裕が初めて揺らいだ。「……は?」
「わたくしがこの最下層にいたのも、同じ装置が発動したからです。金印の、ですが」
空気が重くなる。フラチーナの視線が、ちらりと壁に向いた。金と紫が混じり合ったあの古い印。
「なぜ──帝国と皇国に、まったく同じ機構があるのでしょう」
「……笑止。考えたこともなかった」
答えは出ない。問いだけが、天井の低い石室に沈殿した。
男が、ふっと力を抜いた。
「それはそうと、なにか食料はないか。幽閉されてから三日も食べていない。紫印のものならなんでも最高級に調理できるのだが」
「このダンジョンにある紫印のは、金属とかの交易品ばっかだけど、それでもいいか?」
「笑止……皇国の技術をなめるな。鋼材を変形させて薔薇の形を作り、それを眺めることで精神的な栄養を──」
「それは食事じゃない」
「美は食事です」
「違う」
「ケントシー。この者にも何か食べさせなさい」
「俺の食糧!? さっき陛下が半分食ったのに!?」
渋々、バックパックの底からポテトを出した。男が一本つまむ。指先が震えていた。三日絶食の手だ。だが食べ方は完璧だった。背筋を伸ばし、口元を汚さず、最後の一欠片まで品がある。
腹が減って死にかけてるのに、姿勢は崩さない。
(……こういう生き方しかできないやつなんだな)
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「なあ、名前教えてくれよ。国とか身分とかじゃなくて」
「……笑止。名前など──」
「ショーシだろ」
間。
指に挟んだポテトが止まった。
「──は?」
「口癖。笑止。ショーシ。──当たってるだろ」
完全にフリーズしている。余裕の仮面が吹き飛んで、目が三回瞬いた。
フラチーナが腕を組んで頷いた。先輩の顔だ。
「慣れなさい。この男はそういう生き物です」
「──笑止」
(三匹目、ゲットしちまったぜ……)
「……ショーシ・ド・エステリア」
「よろしく、ショーシ」
「……笑止。ショーシでいい」
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四人になった部屋は、すぐに二つに割れた。
フラチーナとショーシが会話を始めた。停戦条約の条項、国境の緩衝地帯、交易路の再編。知らない単語が機関銃みたいに飛び交っている。
俺には一言もわからなかった。
だがそれ以上に気になったのは、二人の空気だ。
ショーシはフラチーナに対して、敬語と親しみを完璧に使い分けていた。王族のプロトコルというやつだろう。フラチーナもフラチーナで、ショーシに対しては「対等な相手」として話している。俺に対する時の「上から」が一切ない。
同じ世界の住人。同じ言語を共有する者同士の、当たり前の会話。
「帝国と皇国の間には、かつて婚姻同盟の話がありましたね」
「ありましたわね。わたくしが却下しましたが」
「笑止。私も却下されたほうですが」
「そうでしたか。それは失礼」
微笑みの応酬。社交場だ。
(……婚姻同盟? こいつら元・婚約者候補?)
(……なんか……すごいぴったりだな。二人とも王族で、印持ちで、政治の話ができて)
「ケントシー、どうしました。顔色が悪い」
「いや……なんでもない。ちょっと空気が薄い気がして」
「最下層ですから当然です」
「そうだな。物理的にな」
「?」
伝わらなかった。伝えるつもりもなかった。
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通路の奥から足音が聞こえた。
シバラクだった。背中に大量の荷物を背負い、油紙に包まれた木簡の束を両腕に抱えている。
「暫。遅くなりまし──」
部屋を見た。
寝台にショーシ。薔薇を持っている。岩の上にフラチーナ。女王の顔でショーシと談笑中。壁際に俺。死んだ目をしている自覚はあった。
シバラクが無言で俺の隣に座った。
「……何がどうなったでござるか」と小声。
「……皇国の王子。逃げてきたらしい」と小声。
「なぜ婚約者みたいな空気が流れているでござるか」
「元・婚約者候補らしい。フラチーナが却下したって」
「……ケント氏、大丈夫でござるか」
「大丈夫。俺はポーターだから。荷物持ちだから。王族の色恋に混ざる立場じゃないから」
「全然大丈夫じゃないでござるな」
肩を、ぽんと叩かれた。
「……ケント氏。じつは、話がある」
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通路に出た。
シバラクが声を落とす。「木簡が見つかった。それも大量に」
「大量って、どのくらい」
「十人編成の調査隊が運んだ量でござる。ポーターが三人いたらしい記録が残っていた」
「……一人じゃ運べないのか」
「拙者一人では到底。だからケント氏に頼みたい──のだが」
シバラクが懐から何かを取り出した。
薄い紙片。長方形。端にミシン目がある。片面に細かい文字がびっしり並んでいた。手書きじゃない。均一な活字で、インクの乗り方が機械的だった。
(……これ、飛行機のチケットじゃん)
飛行機ではない。だが形式が妙に似ている。出発地、到着地、日時、座席番号に相当する記号。
「墨国行きの転移札でござる。拙者が帰還用に持っていたもの。二人分ある」
「……」
「ケント氏。以前、女王殿から一緒に逃げないかと持ちかけてくれたでござろう」
「……言ったな」
「これを使えば、今すぐここから出られる。木簡を担いで墨国まで。ケント氏はそこから船で無印の国へ帰れる」
俺はチケットを受け取った。手の中で裏返す。出発地の欄に見覚えのない文字。到着地にも。
薄い紙だった。これ一枚で帰れる。ここから出られる。王族でもない、印も持たない、ただの荷物持ちが、いるべきじゃない場所から正しく退場できる。
「……片道15時間もかかんじゃねぇかよ」
──びりびりに破いた。
「あーーーっ!!」
「いいか、よく考えろ」
俺は破片を握ったまま言った。
「これは帝国の存亡の危機だ」
「は?」
「俺もお前も、帝国が常駐してるお片付けクエストのおかげでこのダンジョンに潜ってこられてんだぞ。皇国に乗っ取られたら、今みたいに自由に入れるかわかんねぇ」
「暫……それは困るでござるな」
「だろ。木簡を全部運び出すにはあと何回潜る」
「最低でも三往復でござる」
「三往復。それまでにダンジョンの管轄が変わったら、お前は入れなくなるかもしれない。帝国を安定させるのが先だ」
シバラクは黙った。
俺も黙った。
通路の壁を、古い印の光がうっすらと走っている。静かだった。
「まあ、お主はただ惚れただけでござろうがな」
──。
「…………うるせぇ」
シバラクが小さくため息をつき、床に散らばったチケットの欠片を拾い上げた。丁寧にポケットにしまう。
「……仕方ないでござるな」
「え?」
「帝国の存亡がかかっておるのでは仕方あるまい。拙者も残る」
「……すまん」
「ただし」
「?」
「あの部屋に戻ったら、あの婚約者の空気をなんとかするでござるよ。拙者、ああいうのは苦手でござる」
「……俺に言うなよ」
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部屋に戻ると、フラチーナの視線がすっとこちらに移った。
「遅かったですね」
「ちょっと話してた」
「……何の話ですか」
「帝国の存亡の話」
「?」
ショーシがシバラクを見た。「そちらは?」
「シバラク。俺たちの仲間。東の国の──」
シバラクの手が素早く俺の口を塞いだ。
「冒険者のシバでござる。よろしく」
「……笑止。覆面の冒険者とは珍しい」
「顔が売れすぎていて困るでござる」
「この深層で誰に売れるのです」
「魔物に」
間。
全員がなんとなく黙って、なんとなく落ち着いた。四人。狭い石室に四人。多い。だが──悪くない密度だった。
「……寝よう。もう限界だ」
「寝台はわたくしのものです」
「私が先に寝ていましたが」
「では私が眠っていた玉座をお貸しします」
「じゃんけんしろよ」
「「じゃんけん?」」
結局、フラチーナが寝台を取った。女王の権限。誰も逆らえなかった。ショーシは寝台の横の床で、鋼材を引き伸ばしてマットレスもどきを作った。紫印がまた少し薄くなった。シバラクは壁際で巻物を枕に丸まった。俺は入口近く、バックパックを枕にした。
番犬のポジションだ。一番低くて、一番外側で、一番出入り口に近い。
灯台石の光が落ちた。暗闇が降りてくる。
壁の金紫混合印が、闇の中でもかすかに光っていた。俺の目にだけ映る、古い印の残光。
(……金と紫が、混じってる)
(……さっきフラチーナが言ってたな。緊急脱出装置が同じだって。帝国と皇国に同じシステムがある。この壁の印も混じってる。もともと一つだった……?)
(……明日、ショーシに聞いてみよう)
(……でも今日はもう寝る。朝から走り通しだ。ポーターは体が資本なんだ)
目を閉じた。
最後に聞こえたのは、フラチーナの寝息だった。
意外と、静かだった。




