召させよ
静かだった。
七千年分の沈黙が壁に染みついた空間で、灯台石だけがぼんやり揺れている。冷たい空気。湿った石の匂い。最下層の築ゼロ年層——世界でいちばん古い床の上に、俺たちは座っていた。
フラチーは少し離れた岩の上に腰掛けて、背筋を伸ばしている。ダンジョンの底でも座り方だけは女王だ。
俺は壁にもたれて膝を抱えている。座り方だけはポーターだ。
沈黙。
「不埒にも、逃げたりはしていないかしら」
シバラクのことだ。築四八〇年層に木簡を探しに行った覆面の男。
「あいつも俺たちがいないと上まで戻れないから、それはないと思う」
「不埒、仲がいいのですね」
「利害が一致してるだけだよ」
「それを世間では仲がいいと言うのです」
沈黙が降りる。
(……何を話せばいいんだ、この状況)
「命令」と「実行」でしか関わってこなかった二人には、命令がなければ話題がない。命令書のない配達は、届け先のわからない荷物と同じだ。
俺は立ち上がった。
「なあ、こびと族が住んでた区画があるんだろ。ちょっとぶらぶらしないか。待ってるだけだと気が滅入る」
フラチーが一瞬間を置いた。
「……そうですね。先生方の居住区を見学するのも勉強になります」
理由をつけた。だが立ち上がる動作は早かった。
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こびとサイズの居住区は、何もかもが小さかった。
膝丈の扉をくぐり、犬の水飲み皿みたいな洗面台を横目に通り過ぎる。調理台は俺の脛の高さ。天井は屈めばぎりぎり歩けるが、フラチーは背が低いぶん、ここではちょうどいい体格に見えた。
「先生方はこの塔を創設した当時、みんな身長180センチはあったとおっしゃっています。物質精製の魔法があるから、身体が大きい必要がなくなって、どんどん小さく進化したのだと」
「180は盛りすぎだろ」
「否定はしません」
小さな広場に出た。噴水の跡。集会所だったらしい壁には、丸っこい文字の落書きが並んでいる。
「先生方の日常記録ですわ。貴重です」
フラチーが真剣な顔で壁面に見入っている。
書いてある内容は「今日のごはん:おいしかった」と「ここ舐めた」だった。
(「ここ舐めた」が貴重なのか……)
こびとサイズの石のベンチに並んで座った。俺は膝を抱える体勢。フラチーは足が地面にちゃんと届いている。
「ここだとフラチーナが大人サイズだな」
「当然です。先生方がわたくしに合わせたのですから」
「絶対違う」
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居住区の奥に、壁一面の石彫があった。
巨大な顔。口が開いている。金印がうっすらと光っていた。俺の目にははっきり見える。
フラチーが足を止めた。目が輝いている。
「真実の口です。先生方の鑑定装置の一種ですわ。正直者が手を入れても何も起こりません。不埒者が手を入れると——」
「入れるとどうなる?」
「正直者になるそうです」
「……その間にいちばん大事な過程があると思うんだけど」
「入れてみませんか?」
にまにましている。完全にいたずらっ子の顔だ。
右手を差し入れる。冷たい石の舌が指先に触れた——その瞬間。
「食め」
がちん。
金印が脈打ち、石の口が閉じた。フラチーの勅令だ。
——が、俺の手はすでに引っ込んでいた。石の歯がかみ合った時には、手首の残像すらない。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。だってこれ金印ついてるもんな。お前の命令ひとつで動くじゃねぇか」
「…………不埒。反応がよすぎます」
「ポーターなめんな。手を挟まれたら荷物が持てなくなる」
「……では、あなたは正直者ということですか」
「噛まれなかったからな」
「引っ込めただけでしょう」
「結果は同じだ」
フラチーが何か言いかけて、やめた。
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そのとき、腹が鳴った。俺の腹だ。
七千年の遺跡に、腹の音だけが響いた。
「……とりあえず飯にしよう」
バックパックから油紙に包んだハンバーガーと、紙袋のフライドポテトを取り出す。冷めているが食えないことはない。
フラチーナが口を半分開けてこちらを見ていた。
「……なに?」
「召させよ」
「……は?」
「食べさせなさいという意味です。わたくしは生まれてから一度も自分の手で食事をしたことがありません」
「……自分で持って食えよ」
「持ち方がわかりません」
「パンだぞ!? 掴むだけだぞ!?」
「掴んだことがないのです」
真顔だった。この人は本当に、王宮で一度も自分の手を使わずに生きてきたのだ。
俺は諦めてハンバーガーをフラチーナの口元に差し出した。さっきの真実の口がよぎる。
(……こっちは噛まれるかもな)
フラチーナの唇がバンズに触れる。一口、齧った。噛まれなかった。バーガーの方を噛んだ。
もぐもぐ。
「……どう?」
「アメリカの味がします」
「アメリカ知ってんの!?」
「知りません。でもこの味には名前が必要です。アメリカと呼びましょう」
フライドポテトも一本ずつ口に運ばされた。俺がポテトを顔の前に持っていく。フラチーナが口を近づけると、ひょいっと手を引っ込めてやる。空振りして空中で口を閉じる。
「不埒」
もう一度持っていく。食べようとすると引っ込める。また空振り。
「不埒」
(……変なポケモン拾ったなぁ)
声には出さない。
元の広場に戻り、石のベンチに並んで座った。真実の口のいたずらで、空気がほんの少しだけほぐれている。
「なあ——まずは名前を教えてくれよ。俺がフラチーって呼ぶと嫌がるだろ」
「女王陛下と呼びなさい」
「本当にそう呼んでほしいのか? ここはダンジョンの底だぞ。俺は異邦人だし、あんたの地上での身分なんてあってないようなもんだ」
間。フラチーの表情が揺れた。怒りと——もっと奥にある何か。
「……フラチーナ」
小さな声だった。
「フラチーナ二世。それが私の名前」
(一文字違い……!)
フラチー(口癖)と、フラチーナ(本名)。
この大陸の人たちって、こうなのか。
フラチーナがぎゅっと拳を握りしめた。
「無印のイヌ民草畜生めに、この気持ちがわかりますか。私が『不埒な』と本気で嫌がって言っているのに、周囲にはまるで自分の名前を叫んでいるかのように聞こえて、さらに不埒さが増していくのよ。片っ端から粛清していったわ」
「どうしてそんな口癖ついたの!? 治そうよ!?」
「治そうとしたわ。『不埒な』まで言わずに『不埒』で止められるようになるまで三年。周りに名前を呼ぶことを禁じて、女王陛下の呼び方を広めるのにさらに三年」
ぷるぷる震えている。六年。六年かけて口癖を一音削り、名前を禁忌にした。
「だというのに、こんなダンジョンの深層でいきなり『フラチーさん』などと呼ばれた衝撃があなたにわかるかしら。わかるはずがないわ、パンに肉をはさんで揚げた芋と一緒に手づかみで食うみたいな男に」
「なんで俺の食文化まで攻撃されてるの!?」
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「……で、結局なんて呼べばいいんだ」
「女王陛下」
「嫌だよ」
「ならばフラチーナ陛下」
「長い」
間。
「……フラチーナ、でいいです」
小さな声。目を合わせない。耳の先が赤くなっていた。顔は崩れない。耳だけが正直だ。
「……おう」
「ただし人前では女王陛下と呼びなさい。これは命令です」
「命令効かないんだけど」
「ではお願いです。……これで満足ですか」
「お、二回目の『お願い』だ」
「数えないでください」
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疲労が限界だった。朝から走り通し、崩落の穴を降下して、掃除刑を食らって、ここまで来た。
「とりあえず寝よう」
「わたくしが眠っていた部屋にしましょう。寝台があります」
通路の奥に重い石の扉があった。フラチーナが手を触れると、金の印が淡く光って開く。
部屋は広かった。壁一面に紋章が刻まれている。
俺は目を見開いた。
(——金と紫が、混じってる)
金紫混合印。帝国の金でも皇国の紫でもない。二つが溶け合った、見たことのない印だ。だがそれを口にする暇はなかった。
なぜなら、寝台に男が寝ていたからだ。
金と紫の紋章に見守られた石の寝台の上で、薔薇を口にくわえ、片肘をついた古典絵画の構図。寝ているのではない。明らかに「発見される瞬間」を演出している。
男が目を開けた。にっこり笑う。
「——あなた……どうしてここに」
フラチーナの声が硬い。
「笑止。それはこちらの台詞ですよ、女王陛下」
(……笑止?)
(……ショーシ?)
(……いや待て、まだ言うな。学習した。今は言うな)
男が寝台から優雅に降りた。薔薇の出所は不明。最下層に花など咲いていない。
「お久しぶりです、女王陛下。——こんな場所でお会いするとは、笑止千万ですね」
にっこり笑っている。だが目が笑っていない。
フラチーナの隣で、俺は口を閉じたまま立っていた。
三人目だ。三人目の、口癖が名前の人間。




