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3000年越しの無念

煤の匂いにもそろそろ慣れてきた。


火災から何時間経ったか。中層の回廊で、ケントがモップを動かし、シバラクが雑巾を絞る。焦げた石壁が湿った布で黒く光る。二人のあいだに会話はない。


——いや、正確には、声を落としていた。


「なあシバラク」


「何でござるか」


「この掃除刑ってのはまだマシなんだよ。本当にキツいのは玉璽の取り替えだ」


「玉璽の?」


「魔物と戦うたびに玉璽を使うだろ。で、あれ壊れるんだよ。割れたり、飛んでったり、魔物に食われたり」


「……して?」


「壊すたびに掃除刑。で、替えの玉璽を最下層の保管室まで取りに行かされる。一個だけ」


シバラクのモップが止まった。


「最下層……!」


「そう。あの崩落の穴を通って、一気に降りる。フラチーさんは精霊に風を命じてふわっと着地。俺は毎回ボロボロ」


「……それを何度も?」


「もう数えてない」


モップを壁に押しつけ、煤を削り落とす。黒い水が床を伝った。


「だから逃げたいんだよ、この無限ループから」


シバラクは何も言わなかった。ただ目だけが動いている。最下層まで行ける。しかも日常的に。——その意味を噛み砕いている目だった。


「……暫。ケント殿。修復が終わったら、見せたいものがある」


---


修復が一段落した後、シバラクがケントを中層の収蔵室に連れていった。


木の棚が壁を埋め尽くしている。棚に並ぶ木簡。ケントにはただの古い板切れだ。埃っぽい空気と、乾いた木の匂い。シバラクが一本を手に取り、照合するでもなく、静かに言った。


「ここにある木簡は、すでに解読が終わっておる。使えるものはあらかた持ち出したあとでござる」


「……え、じゃあなんでまだここに」


「柱の落書きを解析して、本国にある未解読の木簡を読むためでござる。だが——この記録だけは、拙者が来る前から墨国の学者たちの間で解読されていた」


シバラクが木簡を光にかざした。墨の字が浮かぶ。読み上げる声は、静かだった。


「"この塔は英知の塔という。出来てから四千年になるという。帝国、皇国の者たちは年に二、三度、下の層の魔物を退治する『お片付けクエスト』なるものを行っている。我等もやってみたが、魔物が強すぎて撤退した。築四八〇年層に大量の木簡を置いてきてしまった。無念"」


お片付けクエスト。その言葉が妙に引っかかった。帝国と皇国が一緒に——?


だがシバラクの声が先に進んだ。


「3000年前の東の旅人が、築480年層に古代字の木簡を残しているでござる。場所もわかっていた。だが——」


「行けなかった?」


「左様」


シバラクが木簡を棚に戻した。手つきだけは丁寧だった。


「3000年間、誰も最下層にたどり着けなかった。魔物が強すぎる。墨国の学者は何度も遠征隊を組んだが、全て途中で撤退した。拙者もその一人でござった」


声の温度が落ちた。


「だからこそ拙者はこの塔に通い続けた。中層の柱に残された墨書から字形を集め、少しでも未解読の木簡を復元しようとした。最下層に行けぬなら、行かずに済む方法を探すしかなかったのでござる」


間があった。


長い間だった。


「……築480年層か」


「左様」


「玉璽の保管室、その辺りだった気がする」


シバラクが振り向いた。


「……何と?」


「保管室は築300年層あたりにあるから、そのすぐ近くだ。何度も素通りしてる」


シバラクが絶句した。目が見開かれ、手に持った雑巾から黒い水が床に落ちた。


「……暫。おお——行けるでござるか、築480年層に」


「あの辺、ぐちゃあとしてて何がどこにあるか整理したことないけど」


「構わぬ。行くでござる」


---


中層の回廊に戻ると、曲がり角から魔物が這い出してきた。


石壁に墨の紋様が走り、四本足の獣が床からせり上がる。墨印がついている。この層では珍しくなかった。金と紫の印が分離し、遠方の墨印も加わり、時代が下るほど現代の形に近づく。


ケントはバックパックから玉璽を引き抜き、獣の脇腹に押しつけた。


金の光が走る。脈打つように広がり、獣の体表を這う。


フラチーの声が落ちてくる。


「——ひれ伏せ」


獣が膝を折った。床に叩きつけられるように崩れ、金印の光が消えた。墨印の紋様も薄れ、石に戻る。


そのとき。


ケントの手の中で、玉璽が——ぱきん、とひび割れた。


「……あ」


フラチーが振り向く。ダメ犬を見る目。


「また、ですか」


「すんません」


「掃除刑」


「はい」


「終わったら替えを取りに行きます」


「はい」


いつものルーチン。いつもの台詞。いつもの最下層行き。


——だが今回だけは、意味が違う。


「ダメ犬だけでは戻ってこれませんから、わたくしも行かざるを得ませんね」


フラチーはケントの方を見ずに言った。それからシバラクに顔を向ける。


「あなたも来なさい。墨印の民よ。まだ刑罰が残っています」


「暫。……承知でござる」


シバラクがケントにだけ目配せした。ケントは微かに頷いた。フラチーは気づいていない——ように見えた。


---


崩落の穴。


もう何度も落ちた穴だ。底は見えない。冷たい風が吹き上げてくる。石の縁がざらついて、指先に引っかかる。


「では参ります」


フラチーが躊躇なく踏み出した。


「——風よ、わたくしを受け止めなさい」


金色の光が散った。風が渦巻き、フラチーの髪とスカートが舞い上がる。暗闇の中にふわり、と沈んでいく。降下というより舞踏だった。


「暫」


シバラクが足元に墨で渦を描いた。墨が実体化し、黒い渦に乗ってするすると降りていく。


(忍者だよなぁ、やっぱ)


残されたケントは穴の縁にロープを結んだ。


「……よし」


降り始める。壁に足をかけ、ロープを手繰る。暗い。湿っている。フラチーの風の余波が横から叩きつけてくる。


「ちょ、風が——」


ロープが大きく揺れた。歯を食いしばってしがみつく。


底が見えてきた。二人はすでに地面に立っている。


最後の数メートルでロープの長さが足りなかった。


(ああ、いつもこうだ)


落下。激突。


「ぐえっ」


見下ろす二つの影。


「不埒。下民は下民同士で助けるものだと思っていましたが」


「暫。主のそなたが助けるものだと思っていたでござるが」


二人が顔を見合わせた。初めて意見が一致したらしい。


ケントは地面にうつ伏せのまま言った。


「……どっちでもいいから次は助けてくれ」


---


最下層の空気は上層とは違う。冷たく、湿って、石の目が粗い。古い時代の匂いがする。


通い慣れた通路に分岐がある。


「玉璽の保管室はこっち。築300年層」


シバラクが分岐のもう一方を見た。暗い。空気の流れがある。


「もう一つは築500年層に出る。つまり築480年層は、この間のどこかでござるな」


「ああ。用がなかったから、俺もそこまで調べたことないけど」


「今日は用がある」


シバラクがフラチーの方を一瞬だけ窺った。フラチーは玉璽保管室の方を見ている。ケントの仕事——玉璽を取ること——にしか関心がない。


シバラクが小声で言った。


「拙者はこの分岐の先に行ってみる。時間をくれ」


「行ってこい」


「かたじけない」


そしてシバラクが声を上げた。芝居がかった声だった。


「おっと。ここは見るからに高貴なものの御殿でござる。拙者は少し上の層でぶらぶらしてくるでござるよ」


「え、一緒に来ないのか?」


ケントも芝居を返す。シバラクが「なあに、強い魔物が出ても隠れ身の術でやり過ごすくらいなら出来るでござるよ」と言いながら背を向けた。


(墨壺の残量、足りるのか? 墨の補充スポットは築3000年層より上にしかないって言ってたけど)


もし失敗したら、再挑戦するしかないだろう。

シバラクの足音はもう暗い通路の奥に消えていた。


フラチーがケントを見た。


「ケントシー、あなたも見習ってはどうですか? 一人で行動できる知恵を」


「いやいやいや、俺は普通に死ぬんだって」


「では仕方ありません。ダメ犬は飼い主と一緒に行くものです」


---


保管室への通路。足音だけが響く。


フラチーが口を開いた。唐突だった。


「あの男が何をしようとしているか、わかっているの」


足が止まった。


「墨の古代文字は古代兵器よ。あの男が持ち帰れば、墨国は新たな兵器を開発しうる。帝国にとって現実的な脅威になりうる」


声が冷たかった。女王の声だ。獣に命じるときの、あの声。


「あなたはあの男の企みを知っていて、黙って手を貸した。わたくしの掃除刑を利用して、最下層への道案内まで買って出た。そうでしょう?」


(——全部見抜かれてる)


何も言い返せなかった。その通りだった。


「…………すんません」


間。


「不埒ね」


——あれ?


「不埒」


それだけだった。


(……それだけ? 帝国の安全保障の話だぞ? 打ち首とか掃除刑の追加とか、そういうのは?)


フラチーは前を向いて歩き始めていた。背中が何も語らない。金色の髪が薄暗い通路で揺れている。追いかけるまでもない速度で——女王の歩幅で——ただ進んでいく。


(怒ってないのか? いや、怒ってるだろ。当たり前じゃん。けど——止めなかった。シバラクを追いかけもしなかった)


(この人、国のことを——)


その先は、考えないことにした。今はまだ。


ポーターには届け先がある。考えるのは届けてからだ。


「何をしているの、行きますよ、ケントシー」


「……はいはい」


二人の足音が、最下層の暗い通路に沈んでいった。

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