墨と塗料と掃除刑
掃除刑が始まって、まだ半日も経っていない。
それなのに、中層の回廊は別の場所になっていた。
苔だらけだった石壁を磨くと、彫り込まれたレリーフの輪郭がくっきり浮き出てくる。散乱していた遺物は種類別に端へ寄せた。割れた陶片は左の壁際、金属片は右、用途不明のものは奥。ポーターの仕事には荷下ろし先の清掃も含まれる。配達先が汚いと荷物が汚れるから、届ける前に掃除するのが鉄則だ。
つまり俺はプロなのだ。掃除の。
朽ちた柱にバックパックから出した補修用ペンキを塗る。刷毛を動かすたびに、ぼろぼろだった石柱がぴかぴかになる。悪くない。
通りかかった冒険者パーティが足を止めた。
「なんか……キレイになってないか?」
「足元見やすくなったぞ」
「あの柱、色変わってる」
ちょっと誇らしかった。あの柱、俺がペンキ塗ったんだぜ。
次の柱。その次の柱。塗って、拭いて、磨いて、塗る。
剣も魔法も使えないが、手は動く。
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同時刻。
太い石柱が並ぶ祭壇跡に、覆面の人影が滑り込んだ。
二千年前の参拝者や商人が残した墨書の落書きがびっしりと刻まれている。覆面の男はある柱の前で膝をつき、目を細めた。
落書きに混じって、現代の墨国ではとうに失伝した古い字形がある。
(これだ。この字形があれば、あの木簡の三画目が復元できる──)
懐から拓本用の紙と墨を取り出そうとして、ふと隣の柱に目をやった。
──ぴかぴかだった。
明るい色のペンキが柱の表面を覆っている。落書きの墨書は、一画残らず塗り潰されていた。
奥を見る。もう一本。さらにもう一本。全部塗られている。
そして、さらに奥の柱で──せっせとペンキを塗っている男の後ろ姿。
「……」
覆面の下で、何かが切れる音がした。
「暫ゥゥゥ!!」
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振り返ると、覆面の男が立っていた。
あ、シバラク。
前に中層で会ったやつだ。
あの時は崩落を起こして、俺を最下層まで落っことしてくれた恩人である。
「貴殿! この柱に何をしたでござるか!!」
「え? ペンキ塗ったけど」
「見ればわかるでござる!! なぜ塗ったのかと聞いているでござる!!」
「汚かったから」
覆面の男が天を仰いだ。
「あれは汚れではない……二千年前の墨書でござる……拙者が何年もかけて、ようやく辿り着いた照合資料が……」
何を言っているのかよくわからない。柱に書いてあったのはミミズがのたくったような模様で、どう見ても落書きだった。
(文化の違いってやつか?)
覆面の男が筆と墨壺を取り出した。あ、これはまずい。
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一拍目。
男が柱にしゅっと何かを描いた。トラバサミの絵──足元の石畳に墨が走り、鉄の顎が実体化して噛みつこうとする。
横に跳んだ。ポーターは足場の悪い場所で荷物を運ぶ。不整地の反射は体に染みついている。
二拍目。
床に丸が描かれる。円の内側がごっそり消えて落とし穴になった。荷物の重心を左にずらして跳躍、穴の縁を蹴って着地。
三拍目。
蛇の絵。にょろにょろと墨の蛇が這い出してくる。
モップで叩いた。
ばしゃ、と墨が飛び散って消えた。
「掃除道具で殺せるタイプの罠かよ!」
「消すなでござる!」
「掃除刑なんで!」
描く。避ける。描く。拭き取る。描く。モップで潰す。攻防が続いた。覆面の男は苛立ちながらも、何度か俺の動きを見て目を見張っていた。
(こいつの描く文字、全部簡略化されてる。速いけど出力は低い。蛇もトラバサミもモップ一発で消える。本気じゃない──むやみに遺跡を荒らしたくないってことか)
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「──あなた、先生の遺跡に何をしているのですか」
回廊の入口に、フラチーが立っていた。
床に散乱する墨の跡。崩れた罠の残骸。ペンキの飛沫。目が据わっている。
フラチーが覆面の男に向けて手をかざした。金の光が玉璽から走る──
が、止まった。
光が男の体に触れた瞬間、墨で描かれた印に弾かれるように散った。
「……この王印、墨で書いた偽物ですね」
フラチーの目が細くなる。
「帝国の系統ではない。墨の国の王族が発行した偽装証明書。わたくしの勅令が通じない系統外の印」
覆面の男が隙を突いた。懐から小さな壺を取り出し、叩き割る。白い煙が回廊を満たした。
「暫! 失礼する!」
煙の中に覆面が消える。
フラチーの声が響いた。
「──燃えよ」
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回廊の灯台石が一斉に光った。光が炎に変わり、天井に跳ね、柱を舐めた。
俺が塗ったペンキに火がついた。
油性塗料だ。
一気に燃え広がった。柱から柱へ、炎が走る。半日かけて塗った分が、三秒で火の海になった。
「ちょ、塗料燃えてる!! 俺が塗った分全部燃えてる!!」
煙幕の向こうから覆面の悲鳴が聞こえた。
「暫! この女、暴君!」
フラチーは平然としていた。精霊の加護で炎が避けていく。涼しい顔で炎の中に立っている。
「不埒者を逃がすくらいなら燃やします」
(この人の範囲制御、まったくできてない……)
半日の成果が灰になった。柱はすすけ、レリーフは煤まみれ、分類した遺物は散乱し──泣くな。泣くな俺。ポーターは泣かない。
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炎を抜けて、覆面の男を追った。
フラチーが後ろから叫ぶ。「ケントシー! あの不埒者に玉璽を押しなさい!」
「はいはい」
もう慣れている。
覆面の男は筆を走らせながら逃げていた。壁に扉を描く。描いた瞬間、石壁に本物の通路が開く。そこに飛び込み、また描く。
(こいつ、初めてじゃない。この塔に何度も来てる)
俺は天井を見上げた。
寺院の屋根を越えて、巨大な塔の天井まで墨の線が走っている。あれが脱出経路だ。
だが、何度も来てるのはこいつだけじゃない。
俺は頭の中にマップを浮かべた。
覆面の男が左に曲がる。次は右。その先で階段を一段降りて、西の回廊に──
先回りした。
曲がり角の先で待ち構えていた俺に、覆面がぶつかった。
「もらった!」
玉璽を振り上げる。覆面の男が小太刀を抜いた。刃が玉璽に当たる。
ぱきん。
玉璽が真っ二つに割れた。金の破片が床に散る。
「……」
「……」
「「あ」」
間。たっぷり三秒の間。
背後から、女王の声。
「ケントシー、受け取りなさい」
なにかが放物線を描いて飛んできた。反射で受け取る。──玉璽だ。新しい。
「女王権限でもう一つ持ってきていました」
涼しい顔。微笑すら浮かべている。
(……やっぱりこいつが一番恐ろしい)
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覆面の男の額に、二個目の玉璽を押した。
偽の墨印の上に金の光が滲む。仮の金印が浮かび上がり、脈打った。
「掃除刑を申し渡します」
フラチーが腕を組んだ。
「火災の修復。全て」
並んで焦げた回廊を拭き始めた。
覆面はもう外していた。若い顔だ。目つきは鋭いが、煤まみれで威厳はない。
「暫……どうして拙者がこのような事を……」
俺は黙々と煤を拭きながら、声を落とした。
「シバラク、俺と組んで逃げねぇ?」
男の手が止まった。
「あいや暫……以前から思っていたのだが、なぜ拙者の名を知っているでござるか」
「え、ずっとそう言ってたじゃん。暫、暫って」
「あいや暫ぅぅぅ!!」
(ポケモンみたい……)
頭を抱えるシバラクの肩を、ぽんと叩いた。
「あんたの墨で道を作れる。俺はいくらでも荷物を運べる。この層に何度も来てるって事は、何か回収したいアイテムがあるってことだろ。二人なら──」
「……暫」
シバラクの目が動いた。怒りでも驚きでもない。計算する目だ。
「話を聞くでござる」




