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不埒の女王

白い。


最初にそう思った。肌も髪飾りも衣も白くて、石の玉座に溶け込むように丸まっている。


広間は暗かった。落ちてきた穴から入る光は天井で散って、床には届かない。代わりに壁面の紋様が仄かに光っていた。金と紫が混じり合った光——帝国の金でも皇国の紫でもない、見たことのない色だ。螺旋を描きながら壁を這い、玉座の周囲だけをぼんやりと照らしている。


空気が冷たい。石と埃と、かすかに甘い香り。花か、香か、それとも印の残り香か。七千年分の沈黙を吸った空気が、肺の底まで沁みた。


玉座の上で丸まっている少女は、年は俺と同じくらいか、少し下か。こびと族ではない。人間だ。


こんな場所に、なぜ。


近づいた瞬間、少女の目が開いた。


金色の瞳だった。


少女は俺を見た。まず額を見た。次に胸元。それから手首。視線が三箇所を巡って、戻ってきた。何かを探している——そして、見つけられなかった。


「……あなた、どちらの国の方?」


落ち着いた声だった。敵意はない。だが声の底に、処理しきれない困惑が一滴だけ混じっている。


「ケントです。ポーターの。海の向こうから来ました」


「海の向こう……」


少女はもう一度、俺の額を見た。やはり何もない。


「印が、ない」


沈黙が落ちた。少女は驚いているというより、概念の外にあるものを見ている顔をしていた。空を泳ぐ魚を見つけたような。


「金も紫も墨もない。……そのような国があるのですか」


知らなかったのではないと思う。想定の外にあったのだ。印がない人間は、この子にとって「存在しない」に限りなく近い何かだったのだろう。


「……なるほど。無印の民」


興味深そうに——しかし明確に「格下」を見る目で、俺を眺めた。嫌な目ではない。虫を観察する学者の目に近い。


(それはそれで嫌だが)


「あの、ここどこか分かります? 俺、上に戻りたいんですけど」


「上に」少女は玉座から立ち上がった。白い衣の裾が石に引っかかり、無造作に払った。どうして自分がここにいるのか、判然としない様子だった。「わたくしもです。参りましょう」


先に歩き出した。俺に道を聞く気配もなければ、名乗る気配もない。当然のように先頭に立ち、当然のように俺がついてくることを前提にしている。


(……王族ってのは、みんなこうなのか?)


---


通路に出て、三十歩も歩かないうちに獣が現れた。


石造りの廊下を塞ぐように蹲っていた影が、こちらに気づいて頭をもたげる。犬とも猫ともつかない四足の精霊獣——こびと達が「あしきじっけん」と呼ぶキメラ型だ。額に金色の印が灯っている。


少女は足を止めなかった。獣の額を一瞥し、金の印を確認して——それだけだった。


「——ひれ伏せ」


声が通路に響いた瞬間、金色の光が少女の唇から獣の額へ、糸を引くように走った。


獣が膝を折った。前脚を揃え、地面に額をつける。完全なる服従。


「——下がれ」


獣が壁際に退いた。道が開く。少女は振り返りもせず歩き続ける。


次の獣。金印を確認。「ひれ伏せ」。伏せる。「下がれ」。退く。


また次。同じ。また次。同じ。


(……すげえな。本当に全部従う)


この子が声を発するたびに、金の光が空気を裂いて獣に突き刺さる。一頭残らず。例外なく。命令が世界の法則であるかのように、全てが少女の言葉に従っていく。


この子にとっては、これが「普通」なのだ。世界は従うもの。従わないものは存在しない。


——次の角を曲がるまでは。


大きな獣が通路を塞いでいた。他の倍はある。体表に走る紋様が、紫色に脈打っている。


少女はいつも通り一瞥した。


「ひれ伏せ」


獣は動かなかった。


一瞬の間。少女の金色の目が僅かに見開かれた。もう一度、声に力を込めて。


「ひれ伏せ」


金の光が獣の額に到達して——弾かれた。紫の紋様が光を押し返す。金印の勅令は、紫印には届かない。


獣の前腕が少女を薙いだ。


吹き飛んだ。壁に叩きつけられた。石がひび割れる音。俺が叫ぶより先に目が捉えた——少女の体を金色の薄い光が包んでいる。精霊の加護。衝撃を光の膜が全て吸収していた。


無傷だ。


だが体勢は完全に崩れていた。仰向けにひっくり返り、天井を見上げている。白い衣に埃がつき、髪が乱れ、世界の女王が床に転がっている。


小さく呟いた。


「……不埒」


生まれて初めて、命令を無視された上に殴り飛ばされた顔だった。


「大丈夫かっ!?」


駆け寄ると、少女は自力で起き上がった。衣の埃を払う手が微かに震えている。怒りだ。


「問題ありません。……あの獣、紫印ですわ」


「紫?」


「皇国の系統。わたくしの勅令は通じません」


通路の奥から唸り声が重なった。一匹ではない。金印も紫印も入り混じった影が、暗闇の奥でうごめいている。


少女の金色の瞳が、闇を射抜くように細まった。


---


少女が腰の革袋から取り出したのは、小さな石の角印だった。掌に収まるサイズ。表面に金の紋様が刻まれている。


「これを持ちなさい」


「は?」


「あなたが獣に押しつけるのです。わたくしの仮印が刻まれます。刻まれれば——命じることができる」


「だから俺ポーターなんだって! 戦闘は専門外!」


「不埒。これだから無印の民は」


少女の腕と足を見た。精霊の加護が体を守っているが、どこもかしこも細い。走れる体ではない。


(……ポーターの俺の方がよっぽど頑丈じゃねぇか)


「……わかったよ。行くよ、俺が行けばいいんだろ!」


角印を受け取った。思ったより重い。温かい。


走った。


一拍目。紫印の獣。でかい。怖い。歯が並んでいるのが見える距離まで詰めて、滑り込むように脚に角印を押しつけた。石と毛皮がぶつかる硬い感触。金色の光が一瞬、獣の体表を走る。


少女の声が飛んだ。


「——戦え」


金の仮印を得た獣の目が変わった。振り返り、隣の紫印の獣に襲いかかる。同士討ち。通路に咆哮が反響する。


二拍目。また走る。転がる。押す。少女が命じる。もう一匹が寝返る。


三拍目——自分の動きが変わっていることに気づいた。戦っているんじゃない。味方にした獣が戦っている相手の背後に回り込んで、印を押している。挟撃の形。荷物を運ぶルートを組み立てるのと同じだ。障害物を避け、最短距離を読み、荷崩れしないように配置する。


ポーターの空間把握が、戦場でそのまま使えている。


半数が味方についた。通路が獣同士の乱戦になる。俺は壁際に退いて息をつき——


「何をしています。残りも片付けなさい」


少女が俺を見て命じた。


叫び返した。


「何言ってんだ、逃げよう!」


「不埒——」


少女の腕を掴んだ。引っ張った。背負った。走った。


女王を担いで全力疾走。バックパックは前に回し、少女は背中に。三十キロの荷物より軽い。


「降ろしなさい」


降ろさない。


「不埒です」


知ってる。


「無礼者」


全部効かない。俺は無印だ。勅令が通じない。


(……ちょっとだけ得意な気分になってる自分が嫌だ)


---


獣の唸りが遠ざかった。


安全な区画——金紫の紋様が薄れ、ただの石壁に戻った廊下で、少女を降ろした。二人とも息が荒い。俺は膝に手をついて喘ぎ、少女は壁に背を預けて肩を上下させている。


「……名前、聞いてなかった」


「高貴な者の名を簡単に口にしていいと思っているのですか。これだから無印の民は」


そう言って、少女は顔を背けた。


(……教えてくれないのか)


まあいい。


「じゃあ——不埒不埒言ってるから、フラチーな」


少女が黙った。


怒りでも驚きでもなかった。表情が完全に止まっている。金色の瞳が俺を見たまま、瞬きを忘れている。


女王として生きてきた十数年、あだ名をつけられたことが一度もなかったのだと、その顔を見て分かった。「フラチー」という音の意味を、この子の脳が処理しきれていない。


数秒。少女の目が動いた。俺の顔を見た。もう一度「フラチー」と頭の中で反芻したらしい。無印。口癖。あだ名。三つが繋がった瞬間、金色の瞳が据わった。


「……それですと、わたくしが『不埒』と言うたびに自分の名前を叫んでいるようではありませんか」


冷静な声だった。理路整然とした反論。だが——耳の先だけが赤い。


(……なんで怒らないんだ。そこは怒るところだろ)


「なあ、フラチー」


「不埒」


(……ポケモンみたい)


声には出さない。


少女は小さく息をつき、話を切り替えた。視線を通路の先に向ける。暗い。どこまで続いているか分からない。


「……ケントシー」


聞き慣れない響きだった。俺の名前のはずなのに、どこか違う言葉に聞こえる。


「……なに?」


「あなたを雇いますわ。ポーターなのでしょう。わたくしの荷を運び、その玉璽を押して回りなさい」


「日当は?」


「帝国の女王の名において、相応の報酬を」


「……帝国の女王」


「ええ」


(女王様……女王様かぁ……)


暗い通路の先を見据える横顔。金の瞳が、携帯灯の小さな炎を映している。埃まみれの白い衣。殴り飛ばされた壁のひび割れ。それでもこの子は「女王」と名乗る。ここが世界の底であっても。


手の中の玉璽がまだ温かい。さっき獣に押しつけた感触が、掌にこびりついている。


(……預かっちまったな)


勅令の通じない獣と、勅令の通じない男。


二つの「不埒」が、暗い通路の先へ歩き出した。

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