第二十五話 噂
水曜。
実践魔術の中期試験を終えたノエルは、ラッセルと落ち合うために、その足で食堂を訪れた。二コマ目が終われば大抵の学院生は放課後、食堂は似たようなことを考える輩で溢れていたが、彼の巨躯はこれ以上ない旗印となって、すぐに目的の席を見つけることができた。
「噂をすればなんとやらだな」
開口一番、ラッセルがそんなことを言った。
「噂?」
と聞き返したのはノエルではなく、同じく試験直後のアデールである。ラッセルが破顔した。
「うむ。実は先ほどまでアーノルドがいてな」
「誰よそれ」
「アーノルド・アーバスノットだ。知らんか? こう切れ長の目の」
「もしかしてやたら柄の悪い?」
「たぶんそうだ。あやつは、ちょっと口が悪いな」
『あのちんぴら紛いか』
「やつがな、アデール嬢とノエル、二人がちょっとした噂になってると言うのだ。ほら、最近は連日試験勉強を行っていただろう。それがどうも、いつかの決闘騒動と結び付いてな」
ラッセルの端整な顔に、珍しく底意地悪そうな笑みが浮かぶ。腰を下ろしたばかりのアデールが、がたんと卓を揺らしながら立ち上がる。「冗談じゃない!」
これで頬でも赤らめていれば可愛いものだが、アデールのそれは一部の隙もない憤怒で塗りたくられていた。通りすがりの生徒が血相を変えて逃げていく。巻き込まれると思ったのかもしれない。賢明だと思った。
「あのね。わたしはスュラン家の息女、マリー゠アデール・スュラン様よ?」
「と仰っているが、どう思うかノエル」
ラッセルがこちらに水を向ける。ノエルは緩慢に反応した。「そうだね」
それきり沈黙するノエル。その様子を見て、彼は事情を察したらしい。
「あまり良い結果ではなかったか」
「まあね」
「見事なまでに失敗してたわよ。やっぱりどうしても修辞がうまくできないみたいね」
結果から言ってしまえば、ノエルは無事落第点を取った。ぶひっ、と屁でも洩らしたような音だけを残して形にならず消えていった風の魔術を、ノエルは一生忘れないだろうと思う。たぶん、講師のロッテンマイエル女史もそうだろう。夢に見ないことを切に祈る。
ラッセルがずずいと身を乗り出して、
「しかし、自分で受けることにしたノエルの心意気、俺は評価するぞ」
「あんたに評価されても仕方ないでしょうに」
「それはそうだが……しかし試験の点数だけがすべてではなかろう」
「点数はともかく、魔術の使えない魔術師ってのは問題でしょう。特に銘辞と修辞は魔術の肝。本質と性質を定義する重要なプロセスよ。如何なるものであり、如何にあるか、如何にあっていくか、それこそが、」
二人の言い争いをどこか遠くに聞きながら思う。
やっと終わった。
ノエルの心中を占めるのはその一念だった。この際、落第点を取った程度はノエルにとって些事だった。ただでさえ首飾りとコーディリア、二つも懸念事項を抱えているのだ。その上でいつまでも試験の重圧が続いていたら、脳みそも心臓も保たない。
――でもコーディリアが聞いたらがっくりするかな。
考えていると身が重くなった。まさか十七にもなって、兄が大魔術師の卵だと夢見てはいないだろうが、ここまで落ちこぼれていると想像するのも難しいだろう。先日の話でやんわりと実兄の落伍者っぷりを察しているといいのだけれど。
――ていうか、お前はあと何回ココに会うつもりなんだよ。
発情期の犬みたいに尻尾振って約束なんか交わしやがって、とノエルは思う。会うべきではないと抜かした奴はどこのどいつか。舌の根の乾かぬ内から甘い言葉を二つも三つも吐いて、お前の臓腑には砂糖でも詰まっているのか。
心中で自分に向かって罵詈雑言を吐いていると、
『口ほど悔しがってはいないようだな』
そういうサイモンも詰るような風ではない。ノエルは小声で、
「まあ、色々山積みだからね」
『目下、明日のデ……王都案内が火急の問題だな。一応、変装の心得はあるが』
「……なんでノリノリなのさ」
コーディリアと顔を合わせて以来、サイモンは軽くなったとノエルは思う。考えていることがわからないのは相変わらずだし、皮肉屋なのも変わりないけれど、前より生き生きと色々なことを楽しんでいるような気配がある。いや、本体は死んでるんだけども。
「というかさ、そのことなんだけど、首飾りの件を理由に先延ばしに、」
「そういえば噂ついでに、アーノルドが妙な話をしておってな。単なる流言飛語の類だとは思うのだが、一応ノエルとサイモン殿の耳にも入れておこう」
「くだらない話よりそういうのを先にしなさいよ」
話題の移り変わりを耳が拾った。ノエルは小さく息を吐いて頭を切り替える。何かを言い掛けるサイモンを遮るように、
「妙な話って?」
問うと、ラッセルは腕を組んだ。自分から切り出しておきながら、いざかしこまってするには難のある内容らしい。口ぶりからするに、首飾り関係に思えたのだけれど。
彼は意を決し、おねしょを告白する十四歳の少年のような顔つきになって、
「実はな、街で幽霊が出ると騒ぎになっているというのだ」
誰もがすぐには反応できなかった。遮られて不満そうにしていたサイモンすら絶句していた。
「ゆ、幽霊ィ?」
アデールである。信じる信じない以前に、なに言ってんだこいつという風。その一言で凍っていた時間が動き出す。ラッセルがむうと唸り、ノエルが苦笑いを浮かべ、
『なにを言い出すかと思えば、馬鹿馬鹿しい』
お前が言うか。
思ったけれど、口にはしなかった。そのくらい、ラッセルの話は改まって報告する必要を感じられなかった。幽霊? ゴースト? まったくナンセンスではないか。
「ねえラッセル。あんた落ちこぼれと関わり過ぎて伝染ったんじゃないの?」
「アデール。それは僕のことじゃないよね?」
ラッセルが難しい顔をして、
「だから俺も流言飛語の類だとは思っていると前置きしただろう。ただ、死人の魂が動いているという意味ではサイモン殿も同じだし、なにより情報源が情報源だからな」
「あの不良でしょ?」
アデールが変なものでも食ったような顔をする。サイモンも似たような感想を抱いたらしい。あれが信頼できるのか、と独り言ちているのが聞こえた。ただ、ノエルだけが記憶の隅で埃を被っていたアーなんとか――もといアーノルドのプロフィールを思い出していた。
「そういえば、あの人って代々アウローラの」
ラッセルが頷く。
「そうだ。アーバスノット家は遷都以前、領主としてアウローラの自治を行っていた家だ。今でも街の人間との繋がりは深い。アーノルド自身もそうだ」
またも座には沈黙が降りた。四人が四人、まったく同じことを考えているようには思えなかったが、噂の真偽について吟味している点は共通していそうだった。幽霊、
「幽霊、かあ」
呟くと、ため息が三つ洩れた。ラッセルが恥じ入るように、
「やはり無関係の眉唾でしょうか。手前にはサイモン殿のような存在がいるなら、と少しだけ思えてしまったのですが」
「それって裏を返せばあんたも別物だって考えてるってことじゃない」
「……そう言われると返す言葉もない」
『私はこれで魔術式、というか魔術そのものだからなあ』
初耳だった。
「え、サイモンさんって魂とかそういうんじゃないの?」
『いいや。便宜上そういう表現をすることを否定はしないがな』
ノエルは慌てて席を譲った。そういう大事な話はラッセルやアデールにこそして欲しかった。自分の頭より他人の頭、それが落ちこぼれの処世術である。
「そうだな。幽霊などというものと一緒くたにされるのも癪だしな。ここらで説明しておくのもいいだろう」彼は咳ばらいを一つして、「ラッセル氏は先ほど私を死人の魂と表現したが、厳密に定義するならばその解釈は間違っている。私――首飾りに宿り今思考している私は、魂――つまり生前のサイモン・クロウリーを動かしていた神秘主義的な命の源泉とは無関係に存在しているからだ。ここだけの話、私を創り出したのも、動かしているのも、魔術なのだ」
魔術、とラッセルが驚いたように目を丸くした。ノエルにとってもそれはまったく知らない話だった。アデールだけが平然として、意味もなく人差し指に息を吹きかけて遊んでいる。
「アデール嬢、貴女は魔術をどう定義しますか」
振られた彼女はつまらなそうに、
「力を定義する術、あるいはその結果と定義するでしょうね。魔素をすべての根源、万能の種とした上で、銘辞と修辞によって性質を与える。それこそが魔術の本質と言えると思うわ」
これでいいかしら、とアデールが上目遣いに彼を窺う。彼は満足そうに頷いて、
「ありがとうございます。さて、アデール嬢の言う通りであれば、性質を持つすべてのものは魔術によって再現が可能と言える。火、水、風、土。四元素論の世界観で考えても、万物は四元素によって構成されているのだから、四元素に基づいて定義する魔術は万物を再現できなければおかしい。天を裂く雷も、すべてを飲み込む濁流も、犬も猫も豚も牛も鶏も」
彼はラッセルを見つめて、
「そして人も」
大変なことを聞いてしまったとラッセルはわなわな震えて、
「では、サイモン殿は自らを定義されたと」
答えたのはアデールだった。投げやりに視線を遊ばせながら、
「そういうことになるわね。彼の言う通り理論的に破綻はないわよ。聖教徒ならいざ知らず、魔術師は人間を特別なものと考えないわ。魔術による実質的な不死は古来より研究されてきたテーマの一つだし、だからこいつの独創的な考えですらない」
「実際、これは他人様の研究を盗んで完成させたものですからね」
「ただ出来損ないはともかく、こんなに綺麗に再現されたものをわたしは知らないから、出すところに出せば大陸中の魔術師から引っ張りだこになるんじゃないかしら」
わたしはあんまり好きじゃないけど、と付け加えるアデール。つまらなそうにしている理由はそこにあるらしい。単に不機嫌を隠しているのだ。サイモンもそれを感じ取ったようで、
「閑話休題。そういうわけで、私のこれは魂などというオカルティックなものではないし、だから幽霊の存在を肯定する材料にはならないのだ。しかも、以前も話したように、魔術の具現化にはノエルが必要で、自立できる気配もない。一般に幽霊と呼ばれるものからはかなり遠いと言えるだろう」
ふうむとラッセル。流石に咀嚼するのに時間がかかっているらしい。ノエルもそうだった。魂や奇跡から魔術へ、身近になった分だけ理解が遠のいた気がする。遠近法ってやつ?
「そのうち理解できる日が来るわよ。今大事なのはそこじゃない。首飾りの存在と幽霊の関係性よ。少なくとも、成り立ち的に首飾りといわゆる幽霊は別物だけど」
「まったく関係ないと言えるかは別ということですね。ラッセル氏、今の今まで、そういった不思議な噂が街に蔓延したことは」
ラッセルは物思いを切り上げて、
「ない、わけではなかったと記憶しています。なにせ人が多いですから、根拠のない与太話が思わぬ広がりを見せることは時々あります。ただ、アーノルド――サイモン殿と一戦交えた件の学院生ですな、彼がわざわざ口にするのは初めてです。あれで噂の類はくだらんと思っている奴で」
「それで信頼できる情報源ってわけ」
ラッセルが頷く。考えてみれば、彼だって、そういたずらに噂話を吹聴する人間ではない。
『首飾りに宿った四百年前の魔術師と、ほとんど同時期に発生した幽霊の噂』
「切り離して考えるのは難しいな。心情的に」
売人の殺害。王都に張っている追跡者。そして、大罪人サイモン・クロウリー。首飾りにまつわる話にろくなものはない。関連があるとすれば、幽霊騒動も日の当たたるとこでは口にできないような裏がある違いない。幽霊だけに。
――大丈夫かな、コーディリア。
また最悪のタイミングでやってきたと思う。結婚相手は大貴族様という話だから、お屋敷に入ってしまえばそうそう危ない目に合うことはないと思うのだけれど。
「ねえサイモンさん。やっぱり街を歩き回ってる場合じゃないんじゃないかな。僕一人ならともかく、彼女は非力な女の子なわけだし……ってあれ」
いつの間にか表裏はひっくり返っていた。突然なにを言い出すのかと目を点にしていた二人だったが、やがて別々の反応に分岐した。ラッセルは気持ちの良い笑みを浮かべてわかってるわかってると頷き、アデールはにんまりと口角を吊り上げて一言。
「幽霊の話よりは面白そうね」




