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第二十四話 再会

 三年ぶりに見る実の妹は、記憶よりもずっと髪が伸び、少しだけ女性らしい曲線を描くようになっていた。愛らしさばかりが勝っていた面貌には怜悧の光が差し、土と花の香りは遠のいて、彼女の周囲には香水と女性特有の体臭が混ざり合った甘い匂いが漂っている。

 背だってずいぶん伸びた、と腕の中にその身体を抱きながらノエルは思う。


「兄さん……!」


 それでも、コーディリアは三年前と変わらずにノエルの妹だった。ココ。コーディリア。不自由だけれど楽しかった幼少期を共にした、たった一人の妹。親子ほどの必然性はなく、しかし他人ほどの偶然性もない、兄妹姉弟という特別な繋がりの片端。


「わたくしの兄さん……!」


 そして、それらは彼女にとっても同じことだった。胸に顔をうずめ、前幅の信頼を力に変えて、彼女はぎゅっとノエルを抱きしめて離さない。


 言うべきことは無数にあったはずだった。手紙をもらってから今日まで、そのことばかりを考えていた。なのに、ノエルは散々に並べ立てた諫言や忠告や激励や別れの言葉を、何一つ思い出せなかった。ただ、呆然として彼女を腕の中に受け入れることしかできなかった。

 我に返ったのは、彼女の声が歓喜以外の震えをまとっていることに気付いたからだ。


「兄さん、ごめんなさい。わたくし」


 押し殺された悲痛な告白に、自然と唇が動いた。


「いいさ」

「でも」

「ココが気にすることは何もないよ。それよりごめんね。こんなところで。寒くない?」


 胸の中でコーディリアが首を振る。子供っぽい仕草が、今は何より嬉しかった。

 我知らず笑みが洩れ、そのことに気付いた途端、心が軽くなった。顔を上げさせ、笑いかける。すると、コーディリアはぱっと離れ、袖で涙を拭った。


「ココ、それはまずいんじゃ」


 コーディリアは笑って、


「構いません。それより」


 彼女の顔の前で立てられた人差し指が、宙を滑ってノエルの唇に触れる。


「ココはやめてください、と以前に申し上げたと記憶しておりますが?」


 冗談めかしてコーディリアが言う。自然と顔が綻んだ。


「でも、僕にとってはココはいつまでもココだよ」


「その言葉は嬉しく思いますが、淑女レディへの呼び名としては、少々子供っぽいものだと言わざるを得ません。ほら」


 くるりと回って見せるコーディリア。スカートが微かに空気を孕んで膨らんだ。「ね?」


「十八になるんだもんね」

「ええ。兄さんも二十歳になるんですよ」


 そう言って、コーディリアは視線を通りへと向けた。

 追従すれば、常夜灯に照らされた道が、闇の向こうまで続いている。もしかしたら、とノエルは思う。もしかしたら、この道を二人で歩んでいけば、幼かったあの日々に帰れるのではないかと。


「わたくしは」


 視線を外すこともなく、コーディリアは呟く。


「今、わたくしは、兄さんと同じものを見ているのでしょうか」

「……じゃあ別のものを見てるって?」


 問うと、コーディリアは繕うように笑った。


「少々センチメンタルになっているようです。枯れ尾花が幽霊に見えるのは、きっとこういう気持ちの時なんでしょうね」


 幽霊。

 その発言に、ノエルは遅まきながら同居人の存在を思い出した。

 生まれが四百年前なら肩書きは大罪人。倫理も恥も外聞も埒外な男ではあろうが、無視できるほどノエルの面の皮は厚くなかった。どこから説明したものか、考えを巡らせながらサイモンに語りかけようとして、彼がすっかり鳴りを潜めていることに気付く。


 ――あれ。


 アデールにしろラッセルにしろ、知りあいに会うたびに無責任な感想を述べては興味を示してきた彼である。訝しむなという方が無理な話だった。

 あるいは手紙の時のように、気を遣ってくれているのだろうか。


 ――それならそれで、助かるからいいけど。


 そうノエルが一人納得して頷くのと、身の内で気配が活発になるのは同時だった。

 ぎゅるりと。

 渦に飲み込まれるように意識が遠のいて、そこから先はあっという間だった。有無を言わせず水底に引っ張り込まれ、身体を奪われる。咄嗟に何が起こったのかわからず、


『え、あれ』


 慌てふためき、頭上を見上げて、ようやくノエルは事の次第を悟った。


『サイモンさん!? なに、ちょっと何してるの!?』


 水面に映し出された像の中では、コーディリアが大人びた表情を晒している。

 どうやら、彼が了解もなしに身体を奪ってしまったらしい。それも、抵抗できないほどの意志の強さで。

 急速に不安が膨らんでいった。自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないかと思う。稀代のペテン師にほだされて、すっかり心を許して、あまつさえ大罪人とも呼ばれる男の前に大切な妹の姿を晒してしまうなんて。


『サイモンさん! ねえ、聞こえてる!?』


 声は届いているに違いなかったが、彼は一切の反応を見せなかった。

 そして、


「幽霊といえばさ、話しておきたいことがあるんだけど」


 そう彼は言った。ノエルの口調で、ノエルの語調だった。思わず、口を押さえて周囲を見回した。混乱した脳みそがそれを自分の発した言葉だと判断したのだ。無論、錯覚である。ノエルの意識も主観的な身体も水の底、彼女に話しかけるような真似はできない。


「どうしたの?」


 困ったような彼の一言に、視線を戻す。見れば、水面に映し出されたコーディリアの表情には、どこか陰りがある。曇っている。

 何も言わず、コーディリアは後退った。


「ちょ、ちょっとココ、」

「誰ですか」


 剣先を突き付けるような、聞いたことのない声音だった。

 コーディリアらしく――いや、ココらしくない冷たい誰何に、ノエルは硬直した。


「わたくしは兄に会いに来ました。他の方に用事はありません」

「急に何を言い出すのさ。僕が他の誰かに見えるって?」

「下手な芝居はやめてください。どういう仕組みかはしりませんが、そのように拙い芸でわたくしを欺けると思っているのであれば、いますぐ諦めてください。不愉快なだけです」


 無視して彼が一歩踏み出すと、コーディリアは表情を消して、


「寄るな。下がれ下郎」


 冷たい一睨みに、彼が動きを止める。腹の底に響くような低い声だった。確信と拒絶。一部の隙も無い、限りなく相手を下に見た、高貴なるものとしての表明だ。

 彼もこれ以上は無駄と悟ったのだろう。肩をすくめてみせてから、


「これは失礼致しました。余興のつもりだったのですが、ご気分を害されてしまったようですね。平に伏してお詫び申し上げます」


 恭しく礼をする。コーディリアは取り付く島もなし。


「構いません。それで、兄をどこへやったのです」

「……せめて御近付きの印に、自己紹介のほどをさせてはいただけないでしょうか」


 彼女はきっぱりと言った。「不要です」


 降参だと彼が諸手を上げた。


「わかりました。では、あなた様のことはどうお呼びすればいいかだけ。コーディリア嬢、それともコーディリア夫人でしょうか?」


 瞬間にコーディリアが向けた蔑視は、ほとんど攻撃にも等しかった。しかし、サイモンは特別な反応を見せなかった。ただその視線を受け止め見据えるだけ。


「誰に似たのやら、気の強いお嬢さんだ」


 ふいに視線が逸らされた。

 彼はぱんと手を打ち鳴らして、


「失敬。どうも私は性格が悪くていけない。三つ子の魂百まで、莫迦は死んでも治らない、などと言いますが、かれこれ四百年、やはり性分というものはいかんともし難いようです。別に貴女を怒らせようとして出てきたわけでも、困らせようとして出てきたわけでもありませんのに。いやはや。しかしまあ、この邂逅こそが夏の夜の夢、どうか妖精パックの悪戯だと思って、笑って許してくださいませ」


 芝居がかった立ち振る舞いだった。コーディリアが呆気に取られて目を丸くする。ノエルなどはもう目が回ってしまいそうだった。どういう変わり身の早さなのか。


「名残惜しいですが、今回は挨拶だけにしておきましょう。なんとやらは馬に蹴られて死ねと申します。いえ、そうでなくても、大団円が訪れるかは別として、貴女がかのアテナイの娘のように望みを捨てなければ、きっとまた会うこともありましょうから」

「……また?」


 意味深な言葉の群には触れずして、コーディリアが問い返す。気を許すまでには遠いようだったが、先ほどまでの刺々しい雰囲気は解消されていた。


「ええ、また」


 帳が降りるような沈黙があった。


「……気が変わりました。名前をお聞かせくださいまし」

「サイモン・クロウリーと。兄上の家庭教師をやらせていただいております」

「家庭教師……ですか。となるとあなたも」

「ええ。末席も末席ですが、一応」

「では、兄のお師匠様というわけですね。これは、少々失礼が過ぎたかしら」


 張り詰めた空気の中で、少しだけズレた彼女の推察は、笑いを誘った。その雰囲気の移り変わりを感じ取って、コーディリアは態度を改めた。


「今一度名乗っておきましょう。わたくしは妹のコーディリアと申します」彼女はスカートをちょいと持ち上げながら、軽く頭を下げた。「コーディリア嬢、とお呼びください。以後お見知りおきを」


「まったく理知的で良い名だ」


 彼はいつになく柔らかな物腰で、


「では用事を終えた邪魔者は早々にさることにしましょう、と言いたいところですが、最後に一つだけ。気を悪くするかもしれませんが、それを承知の上で、お聞かせ願えないでしょうか」


 なんなりと、と彼女が落ち着いた調子で応える。

 闇夜に、その問いは透徹として響いた。


「コーディリア嬢、貴女は今、幸せですか」


 彼女は立腹もしなければ軽蔑もしなかった。ただ、一度だけ空を仰いだ。満点の星空。古き神々のおわします光の海。そこに何を見たのか、再びこちらを向いたコーディリアは、泣き笑いのような表情を浮かべていた。


「運命の嘲笑の下で、どうして幸せに生きられましょうや」


 彼は何も返さなかった。返せる言葉などあるはずがなかった。


「……では失礼いたします」辞する間際になって、「そうでした。これを言わなければアンフェアというものです」


「まだなにか」

「今私の中に御令兄がいらっしゃいますように、私もまた常に御令兄の中にいます。コーディリア嬢におかれましては何かと不便かと思いますが、努々失念なさいませんよう」


 鉄面皮にひびが入った。完全な動揺だった。「そ、それって」


「では」


 大事がなかったことにほっと胸を撫で下ろしつつも、ノエルは思わずにはいられなかった。


 ――本当に性格が悪いなあ。  


 呆れ果てながら浮上する。かちんこちんに凍り付いてしまった彼女に話しかけねばならない身にもなって欲しかった。嘘も方便という言葉を知らないのか。大嘘つきのくせして。


 夏の夜の、生温い大気が戻ってくる。


 ノエルはどう声をかけたものか迷い、それでもサイモンから自分に切り替わったことだけは早急に伝えなければならないと思った。コーディリアならきっと最低限の仕草でも気付いてくれるだろう。そう期待して頭を掻いてみる。


「に、ニイサン?」


 ぎくしゃくとした動作でコーディリアが向き直る。あちらもあちらで言葉を探しているらしかった。下がれ下郎。鋭い一閃が残像として瞼に焼き付くように、先ほどの一喝もまた耳の奥に残っていた。

 いっそ触れずに流そうかとも思ったが、


「き、気にしなくていいから」

「う、うう」

「いや、その、恰好良かったよ……」


 口にしてから、自分でもあんまりだと思った。案の定、コーディリアは顔を覆い、サイモンはため息を吐いた。『それはないだろう……』


「ひどいです。お師匠様と一緒になって揶揄うなんて」

「ち、違うよ!? あれはあの人が勝手にやっただけで」

「違いません。そうとわかっていたら、もう。せっかく久しぶりに会えたのに」


 本気でコーディリアは後悔しているらしかった。ノエルからすれば、あれもまた妹の成長、嬉しく思うことはあれど、忌み嫌う要素など欠片もないのだけれど。


「……とりあえずさ、夜も遅いし、今日はいったん帰ろう」


 意志薄弱。いつだって自分の身を滅ぼすのは自分だとノエルは思う。


「王都にいるなら、また会えるだろうから」


 目をぱちくりさせるコーディリア。次第にその表情に理解が広がり、最後にはまた花となって開いた。兄さん、と何度目かもわからない呼びかけと共に抱きついてくる。こうも喜ばれると、だからサイモンさんが見てるんだって、なんて言えるわけもない。


「それで、どこまで送ればいい?」


 話を聞けば、コーディリアは五番街の宿屋に寝泊まりしているとのことだった。本人曰く、予定より早く着いてしまったことを利用して王都観光を楽しんでいるのだそう。ルークラフト様のお屋敷に入ったら気軽に遊びに出たりはできませんからね――兄としては宿屋なんて施設は嫁入り前の貴族の娘が寝泊まりするような場所ではないと諫めるべきなのだろうけれど、なにとなく言葉の端々からそれが方便だと覗えて、またも閉口する以上のことができないノエルだった。


 サイモンや学院生活の話をせがまれるままに語り、首飾り騒動について伝え終われば、宿屋はすぐそこだった。五番街もこの時間となると人気はほとんどなく、二人の声は煉瓦造りの街によく反響した。また会う約束をして――僕って本当にバカ――宿屋の前で別れを告げた。


『なあ』


 もしかしたら今日も例の人たちが張っているかもしれないから。そんな今更過ぎる言い訳を楯にして、ノエルは帰り道を言葉少なに過ごした。言わずもがな、気まずかったからで、記憶が正しければ、自分はサイモンに、彼女とは会いたくない、みたいなことをほざいた気がする。


『ノエルよ』

「……なにさ」


 学院も見えてきたあたりだった。夜ももう長くはないだろう。


『お前、姓はなんという』


 拍子抜けする質問だった。もっと突っ込んだことを聞かれるとばかり思っていた。少なくとも、先ほどコーディリアと対峙していた時の口振りは――。


「今更、というかそんな分かり切ったことをどうして」

『思えば聞いていなかったからな』


 言われてみると、自分の口から名乗った記憶はなかった。幸運なるものだの、運命の子だの、皮肉っぽい言い回しをよくするから、てっきり知っているものだと思っていたのだけれど、あれはたまたまだったのか。

 別にもったい付ける理由もない。ノエルは何げない風に、


「フォーチュンだよ。僕の名前はノエル・フォーチュン。妹はコーディリア・フォーチュン」


 サイモンはすぐには返答せず、言葉をよく吟味するような間を置いて、


『……そうか』

「それがどうしたの」

『いや、どうというわけでもないさ。しかし、後世の憂いを後世で断つとは、我ながら数奇な人生を送っていると思ってな』


 まったく意味がわからない。

 わからないけれど、サイモンは一人合点して、それで満足してしまったらしい。待てども説明はない。ただ、決して悪い気分ではないのだろう。語調には清々しさが感じられた。


『ノエル。ノエル・フォーチュン。幸運なるもの、運命の子よ』

「それ好きだね」

『まあな。なあ、お前は今、幸せか』


 付き合いの違いなのか、コーディリアに向けられたそれよりはずっと軽い調子だった。まるで世間話でもする風。コーディリアの答えを聞いてしまっていなければ、何も考えず適当に流したかもしれない。


「どうだろうね。落ちこぼれで命を狙われてるって意味じゃあ不幸せだけど、なんやかんや言って学院に席を置かせてもらって、ラッセルさんやアデールのような知り合いまでいるって状況はまあ幸せだよね」


 運命の嘲笑の下では幸せに生きられない。

 コーディリアはそう言ったけれど、ノエルはそうは思わない。きっと、たぶん、人間は意地の悪い運命に笑われても、幸せに生きることができるはずだ、と。幸福と不幸は同居し得る。いくばくかの悲しみを受け入れれば、きっと、そう、きっと。


「幸せでありたい、そう思ってるよ。もう、ずっとね」

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