ムーンバイト
「鎖断刀ムーンバイト。ツキバミノタイロウ――ウェオロルドで言うところのタナトスや死神のミストを持つモンスターの、千年に一度生え変わる牙を用いて造りました」
目の前に置かれた小ぶりのナイフの刃の表面には緻密な魔術式が彫り込まれており、同様に鞘にも、柄にも複雑な式が書かれている。つまりこれ自体が何らかの魔法を行使するための魔術式だということだ。
【伝話】や【繋空扉】ですら紙一枚の式で発動させてみせたユーヤメが死神の体を触媒に編み上げた、刃のカタチをした魔法。
その意味するところに不死身の勇者の背にも冷たいものが走る。
「死神……千年……」
「ご本人が言うには実際には八百年程度だったそうですけど」
「…………?」
今のは冗談だろうか。
いやそれ以前に、そんなものを素材に使って大丈夫なのだろうか。
「ご安心を。この状態ではペーパーナイフほどの切れ味しかありません。魔法の行使には詠唱が必要です。もちろん呪術的な影響についてもしっかり対策を施してあります。柄と鞘はイソラナイト。ご存じの通りアストレミナ世界のヴェリド鉱廟でしか産出されない非常に希少な鉱石で、魔術抵抗値が非常に高くあらゆる呪いに対し強い抵抗を持っています。しかしモノがモノですからこれだけではとても安心とは言い切れません。そこでさらに鞘の表面に対呪術の加工を三重に施しました。基底部にはフェテリが誇る最高の術式を採用。残る二つもそれぞれ別の世界で開発された強力な抗呪術式をアレンジしたものを用いています。柄には同様の術式加工に加え抗魔獣の革を巻きつけました。抜け落ちたとはいえツキバミノタイロウの牙です。旦那様以外が触れれば大変なことになりますが、この柄と鞘があれば安全に扱うことが可能です。また起動術式には声に出すのも憚られるかのお方のお名前を使わせていただいておりますし、当然刃にも……」
「嬢ちゃん嬢ちゃん、また話がそれてるぞ」
「……失礼を」
オノダの苦笑いにこほんと咳払いを一つすると、ユーヤメはヒイロへと向き直った。
「呪縛鎖とはいわば術式で作られた縁の粗悪な模倣品。これを切断すればヒイロ様をエクスキュリアに縛り付けておくことはできなくなる。その後縁を辿ってウェオロルドへお返しする、というのがご帰還の流れになります。ご準備がよろしければ今すぐにでも正式な契約を進めさせていただきますが、いかがいたしましょう」
願ってもない提案。ユーヤメのいうことはおそらくすべて本当で、万が一嘘だったとしてもこの世界の自分の財産には全く未練がない。
だがヒイロはすぐには決断しなかった。
「……少しだけ、待ってもらってもいいですか?」
ユーヤメが表情を作らないまま瞬きをする。
「帰れることがわかって少し気持ちが楽になりました。だったらもうちょっと頑張ってみようかなって」
ヒイロとて聖人君子ではない。自分を召喚して勝手な理屈を押し付ける神官たちに憤りを感じないわけではない。
だが純粋にヒイロを勇者と慕う者も大勢いる。
涙を流しながらありがとうありがとうと頭を下げる彼らの、その言葉に何の意味もなかったとしても、見捨てることにためらいを覚えてしまう。
ユーヤメの力を借りればヒイロは元の世界に帰ることができるという。それも明日香と引き裂かれたあの瞬間に。
ならばもう少しだけ、自分を勇者として召喚したこの世界の平和の為に働いてみるのもいいのではないか。
「まったく、勇者という方々は皆様どうしてこう……。呪縛鎖の心象束縛効果はもう無くなったはずですが」
ユーヤメは呆れたようにため息をついた。
「お勧めはいたしません。縁は簡単に切れるものではありませんが、仮にも世界を跨いでいるのです。帰還は早いに越したことはありませんよ」
脅すような響きを含んだ言い回し。
怯むヒイロの顔の前に、ユーヤメは指を一本立てて見せた。
「ですから、一カ月。そこをリミットとするというのはいかがでしょう?」
彼女はヒイロがこんなことを言い出すのを予見していたのかもしれない。
この妥協案ははじめから用意されていたものだというのは交渉に慣れていないヒイロにもわかった。
「……はい。ありがとうございます」
「ではそのように。ただし、くれぐれもお体を大事にされますよう。万が一あなたが死んでしまえば帰還は不可能となります」
虹の混じる乳白色の眼差しにヒイロもしっかりと頷く。
もっともヒイロの後ろには常に多くの癒しの者たちがいる。命を落とすという心配はまず必要ない。
受ける痛みと苦痛が変わるわけではないが、あの日常に帰還できることが約束された今なら、耐えることもできるはずだった。
「では、仮契約を」
ユーヤメが一枚の書面を取り出した。日本語で契約の内容が事細かに記されており、最後には【伝話】の魔法陣が書き込まれている。
「期限の前であってもご帰還の意思が固まりましたらこちらの契約書からすぐにお伝話をお願いします。その時点を持ちまして正式な契約に至るものとします」
「わかりました。よろしくお願いします」
明日香の元へ帰るための特約切符を、ヒイロは大切に懐へとしまい込んだ。
――――――――――
その夜。
ヒイロは王宮の自室で静かに夜風を浴びていた。
ヒイロの目には見えないが、この身体からは糸が伸びていて、元の世界に――明日香につながっているのだという。
「――もう少しだけ、待っててくれよ、明日香」
小さくつぶやく勇者の声は今はまだ誰に届くこともなく、窓の外の闇に溶けていった。




