槍使いの薔薇《ドリュセイエ》
ローデ鉱山跡の入り口すぐに現れたのは、巨大な円状の口に並んだつるはしのような牙を持つ真っ黒な長地虫だった。
発見したのはこちらが先だった。
背後から息を潜めて、しかし全身全霊をこめて放った槍の一撃は、ランタンの頼りない明りを受けててらてらと濡れたように光る長地虫の真っ黒な体表面に、傷一つ付けられなかった。
直後に大腿部に感じた圧倒的な重量を持つ衝撃。巨人に鋼の棘付きこん棒で殴られれば丁度同じようになるだろうか。
ガートの体は宙を舞い、坑道の天井に叩きつけられて落下した。
それも巨大な長地虫からしてみれば、視界に入った煩わしい虫を追い払った程度の事だったのだろう。追撃はなく、地虫はらせん状の体を回転させながら坑道の奥へと消えていった。
這いずるようにして拠点の小屋にたどり着き、備え付けの寝台に仰向けに倒れ込む。
背中からわき腹に掛けて鋭い痛みが走った。天井に打ち付けられた衝撃であばらが折れたようだ。
右の腕は動かない。受け身もとれず逆さまに地面に落ちたせいで肩が外れたのだろう。
満身創痍、というやつだ。
中でも地虫の尾の一撃を受けた太ももは酷い有様だった。肉がごっそりと削られ、じくじくと血があふれ出している。
ガートは動く方の左手で腰のポーチから硝子の小瓶を取り出した。
槍使いの薔薇。
聖女無き地に赴く勇者に与えられる、苦痛から逃れるための手段。
「…………」
全身の痛みに苛まれながらその小さなガラス瓶をしばらく眺めていたガートだったが、やがてそれを再びポーチへと戻してそのまま崩れるように仰向けに寝台に身を横たえた。
「ゲホッ、ぐ、ゴホッ!」
途端、激しくせき込む。
どうやら内臓にも傷がついているらしい。口から赤い飛沫が飛び散るが、それで全てを吐き出せるわけもなく、逆流して気管に入った血はさらにガートを苦しめる。
「ガ、はッ、ゲホッ!」
仰向けは失敗だった。ただでさえ呼吸の度にひどく痛むというのに、したくもない咳が止まらない。
本来ならば気道に入った異物を取り除くための反射機構だが、ガートにとっては余計な苦痛を増やすだけ。
だが姿勢を変えるだけの余力はない。槍使いの薔薇に頼らないのであればあとはもう、ただ耐えるしかない。
パペッサという世界において、苦痛とは悪であり、そこから逃れようとすることは恥でも罪でもない。
ガートがその使用を思いとどまったのは単に、毒薬に付けられた「聖女無き地に赴く勇者に与えられる救い」というそのミストが気に食わなかったからに過ぎない。
要は自分から婚約者を奪っていった、とんでもなく大きくて、絶対に逆らうことができない「何か」に対する当てつけのようなものだった。
別に構いはしない。村を飛び出した時から覚悟は決めていた。
リシュアと同郷であることが知れればこうなることはわかっていたし、その時が近いのも悟っていた。
先日はおかしな二人組からリシュアとの仲を詮索された。
勤めを終えた聖女に縋ろうとする者たちから「同郷だからと勘違いをしている」等と罵倒を浴びせられたこともある。
もっともこの件については見当違いも甚だしい。聖女の清浄は絶対。そのことはガート自身が誰よりも理解している。
だからこれは、初めから分かっていた結末だ。
「ごッ、ハッ、ゲフッ、う」
しかしこれだけの苦痛の中、死というものは存外すぐにはやってこないものだ。
最早、懐に手を入れることもできない。薬を口に含むことも難しいだろう。
体は動かず、意識は定まらない。それでも苦痛が遠退くことはなく、血が咽喉に落ち込むたびに咳が出る。
死ぬことが決まっているのに生きようと足掻く自分の体は滑稽だ。いっそ咽喉など詰まってくれた方が早く楽になるだろうに。
教会の教えでは苦痛は悪なのだという。
それはきっと正しい。このような苦痛など誰だって好んで味わいたいとは思うまい。
だが、苦痛とは病や怪我等による身体の痛みだけを指す言葉ではないだろう。
実際今感じている痛みや死への恐怖など、「何か」に婚約者を奪われたあの時以来ずっと抱えてきた半身を裂かれるような苦痛に比べれば全然大したことはない。
ならば、本当の悪とはもしかすると――。
思考がまとまらない。血が流れ過ぎているのだろう。
もうすぐこの苦痛も止まる。
きっと、自分の死は聖女には届かない。たかが一兵士の死が聖女の耳に届くことはない。
だから自分の死が、あの優しい幼馴染の「苦痛」になることはない。
それは、とても幸福なことで、
そして、ああ、そしてとても…………。
孤独と苦痛の中、ガートの意識は途切れる。
長く、長く、ずっと待ち望んだものの訪れににより、この世界に生まれてから今までその身に与えられてきた、ありとあらゆる苦痛が取り除かれて――
――ガートの意識は、再び覚醒する。




