終末の雲
ヴァルセイン王国の南端部、カールグレイン領の上空には数日前から奇妙な雲が浮かんでいた。
雲は遠く王都からも観測できるほどに大きかったが別段雨や雷を伴うわけではなかった。
しかし数日間にわたり同じ場所に存在する異様さからか、占い師の中には古文書に記された世界の終わりを告げる不吉な雲だと主張する者もあらわれた。
そんな折、領主カールグレイン侯爵のもとに南方国境の斥候隊から緊急の知らせが届けられる。
——魔王軍四鬼将が一人、ヘル=マリスが率いる大軍が、国境を越えて進軍中——
同地にて勇者ヒイロがドレイヴ・ザ=モウを討ち果たしてからまだひと月も経っていない。魔王軍の士気は落ち、しばらくは戦線の動きが停滞するはずだった。
にもかかわらずヘル=マリス軍の進軍はあまりに早い。まるでこの時を待っていたとでも言わんばかりの異様さであった。
人々の不安が募る中、市井の占い師の中にはヘル=マリスの進軍と不吉な雲を関連付けて吹聴する者まで現れた。
終末の雲。
そんな流言がまことしやかに囁かれだす。
だがこの不穏を前に、長きに渡り魔王軍からヴァルセイン王国を守り続けてきた南方境侯レオノール・カールグレインの決断は早かった。
占い師たちの進言を戦を知らぬ者の戯言として一蹴。ドレイヴ・ザ=モウが倒れ、魔王軍が混乱している今こそが好機であるとし、開戦に踏み切ったのである。
「 不吉な印など恐れる必要はない。我等には勇者の加護がある!」
エディス将軍の配下の兵士たちはその言葉に奮い立った。
雲が世界の破滅の印なら、勇者こそはまさしく世界の繁栄の証。勇者ヒイロがいれば、魔王軍四鬼将ヘル=マリスなど敵ではない。
兵士だけではない。
「終末の雲」等と囁く占い師たちですら、その実、勇者の勝利を疑ってなどいない。
占い師とは名ばかりの語り者たちにとって世界の終わりは飯の種。
聞く方にとってもまた、酒の肴でしかない。
ヴァルセイン王国の、いやエクスキュリア世界の全ての人間にとって、勇者とは絶対の存在。
エクスキュリアという世界そのもの。
明日も大地があることを疑うなど、愚か者のすることだ。
勇者は負けない、死なない。絶対に。
――もしも勇者が戦で死ぬようなことがあれば。
それは単に、その者が勇者ではなかったということだ。
――――――――――――
ユーヤメに示された期限が迫る中、魔王軍四鬼将の一人ヘル=マリスの進軍はヒイロにとっては願ってもないことだった。
魔王を打ち取ることは叶わなかったが、ヘル=マリスを打てば当面の間はヴァルセイン王国の平和は揺らぐこともないだろう。
後のことはユーヤメの言う通りこの世界の人々に任せることにしよう。
今回の作戦ではヒイロは本陣を離れ少数の精鋭と共に遊撃にて敵陣を崩しつつヘル=マリスに迫ることになっている。
先のドレイヴ戦では混戦に持ち込まれ、味方を巻き込むことを恐れてヒイロが聖剣の力を発揮しきれなかったことが被害の拡大に繋がった。
故にエディス将軍の策はヒイロにとっても妥当であり同時にやりやすいように感じられた。
だが相対する両軍の中央近くまで有角鳥を進めたところで、ヒーラーを含む護衛隊の隊長ローデリクは部隊を停止させた。
この距離ではいくら聖剣といえど敵軍まで斬撃を届けることはできない。
不思議に思いつつ振り返ればローデリクの手には小型の弩弓が握られており、その先端はヒイロへと向けられていた。
「ローデリクさん、何を……?」
「神の使いを僭称し、世界の破滅を企む偽勇者ヒイロ。その不遜の代償をうけるがいい!」
「は?」
ドレイヴ戦でも共に戦ったローデリクの、あまりに突然で理不尽な言い様にヒイロの理解は追い付かない。助けを求めて視線を巡らすが、どういったわけか部隊の全員が一様に冷たい目でヒイロを見ていた。
意図が分からない。弩を向けられる理由も分からなければ、その弩で何をしたいのかも分からない。
備え付けの大弩ならともかく、騎乗戦用の小型の弩弓でヒイロを傷つけることなどできない。もし矢に何らかの毒が塗られていても自分には効かない。
もしかすると示し合わせての冗談のつもりなのだろうか。だとしたらエクスキュリアという世界はジョークのセンスまで最悪だ。
だがもっと最悪なことに、冗談ではなくクロスボウの矢は放たれた。
そしてヒイロではなく、ヒイロが騎乗していた有角鳥の背へと深々と突き刺さった。
「っ!」
喉を引き裂くような甲高い絶叫を上げ、有角鳥はヒイロを乗せたまま走りだす。
「待て……止まれっ……!」
手綱をひいても反応はない。背中から伝わる異質な震え。進行方向が不規則に揺れ始める。その様子は明らかに尋常ではなかった。
毒だ。矢に塗られていた何かの毒が有角鳥の体を蝕んでいる。
狂ったように走り続けた後、有角鳥の巨体は前のめりに傾きそのまま地面へと倒れ込んだ。ヒイロの身体も宙に投げ出され受け身をとることもできないまま地面にたたきつけられる。
ヒイロがなんとか立ち上がった後も、カッソワリィは地面に倒れたまま尚ももがき続けていた。
太い脚が空を蹴る。まるで何かとてつもなく恐ろしい物から逃がれようとするように。
だがその動きも段々と緩慢になり、やがて止まった。
有角鳥はきっと逃げ切れずに、それに追いつかれてしまったのだろう。
ヒイロは、その背に触れたまま、動けずにいた。
何が起きている?
なぜこうなった?
ローデリクの目的が哀れな有角鳥を殺すためでないことはヒイロにもわかる。
味方から向けられた殺意は大弩等よりも確実にヒイロの心をえぐった。
いつの間にか味方である人類軍は撤退し、ヒイロは押し寄せる敵の軍勢の前に一人取り残されていた。
部隊長の一人の暴走ではないだろう。ではエディス将軍? それともレオノール、いや、きっとそうではない。
ヒイロを殺そうとしているのはこの世界だ。
きっとこれは罰なのだろう。
令嬢を冷たくあしらったから。家に帰りたいと願ったから。助けてくれと叫ぶ者たちを見捨てて逃げ出そうとしたから。
だから僕は世界に、殺される。
――それだけのことで?
僭称? 偽勇者? 自分から勇者です等と名乗ったことは一度もない。強引に連れてこられて勇者と呼ばれ、戦うことを強いられただけ。
令嬢を冷たくあしらったから? 家に帰りたいと願ったから? 助けてくれと叫ぶ者たちを見捨てて逃げ出そうとしたから?
世界を救わなかったから?
――そんなことで、たったそれだけのことで、僕は殺されるのか?
いやだ、死にたくない。
やっと帰れるはずだったのに。明日香が待っているのに。
ヒイロ一人を置いて撤退した人間軍に対し、警戒の色を見せていた ヘル=マリス軍であったが、それも終わるようだ。
幾百もの魔族が歩を進めてくる。
死に物狂いであがけばその多くを道連れに出来るだろう。
だが、それが何になる?
僕は世界に殺されるのに。
僕はこれから死んでしまうのに。
思考も感情もぐちゃぐちゃで、行動へと至ることはない。
ヒイロはただ立ち尽くすことしかできずにいた。
――そのときだった。
トゥルルルル!トゥルルルル!
戦場には似つかわしくないその音はヒイロの胸元から発せられていた。
仮契約書。
そこに描かれた【伝話】の魔法陣が、勝手に起動している。
『ご無沙汰しております。ヒイロ様。勇者専門退職代行"ゆーやめ"でございます。お約束の期限が迫っておりますので確認の為お伝話いたしました。その後お変わりありませんか?』
取り出した一枚の紙切れから発せられる平坦な声。
だが一足遅かった。
「ユーヤメさん、ごめんなさい。せっかくお伝話いただきましたが、僕はもう……」
取り出した仮契約書が涙ににじむ。ヒイロが死ねば帰還は不可能になる。それは以前ユーヤメに、はっきりと明言されている。
『かしこまりました。では本契約に移行ということでよろしいですね?』
「……え?」
心臓が早鐘を打つ。ちょうど自室であの広告を見つけた時のような、絶対のルールが書き換えられるような期待感。
「で、でも、僕は今……」
『ヒイロ様。以前も申し上げましたが当方はあなたの状況をすべて把握しております。だからあなたはただ一言、契約に同意してさえいただければいい』
ユーヤメの相も変わらない事務的な口調。 だがそれはまるで幾多の術式が込められた「魔法」のようにヒイロの心に光をともす。
「お願いします。ユーヤメさん。僕を、助けてください」
『かしこまりました。現時点を以て本契約完了といたします』
手の中の仮契約書がメラメラと炎を上げ、その中から別の契約書が現れる。
『ではこれより、我ら"ゆーやめ"は本業務を開始いたします』
抑揚のない声が静かに響く。
――時を同じくして戦場に驚愕が走った。
ヒイロを南北に挟む人と魔族の軍勢が口々に何か叫びながら空へと指を向けている。
つられて見上げたヒイロはそこに。
”世界の破滅を予言する雲” から飛び出してこちらへ向かって一直線に飛来する、巨大な生き物の姿を見た。




