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第8話:荒れた領地

 ヴィアトル領での新たな事業が軌道に乗り始めた頃、王都にあるミリオン家の駐在屋敷に一人の来客があった。


 午後の柔らかな光が差し込む応接間は、静寂に包まれている。ジュネーヴァ・ミリオンは、机の上に広げた帳簿に万年筆を走らせていた。規則正しく並ぶ数字の列を追い、計算の齟齬がないかを確認する。ペンの先が紙を擦る音だけが室内に響いている。


 控えめな、しかし確かな重みのあるノックの音が扉を叩いた。ジュネーヴァが手を止めると、扉が開いてボリスが顔を出した。


「お嬢、来客でっせ。アポなしの」


 ボリスはいつものように、大きな体を揺らしながら入ってきた。その手には銀のトレイがあり、見慣れない名刺が置かれている。ジュネーヴァは帳簿からゆっくりと目を上げた。


「カンプス子爵様。えらい顔色悪い」


 ボリスが付け加えるように言った。ジュネーヴァはその名を聞き、わずかに眉を動かした。


「カンプス子爵……ああ」


「ご存知でっか」


「ええ。覚えています」


 ジュネーヴァの脳裏に、数ヶ月前の光景が断片的に浮かび上がった。あの夜、婚約破棄を告げられたパーティー会場の喧騒。嘲笑と困惑が入り混じる群衆の隅に、その男はいた。


 他の貴族たちが野次馬として事態を眺める中、その人物だけは周囲と同調していなかった。目の下に深い隈を刻み、温厚そうな顔に焦燥を滲ませて、誰かに向かって深く頭を下げていた姿。あの時、男は「あの方がいなければ、わが領は立ち行かなくなる」と、消え入りそうな声で嘆願していた。当時、名前までは把握していなかったが、その真実味のある疲弊した表情は記憶の隅に残っている。


「お通しして」


 ジュネーヴァの短い指示に、ボリスは「へいへい」と応じて一度退室した。


 数分後、再び扉が開いた。ボリスに伴われて入ってきたのは、記憶通りの、中年の温厚そうな顔立ちをした男だった。アヴェリオ・カンプス子爵。その身なりは貴族として整えられてはいるが、上着の袖口はわずかに擦り切れているが、丁寧に手入れされていた。目の下には深い隈が刻まれている。


 アヴェリオは入室するなり、ジュネーヴァの前で足を止め、深く腰を折って頭を下げた。


「ミリオン家の令嬢殿、お願いがございます」


 その声は震えていた。彼はジュネーヴァに促される前に、持っていた帽子を両手で握りしめ、膝の上に置くようにして椅子に腰掛けた。指先が帽子の縁を強く掴んでいる。


「まずはお座りになって。ボリス、お茶を」


 ジュネーヴァが淡々とした口調で告げると、ボリスは手際よく準備を始めた。やがて、白磁のカップから紅茶の湯気が立ち上り、室内を穏やかな香りが満たしていく。アヴェリオは出された茶には手を付けず、居住まいを正して再び口を開いた。


「アポなしのご訪問、誠に申し訳ございません。あなたのようなお忙しい方に、このような無礼を働くべきではないことは重々承知しておりますが……」


 彼は一度言葉を切り、深く息を吐き出した。その肩から、わずかに強張っていた力が抜ける。


 ジュネーヴァは表情を一切変えることなく、背筋を伸ばして彼を見据えた。


「お気になさらず。お話を伺いましょう」


 午後の陽光が紅茶の湯気を白く照らし出す中、アヴェリオは覚悟を決めたように視線を上げた。静まり返った応接間に、彼が抱える領地の窮状が語られようとしていた。


 ◇ ◇ ◇


 アヴェリオは、膝の上の帽子を握りしめる手に力を込めた。指の関節が白く浮き上がり、その震えを抑え込むように深く息を吐く。ジュネーヴァは表情を変えず、静かに彼を見据えていた。


「増税で領民が苦しんでおります。今年の収穫は平年並みなのですが、税を払うと、種もみが残りませぬ」


 アヴェリオの声は低く、乾いていた。彼は一度視線を落とし、白磁のカップの中で冷めつつある紅茶を見つめた。窓から差し込む午後の光が、彼の目の下に深く刻まれた隈を強調している。背後の扉付近では、ボリスが巨大な影となって音もなく控えていた。


「種もみなくして来年の作付けはできませぬ。領地が、死にます」


 絞り出すような言葉に、アヴェリオは喉を震わせた。声を荒げることはなかった。ジュネーヴァは相槌すら打たず、ただその言葉を正面から受け止めていた。


「王宮には掛け合いました。ですが、取り合ってもらえぬのです」


 アヴェリオの目に、微かな涙が浮かんだ。彼は涙を拭うこともせず、ただ姿勢を正して続けた。


「あの王太子は数字しか見ておられぬ」


 その言葉には、諦念とわずかな憤りが混じっていた。ジュネーヴァは依然として無言を貫いていた。彼女の瞳はアヴェリオの顔を真っ直ぐに捉えたまま、微動だにしない。


 アヴェリオは、震える手で再び帽子を強く握り、背筋を伸ばした。


「領民を守りたいのです。それだけでございます」


 その声には、媚びやへつらいのない芯があった。


「王宮を頼ることができぬ以上、ミリオン家殿にお願いするしか道がございません」


 アヴェリオは椅子から立ち上がることはせず、深く頭を下げた。帽子を抱えたまま、膝を折るようにして誠実な嘆願を繰り返す。


「無礼を承知でございます。ですが、領民が」


 言葉が途切れ、室内に静寂が戻った。紅茶の湯気はすでに消え、空気は冷たく澄んでいる。アヴェリオは頭を下げたまま、ジュネーヴァの言葉を待った。


 ジュネーヴァはゆっくりと瞬きをし、ようやく口を開いた。


「事情は承知いたしましたわ」


 短いその言葉に、アヴェリオの肩がわずかに揺れた。


 ジュネーヴァはそれ以上何も言わず、机の上に置かれた帳簿へと視線を落とした。万年筆を手に取り、開かれたページに新たな数字を書き込む準備を始めた。


 ◇ ◇ ◇


 ジュネーヴァは椅子を立ち、壁際に整然と並ぶ黒革の書架へと歩み寄った。背表紙にはミリオン家の紋章と、王国内の各領地や貴族家の名が記された銀のプレートが埋め込まれている。


 迷いのない手つきで、ジュネーヴァは一冊の厚い帳簿を引き出した。カンプス家。その背表紙は、長年の参照によって角がわずかに擦れている。彼女が机に戻り、重厚な革表紙を開くと、乾いた紙の擦れる音が静かな室内に響いた。


「お嬢、よう覚えてはりますな」


 傍らで見守っていたボリスが、感嘆を隠さずに声を漏らした。数多ある帳簿の中から、特定の家系の一冊を即座に見つけ出した主人の手際に、彼は軽く肩をすくめる。ジュネーヴァはページを捲る手を止めず、淡々と答えた。


「数字は忘れませんわ」


 帳簿の頁には、極細のペン先で記された緻密な数字の列が並んでいた。過去十数年間にわたるカンプス領の借入額、金利の推移、そして返済の記録。ジュネーヴァの指先が、直近の数年間の記録をなぞる。そこには、不自然なほどに整然とした数字が刻まれていた。


「カンプス子爵。あなた、一度も遅れたことがありませんわね」


 ジュネーヴァは顔を上げ、アヴェリオを真っ直ぐに見据えた。アヴェリオは、彼女の鋭い視線に気圧されることなく、背筋を伸ばして応じた。


「当然です。借りたものは返す。それが道理でしょう」


 アヴェリオは帽子を握る手に力を込めた。ジュネーヴァは、しばらくの間、何も言わずに彼を見つめていた。


「……」


 沈黙が応接間を満たす。ボリスも軽口を慎み、主人の次の言葉を待つように視線を落とした。窓の外では陽光がわずかに傾き、ティーカップから立ち上っていた湯気は、すでに跡形もなく消え去っている。


 やがて、ジュネーヴァが再び帳簿に視線を落とした。ページを一枚捲り、領地の基礎生産高や人口推移の項目を確認する。


「ですが、現状のままでは、領地が立ち行かなくなりますわね」


「左様でございます」


 アヴェリオの声は低く、重かった。ジュネーヴァは帳簿を閉じ、その表紙に白く細い指を置く。彼女の目は、今や帳簿の中の数字ではなく、アヴェリオを真っ直ぐ見据えていた。


「あなたの領地、生産高は伸びしろがあります。畦道の風景、家畜の数、皮革加工の工房……数字には現れぬ要素もございます」


 アヴェリオは驚愕に目を見開いた。彼女が挙げたのは、帳簿の統計だけでは測りきれない、領地の細部だった。アポなしで訪れ、事情を語り始めたばかりの自分に対し、彼女がすでにそこまで見抜いていることに、彼は言葉を失う。


「お見立てが、お早うございますな」


 アヴェリオは嘆息するように漏らした。ジュネーヴァは表情を崩すことなく、万年筆をペン立てに戻すと、最後に短く告げた。


「数字を読むのが家業ですもの」


 ◇ ◇ ◇


 ジュネーヴァは開いていた帳簿をゆっくりと閉じ、その重厚な表紙の上に細い指を重ねた。パチン、と金具が噛み合う乾いた音が、静まり返った応接間に響く。


 彼女は視線を上げ、正面に座るアヴェリオを真っ直ぐに見据えた。


「お貸しすることはできますわ」


 その一言に、アヴェリオの顔に目に見えて光が灯った。強張っていた肩がわずかに下がり、安堵が表情に滲む。しかし、ジュネーヴァは間髪入れずに言葉を継いだ。


「ただし」


 室内の空気が一瞬で凍りついた。窓から差し込む夕暮れ間近の光が、影を長く伸ばしている。アヴェリオの表情が固まった。


「あなたの領地の経営を、少し見直させていただきます。よろしいかしら」


「それは……」


 アヴェリオの声が困惑に揺れた。彼の顔に影が落ちる。握りしめられた帽子の縁が、みしりと音を立てた。


「ご心配なく。種もみは残しますわ」


 ジュネーヴァは淡々と、しかし一点の曇りもない調子で告げた。


 アヴェリオは、開いた口が塞がらないといった様子で彼女を見つめる。


 長い沈黙が流れた。アヴェリオは深く、深く息を吐き出し、覚悟を決めたように視線を上げた。


「……お任せいたします」


「明日、領地に伺いますわ」


「ご足労、誠に……」


 深々と頭を下げるアヴェリオに対し、ジュネーヴァは万年筆を整理しながら短く返した。


「業務の一環ですわ」


 アヴェリオは立ち上がり、椅子を整え、改めて深く一礼した。膝の上に置いていた帽子を手に取り、胸に当ててから、静かな足取りで扉へと向かう。ボリスがその背中を見送り、扉が静かに閉まった。


 応接間に残されたのは、ジュネーヴァとボリス、そして冷めきった二客の紅茶だけである。


 ボリスが扉から離れ、ジュネーヴァの背後に歩み寄った。


「お嬢、あの方、助けはるんでっか」


 ジュネーヴァは帳簿に視線を落としたまま、答える。


「助ける? 貸したものを返していただくだけですわ」


 その冷淡とも取れる返答に、ボリスはわずかに口角を上げ、含み笑いを漏らした。


「そういうことにしときまひょ」


 ジュネーヴァが顔を上げ、わずかに眉を寄せた。


「何のことですの」


「いえ、何でもありまへん」


 ボリスは飄々とした態度でとぼけ、手際よく冷めた紅茶のカップを片付け始めた。ジュネーヴァは小さく息を吐き、再び帳簿を捲った。明日の視察のための準備が始まっていた。


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