第9話:帳簿と土壌
翌朝、ジュネーヴァはボリスを伴ってカンプス領へと馬車を走らせた。
王都を離れ、数時間ほど揺られた先に広がる光景は、春先の柔らかな陽光に照らされていた。しかし、その光の下にある現実は厳しい。馬車の窓から見える畑は土の色が薄く、作付けを控えた時期特有の活気には程遠かった。点在する農村の家屋は、屋根の修繕跡が目立ち、壁の塗り直しも久しく行われていないことが一目で分かる。
馬車が止まり、扉が開かれると、ジュネーヴァは迷いなく外へ踏み出した。彼女が身に纏っているのは、装飾を最低限に抑えた機能的なドレスだった。出迎えたアヴェリオ・カンプス子爵が深々と頭を下げた。
ジュネーヴァは挨拶もそこそこに、足元の畦道へと目を向けた。そのまま、ぬかるんだ土の上を歩き始める。春の冷たい風が彼女の髪を揺らし、泥がドレスの裾を汚していくが、彼女はそれを一顧だにする様子もなかった。
「お嬢、靴が泥まみれでっせ」
後ろに従うボリスが、大きな体を揺らしながら言った。彼はジュネーヴァの足元を見て、困ったように眉を下げている。ジュネーヴァは歩みを止めず、前を向いたまま淡々と答えた。
「靴は買い替えられますわ。畑は買い替えられません」
その言葉に、横を歩いていたアヴェリオが微かに肩を揺らし、息を呑んだ。彼は何事か言いかけたが、結局は口を噤み、ジュネーヴァの背中を見つめる。
遠巻きに領民たちの姿が見える。痩せた体躯に質素な服を纏った彼らは、距離を保ちながら、突然現れた「金貸しの令嬢」を観察している。ジュネーヴァは彼らと目を合わせることはなく、ただ領主が守るべき土地そのものを見つめていた。
第一の区画でジュネーヴァは立ち止まる。
彼女は膝をつき、泥を厭わずに指先で土を掬い上げた。親指と人差し指で土を擦り合わせ、その湿り気と手触りを確認する。土は春の湿り気を含んではいるが、指の間で脆く崩れた。
「こちらの区画、連作で土が痩せていますわね。……けれど草はよく育っている」
しゃがみ込んだまま、彼女は周囲の畦に生い茂る野草の勢いに目を留めた。アヴェリオは彼女の傍らに寄り、深く頷いた。
「お見立て、確かでございます。ここ数年、税を納めるために無理な作付けを繰り返してまいりました。その結果、麦の育ちは悪くなる一方ですが、不思議と周囲の雑草だけは逞しく根を張っておりますな」
ジュネーヴァは立ち上がり、ハンカチで指先を拭うと、再び目を遠くへ飛ばした。
「水場はあちらですわね。家畜の飲み水として十分な量です」
彼女の指差す先には、山の麓から流れてくる細い川と、そこから引き込まれた小さな水路があった。アヴェリオは再び目を瞬かせ、即座に応じた。
「左様でございます。井戸は枯れたことがございません。この地の唯一の自慢と言ってもよろしいでしょう」
「畜産業の素地はございますわ」
ジュネーヴァは短く結論を告げた。アヴェリオはただ深く頷いた。
ジュネーヴァは馬車へ戻るべく踵を返した。
「館へ戻りましょう。昨日確認した帳簿の数字と、今の土の状態を照らし合わせる必要がありますわ」
彼女がそう告げると、ボリスが「へいへい」と応じて先回りした。ジュネーヴァは懐から小さな手帳を取り出し、何かを書き留め始めた。その背中をアヴェリオが追った。
◇ ◇ ◇
館に戻ったジュネーヴァは、執務室の卓上に帳簿と地図を広げた。窓から差し込む春の光が、質素だが塵一つなく整えられた室内を白く照らし出している。視察の際に泥に汚れたドレスの裾は、ボリスの手によって手早く処置されていた。
ジュネーヴァは万年筆を手に取り、白紙の頁に領地の現状を数字として書き起こしていく。
「視察の結果、方針を固めましたわ。痩せた畑にしがみついても先がありませんわ。けれど牛は育ちますわよ、この草地なら」
ジュネーヴァの言葉に、対面に座るアヴェリオ・カンプス子爵がわずかに目を見開いた。彼女は顔を上げず、淡々と書き込みを続ける。
「皮革は軍需品として、安定した需要がございます。鎧の下地、馬具、ベルト。原料から製品まで、領内で完結させましょう」
「皮革……。しかし、我が領はこれまで穀物を……」
「穀物をやめるわけではございません。生産バランスを変えるのです。転換コスト、回収見込み、返済スケジュール。ご覧くださいませ」
ジュネーヴァは、書き終えたばかりの数字の列をアヴェリオの方へと向けた。そこには、現状のまま重税に喘いだ場合の破綻予測と、畜産業への一部転換を行った場合の収支改善見込みが対比されていた。
アヴェリオは身を乗り出し、帳簿を覗き込んだ。彼の指先が、予想される収益の数字をなぞる。
「穀物をやめろと……?」
「いいえ。適地に牛を放ち、痩せた地を休ませるのです。ですが、確かに懸念はございますわね。畜牛を増やしても、皮革加工も、軌道に乗るまで何年もかかるのが通常です」
アヴェリオは苦渋の色を浮かべて頷いた。
「左様でございます。牛が育ち、皮革の加工技術が安定する頃には、我が領は税の重みに耐えかねて崩壊しているでしょう」
「ご心配なく。当家にはスキル貸与という選択肢がございます」
ジュネーヴァがさらりと告げた言葉に、アヴェリオは顔を上げた。
「スキル貸与、と申しますと」
「当家から領地の方々に、必要なスキルをお貸しいたしますわ」
ジュネーヴァは机の引き出しから、数枚の薄い契約書を取り出した。それを扇状に広げ、アヴェリオの前に置く。
「鞣しスキルを工房長に。畜産管理スキルを牧夫数名に。さらに、成長促進スキルで子牛の成育を短縮。繁殖促進スキルで雌牛の繁殖率を上げますわ。これで産業転換は、年単位ではなく、月単位で軌道に乗ります」
ジュネーヴァの説明は、奇跡を語る予言者のそれではなく、効率的な機材の導入を提案する商人のように淡々としていた。アヴェリオは並べられたスキルの名に目を見張り、震える手でその紙面に触れた。
「そのような技を、お貸しいただけるのですか。そのような大変な技を……」
「条件付きですわ」
ジュネーヴァの短く鋭い一言に、アヴェリオの表情が引き締まった。背後の扉付近では、ボリスが巨大な影となって静かに控えていた。
「スキル使用料は別途お納めいただくのではなく、領地経営の利益から一定割合を分配いただきます。いわば共同事業ですわね」
「共同事業……。ミリオン家が我が領の利益の一部を恒久的に……」
アヴェリオは目を帳簿に戻し、しばらくの間、無言で考え込んだ。
「当家にとっては、ありがたい話ですが……」
「ご懸念ですか」
「スキルが領地に根付かない、ということになりますね。お貸しいただいているうちは便利でも、いずれは……」
ジュネーヴァはわずかに頷いた。
「ご名答ですわ。スキルは当家の財産。お返しいただくことになります」
「やはり……」
「ですが、スキルは技術ですわ。お貸ししている間に、領民の方々がご自身の技を磨かれれば、いずれご返却後も役立ちましょう。一度身につけた手仕事の感覚は、道具を返した後も残りますわ」
ジュネーヴァの言葉に、アヴェリオは戸惑いを見せたが、彼女の言わんとするところは正確に伝わったようだった。
アヴェリオは、窓の外に広がる領地の景色を見やった。
「……お任せいたします。今の我が領には、選択の余地などございません。ですが……」
アヴェリオは立ち上がり、ジュネーヴァに向けて深く一礼した。
「これなら……領民にも説明できますわ」
アヴェリオは窓辺に歩み寄り、遠くの畑で立ち止まっている農夫たちの姿を見つめた。ジュネーヴァは表情を変えず、ただ開いたままの帳簿をゆっくりと閉じた。
「明日からは、具体的にどの方にどのスキルを配分するか、選別に入りますわ。お忙しくなりますわよ」
ジュネーヴァが立ち上がると、ボリスが音もなく扉を開けた。アヴェリオはもう一度頷き、力強い足取りで領民への説明のために部屋を後にした。ジュネーヴァはその背中を見送った。
◇ ◇ ◇
アヴェリオが館前の広場に出ると、そこにはすでに領民たちが集まっていた。春先の冷たい風が広場を吹き抜け、人々の粗末な上着を揺らしている。集まった領民たちは、一様に痩せ細り、その顔には深い疲労の色が刻まれていた。しかし、その瞳には、領主を見つめる強い光が宿っていた。
アヴェリオは石造りの階段の上で足を止め、集まった人々を見渡した。彼は一呼吸置くと、先ほど執務室でジュネーヴァから提示された再建案を、声を張り上げて説明し始めた。痩せた畑での穀物生産を縮小し、豊かな水場を活かした畜産業へと舵を切ること。そして、帝国から訪れたミリオン家の令嬢より、それを支えるための「技」が貸し与えられること。
「金貸しの言いなりか」
最前列にいた若い男、領民Aが吐き捨てるように声を上げた。周囲の領民たちからも、戸惑いと警戒の混じった囁きが広がる。場の空気は一気に険しくなり、アヴェリオに向かって突き刺さるような視線が向けられる。
アヴェリオは怯むことなく、一歩前へ踏み出した。彼の表情に、領主としての威厳が宿っていた。
「この方は種もみを残してくれた。王宮は取り上げようとした」
その力強い言葉に、広場が静まった。領民Bは呆然とした顔で口を開き、言葉を失った。
長い沈黙が流れた。風の音だけが響く中、一人の年配の農夫が、使い古された鍬を杖代わりにしながらぽつりと漏らした。
「……牛か。わしらに飼えるかね」
諦めの色に染まっていた彼の目が、初めて前を向く。
「鞣しの技を、お貸しくださるそうじゃ」
別の領民が隣の者に耳打ちし、情報が広がっていく。
「やってみるか」
若い農夫の一人が、力強く拳を握りしめた。一人、また一人と、領民たちの表情が変わっていく。
アヴェリオの言葉が領民の間に広がる頃、館の二階の窓辺では、別の光景が静かに進んでいた。
ジュネーヴァは高い窓の縁に立ち、無表情に広場を見下ろしていた。彼女の隣には、大きな影となってボリスが控えている。
「お嬢、領民が動き出してまっせ」
ボリスが窓の外を見つめたまま、含み笑いを交えて言った。ジュネーヴァは目を逸らさず、冷淡とも取れる口調で短く返す。
「潰れたら返ってこないですもの」
「お嬢、それでも領民は動きますわ」
ボリスは主人の頑なな言葉を肯定するように頷き、再び広場へと目を向けた。領主の呼びかけに応じ、人々が互いに肩を叩き合い、解散し始めている。その足取りには、先ほどまでの重苦しさはなかった。
ジュネーヴァはしばらくの間、その光景を眺めていたが、やがて静かに窓から離れた。
「数字が動いてくださるなら、結構ですわ」
彼女の声は静かな室内に消えた。ジュネーヴァは机の上の帳簿を手に取ると、それを丁寧に鞄の中へと仕舞い込んだ。ボリスがその様子を見て、馬車の準備が整ったことを告げる。
「帰りましょう。明日の早朝には王都での商談が控えていますわ」
ジュネーヴァは一度も後ろを振り返ることなく、館の出口へと向かった。彼女の歩みは滞りなかった。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァを乗せた馬車は、夕暮れの街道をカンプス領から王都へと走り始めた。
春先の柔らかな夕闇が、街道の砂利道を淡く照らし出している。馬蹄の規則正しい音と、車輪が小石を弾く振動が、閉ざされた車内に静かに響いていた。窓の外には、オレンジ色に染まったカンプス領の田園風景がゆっくりと遠ざかっていく。
馬車の窓から、まだ畑に残って作業を続ける領民たちの姿がちらりと見えた。昼間の集会を経て、彼らの動きには昨日までの重苦しい停滞がなかった。ジュネーヴァは背もたれに深く身を預け、その光景を無表情に眺めていた。
彼女の膝の上には、銀細工のキセルケースが置かれている。細かな彫刻が夕陽を反射して鈍く光っているが、ジュネーヴァがその蓋を開ける様子はなかった。ただ、白く細い指先がケースの縁を静かになぞるだけである。向かいの座席には、巨体を窮屈そうに揺らしながらボリスが座っている。
車内には、しばらくの間、沈黙の時間が流れた。
「お嬢、あの領主はん助けるんですな」
ボリスが沈黙を破るように、低く、しかし含みのある声で言った。彼は御者台ではなく、主人の向かいでその様子を観察するように顔を向けている。ジュネーヴァは窓の外を見据えたまま、冷淡とも取れる響きで答えた。
「助ける? 貸したものを返していただくだけですわ。潰れたら返ってこないでしょう」
その言葉を聞いたボリスは、ニヤリと口角を上げ、満足げな笑みを浮かべた。
「はいはい、そういうことにしときまひょ」
以前よりも手慣れた含み笑いだった。ジュネーヴァはわずかに眉を寄せ、不機嫌を装うように彼へ目を移した。
「何のことですの?」
「いえ、何でもありまへん」
ボリスは飄々とした態度でとぼけ、窓の外へと顔を逸らした。ジュネーヴァは小さく鼻を鳴らし、再び夕暮れに沈みゆく街道へと目を向ける。
膝の上のキセルケースには、最後まで手がつけられることはなかった。馬車はカンプス領の境界を越え、王都へと続く一本道を加速していく。




