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第6話:取り立ての朝

 石造りの城壁に囲まれたファルキウス領の朝は、鉄と汗の匂いで幕を開ける。


 城館へと続く石畳の道を、ミリオン家の紋章を冠した馬車が静かに進んでいた。窓の外からは、夜明けとともに始まった練兵の鋭い掛け声が絶え間なく響いてくる。木剣がぶつかり合う乾いた音、重い足踏みの地響き、そして教官の罵声。


 馬車が城館の正面に止まると、大柄な従者であるボリスが先に降り、恭しく扉を開けた。車内から現れたのは、装飾を極限まで削ぎ落とした、濃紺の実務的なドレスを纏ったジュネーヴァ・ミリオンである。彼女は周囲の荒々しい空気に眉一つ動かすことなく、手にした一冊の分厚い帳簿を抱え直した。


 案内された広間は、およそ貴族の社交場とは思えぬほどに武骨な空間であった。磨き上げられた石壁には、歴代の主が戦功で得たのであろう古い刀剣や槍、意匠の凝らされた甲冑がずらりと並び、窓から差し込む朝の光を冷たく跳ね返している。


 広間の中央には、一人の男が立っていた。ベルクト・ファルキウス侯。丸太のように太い腕と、顎を覆う濃い髭が特徴的な巨漢である。彼は執務の最中であるにもかかわらず、鈍い輝きを放つ甲冑を身に纏っていた。彼がわずかに身じろぎをするたびに、金属が擦れる耳障りな音が静かな広間に響き渡る。その背後には、神経質そうな面持ちの家令が、音もなく控えていた。


 侯は、近づいてくるジュネーヴァを、無遠慮な視線で見据えた。


「ミリオン家の小娘か。わざわざ出向いてくるとは、よほど暇らしいな」


 地を這うような低い声。その言葉には、昨日、執務室で督促状を投げ捨てた時と同様の、隠しきれない傲慢さが滲んでいた。ジュネーヴァは武人の威圧を意に介さず、完璧な角度で会釈を返した。


「失礼します。お話があります」


「金などない。返済の催促か」


 侯は鼻を鳴らし、わざとらしく腰の剣の柄に手を置いた。その威嚇を無視して、ジュネーヴァは淡々と、しかし淀みのない動作で抱えていた帳簿を開く。頁を捲る紙の音だけが、鎧の軋みに対抗するように響いた。


「ファルキウス侯。お借入の状況、確認しましょう」


 彼女の指先が、一行の数字を指し示した。


「元金一千万ディナール。年利十パーセント。前回の約定返済日から本日までの延滞期間、実に五百四十七日。複利計算と延滞利息を合わせると、現在のご債務総額は一千五百万ディナールに達しています」


 響く数字の羅列。広間の空気が、一瞬にして凍りついた。侯の眉が大きく跳ね上がる。その表情には、明らかな動揺が走っていた。


「そんなに膨れ上がっているはずが……」


「利息は日々加算されます。止まるのは返済された時だけ」


 ジュネーヴァの声は、冷ややかだった。感情の介在しない、ただ事実だけを告げる声。


 侯は顔を真っ赤にし、一歩、力強く踏み出した。甲冑の金属音が激しく鳴り響く。


「金がないものはない。力づくで取り立てるつもりか? この城には五百の兵がいるぞ」


 それは、明らかな恫喝であった。外からは、まるで彼の言葉を裏付けるかのように、練兵の掛け声が一際大きく聞こえてくる。


 だが、その緊迫した空気の中で、ジュネーヴァの背後に立つボリスが、事もなげに口を開いた。


「ふぁ……」


 無造作な欠伸だった。緊張感の欠片もない、退屈そのものといった仕草。


 ジュネーヴァは、そんな従者の振る舞いを咎めることもなく、感情の消えた瞳で侯を見つめ返した。


「力づく? まさか。ただ、お返しいただけない場合の手順はあります」


 彼女は帳簿の中から、あらかじめ用意していた一枚の書面を差し出した。それは、数年前に侯自身が署名し、紋章を捺した担保提供の契約書であった。


「ご自慢の刀剣・槍のコレクション一式と、お家に伝わるミスリルの鎧」


 ジュネーヴァの視線が、壁に飾られた武具、そして侯が今まさに身に纏っている最高級の防具へと移動した。その視線は、もはや美術品や歴史的価値を見るものではなく、素材を見定めるそれであった。


「ミスリルは鋳潰せば相応の値がつきますわね」


 その一言が放たれた瞬間、広間の温度が明確に数度下がった。背後の家令が、あまりの衝撃に顔を蒼白にしてよろめく。外で響いていた練兵の音さえも、一瞬だけ遠のいたかのような錯覚を覚えるほどの静寂。


「鋳潰す……だと?」


 侯の声は震えていた。ジュネーヴァは、動揺する相手の心中など一顧だにせず、淡々と帳簿を閉じた。その仕草は、一連の事務作業を終えただけの、酷く簡素なものだった。


「返済の期限は今月末。ご検討ください」


 彼女は完璧な一礼を残し、呆然と立ち尽くす侯を背にして、迷いのない足取りで広間を後にした。


 約束の期限の日、ファルキウス領の城門は、戦うことなく開かれた。契約に基づき、ミリオン家の手配した荷車が次々と城内に入り、壁を飾っていた名刀や槍のコレクションは、無造作に積み上げられていった。最後には、侯が誇りとしていたミスリルの鎧もまた、契約書の条項に従って淡々と運び出される。


 帰路の馬車の中、ジュネーヴァは背もたれに身を預け、手元のキセルに火をつけた。車内に紫煙が漂い、窓から差し込む日の光を乱している。ボリスは向かいの席で、大きな体を揺らしながら彼女に問いかけた。


「お嬢、ほんまに鋳潰しはるんですか」


「素材の相場次第」


 ジュネーヴァは窓の外を流れる景色を見つめたまま、短く答えた。


「お嬢、それは慈悲ですか」


 ボリスの問いに、ジュネーヴァはキセルを口から離し、一筋の煙をゆっくりと吐き出した。


「慈悲ではなく、判断です」


「あの人、これから大変でんな」


 ボリスが独り言のように呟いたが、ジュネーヴァはそれには答えず、再び煙を吐き出した。馬車は止まることなく、次の数字が待つ場所へと走り続けていた。


 ◇ ◇ ◇


 ファルキウス領を後にした馬車は、その日のうちに次の領地へと向かった。武骨な石造りの風景が遠ざかり、代わりに現れたのは、どこまでも平坦で、しかしどこか生気を欠いた農村の風景である。


 スルプス領に入ると、街道の様子は一変した。路面は手入れがなされず、至る所に深い轍と水溜りが放置されている。道行く領民たちは一様に痩せ細り、継ぎ接ぎだらけの衣服を纏って、力の抜けた動作で荒れた畑を耕していた。収穫を待つ作物はどれも小ぶりで、土そのものが痩せ細っていることを示している。


 馬車が村の入り口に差し掛かったとき、立ち止まった数人の農夫たちの声が、開いた窓から微かに漏れ聞こえてきた。


「税が、また上がった」


「殿様は新しい馬車を買われたそうだ」


 吐き捨てるような、しかし諦めに満ちた言葉だった。その会話を耳にしたボリスは、窓の外の荒廃した景色を眺めながら、重い溜息をついた。


「お嬢、こりゃ酷い」


 ボリスの声には、純粋な嫌悪が混じっていた。ジュネーヴァは視線を膝の上の帳簿から動かさず、ただ一度だけ、わずかに目を細めた。


「予想通りです」


 短く返した声は、いつものように平坦である。


 馬車はやがて、村々の惨状とは不釣り合いなほど豪奢な領主館に到着した。白亜の壁には金細工の装飾が施され、手入れの行き届いた庭園には季節外れの珍しい花々が咲き乱れている。館の入り口には、最新式の豪奢な馬車が誇らしげに置かれていた。


 通された応接間もまた、目を覆いたくなるような成金趣味に溢れていた。壁には新調されたばかりの巨大な油彩画が並び、天井からは過剰なまでにクリスタルを連ねたシャンデリアが吊り下げられている。床に敷かれた厚手の絨毯は、王都の最高級品である。


 そこへ、絹の服を幾重にも重ね着し、指という指に宝石の指輪を嵌めた太った男が現れた。


「ジュネーヴァ嬢、ようこそ。生憎、お納めできる金はないのですよ」


 エヴァリス・スルプス男爵は、額に脂汗を浮かべながら、にやにやとした愛想笑いを浮かべた。その目は絶えず泳いでいる。


 ジュネーヴァは男爵の言葉を遮ることなく、静かに帳簿を机の上に置いた。


「あなたの領地の生産高は伸びています。歳入は増えているはず。なぜ返済が滞っているのか」


「て、天候不順で」


 男爵はハンカチで額の汗を拭い、椅子に深く腰掛けた。


「天候は隣領も同じはず。けれど隣領のご返済は順調です」


 ジュネーヴァは淡々と言い放ち、視線を部屋の隅々にまで巡らせた。


「立派なお部屋ですわね」


「先月、王都で新しい馬車を買われましたね。先々月は宝石商から指輪を。先々々月は別宅の修繕」


 ジュネーヴァが読み上げるたびに、男爵の笑みが引き攣っていく。元金二百四十万ディナール。その利息すら満足に払わず、月数万から十数万ディナールもの私腹を肥やす支出。


「数字は嘘をつきませんもの」


 逃げ場のない事実を突きつけられ、男爵は顔を赤く染めて身を乗り出した。


「選択肢を提示します。一つ、今すぐ全額ご返済。二つ、領地の経営権を当家に譲渡」


「金貸し風情に領地を譲るなど、ありえん」


 男爵は怒号を上げた。ジュネーヴァは少しも怯むことなく、開いていた帳簿を静かに閉じた。


「そうですか。では、別の道で」


 彼女は一礼を残し、迷いのない足取りで部屋を後にした。


 翌日から、王都の経済の深層が静かに動き始めた。ミリオン家が影響力を及ぼすネットワーク──質屋、賭博場、宝石商、そして複数の小規模な高利貸し。それら全てに対し、ジュネーヴァの名で簡潔な通達が下された。スルプス男爵への一切の新規融資を停止せよ。既存の債務は即刻回収せよ。男爵が王都で散財を続けるために頼りにしていた融資の口は、わずか数日のうちに完全に閉じられる。


 数日後、ジュネーヴァは再びスルプス領主館の応接間に座っていた。現れた男爵の姿に、前回の傲慢な面影はなかった。服は皺寄り、脂汗が染み付き、目は血走っている。王都の債権者たちから一斉に突きつけられた回収の催促が、彼の財政基盤を根底から破壊したことは明白だった。


「……経営権を、譲る」


 男爵は、絞り出すような声で呟いた。その声には、もはや怒りも拒絶も残っていなかった。


「賢明なご判断です」


 ジュネーヴァはあらかじめ用意していた一枚の書面──領地経営権の委託と、収益の優先的な債務充当を定めた契約書を机に滑らせた。


「ご署名を」


 男爵は震える手でペンを取り、自らの名を書き入れた。インクが滲んだ。


 署名が終わるのを待ち、ジュネーヴァは書類を回収して、初めて微かな微笑を口元に浮かべた。


「ご協力ありがとうございます」


 彼女は一呼吸置き、男爵を見据えた。


「明日より、当家の代官が領地経営に入ります」


 男爵が顔を上げ、何かを言いたげに口を開く。しかし、ジュネーヴァはそれを制するように言葉を続けた。


「肩書きはそのままで結構ですわ。実権だけ、当家が握ります」


「ご協力ありがとうございます」


 最後に繰り返された言葉を残し、ジュネーヴァはボリスを連れて退出した。


 ◇ ◇ ◇


 夜の静寂が、ミリオン家の駐在屋敷を深く包み込んでいた。執務室の窓の外には、王都の夜景が静かに広がっているが、室内には卓上のランプが放つ柔らかな光が満ちているのみである。


 ジュネーヴァ・ミリオンは机に向かい、今日一日の成果を帳簿に書き込んでいた。ファルキウス侯と、スルプス男爵。それぞれの名の横に、領地経営権の委譲や担保執行の完了を示す印が、淀みのない筆致で刻まれていく。


 傍らで報告書に目を通していたボリスが、静かに紙を束ねた。


「お嬢、二件、片付きましたな」


 ボリスの声は、夜の空気に馴染む穏やかなものだった。ジュネーヴァはペンを止めず、視線を帳簿に落としたまま答える。


「ええ。残るは、保証人の案件と、街道のご老体です」


「保証人は、あの細工師はんでっか」


「フェリックス・アルティオさん。借主が逃げて、保証人だけ残されたケースです」


 ジュネーヴァは別の分厚い帳簿を開き、挟んであった一枚の書類を指先でなぞった。そこには細工師の署名があった。


「街道は、ヴィアトル男爵はんでしたな」


「先代の借金を律儀に返していらっしゃる、品のあるご老体です」


「お嬢、明日からどっち先に」


 ボリスの問いに、ジュネーヴァは僅かにペンを浮かせた。


「回収率を考えれば、保証人から。逃げた本人を捕まえて、本人から取れる目処を立てた方が、結果的に大きな回収になります」


 ボリスは少しだけ目を細め、どこか得心のいったような声音で言った。


「お嬢、相変わらずでんな」


 ジュネーヴァは帳簿の頁をめくり、新しい頁の真っ白な行に目を落とす。


「契約に基づいて処理しているだけですわ」


 ジュネーヴァは抑揚のない声で言い放つと、再びペンを紙に走らせ始めた。カリッ、という硬質な音だけが、静まり返った執務室に響き続ける。


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