第4話:返済交渉
ローレンシア王宮の応接間に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは、徹底的なまでの虚飾と伝統の輝きであった。
大理石の床、絹のカーテン、金細工の燭台、繊細な彫刻が刻まれた黒檀の椅子。それら全てが、ローレンシア朝が積み上げてきた歴史と威信を誇示している。
その豪華絢爛な空間で、ジュネーヴァ・ミリオンの立ち姿は異質なほどに際立っていた。彼女が身に纏っているのは、装飾を極限まで削ぎ落とした、実用的な黒のドレスである。虚飾に満ちた王宮の格調とは真っ向から対立する、機能美の装いだ。
ジュネーヴァは応接間を見渡すと、まるで競売の下見でもするかのような視線で、調度品の一つひとつをなぞった。
「立派なお部屋ですわね。調度品の質も悪くありません」
扉の脇にお仕着せ姿で屹立していたボリスが、周囲に悟られぬよう小さな声で囁いた。
「お嬢、調度品の査定はあとにしなはれ」
ジュネーヴァは視線を正面に戻し、同じく秘めやかな声で応じる。
「していません。……まだ」
その「まだ」の一言を、ボリス以外の者が知る由もない。
やがて応接間の重厚な扉が開かれ、数人の家臣を伴って財務大臣ロブストゥス・テソリが入室した。前夜の騒動から一睡もしていないことを物語る髭の剃り残し、目の下のクマ、皺の寄った官服。彼はジュネーヴァの前に立つと、深く頭を下げた。
「お待たせいたしました、ジュネーヴァ嬢。ご足労いただき恐縮でございます」
ジュネーヴァは一分の隙もない姿勢で、淀みのない所作で問いを投げかけた。
「陛下はご欠席ですか」
その瞬間、テソリの目線が泳いだ。彼は震える手で眼鏡を押し上げ、それを口実にジュネーヴァの視線から逃れるように目を伏せる。
「……陛下は本日、ご体調が」
声は意図的に一段低く落とされていた。ジュネーヴァはそれ以上の追及をしなかった。
「そうですか。では、本題に入りましょう」
ジュネーヴァは事も無げに受け流すと、椅子に腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
テソリが震える手で重厚な装丁の帳簿を差し出した。
「こちらが、王国の財務状況でございます」
差し出された帳簿は、王国側が「見せても構わない」と判断した範囲内で整えられたもので、致命的な欠陥は巧妙に塗り潰されている。
ジュネーヴァは表情一つ変えず帳簿を受け取ると、淀みのない所作で頁を捲り始めた。彼女の目は、羅列された数字をただ静かに追っている。計算機を取り出すことも、指で数字をなぞることもない。
頁を捲る指先が、ある一箇所で唐突に止まった。
「こちらの項目、数字が合いませんね」
ジュネーヴァの声は、凪いだ海のように平坦であった。テソリの眼鏡の奥の瞳が、一瞬鋭く揺れる。彼は動揺を隠すように眼鏡を押し上げたが、ジュネーヴァは逃さなかった。
「歳入総額と項目別の合計が、約二割ずれております」
扉の脇で控えていたボリスが、テソリの顔色の変化を認め、「あちゃー」と言わんばかりに顔をしかめた。
テソリは言葉を失い、額から一筋の汗が流れ落ちる。
ジュネーヴァは帳簿を閉じ、静かに立ち上がった。
「ご開示の前提が成り立ちません。失礼します」
カラン、と乾いた音が静寂を破った。テソリの手から滑り落ちた羽ペンが、大理石の床に転がっていた。彼は顔を真っ青に染め、立ち去ろうとするジュネーヴァを必死に引き止めた。
「お待ちください! ……隠しておりました部分を、お見せいたします」
テソリは深く、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
ジュネーヴァは、頭を下げる彼を冷めた目で見つめた後、何事もなかったかのように再び椅子へと腰を下ろした。
「では、続きを」
彼女がそう短く促すと、テソリは震える手で、本来は誰にも見せるはずのなかった真実の帳簿を差し出した。
ジュネーヴァは沈黙を守ったまま、新しく提示された帳簿を捲り続けた。十分、二十分。彼女の視線は数字を一つひとつ正確に追っていく。
ページを捲る乾いた音だけが、室内に響き続けた。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァが帳簿の最終頁を閉じた時、革表紙が立てた重厚な音が室内に落ちた。彼女は視線を上げることなく、指先で卓上の書類を整えた。
「分割返済を認めましょう」
その第一声に、テソリと背後の家臣たちは目に見えて安堵の溜息を漏らした。だが、ジュネーヴァの瞳には、一切の慈悲は宿っていない。
「ただし条件があります」
安堵は一瞬で霧散した。ジュネーヴァは淡々と、事務的な響きを湛えた声で条件を列挙し始めた。月次の返済額は国家予算の数%に及び、利率は既存の契約よりも一回り高い。返済スケジュールの遅延は一切許容されない。
「追加担保として、王領鉱山の採掘権、主要港湾の使用権、および王宮所蔵の文化財一式。これら全ての差し押さえを条件とします」
テソリの顔が、聞くたびに青白く塗り替えられていく。彼は震える声で、必死の反論を試みた。
「これでは……領主への増税なしには到底……」
だが、ジュネーヴァは僅かに目を細め、氷のようなトーンで彼を遮った。
「それは王国の内政です。私が関知するところではありません」
突き放すような、冷徹なまでの距離感であった。
「条件を飲まれない場合は、本日付で全額即時返済となります。よろしいですか」
テソリは深い沈黙の後、力なく項垂れた。
「……承知いたしました」
ジュネーヴァは淀みのない動作で一通の書面を差し出した。それは、あの夜、舞踏会で王太子ナルキスに突きつけたものと、同じ意匠の契約書であった。
「では、こちらにサインを」
テソリは震える手で羽ペンを取った。書類を受け取ろうとする指先は、隠しようもなくわななき、大理石の卓上でインクを一滴、零した。それでも彼は自らの責務として、震える筆致で署名を刻む。
ジュネーヴァは完成した書類を手に取ると、インクが乾くのを待って静かに仕舞い込んだ。
◇ ◇ ◇
王宮の重厚な門が遠ざかり、馬車は王都の夜へと滑り出した。
石畳を叩く蹄の音が、夜の静寂の中に規則正しく響く。窓の外では、街灯の淡い光が流れるように背後へと消えていき、歴史ある建物のシルエットが暗がりに溶け込んでいる。
ジュネーヴァは、揺れる馬車の中で深く背もたれに身を預けた。指先が銀細工のケースから一本の長細いキセルを取り出す。火打ち石が鋭い火花を散らし、火皿に小さな赤い光が灯った。
ふう、と静かに吐き出された青白い煙が、窓の隙間から夜風に乗って外へと流れていく。赤い火が、ジュネーヴァの端正な横顔を微かに照らし出した。窓外を流れる街灯の光と月光、そして手元の小さな赤が、彼女の貌に明暗のコントラストを描き出す。
ボリスは、王宮での張り詰めた空気が嘘のように、肩の力を抜いていた。
「お嬢、あの条件やとどうなりまんの」
ジュネーヴァはキセルを咥えたまま、視線を夜の街に向けた。
「さあ。王国がどうなさるかは王国の判断です」
彼女は続けて煙を吐き出した。
「増税なさるでしょうね」
ボリスは顔を顰め、後頭部を掻いた。
「……増税したら領主はん怒りまっせ」
「ええ」
ジュネーヴァはキセルの火皿を見つめ、指先でそれを軽く叩いた。
「怒った領主の方々が、私のところへ駆け込んでくるかもしれません」
ボリスはジュネーヴァの横顔を凝視し、何かを察したように言葉を切った。
「お嬢、それ全部読んだ上で条件出しはったんですか」
ジュネーヴァはキセルを仕舞い、窓外の闇を見つめた。
「読んだのではありません。自然な帰結ですもの」
ボリスはそれ以上、何も言えなかった。
馬車は街灯の届かない暗い道へと進み、夜の闇に飲み込まれるようにして消えていった。




