第3話:金貸し令嬢の日常
窓外から差し込む朝の光が、執務室の空気に細かな塵を躍らせていた。帝国方伯家の駐在屋敷という性格上、この部屋の調度品はどれも実用的で堅牢な造りだ。革表紙の帳簿が並ぶ書架、使い込まれた黒檀の机。無駄な豪奢を排した空間に、微かなインクの匂いと、朝の冷気を孕んだ静寂が満ちていた。
ジュネーヴァ・ミリオンは、机に向かっていた。
彼女の指先が、流れるような動作で帳簿の頁を捲る。羽ペンが時折、規則的な音を立てて数字を刻んでいく。その横には、机の隅に追いやられた三客のティーカップが並んでいた。いずれも一度も口をつけられることなく、表面の湯気はとうに消え失せている。
その張り詰めた空気を破る者がいた。
部屋の隅の大振りのソファ。そこに窮屈そうに、しかしだらしない体勢で巨体を沈めているのは、従者のボリスであった。お仕着せの正装を身に纏ってはいるが、その着こなしには欠片の緊張感も宿っていない。
ボリスは広げていた新聞から顔を上げ、机の上の冷めきったカップに視線を向けた。
「お嬢、紅茶冷めてまっせ。三杯目ですわ」
ジュネーヴァの羽ペンが、一瞬だけ止まる。だが、視線は帳簿に向けられたままだ。
「業務中ですの」
ボリスは気にした風もなく、手にしていた新聞を指先で弾いた。一面には、昨夜の舞踏会での騒動を報じる太い活字が躍っている。
「お嬢、えらい有名人になってまっせ。『悪女、王国を脅かす』やて」
昨夜、王太子ナルキスの署名を毟り取った「ミリオン家の令嬢」の噂は、一夜にして王都の朝刊を埋め尽くすスキャンダルへと変貌を遂げていた。
「これでお嬢のお名前、王都の隅々まで届きましたな」
ボリスの口調には、主人への嘲りではなく、むしろ事態を楽しんでいるような皮肉めいた響きがあった。
ジュネーヴァは、帳簿から目を上げないまま、平坦な声で応えた。
「脅かした覚えはありません。契約に基づいて処理しただけです」
羽ペンがまた数字を刻む。彼女にとって昨夜の出来事は、未回収の債権を適正な手続きで清算したに過ぎない。
「悪女と呼ばれるのは、初めてではありません」
その一言だけが、これまでの彼女の年月をわずかに匂わせた。詳しくは語らない。語る必要も感じていない。
ジュネーヴァは一際大きな頁を捲り終え、ゆっくりと帳簿を閉じた。革表紙が重厚な音を立てる。朝の業務が、一段落した合図であった。
◇ ◇ ◇
執務室の機能的な静寂とは対照的に、ビリヤード室には洗練された贅沢な空気が流れていた。天井のシャンデリアの柔らかな光が、台に張られた鮮やかな緑のフェルトを照らし出している。
ジュネーヴァは、長細いキセルを薄い唇に咥え、細い指先でキューを操っていた。お嬢様としての端正な佇まいと、玄人めいた手つきでキセルを燻らす所作。その不釣り合いが妙に様になっている。
対戦相手として反対側に立つボリスが、大柄な体を折り曲げるようにしてキューを構えながら、面白そうに目を細めた。
「お嬢、また負けたら不機嫌になりはるんでしょ」
ジュネーヴァはキセルを口から離し、紫煙を細く吐き出した。視線を玉から逸らすことなく、冷淡な、しかしどこか愉しげな響きを湛えた声で返す。
「業務外ですので本気を出しますわ」
直後、鋭い打球音が響いた。手球が標的の玉を弾き、吸い込まれるようにポケットへと落ちる。
ボリスは感心したように肩をすくめ、次の話題を振った。
「あの王太子はん、ほんまにアホでんな。契約書読まんと署名て」
ジュネーヴァは再びキセルを咥え、低く身を沈めた。
「読まない方が悪いのです。それより、次の一手を考えなさい」
ボリスはあえて挑発的な笑みを浮かべて問い返した。
「そらまた、どっちのお話で?」
ジュネーヴァはキセルを灰皿の縁で軽く叩き、再び青白い煙を吐き出す。
「ビリヤードのお話ですか、それともご返済のお話ですか」
ジュネーヴァの右手が、再びしなやかに動いた。
カチ、カチ、カチ。
三つの打球音が、間髪入れずに連続して響き渡る。手球の勢いを殺し、次の配置を完璧に作り上げながら、彼女は三つの玉を次々とポケットに沈めてみせた。
ボリスは呆然とそれを見送り、思わず本音が漏れた。
「えげつな……」
驚嘆と諦めが混じったその呟きが、静かな遊戯室に落ちる。ジュネーヴァは満足げにキセルを一口吸い込み、長く煙を吐いた。
その時、屋敷の奥から、正面玄関の重厚な扉を叩く微かな音が響いてきた。遊びの時間は終わりだ。ジュネーヴァはキューを置き、キセルの火を消した。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァは銀細工のキセルケースに残り火を収めると、ビリヤード室から応接間へと移動した。背筋を伸ばし、一分の隙もない姿勢でソファに腰を下ろす。先ほどまでの勝負師の熱は消え、代わりに「ミリオン家のお嬢様」の顔が宿っていた。
傍らのボリスが、重厚な扉を開け放つ。
姿を現したのは、王宮の文官アエミリウスであった。彼は扉の脇に立つボリスの巨体に一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに実直な顔つきを取り戻して一歩前に出た。
「国王陛下より、返済交渉のお申し入れでございます」
ボリスが小声で囁いた。
「お嬢、待ってたんですか」
ジュネーヴァは視線を正面に据えたまま、耳に届くか届かないかの掠れた声で応じる。
「当然です。来ない方がおかしいでしょう」
そして、アエミリウスに向けては芯に冷たさを孕んだ笑みを向けた。
「あら、ようやくいらしたのですね。お待ちしていました」
アエミリウスは小さく頷くと、自身の後ろに控えていた一人の女性を促すように道を開けた。
「こちらは王家のダフネ様。本件のご見学にお越しでございます」
ジュネーヴァの視線が、その女性──ダフネ・ローレンシアへと注がれた。
王太子ナルキスの妹であり、王位継承順位第三位の地位にある王女。しかし、彼女の装いは王族としては驚くほど質素であった。ドレスは上質ではあるが装飾は最小限に留められ、宝石の類も殆ど見当たらない。華美を好まぬ性分が、装いの隅々にまで表れていた。
ダフネは静かに立ち、ジュネーヴァの視線を正面から受け止めた。表情は穏やかだが、瞳の奥には深い知性と、決して揺るがない強い意志が宿っている。
ジュネーヴァは軽く会釈をした。普段、王族に向ける形式的な敬意よりも、ほんのわずかだけ声のトーンが和らぐ。
ダフネが先に口を開いた。
「ジュネーヴァ嬢。お会いできて光栄です」
その清冽な声に、ジュネーヴァは謙遜の中に皮肉を混ぜて返した。
「光栄なことなど、何もありません。私は金貸しですもの」
ダフネはかすかに、しかし確かに微笑んだ。
「金貸しの方が、よほど信頼に値します」
一瞬、室内を静寂が支配した。
ジュネーヴァの眉が、僅かに跳ね上がる。
ダフネはそれ以上語ることなく、再びアエミリウスの後ろへと下がった。アエミリウスが恐縮したように礼を尽くし、ダフネを伴って一旦応接間を退く。
扉が静かに閉じられた後、ボリスが堪えきれないといった風に口を開いた。
「お嬢、あれ、王女はん?」
「ええ。継承順位第三位、王太子殿下の妹君様」
ジュネーヴァは閉まった扉を一瞬だけ見つめた。
「数字を読める方です」
「?」
「目を見ればわかります」
◇ ◇ ◇
ダフネが応接間を辞した後、アエミリウスは詳細を詰めるべく再び戻ってきた。返済交渉の第一歩を、どうしてもこの場で取り付けなければならないという必死さが、強張った肩から伝わってくる。
ジュネーヴァの瞳からは、先ほどの僅かな柔らかさは消え、冷徹な債権者の光が宿っている。
「交渉には応じます。ただし、条件があります」
その涼やかな声に、アエミリウスは深く頭を下げた。
「殿方のお話を伺う前に、まずは数字を見せていただきたい。王国の財務諸表、全て」
アエミリウスの言葉が、喉の奥で凍りついた。顔から急速に血の気が引いていく。眼鏡を押し上げる指先が、隠しようもなく震えていた。
「ぜ、全部、で──」
「全部、です」
ジュネーヴァは、アエミリウスが言い終える前にその言葉を遮るようにして、有無を言わせない確信を持って言い放った。唇には業務用の微笑みが浮かんでいる。
アエミリウスは力なく項垂れ、絞り出すような声で承諾の意を告げると、応接間を後にした。
扉が閉まり、再び二人きりになった室内で、ボリスがようやく深い溜息を吐いた。
「お嬢、あの王女はん、お嬢に対して笑った王族、初めて見ましたわ」
ジュネーヴァは窓外の、遠く王宮の尖塔が見える空へと視線を移した。
「珍しい王族ですわね」
「お嬢、本気で評価してはるんですか?」
ボリスの問いに、ジュネーヴァは淡々と返した。
「目を見ればわかります」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「明日、王宮に参ります」




