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第2話:国王の怒り

 窓外から差し込む朝の柔らかな陽光が、ローレンシア王宮の執務室を穏やかに照らしている。


 国王テオドリクス三世は、重厚な執務机に向かって朝の政務に勤しんでいた。羽ペンを走らせる手元は確かだが、時折、凝り固まった肩を回す所作には、隠しきれない年齢の重みが滲んでいる。理性と威厳は未だ衰えていないが、寄る年波による体力の低下は、彼自身が最も深く自覚していることだった。


 その静寂を破ったのは、控えめながらも切迫した扉の叩音である。


 入室を許された数人の家臣たちは、揃って紙のように青ざめた顔をしていた。執務机から一段下がった位置で、硬直したまま控えている。その異様な空気に、テオドリクスはペンを止めた。


 先頭に立つ文官が、震える手で書面の写しを差し出した。ミリオン家の紋章が刻印された、法的な受理書である。


 国王は無言で書面を受け取り、視線を落とす。


「……これは何だ」


 低く、地を這うような声だった。確認の問いではあったが、その奥底には、嫌な予感を確信へと変えようとする静かな怒りが孕まれていた。


 家臣の一人が、喉を鳴らしてから絞り出すように報告を始めた。


「ご報告申し上げます。昨夜の舞踏会にて、ナルキス殿下がジュネーヴァ嬢にご婚約破棄を……」


 テオドリクスの眉間に深い皺が刻まれる。家臣の報告は、追い打ちをかけるように続いた。


「ジュネーヴァ嬢は淡々と書面を整えられ、殿下にご署名を。返済猶予の解除が確定いたしました」


 その瞬間、執務室内の温度が数度下がったかのような錯覚を、誰もが抱いた。


 国王の手の中で、写しがわななき始める。ミリオン家との間に結ばれた「絶対条件契約」──その重みを、署名した本人である国王が誰よりも知っていた。王宮を、そして国家を支える危うい均衡が、実の息子のあまりにも浅はかな一筆によって崩れ去ったのだ。


「あの馬鹿息子が、何をしでかしたのだ!!」


 窓を震わせるほどの絶叫が響き渡った。理性的であることを信条としてきたテオドリクスの、剥き出しの怒りであった。


 ぎり、と厚手の紙が拉げる音が、沈黙の戻った室内に響く。窓外の朝の光は変わらず穏やかであったが、王宮の奥深くに座す者たちの顔には、暗雲が垂れ込めていた。


 ◇ ◇ ◇


 握りつぶされた書面の音の余韻が、執務室の冷えた空気の中に消えても、誰一人として動くことはできなかった。テオドリクス三世の荒い呼吸音だけが室内に響いている。


 その沈黙を破り、控えていた家臣たちの列から、一人の男が恐る恐る前に進み出た。


 財務大臣ロブストゥス・テソリである。中年の顔には、長年、空になりかけた国庫の帳尻を合わせ続けてきた者特有の苦渋の皺が刻まれている。彼は震える手で眼鏡を押し上げ、深く頭を垂れた。


「……畏れながら、陛下。この受理書が意味するところをご説明申し上げます」


 テソリの声は、自身の職責の重さに耐えかねるように、わずかに掠れていた。


「ミリオン家との婚約は、王国への融資に対する返済猶予の『絶対条件』でございました。婚姻による両家の結びつきこそが、返済能力の担保とみなされていたのです。しかし、昨夜の殿下による一方的な破棄により、その猶予は完全に消滅いたしました」


 テソリは一度言葉を切り、喉を鳴らした。


「一億八千万ディナール。おおよそ国家予算三年分でございます」


 国王の眉が跳ね上がった。背後に控える家臣たちの間から、絶望に満ちた息を呑む音が漏れる。


「現在の国庫では、逆立ちしても……」


「支払えるわけがなかろう!」


 テソリの言葉を遮るように、テオドリクスの怒声が執務室の壁に跳ね返った。彼は握りつぶした書面を執務机に叩きつけ、立ち上がる。国王の顔は赤黒く染まり、目は血走っていた。


 しかし、テソリは引かなかった。


「ミリオン家側は法的に正当な請求をなさるでしょう。陛下、いかが対処なさいますか」


 財務大臣の問いは、冷静で、それゆえに冷たい刃となって国王に突き立てられた。


 テオドリクスは、突きつけられた現実に、崩れるように椅子へ深く腰を沈めた。怒りは、急速に焦りへと、底知れぬ困惑へと形を変えていく。執務机に肘をつき、組んだ指の間に顔を埋める。


 長い沈黙が流れた。


 ──余の責だ。


 国王は内心で呟いた。あの婚姻同盟は、ミリオン家にとって大した利のない話であった。それを受けたのは、あの令嬢自身の判断だ。王太子妃の地位は、王国国政を内側から握る力となる。同時に、群がる縁談を一切断つ口実にもなる。彼女は婚約そのものを、一つの金融契約として計算したのだろう。余はそう読んでいたし、だからこそ署名した。


 本来、契約と婚約は同時に成立するはずであった。婚約相手は、聡明だった長男コンスタンティン。──だが、契約成立の直前、長男は事故で命を落とした。残された婚約は、急遽ナルキスへと差し替えられた。あの令嬢はそれを呑み、契約に署名した。一言の恨み言もなく。


 その契約を、余の息子が、内容も知らずに破棄した。あれが王太子の自覚を持っていると、余は思い込んでいた。最も愚かだったのは、余なのだ。


 やがて、テオドリクスはゆっくりと顔を上げた。瞳から先ほどの激情は消え、代わりに冷徹な認識が宿っている。背筋を伸ばし、低く独白を漏らした。


「……あれは、契約の存在すら知らずに署名したのだ」


 テオドリクスは歪んだ書面の写しを冷めた目で見つめる。


「だが、帳簿を握っている者が一番強い」


 国王のその言葉が、静まり返った執務室の中に重く落ちた。


 ◇ ◇ ◇


 国王テオドリクスはその言葉を噛み締め、深く息を吐き出す。激情を剥き出しにした先ほどまでの姿とは異なる、冷徹な一国の主としての顔への回帰であった。


 沈黙を縫うようにして、控えていた文官の一人が前に進み出た。緊張した面持ちの中年──アエミリウスである。彼は王宮の使者として国王の意を伝える役を長く担ってきた、実直な男だった。


「畏れながら、ナルキス殿下のご処分、いかがなさいますか」


 事務的な、しかし重苦しい問いに対し、国王は視線を机上の書面に固定したまま、短く断を下した。


「……謹慎で済ませる」


 アエミリウスの眉が、わずかに動いた。


「殿下の王位継承権剥奪も、視野に入れるべきかと存じます。これほどの愚行を……」


 言葉を重ねる声には、一国の均衡を崩しかねない愚行を犯した王太子への、隠しきれない不信感が滲んでいた。王位を継ぐべき者が、国家予算三年分の負債を即時確定させたのだ。剥奪という強硬論が出るのは当然の帰結であった。


 だが、テオドリクスは揺るがなかった。


「あれは王太子だ。継承権を剥奪すれば王家の威信に傷がつく」


 王家の安定と威厳という大義を盾にした言葉に、アエミリウスはそれ以上の反論を飲み込むしかなかった。


 国王は再び目を伏せる。その脳裏では、表向きの理由とは別の、より個人的な思いが働いていた。


(ナルキスが愚かなのはわかっている。だが、ここで継承権まで奪えば、余の直系の血は王朝から消える。コンスタンティンを失った今、あれが余に残された最後の子だ。継承権は残す。謹慎中に己の愚かさを学べばよい)


 テオドリクスは重い腰を上げ、窓外の景色を見つめた。朝の光は既に高くなり、王宮の庭園を鮮やかに描き出している。


「ミリオン家の令嬢に返済交渉を申し入れろ」


 国王の口から発せられたその言葉に、室内が再び凍りついた。交渉。それは即ち、法的に圧倒的な優位に立つミリオン家に対し、譲歩を請うということである。


 アエミリウスが、確かめるように問いを投げかけた。声には、信じがたいという響きが混じっている。


「……頭を下げる、ということでしょうか」


 テオドリクスは答えず、長く沈黙した。誇りと国家の存続を秤にかけ、王は静かに目を閉じる。


「……そういうことだ」


 その短い一言が、かつてないほど重く、執務室の中に落ちた。


 ◇ ◇ ◇


 王宮から馬車で三十分。王都の貴族街の一等地に佇むミリオン方伯家の駐在屋敷は、規模こそ中規模ながら、石造りの重厚な門構えが帝国方伯家としての格を静かに主張していた。


 馬車から降り立った王宮使者は、乱れた衣服を整え、硬い表情で表玄関へと向かう。一刻を争う事態であることは、使者自身が誰よりも理解している。


 使者は一呼吸置き、覚悟を決めて重い扉を叩いた。


「国王陛下のご使者でございます。お取次ぎを」


 厳かな声が、静かな貴族街に響き渡る。王宮の威光を背負った、凛とした宣言であった。


 だが、返ってきたのは、扉の向こうから漏れ聞こえる、あまりにも場違いなほどにのんびりとした会話であった。


「お嬢、紅茶冷めてまっせ。三杯目ですわ」


 どこか聞き慣れぬ訛りのある、軽妙で図太い男の声だった。緊張感の欠片もないその言葉に、使者は思わず眉をひそめる。


 続いて、鈴を転がすような、しかし極めて冷淡で事務的な女性の声が響いた。


「業務中ですの」


 使者は一瞬、呆然と立ち尽くした。


 王宮では今この時も、国王と大臣たちが国家の窮地を回避しようと頭を抱えている。その原因を作った当の本人の屋敷では、紅茶の温度が話題になっている。あまりの落差に、使者の思考は一瞬停止する。


 戸惑う使者の前で、再び男の弾んだ声が聞こえた。


「お、お客人でっせ」


 直後、重厚な扉が、確かな重みを持って開き始めた。


 隙間から漏れ出すのは、微かな茶葉の香りであった。


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