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第27話:手遅れの援軍

 地を震わせる馬蹄の音が、朝靄に包まれた国境の街道に響き続ける。日の出の光が薄暗い空を照らし、進軍する集団の輪郭を街道の先に浮かび上がらせた。


 黒地に金の紋章を掲げた無数の旗が、朝の風を受けて翻る。朝日を反射する無数の甲冑の列が、盾を打ち鳴らし、足並みを揃えて国境の門へ接近している。


 荷車に野菜を積んでいた王都の住民が足を止め、街道の先を指差す。周囲の者たちも顔を見合わせ、手にした農具を取り落とした。


「帝国軍だ! 戦争か!」


 一方、政権交代の事後処理に追われる王宮では、石造りの廊下を駆ける足音が響き渡っていた。王宮の伝令が執務室の扉を開け放ち、息を切らして片膝をつく。


「殿下、帝国軍勢が国境を越えました」


 机に書類を広げていたダフネは、即座に立ち上がり、羽ペンを机に置いた。彼女は伝令に向き直り、卓上の羊皮紙を束ねる。


「対応は私が行います。戦闘準備はせず、外交対応で」


 ダフネは自身のマントを翻し、執務室の扉へ歩き出す。廊下に待機していた近衛兵たちが、彼女の後ろに続いた。


 国境の関所では、警備隊が槍を構え、進軍してきた部隊の先頭に立つ騎影を確認していた。報告を受けた警備隊長が、手元の書類に目を落とし、後ろを振り返って声を上げる。


「ヴェネツィア・ミリオン様であります」


 帝国軍勢の先頭を進むのは、銀色の胸当てを纏ったヴェネツィアであった。その胸元には、金色の装飾が施された勇者勲章が帯びられている。


 以前送った近況を知らせる軽めの書簡が、剣を振るう姉と帝国軍本隊の到着を引き起こしていた。腰に大剣を帯びた彼女は、手綱を引き、馬上から王都の街並みを見下ろす。


 ヴェネツィアが右手を掲げ、そのまま前方へ振り下ろす。後方の兵士たちが歩幅を合わせ、ミリオン家屋敷の方向へ前進していった。


 ◇ ◇ ◇


 ジュネーヴァが屋敷の木扉を押し開け、前庭の石畳へ歩み出る。門前には帝国軍の騎兵が並び、先頭のヴェネツィアが手綱を引いて鞍から飛び降りた。


 ヴェネツィアは銀の胸当てを鳴らして駆け寄り、両腕を広げる。そのままジュネーヴァの背中に腕を回し、自身の胸に抱え込んだ。


「ジュネーヴァ! 妹に手を出す国があると聞いて、すぐ来たわ!」


 ジュネーヴァは一瞬目を見開き、両手を持ち上げて姉の背に添える。彼女は目線を下げ、口角を上げた。


「姉様、お久しゅうございます」


 ヴェネツィアは顔を上げ、周囲の建物を順番に見回す。右手を剣の柄に置き、ジュネーヴァに向き直した。


「あの王国はどこ? もう更地にした?」


「姉様、その王国はもう……」


「もう?」


 ジュネーヴァは背筋を伸ばし、両手を体の前で組む。


「政権交代が完了してございます」


「……は?」


 ヴェネツィアは回していた腕を解き、一歩後ずさる。彼女は両眉を上げ、瞬きを繰り返した。


「新王太子のダフネ殿下と公式会談を済ませ、契約条件もすべて承諾いただきました」


 ヴェネツィアは口を半開きにし、右手を腰に当てる。彼女は空を仰ぎ、首を傾けた。


「えーっと、ちょっと待って。私、何しに来たの」


「念のため、ですわ」


「念のため、で帝国本隊?」


 ヴェネツィアの背後には、槍を直立させた装甲歩兵の列が街道を埋め尽くしている。黒地に金の紋章を描いた軍旗が、等間隔で風に揺れていた。


 ヴェネツィアは胸当ての縁を指でなぞり、鼻先で短く息を吐く。


「ジュネーヴァ。改鋳令、出されたって聞いてる」


 ジュネーヴァはわずかに顎を引き、姉の視線を受け止める。


「姉様、お耳が早うございますわね」


「帝国の商人が、もう動き始めてる。ローレンシア銀貨が、市場で受け取られなくなってるって」


 ヴェネツィアは妹との距離を一歩詰める。


「父様も、もう知ってる」


 ジュネーヴァは両手を体の前で組む。


「左様でございますか」


 ジュネーヴァの後方に立つボリスが、肩をすくめて身を縮める。彼は口元を手で覆い、囁き声を出した。


「お嬢、姐さん、結構お怒りでっせ」


 ヴェネツィアが顔を巡らせ、ボリスに目を向ける。


「あらボリス、久しぶりね!」


 ボリスは両膝を震わせ、腰を深く屈める。彼は両手を前でこすり合わせ、足元の石畳をじっと見つめた。


「ご無沙汰しております、姐さん」


 ヴェネツィアは顎を引き、ボリスを見下ろす。背後の軍列から、馬のいななきが響いた。


 ◇ ◇ ◇


 壁に金糸の紋章旗が掛けられた王宮の小会議室に、装飾が施された長方形の樫材の机が置かれている。高い窓から差し込む陽光が、その天板に並べられた白紙の羊皮紙と銀のインク壺を照らしていた。


 ヴェネツィアは銀の胸当てを鳴らして部屋の中央へ進み、机の前で歩みを止める。彼女は右手を胸に当てて深く一礼し、顔を上げて真っ直ぐにダフネの目を見据えた。


「ダフネ殿下、はじめまして。ヴェネツィア・ミリオンです」


 ダフネは椅子から立ち上がり、机越しにヴェネツィアと向き合う。彼女は青いマントを翻して背筋を伸ばし、小さく頷いた。


「ヴェネツィア様、お会いできて光栄です」


 二人は相対して椅子に腰を下ろし、それぞれの護衛や付き人が壁際まで下がる。ヴェネツィアは両腕を前に出し、両手を机の上に置いて指先を組み合わせた。


「妹がご迷惑をおかけしたかしら」


 ダフネは机の上の組まれた指先から顔を上げ、ヴェネツィアの目を見る。彼女は自身の両手を膝の上に置き、姿勢を正した。


「いいえ。ジュネーヴァ嬢には、王国を救っていただきました」


 ヴェネツィアは目元を緩め、口元に小さな微笑みを浮かべる。彼女は組んだ両手を解き、机の上で重ね直した。


「あら、そう。妹をよろしくね」


 ダフネは背筋をさらに伸ばし、両肩を引いて胸を張る。彼女はヴェネツィアの視線を正面から受け止め、口を開いた。


「殿下のお言葉、深く心に留めます」


 ヴェネツィアは上半身を少し前に傾け、声を一段落とす。彼女は顎を引き、ダフネの目をのぞき込んで見つめ続けた。


「数字でしか動かない子だから、人として扱ってあげて」


 ダフネは一度目を伏せ、鼻からゆっくりと息を吐く。彼女は顔を上げ、口角を上げて微笑みを作った。


「承知いたしました」


 ヴェネツィアは背もたれに体を預け、机上の書類の束へ目を向ける。彼女は再び顔を上げ、ダフネに向けて声音を変えて言葉を継いだ。


「殿下。一つだけ、帝国としてのお願いがございます」


 ダフネは姿勢を正し、両手を膝の上で重ねる。


「どうぞ」


「改鋳の影響で、帝国の商人が損失を被っております。当家の損失分も、無視できません」


 ダフネは視線を逸らさず、机の縁に指を添える。


「数字でお示しいただければ、ご対応いたします」


「ありがたく存じます」


 ヴェネツィアは立ち上がり、右手を前に差し出す。胸元の勇者勲章と銀色の胸当てが、窓からの光を反射して輝いた。


「妹をよろしく。それから、帝国としては、新王太子殿下の手腕に期待しております」


 ダフネも立ち上がり、差し出されたその右手を自らの右手でしっかりと握る。


「肝に銘じます」


 二人の手が上下に揺れ、机の上で握手が交わされる。小会議室の壁に掛けられたローレンシア朝の旗と、窓の外に見える帝国の軍旗が風に揺れていた。


 ジュネーヴァは窓際の壁を背にし、机から数歩離れた位置に立っている。彼女は両手を体の前で組み、二人の会話を聞きながら静かに目を伏せた。


 ◇ ◇ ◇


 ミリオン家屋敷のビリヤード室では、暖炉の火が薪を爆ぜさせている。天井のシャンデリアが、緑色の羅紗が張られた台を明るく照らしていた。


 ジュネーヴァがキューの先端にチョークを塗り、台の球の配置を確かめる。ボリスが銀のトレイに紅茶のカップを乗せ、壁際を歩いてサイドテーブルに置く。


 ヴェネツィアが手球を撞き、赤球がポケットに落ちる。彼女はキューを立て、妹の方へ顔を向けた。


「ジュネーヴァ、本当に大丈夫だったの」


 ジュネーヴァは身を屈め、手球を真っ直ぐに見据えてキューを押し出す。


「保険でしたから、無駄足こそ最良ですわ」


 ヴェネツィアは台の縁に寄りかかり、手元でキューを回す。


「あなた、相変わらずね」


 ジュネーヴァは体を起こし、キューの柄を床に立てた。


「姉様こそ、相変わらずですわ」


 ヴェネツィアが再び台に向かい、狙いを定める。


「ジュネーヴァ、政権交代の処理、何やったの」


「ローレンシア中央銀行の設立ですわ」


 ヴェネツィアのキューを持った手が止まる。眼差しが手球の上で固まった。


「……」


 彼女はゆっくりと体を起こし、ジュネーヴァに目を向けた。


「あら、また派手なことしたのね」


 ジュネーヴァは手元のチョークをテーブルに置く。


「契約に基づきますもの」


 ヴェネツィアはキューを壁のラックに立てかける。彼女は窓の外を見やり、小さく息を吐いた。


「父様にお伝えしておくわ。改鋳の損失分は、ローレンシア朝が補填する方向で」


「お願いしますわ、姉様」


 ヴェネツィアは妹の肩に手を置き、声を低めた。


「ジュネーヴァ。あなたが完璧に契約を履行しなければ、帝国は戦争に踏み切っていた」


 ジュネーヴァはサイドテーブルの紅茶へ目を落とす。


「業務の一環でしてよ、姉様」


「無駄足、ありがとうって意味よ」


 ヴェネツィアは妹の肩を一度叩き、ボリスへ顔を向けた。


「ボリス、また顔出すわよ」


 ボリスは扉の脇で深く頭を下げ、姿勢を固める。


「ご無沙汰しないようにいたします、姐さん」


 ジュネーヴァはティーカップをソーサーに戻す。彼女の口角が、僅かに上がった。


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