第26話:新王太子
金色の装飾が、高い天井を縁取る。
日光が赤い絨毯の上で、四角い模様を作る。
ダフネは玉座の階段下に立つ。
彼女は正面を向き、参列する貴族たちを見渡す。
領主エラリオ、老貴族、文官たちが一列に並ぶ。
彼らは足元を揃え、一斉に頭を下げる。
「私、ダフネ・ローレンシアは、本日より新王太子として、ローレンシア王国の責務を担います」
ダフネは背筋を伸ばし、広間の奥へ声を届かせる。
「長兄コンスタンティンを喪い、次兄ナルキスが相続を放棄した今、王家の血を引く者は私のみ」
彼女は顎を引き、視線を水平に保つ。
「父の遺志を継ぎ、王国の再建に努める所存です」
ダフネは一度、左胸に手を当てる。
諸貴族が顔を上げ、声を揃える。
「ダフネ殿下、お祝い申し上げます」
マルクス・スクリプトルが列から出、ダフネの前で腰を折る。
彼は背を水平に保ち、静かに口を開く。
「殿下、私は法務省にて」
ダフネは小さく頷く。
「マルクス殿、ヴィクトール法務大臣の下で、王国法をお守りください」
風が砂を巻き上げ、未舗装の道を横切る。
ナルキスは泥のついた麻の靴で、一歩ずつ足を踏み出す。
彼は立ち止まり、汚れの染み付いた手のひらを見つめる。
「俺は……」
道端の露店に座る男が、ナルキスへ指を差す。
隣の女は鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「あの方、自爆王太子じゃないのか」
「ふん、もう関係ない平民だろう」
オクタヴィウスは建物の影に立ち、群衆を観察する。
彼は襟元を指先で整え、踵を返す。
(私は警告しようとしたのに)……
「次は、自分のために動こう」
◇ ◇ ◇
小会議室の窓から、午後の光が差し込む。
重厚な木製の机が、中央に置かれる。
ダフネは背筋を伸ばし、対面の椅子に深く座る。
彼女は手元の書類を閉じ、ジュネーヴァの瞳を直視する。
「ジュネーヴァ嬢、本日からは、王国とミリオン家の関係について、改めてお話を」
ジュネーヴァは組んだ手を机に置き、上体を僅かに倒す。
「協力ではなく、契約でお願いいたしますわ」
「ええ、その通りです。私もそのつもりでお呼びしました」
ダフネは一度頷き、脇に置いた別の書類を引き寄せる。
ジュネーヴァは腕を伸ばし、一枚の羊皮紙を滑らせる。
「契約条件はこちらでございます」
「30年返済計画、利率半減」
ダフネは書類を手に取り、記載された数字を指で追う。
彼女は紙の端を指先で弾く。
「ジュネーヴァ嬢、契約書を拝見いたしました」
「『元本一億八千万ディナール、利息はトイチ』──それだけしか書かれておりません」
「何の一割か、契約書には定義されておりません」
ジュネーヴァは瞬きを止め、静止する。
彼女は唇を一文字に結び、ダフネの瞳を見つめ返す。
ダフネは書類を机に戻し、両手を膝の上で重ねる。
「兄上が、相続放棄の前に、改鋳令を発令なさいました」
「ディナールの金含有量を十分の一に。契約書の文言を一切変えずに、王国の実質的な負担を十分の一に圧縮する措置でございます」
ジュネーヴァは背もたれから背を離し、姿勢を正す。
彼女の声が、静かな部屋に響く。
「殿下、ご承知の通り、改鋳した王朝で国家を保った例は、歴史上ございません」
「商業崩壊、隣国通貨の流入、商人の良貨退蔵」
「さらに当家は帝国の方伯家でございます。条約違反として、帝国本国は外交介入の用意がございます」
ダフネは顔を逸らさず、一定の声音を保つ。
「存じております」
「ですから私は、相続放棄申述書の受理と同時に、改鋳令の撤回を布告いたしました」
ジュネーヴァは指先を組み、瞬きを止める。
ダフネの声が、わずかに沈む。
「ですが、市中に出回った新通貨は、撤回できません」
「商人は良貨を退蔵し始めております。市場には軽い銀貨だけが、残ろうとしております」
「私には、改鋳令を取り消す権能はあっても、市場の毀損を取り消す権能はございません」
ダフネは懐から数葉の報告書を取り出し、机の上に並べた。
「カンプス領、ヴィアトル領、ノブリス家。派閥の方々の貯蓄も、収益も、実勢で十分の一に近づきます」
「兄上が一夜のうちに、王国全体を破壊なさいました」
沈黙が、小会議室の空気を重く変える。
ジュネーヴァは並べられた報告書に目を落とす。
彼女は掌を膝に置き、指先を小さく震わせた。
長い沈黙が続き、室内に時を刻む音だけが響く。
ボリスは背後で壁に背を預け、腕を組む。
彼は上瞼を下げ、ジュネーヴァの後頭部を見つめる。
(お嬢、本気で考え込んではる。久しぶりやな)
(改鋳の撤回布告は、ダフネ殿下の即断や。だが、市場の毒は止まらん)
(カンプス子爵、ヴィアトル男爵、ノブリス子爵。派閥の方々の被害は、実数で当家の取引履歴が一番把握してはる)
ボリスは小さく息を吐く。
彼は奥歯を噛み締め、次の言葉を待つ。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァは脇に置いた黒革の帳簿を開く。
指先で頁を捲り、最終的な数字に爪を立てる。
「殿下、当家のご融資、利息はトイチでございましたね」
ダフネは机の上で両手を組む。
「左様でございます」
ジュネーヴァは指先で帳簿の数字を叩く。
「実勢で十分の一になった貨幣で、トイチ……既往利息は、国家予算五千年分相当に膨れ上がります」
彼女は視線を上げ、ダフネの瞳を直視する。
「お返しできる規模ではございません。王国を解体なさっても、お返しできない規模でございます」
ダフネは机の縁に指を添える。
「ですから、お話を伺いに参りました」
ジュネーヴァは閉じた帳簿の表紙を掌で撫で、長い沈黙を挟む。
「殿下、即位と同時に撤回を布告された即断、お見事でございますわ」
「ナルキス殿下とは、雲泥の差でございます」
ダフネは瞬きを一つ挟み、顎を引く。
「……お褒めの言葉、痛み入ります」
ジュネーヴァは懐から一枚の書状を取り出す。
「ですから、ご提案がございます」
ダフネは身を乗り出し、書状の紋章に目を向ける。
「ご提案、と」
ジュネーヴァは書状を机に置き、内容を読み上げる。
「既往利息、全額棒引きいたしますわ」
ダフネは目を見開き、上体を固くする。
「……何故」
ジュネーヴァは指先を揃え、書状の端を押さえる。
「対価を頂戴しますもの」
「対価」
ジュネーヴァは声を落とし、決定的な言葉を放つ。
「王国に、新しい金融機関を設立いたしましょう」
「ローレンシア中央銀行でございます」
ダフネは眉をひそめ、問い返す。
「金融機関、と」
ジュネーヴァは首肯し、制度の詳細を説く。
「王国の通貨発行を専門に行う、独立機関」
「殿下が新王太子勅令で設立をご宣言なさり、王国とミリオン家が共同で出資いたします」
彼女は机を指先で一度叩き、条件を明示する。
「当家が大部分を拠出いたします。ですから、理事の過半数は当家が指名いたします」
ダフネは視線を鋭くし、ジュネーヴァを睨む。
「……それは、王国の金融主権を握る、ということでございますね」
ジュネーヴァは笑みを崩さず、静かに肯定する。
「左様でございますわ」
「ですが、あなた様ほど賢明な新王太子の下でなら、この制度は機能いたします」
彼女はナルキスの名を出し、比較を提示する。
「ナルキス殿下では到底ご理解いただけなかったでしょう」
「あなた様だからこそ、お任せできるのです」
ジュネーヴァは掌を広げ、ダフネへ差し出す。
「殿下は『新時代の金融機構』の英断者として、ご臣民の支持を得られます」
「中央銀行という制度は、国際社会において先進的とみなされます」
彼女は瞬きを一つ挟み、結びの言葉を口にする。
「お互い、恥をかかない決着でございますわ」
ダフネは指先で頬を一度押さえ、計算を巡らせる。
「期限は」
ジュネーヴァは首を左右に振り、永続を宣言する。
「期限はございません」
「中央銀行は制度として永続いたします」
彼女は指を一本立て、未来の展望を述べる。
「三十年後、元本完済後も、制度そのものは王国の金融機関として残ります」
「ただし、当家の出資比率と理事指名権は、長期にわたって維持されます」
ダフネは手元の紙にペンを走らせる。
数値を書き込み、再び顔を上げる。
「では、利率と返済条件のご相談を」
「元本一億八千万ディナール、年利八分、三十年返済」
ダフネは書き込んだ数字を強く指し示す。
「年利六分まで」
ジュネーヴァは指先を組む。
短い沈黙が流れ、彼女は再び顔を上げる。
「……承りました」
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァは一枚の書面を机の中央に置く。
指先で項目の先頭を指し、上から順に読み上げる。
「契約条件を整理いたします」
「一、既往利息は全額棒引き。二、元本一億八千万ディナール、年利六分、三十年返済」
「三、ローレンシア中央銀行を設立。当家が過半数出資、理事過半数指名権」
「四、王領鉱山採掘権・主要港湾使用権は、先の追加担保として継続保有。収益は返済に充当」
「五、街道通行権はヴィアトル男爵様との共同管理を継続。スキル貸与はカンプス子爵様との共同事業を継続。これらの収益も返済に充当」
ジュネーヴァは指を離し、書類をダフネの方へ向ける。
「現物・権利による支払いは、通貨改鋳の影響を受けにくい安定資産でございます」
ダフネは項目を一つずつ目で追い、小さく頷く。
「通貨建てで支払えない分を、王国の生産物と権利でお支払いする、ということでございますね」
ジュネーヴァは姿勢を正し、両手を膝の上で揃える。
「左様でございます。お互い、現実的な仕組みでございますわ」
ダフネは欄外に記された文化財のリストへ目を留める。
ジュネーヴァは僅かに首を傾け、ダフネの動きに合わせる。
「文化財については、王国の象徴として王宮にお留めいただきます。形式上の担保としてのみ、契約に残しますわ」
ダフネは眉を動かし、ジュネーヴァを見据える。
「文化財には、お手を付けないと」
ジュネーヴァは淡々と、表情を変えずに答える。
「王国の威信を象徴するものを奪っても、当家には数字以上の意味がございません。採掘権・通行権・スキル収益。これらは継続的に収益を生みます」
彼女は睫毛を伏せ、一度言葉を切る。
「生かして、利息を生む装置として活用させていただきますわ」
ダフネは驚きを抑えるため、一度深く息を吸う。
椅子に座り直し、姿勢を整える。
「ご賢明でございます。承諾いたします」
ダフネはペンを置き、背もたれに体を預ける。
彼女は窓の外の空を見つめ、低い声で話し始める。
「父が最後に仰っていました。『あの令嬢を敵に回すな。生かしたまま、利息で返せ』と」
彼女は視線を戻し、ジュネーヴァの顔を正面から捉える。
「父は、この交渉そのものを、見越しておられたのですね。兄上が暴走なさること、私がそれを引き継いで参ること、あなた様が中央銀行で受け止めてくださること」
ダフネは机の縁に手を置き、指先に力を込める。
「すべて、父は予見しておられた。父は、あなた様を金貸しだとは思っていなかった。金貸しの、その先を見ておられた」
ジュネーヴァは瞬きを止め、視線を卓上の帳簿へ落とす。
彼女は唇を一文字に結び、沈黙を守る。
ダフネは静かに立ち上がり、窓際の光を受ける。
「ジュネーヴァ嬢」
「殿下」
ダフネは向き直り、毅然とした態度で言葉を放つ。
「兄上が、もう少し長く生きていらしたら、何かが違っていたかもしれません。ですが、これが現実です」
彼女は一歩踏み出し、ジュネーヴァとの距離を詰める。
「コンスタンティン兄上の婚約者でいらした方を、私が敵に回せるはずがございません」
ジュネーヴァはゆっくりと瞼を閉じ、顎を引く。
そのまま数拍の間、呼吸の音だけが室内に響く。
ダフネは一礼し、書類を封筒に収める。
「契約に基づいてお返しいたします」
ジュネーヴァは顔を上げ、静かな微笑を唇に浮かべる。
彼女は立ち上がり、扉へと歩み寄る。
「金貸しでございますもの」
◇ ◇ ◇
月のない夜空が、ミリオン家の屋敷を包む。
玄関の石壁で、松明の炎が風に揺れる。
ジュネーヴァが馬車を降り、石畳を踏みしめる。
背後の扉が重く閉まり、周囲に静寂が戻る。
ボリスが廊下の角から現れ、眉の間に深い皺を刻む。
彼は両手を腰に当て、ジュネーヴァの前で足を止める。
「お嬢、緊急事態でっせ」
「何ですの」
ジュネーヴァは手袋を外し、ボリスの瞳を覗き込む。
「お嬢、明朝に姐さんが、本隊と共に」
「……は?」
ジュネーヴァは瞬きを止め、口を僅かに開く。
彼女は再度ボリスを見据える。
「もう国境越えはりました。明朝、王都到着」
ボリスは首を左右に振り、短く息を吐く。
「ボリス、何かの間違いではなくて?」
ジュネーヴァは手に持った手袋を、一度強く握りしめる。
「書簡が軽すぎたんちゃいますか」
ボリスは腕を組み、玄関の扉を振り返る。
「……あらあら」
ジュネーヴァは額に指先を当てる。
彼女はそのまま数秒間、動かずに立ち尽くす。
遠くの街道から、石を打つ硬い音が響く。
複数の馬蹄が夜の闇を裂き、屋敷の壁を微かに震わせる。




