第25話:申述書
金箔を貼った円柱が、高い天井を支える。
磨き抜かれた大理石の床が、窓から差す陽光を跳ね返す。
ナルキスは玉座の深くに腰を下ろす。
両手を左右の肘掛けに置き、開かれた扉の先を凝視する。
ジュネーヴァが音もなく、中央の赤い絨毯を踏みしめる。
ナルキスは顎を軽く持ち上げ、彼女を視界の中心に据える。
「ジュネーヴァ嬢、来たか」
「殿下、お呼びでございますか」
ジュネーヴァは足を揃え、その場で静かに膝を折る。
周囲を囲む貴族たちが、扇で口元を隠し、密やかに囁き合う。
彼らは互いに顔を見合わせ、左右に口角を吊り上げる。
文官マルクスが卓上の書類を交互に重ねる。
指先を震わせ、紙束を揃える手を不自然に止める。
財務大臣テソリは、その背後で深く顎を引く。
眉間に皺を刻み、床の一点を見つめたまま動かない。
ナルキスが玉座の上で胸を張る。
指先で肘掛けを一度叩き、広間に響く声を発する。
「先王の私的契約は、逝去で消滅した」
「ミリオン家への債務、すべて無効である」
ナルキスは鼻を鳴らし、正面の少女を見下ろす。
瞳に確信を宿し、背もたれに体を預けて返答を待つ。
ジュネーヴァは静かに顔を上げる。
瞬きを一つ挟み、唇にわずかな弧を刻む。
「左様でございますか」
ジュネーヴァは腕の中に抱えた書類の束を、一度持ち直す。
重みのある紙の端を指先で押さえ、そのまま胸元で静止する。
◇ ◇ ◇
謁見の間の冷気が、石の壁を伝って床に溜まる。
文官マルクスは額の汗を袖で拭い、手元のペンを卓に置く。
財務大臣テソリは組んだ手を膝に置き、目を床の一点に落とす。
周囲の貴族たちは、扇を閉じ、広間の沈黙を耳で追う。
ナルキスは指を組み、机を一度強く叩く。
彼は胸を張り、ジュネーヴァを正面から見据える。
「貴殿は法的に、これを認めるか」
ジュネーヴァは瞬きを止め、唇をわずかに横に引く。
彼女は腕の中に抱えた書類の重みを確かめる。
「ええ、その通りですわね」
ナルキスは鼻を鳴らし、深く背もたれに体を預ける。
彼は左右に控える側近たちを順番に見つめ、喉を鳴らす。
「……うむ。私の法解釈は正しい」
ジュネーヴァは手に持った書類の最上部を、指先で軽くなぞる。
彼女は一歩踏み出し、絨毯の紋様を足元に捉える。
「法的にはその通りでございます」
ナルキスは身を乗り出し、机の角を指先で弾く。
彼は声を一段低め、確認を重ねる。
「では、ミリオン家への債務は」
ジュネーヴァは背筋を伸ばし、書類の束を両手で持ち直す。
彼女は顎を引き、ナルキスの瞳を直視する。
「ただし」
ナルキスは眉を中央に寄せ、問い返す。
彼は肘掛けから手を浮かせ、開いた掌を彼女に向ける。
「ただし、何だ」
ジュネーヴァは静かに書類の束を、一歩前へ差し出す。
彼女は指先を揃え、紙の端を細かく整える。
「手続きが必要ですわ」
ナルキスは顎の先を触り、首をわずかに傾ける。
「手続き、とは」
ジュネーヴァは書類の最上段を指差し、文字を明示する。
「先王陛下のご私的債務消滅を、法的に確定させる書類でございます」
彼女は書類の端を掴み、ナルキスの手元へ滑らせる。
「これにご署名をいただければ、すべて完了いたしますわ」
ナルキスは息を吐き、机の上のペン立てに手を伸ばす。
彼は上体を戻し、目の前の紙面を睨む。
「ふむ、なるほど。書類だな」
オクタヴィウスは半歩前へ出て、ナルキスの手元を注視する。
彼は眉の間に深い皺を刻み、低い声で進言する。
「殿下、書類の内容を……」
ナルキスはオクタヴィウスの言葉を遮り、鋭く手を振る。
彼は手元の紙束を自分の方へ引き寄せ、インクの瓶を開ける。
「面倒だ、すぐ署名する」
ナルキスは羽根ペンを手に取り、先端を黒い液に浸す。
彼は書類の余白に目を据え、ペン先を紙に落とす。
◇ ◇ ◇
ジュネーヴァは腕を伸ばし、机の上へ書類を置く。
指先で紙の端を、ナルキスの手元へ寄せる。
「こちらにご署名を」
ナルキスはペン先をインクに浸し、紙面へと降ろす。
彼は目を逸らさず、正面の少女を見つめたまま手を動かす。
オクタヴィウスが半歩前へ出、ナルキスの袖に手を伸ばす。
彼は眉の間に深い溝を刻み、喉を鳴らす。
「殿下、ご内容のご確認を」
ナルキスは袖を振り払い、ペンを握り直す。
彼はオクタヴィウスを睨み、声を一段高くする。
「貴公はうるさい。ジュネーヴァ嬢が法的に正しい書類を持参している。それで十分だ」
オクタヴィウスは唇を噛み、一度目を書類へ走らせる。
彼はなおも食い下がろうと、拳を固める。
「ですが……」
ナルキスは紙にペンを走らせ、名前を刻む。
彼は傍らの印章を、紙の末尾に押し当てる。
「これでよいか」
ジュネーヴァは両手を差し出し、書類を回収する。
彼女はインクの乾きを確認し、胸元で再び紙束を抱える。
「確かにご署名、ご確認いただきましたわ」
文官マルクスが机越しに、回収される書類を覗き込む。
彼は目を見開き、一瞬肩を震わせて息を止める。
マルクスは卓に手をつき、そのまま顔を伏せる。
ジュネーヴァの口角が、僅かに外側へ広がる。
彼女は睫毛を伏せ、音を立てず一歩後退する。
取り巻きの貴族たちは、扇を掌に叩きつける。
彼らは左右に目配せし、口を開けて笑う。
◇ ◇ ◇
ナルキスは玉座の背もたれに体を預ける。
彼は口角を吊り上げ、満足を顔に浮かべる。
「これで終わりだな」
ジュネーヴァは手元の書類を一度見つめ、顔を上げる。
彼女は一歩前へ踏み出し、ナルキスの目を正面から捉える。
「殿下、書類の正式名称を、お聞きになりますか」
ナルキスの眉が、中央に寄る。
彼は机を指先で一度叩き、顎を持ち上げる。
「な、何だ」
ジュネーヴァは書類の最上段、墨書きの文字を指先でなぞる。
彼女は瞬きを一つ挟み、唇を動かす。
「相続放棄申述書、でございます」
ナルキスの口が半開きになり、そのまま喉が鳴る。
彼は上体を起こし、書類を凝視する。
「な……」
ジュネーヴァは書類を胸元へ戻し、姿勢を正す。
彼女の声が広間の隅々まで、明瞭に届く。
「殿下は今、先王陛下のご相続をすべて放棄なさいました」
ナルキスは指先を震わせ、机の端を掴む。
彼は頭を左右に振り、掠れた声を出す。
「そんな……書類だとは」
ジュネーヴァは顎を引き、ナルキスの瞳を見つめる。
彼女は口元に、わずかな弧を刻む。
「お読みになっていらっしゃらないのですね」
ナルキスは玉座の上で崩れ、肩を落とす。
彼は虚空を見つめ、浅い呼吸を繰り返す。
ジュネーヴァは冷めた眼差しを向け、言葉を継ぐ。
「相続を放棄なされば、王位継承権も消滅いたしますわ」
ナルキスは床に這う手つきで、机の上のペンを払いのける。
彼は顔を上げ、救いを求める視線を彷徨わせる。
「で、では、ミリオン家への債務も……」
ジュネーヴァは首を横に振り、静止する。
彼女は一歩、王太子の座から遠ざかる。
「殿下、それが最大の誤解でございます」
ジュネーヴァは書類の一節を、淀みなく読み上げる。
「徳政令免責条項によって殿下個人に転化した債務は、王太子という地位ではなく『発令者個人』に紐づくため、身分の喪失では免責されません」
「殿下は王太子の地位を失いますが、債務はそのまま残ります」
ナルキスは玉座から滑り落ち、床に膝をつく。
彼は両手で顔を覆い、呻き声を漏らす。
「そんな……」
財務大臣テソリは目を伏せ、首を左右に振る。
彼は床の一点を見つめ、声を落とす。
「殿下、ですから何度もご確認をと」
ジュネーヴァは入り口の扉へと目を向ける。
彼女は背筋を伸ばし、広間に声を響かせる。
「ダフネ殿下、お入りくださいませ」
重厚な扉が左右に開き、廊下の灯りが差し込む。
ダフネが靴音を鳴らし、中央の絨毯を歩む。
「兄上、お元気そうで」
ナルキスは床に手を突き、妹を見上げる。
彼の瞳が大きく見開かれ、唇が震える。
「ダフネ……お前は」
ダフネはナルキスの前で立ち止まり、彼を見下ろす。
彼女は顎を引き、厳しい口調で告げる。
「兄上が捨てた王太子の地位を、私が拾わせていただきます」
ジュネーヴァはダフネに向かい、深く頭を下げる。
彼女は再び書類を整え、胸元で固定する。
「ダフネ殿下、王位継承の手続き、ご準備が整いましたら、ご通知くださいませ」
ダフネは視線を動かさず、ジュネーヴァを直視する。
「承知いたしました」
ナルキスは床を這い、ダフネの裾へ手を伸ばす。
彼は周囲の貴族たちへ顔を向け、声を絞り出す。
「待て、待て、これは……」
二人の衛兵がナルキスの両脇に立ち、その腕を掴む。
彼らは事務的に男を床から引き剥がす。
「平民様、退出を」
ナルキスは足をもがき、大理石の床を蹴る。
彼は声を荒らげ、広間の奥へと引きずられていく。
取り巻きの貴族たちは、顔を青ざめさせ、手に持った扇を落とす。
彼らは互いに距離を置き、壁際へと後退する。
オクタヴィウスは目を伏せ、自分の拳を握りしめる。
彼は眉をひそめ、吐き出して息を漏らす。




